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第1話 ケーナインは真実を嗅ぐ。例え彼が望まずとも。

作者: 砂握

「なあ、お前将来何になりたい?」

 惣助の問いかけに研悟は思わず口ごもった。

 隣り合う小用便器の前に立ち、午後の授業に備えて膀胱を空にしようと股間の蛇口を開いてすぐの言葉だった。進路調査票を配られた時とか、せめて夕日に照らされ家に帰る途中とかならともかく、男子トイレで無防備になった瞬間には相応しくない問いだった。しかしまあ長い付き合いであるし、我らは思春期真っただ中の中学二年生である。唐突にそういった疑問を持つのもお互い様だったので、動揺は極めて小さかった。研悟は尿の音に紛れ込ませるようにぼそりと呟いた。

「これって言うものはないなあ……」

「そうなのか? 昔は警官になりたいって言ってたけど」

 意外そうな惣助の声に研悟はため息をついた。

「……死体と接する可能性を考えたら無理だと思ったんだよ。きっと頭がおかしくなる」

「確かに。普通のやつと違ってお前は慣れないだろうからな。何しろ鼻が良すぎる」

 研悟は苦い顔をした。

 鼻が良すぎるという言葉は、実際のところかなり控えめな表現だった。かつては自慢の種だったそれが今ではコンプレックスに近くなっているという事を理解した上で、惣助はそう言ったのだ。

 先ほどよりも重いため息をつきたかったが、幼なじみにこれ以上気を遣わせるのもなんなので、鼻から少し息を吐いて気を紛らわせた。ちょうど膀胱が空になったため、ファスナーをあげてボタンを押す。水の流れる音を背中で聞きながら手洗い場で手を洗い、世の男子達の常に倣い髪をいじって水気を取る。後から追いついた惣助はポケットから小綺麗なハンカチを取り出し、さっと手をぬぐった。歳は同じ、身長体重もほとんど変わらなかったが、こういった些細な事ではっきり差が見えるほど出来が違う。手洗い場の鏡越しに見る顔も同じ人種とは思えないほど整っており、また鏡には映らない学力や知性も比べものにならないくらい惣助の方が上だった。人望すらもだ。惣助は様々なグループに仲の良い人間がいて、一般的に不良と呼ばれる連中とでさえ打ち解けている。彼に勝っていると言えるのはせいぜい足の速さくらいで、しかし球技などは勝ち目もない。二人でいるとただの引き立て役だと影で言われる事もある。しかし研悟自身そう思われても仕方ないと思っていたし、別に怒りも嫉妬も湧かなかった。彼にとって惣助は親友であり、それ以外の何ものでもなかった。

「俺はともかく、惣助は何になりたいんだ?」

 トイレから出て、教室へ向かう道すがら研悟は問いかけた。すると惣助は首をひねった。

「いやあ、俺もなりたいものがなくてさ。高校とか大学とか、目先の目標はあるんだけどね。つっても、どこで何したいとかじゃなくて、この程度ならどこでもいいやって感じで」

「以外だな。てっきり即答が返ってくると思ったよ。弁護士とか官僚とか」

「そういうのもそれなりに面白そうだけどな。でも、自分が持っている限りある時間を割くべきかどうか解らないんだよな」

「ふん、限りある時間ね」

 研悟がにやりと笑うと惣助もにやりと笑った。

「そう、ガキっぽい感覚だよな。でも実際のところ、明日も生きてるって保証はないんだよな。これまでのような日々がずっと続いていくかどうか解らない。今をどう生きれば良いかって考えると難しいけど、将来――つまり未来の自分がどうあって欲しいか解れば、その答えが出るんじゃないかと思ってね」

「それで? 俺とは頭の出来が違うんだ、結論はもう出てるんだろ?」

「まあね。でも今一ピンと来ないんだ。人間の身体に目は二つ着いてるけど、思考する〝目〟は一つしかないって、この間読んだ本に書いてあってさ。つまり見いだした答えとの距離感が掴めず平面に見えるわけで、きっちり把握出来ない。そのジレンマを解消するために信用する他者の目によって角度を変えてみれば、掴めるんじゃないかと」

「……俺の頭で解るように言ってくれ。どうすりゃいいんだ?」

「早い話、参考として研悟の将来に対する考え方を知りたかったんだ。割と真面目なやつでさ」

「はあ、お前の夢に意見を言う訳じゃないのか。まあいいさ。そうだな、俺の将来か……」

 研悟は手で頭の後ろをかき、しばらく考えてみたが、周囲に流されるタイプの普通の中学生に過ぎない彼の頭の中にそれらしいものは見つからず、苦笑いしてごまかした。

「ほら、なんだ……夢とかそんな大層なもんじゃないけど、何年先でも当たり前に、お前とこういう話がのんびり出来ればいいなとか、そんな感じ?」

 てっきり突っ込まれるかため息をつかれるだろうと思っていたが、予想に反して惣助は前を見つめたままふーんと言った後、「参考になったよ、ありがとう」と至って真面目な声で礼を口にした。

 あれが参考になるはずはない。そう思った研悟は、その場しのぎの答えに惣助が怒っているのかも知れないとその横顔を盗み見た。しかし怒りや失望の類いは見つからず、ただどことなく思い詰めているように見えた。聡明で問題に素早く対処する惣助がこういう風になる理由は限られていた。

 ――また親と何かあったのか?

 咄嗟にそんな問を口にしかけたが、惣助にとって両親の話題は極めてデリケートなものなので、容易くは言えなかった。しかし研悟の知る限り、惣助がそう言ったプライベートな話を出来るのは彼だけだったので、もし問題を抱えているなら力になってやりたい。出来れば時と場所を選んだ方がいいが、タイミングを逸すると話を切り出しづらくなる……。さてどうしたものかと、悩んでいるうちに、二人は目的地である教室の前に着いていた。

「それじゃまたな」

 いつものはきはきした調子で声をかけ、自分の席に向かう惣助の背中を複雑な気持ちで見送った研悟は、自分の優柔不断さにため息をついた。放課後にでも話すとしよう。そう思いながら席に着くと同時、五限目の開始を告げるチャイムが鳴り響いた。あくびをしながら教室に入ってきた数学教師の手にあるプリントの束を見た瞬間、研悟もこの時ばかりは親友並みの聡明さで放課後の予定が狂う事を確信した。

「ではでは、これまでの授業の復習に超難関私立校の入試過去問を使った小テストを開催します。え、聞いてない? 抜き打ちだ、喜べ!」

 悲鳴が教室に溢れかえった。



「よし、終わった……!」

 放課後、数学の再テストの再テストの再テストくらいで合格点に達した信吾が顔を上げると、既に惣助はいなかった。当然の事である。惣助は授業中ただ一人、冗談のように難しいテストを満点合格で突破し、放課後の再試を受ける亡者の群れの中にはいなかった。いつものように颯爽と生徒会へ向かったのだろう。生徒会は活動内容によって帰宅時間が大きく変わるので、先に話をしたかったのだが仕方ない。久しぶりに部活にでも顔を出して、時間を潰すとしよう。研悟は天井を見上げ放心してる者やスマホを使ってこそこそと問題の答えをネットで探してる者を尻目に、教室を後にした。

 階段を上って最上階まで行くと、喧噪は遠ざかり静けさの方が勝った。彼方から聞こえる運動部の生徒達が出すかけ声やら金属バットが白球を打つ快音もどこか柔らかく、春の陽気と相まって耳にしているだけで寝てしまいそうだった。部室で一眠りするのもありかも知れないと思ったあたりで、その部室――美術室の前に辿り着いた。がらりと扉を開けると、無数の画材が放つ独特な臭いが鼻をついた。

「ちわーす、乾研悟です。お邪魔しまーす」

 研悟のやる気のない挨拶に真っ先に反応したのは、予想通り部長だった。

「おいこら幽霊部員! 幽霊にしたってお前は存在が薄すぎだろ! せめて週八くらいで出てこいよ馬鹿野郎!」

 クロッキーの最中だったようで、ポーズを取ったモデルを囲んでいた輪の中から飛び出してきた部長は、鉛筆の先をぐっとこちらに突き出してきた。部長は女子の中でも背の低い方だが、その声も眼鏡の奥の瞳もエネルギーに満ちており、ライオンか虎を相手にしている気分になる。研悟はすいませんを連呼しながらたまらず後ろへ数歩下がった。しかし猫科の生き物に逃げるものを追う習性があるように、部長は目をらんらんと輝かせ、部活にたまにしか顔を出さない不届き者を痛みによって教育するべく、ぐいと前に一歩踏み出した。「謝りゃどうにかなるのはアソコに毛が生える前までなんだよ……!」と女子にあるまじき言葉を口にして飛びかかろうとした猛獣を制したのは、これまた予想通りに副部長だった。

「まあまあ、そこら辺で。体育祭の部活対抗リレーだけ出てくれればいいって言って勧誘したのは笹井部長じゃないですか。乾君は去年ちゃんと約束を守った上に、二週間に一回くらいは部活に出てくれてるし。ね、そうでしょう?」

 我が校に相撲部があれば熱烈に勧誘されていただろうと思う巨体に反し、落ち着いた声音と雰囲気で周囲を和ませるこの人格者に勝てる者などいなかった。部長は未練そうに舌打ちを一つし、前のめりになっていた身体を後ろに引いた。

「ありがとうございます。助かりましたよ、池戸副部長……」

「いいんだよ。ただね乾君、この四月に君も二年生となり後輩が出来て先輩になったんだ。確かに約束は約束だけど、新入部員達に良い部で良い経験をしてもらおうと頑張る笹井さんの気持ちも解ってあげて欲しい。在籍してるのに顔を出さない先輩がいると、やっぱりあんまりいい気はしないよね?」

 ぽんと肩に手を置き穏やかに諭す副部長に研悟は頭を垂れ、自分はなんと愚かな人間なのかと自己嫌悪に陥った。顔を上げるとしっかりと頷いた。

「解りました、俺ちゃんと部活します」

 菩薩の如き笑みを浮かべる副部長の隣で部長が威嚇するように鼻を鳴らした。

「ったりめーだよタコ。明日からお前だけ七時半から朝練だからな。しっかりやれよ」

「やっぱり俺、自分の道を貫く男でありたいと思います」

「なにいきなり撤回してんだよ! 人より努力しろ、じゃなきゃお前はいつまで経っても犬と机の区別がつかないぞ」

「あ、また何ヶ月も前の話を持ち出して! あの時はちゃんと投票して六対五で犬って事になったでしょ」

「犬に入れたやつの理由を忘れたのか。机に目はついてないとか、絵の下に『犬』って字が書いてあったからとかだろ! 芸術と違って模写なんてのは繰り返せば誰でも精度を上げられるんだ、やれよ!」

「じゃあ言いますけどね。俺が絵を描かないのは部長のせいですよ。俺が描く度に部長がひどい言葉を浴びせるから……!」

「ほっぽってたらお前がロールシャッハテストの量産体制に入るからだろうが!」

 アイデンティティをかけた戦いが白熱しかけたその時、またしても仏の副部長が両手を挙げて二人を制した。

「その話は取りあえず脇に置いて。ほら笹井さん、乾君にお客さんがいるんじゃなかった?」

 部長は副部長の言葉に一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに手をぽんと打って得心した。

「忘れてた。お前に客が来てたんだった」

「客? どこに?」

「ほら、あれだよあれ」

 部長が指さした先には鉛筆を止めてこちらを伺っていた美術部員の輪の真ん中、机の上に座る半裸の男がいた。中々に鍛えられた上半身は絵の題材としては悪くなかったが、暖かい春の日とは言えさすがに裸は寒いらしく、哀れにも鳥肌が立っていた。そのどこか追い詰められた二つの瞳と目が合った時、男は心底安堵した表情を作った。

「乾! 良く来てくれた!」

「……前田先輩、あんた何やってんですかこんなところで」

 屹立した二つの乳首を無意識に目にした研悟は顔をしかめ、身を引いた。机から飛び降りた前田は震えながら服を身につけ、ずんずんと距離を詰めると研悟の肩に手を置いた。

「お前を探してたのさ。しかしお前のクラスを俺は知らなかったからな、美術部の部長である同じクラスの笹井に聞いたのさ。そしたらこいつ、乾は美術室にいるって言って、俺をここまで連れてきたんだ。ところがすっとこどっこいべらんめぇ、お前はいない。すると笹井はお前のクラスを教える代わりに服を脱げと……」

「待てよ前田。そんな言い方したらあたしが借金の回収を任されたヤクザみたいじゃないか。お前だってこんなに乳首立てて、本当は気持ちよかったんだろ、あん?」

「や、やめてえええ」

 まさしくソレ系の悪い笑顔を浮かべて前田の胸をまさぐる部長。涙目の前田と部長の間にすっと身体を滑り込ませた副部長が話を戻した。

「と言うわけで、前田君は君に何かお願いがあるらしいんだ。モデルをやってもらったし、話だけでも聞いてやってくれるかな?」

「まあ、副部長がそう言うなら……」

 前田の用というのは知れていた。が、研悟にとってそれはあまり気分の良い頼み事ではなかったので、正直断りたいところだった。ともあれ副部長には世話になっている、顔を潰すわけにもいかなかった。

「助かるよ池ちゃん。今度何かおごる」

「はは、お礼をしてくれるなら予算の方で一つ頼むよ。新入部員も増えたしね」

「ったく、かなわねーな池ちゃんには。解ったよ。そん時は援護するから」

「約束守らねーと今度は乳首くれーじゃすまさんからな。覚悟しとけ」

 部長は手で何かをぐっと掴む仕草をして部員達の元に戻っていった。副部長はクロッキーの代わりに何か用意するのだろう、準備室の方へと姿を消した。股間を手で押さえて部長の背中を見送った前田は脅威が去ったのを確認してほっと息を吐いた。

「さて、お前にちょっと力を貸して欲しいことがあるんだ。外で話そう」

 にこりと笑うその顔に研悟はため息をついた。


 美術室の外に出ると、よほど他人に聞かれたくない話をするのか、前田は屋上へと研悟を連れて行った。通常屋上へと続く扉には鍵がかかっていたが、どういうわけか前田は鍵を持っていた。正当性のある理由を言えば貸してくれたと肩をすくめる前田は生徒会の人間であり、やり手の風紀委員長でもあった。彼が研悟にする頼み事というやつもそれ関連である。

 夕日に染まる屋上で少し肌寒い風に大きく伸びをした前田は、浮かない顔をした研悟を振り返って言った。

「大体予想着いてると思うが、お前に頼みたい事ってのは落とし物の持ち主捜しだ」

「……でしょうね。もう何回やった事やら。でも先輩、俺への頼みは惣助を介してという事になってましたよね? あいつ、こういう事はすごく怒りますよ?」

「解ってるさ。ただこれは取り分けデリケートな話でな。最低限の人間しか知らないようにしたかったんだ。それは件の落とし物を見てもらえば解ると思う」

 前田はすっと上着の懐から透明な小袋を取り出した。その中に入っている箱を見て、研悟は眉をひそめた。

「何ですそれ、タバコですか?」

「見た目は似ているが、違う。これはハーブだ。去年辺りからネットを中心に出回りだしたやつでな、吸うと気持ちが落ち着くってやつらしい」

「げっ。だったら俺じゃなくて警察に言った方が……」

「まあそうだな。調べてみたところ現在は一応法に触れてないみたいだが、中学生が持ってていいものじゃない。教師に報告してしかるべき対処をしてもらうべきだな」

「べきって……まだ先生に言ってないんですか!?」

 耳を疑う研悟に、前田はこくりと頷いた。

「そうするつもりだったさ。ただな、先生に報告したら問題は解決するどころか逆にどうにもならなくなる。見たところ持ち主を特定できる情報はないし、そうなれば集会で呼びかけるか持ち物検査を何度もやるかしかない。それで持ち主が割れる可能性は低いし、ただ嫌な雰囲気になって終わりだ。真の持ち主は懲りて学校には持ってこなくなるかも知れないが、別の場所でやるだろうし、犯罪に関わるかも知れない。そう思わないか?」

「いや、そりゃそうかも知れませんけど……」

「でもお前が持ち主を見つけてくれたら話は違う。そいつがただの火遊びのつもりだったら説教で片がつくかもしれないし、頭のてっぺんまでずっぽり浸かっているのなら、本人が自棄になる前に学校や専門家が対処出来るかも知れない。別にそいつのためを思ってる訳じゃない。俺は問題を特定して処理したいんだよ」

 滅茶苦茶な事を言って俺を丸め込もうとしていると思いつつも、単純で馬鹿な研悟の心は熱意ある先輩の言葉に九割方流されていた。

「……俺が見つけられなかったら、どうするんですか?」

「こいつを見つけたのは昨日の放課後だ。明日の放課後までに解らなければ職員室に届け出る。どうだ?」

 そこそこ現実的な意見だった。そしてそれがとどめになった。研悟は諦めのため息をついた。

「期間が短いですね。厳しいかも知れませんよ」

 言外にイエスと言った研悟に前田は嬉しそうな顔をし、重ねて確認した。

「むしろ長いくらいさ。それで、やってくれるか?」

「……誰にも内緒で、ですね。はあ、解りましたよ」

「頼んだぞ、ケーナイン」

 canine――K9。

 それはアメリカにおける警察犬の呼び名だった。 

 

 乾研悟は昔から鼻が良かった。

 比喩ではなくそのままの意味である。彼は幼い頃から普通の人間が気づかない臭いに気づき、かぎ分けられない臭いをかぎ分けた。特別鍛えてないのに足が速いせいもあって、家族を含めた周囲の人間はまるで犬のようだと笑い、名前をもじってケンちゃんとかケンケンと呼んだ。幼い頃はそれは彼にとって自慢の種だったが、段々と歳を重ねるにつれてからかわれる事も多くなり、また人間社会に溢れる様々な臭いを苦痛に感じるようになったため、己の嗅覚に嫌気が差すようになった。必要に迫られ、臭いを無視する技術を手に入れて以降、彼は「段々臭いに鈍感になってきた」と周囲に嘘をつき普通を装った。しかし彼の気持ちとは裏腹に彼の鼻は敏感になっていき、ますます常人離れしていった。今現在、体臭の変化でその人の体調すら把握出来るほどの彼の嗅覚を知るのは親友の高津惣助と、偶然知り得た三年の前田純一だけだった。友人を便利な犬扱いすることを決して許さない惣助の監視の下、前田はこれまで何度か研悟に捜し物を依頼してきた。己のためならともかく、他者のために頼み事をしてくる面倒見の良い先輩を、邪険にする事は難しかった。そのため研悟は嫌々ではあったが断りはしなかったし、引き受ければあっという間に持ち主やら落とし物を見つけてみせた。不本意ではあるが自信もあった研悟は、今回もすぐに片がつくだろうと思っていた。


 これまでにないプレッシャーを感じつつも、捜索開始。

 絶対になくすなよと念を押されて渡されたその袋を開け慎重に中身を嗅いでみたところ、ハーブの強烈な香りの中に、人間の体臭と思しき臭いが混じっていた。微細なものも含めれば数人の人間が触れた事が解るが、強く残っているのは二つだけ。一つは拾った前田のものであるため、もう一つが持ち主という事になるだろう。、臭いの質と経験から持ち主は男に違いない。ともあれ現時点で得られた情報はそれだけ。前田と別れた研悟は早速、昨日の放課後の見回りの時に彼が発見したという場所、校舎最上階である五階の非常階段へと一人向かった。扉を開けると屋上に比べれば幾分弱い風が身体にぶつかった。最も後者の影になっているため、冷たさはこちらの方が遙かに上だ。夕日が遠く薄暗いせいで余計に寒々しい。長居はしたくない。

「さて、と」

 研悟は目を閉じ口から息を吐き出すと、鼻から大きく空気を吸い込んだ。その場に留まる臭い、風に乗ってやってきた臭いが研悟の繊細な嗅覚を刺激する。日常的に有り触れた臭いは除外。目的であるハーブとその箱に残された持ち主の臭いを慎重に探す。しかし。

「……やっぱり駄目か」

 目を開け吸い込んだ息を吐き出す。

 どちらの臭いもなし。しかしこれは予想していた結果だった。人間を初めとした動物の体臭は普通の人が思うよりも強く長く残るが、人通りが多い場所とかこのように風の強い場所ではすぐに消えてしまう。この狭いスペースにずっと生活しているか全裸になって身体をこすりつけたとかしない限り、臭いは残らない。端っから当てにしていなかった。ただハーブの方は幾らか可能性があった。タバコのように同じ場所で吸い続けると周囲のものに染みつくはずだった。ハーブの持ち主が常習的にここで一服していれば……と思ったのだが、どうやら違ったらしい。ただ単に落としただけなのかいつもは他の場所で吸っているのか。

 この場所には初めて来たが、周囲を見渡してみると何もない。前方には敷地の空きスペースを覆う小さな林。階下の道は教職員用の駐車場に続いているが、昼間利用する者は少ないだろうし、この距離なら下から見られても顔の判別は難しそうだ。非常階段の扉は構造上、中からはいつでも開くが完全に閉じれば外からはどうやっても開かない。逆に言えば少しだけ開けておけば出入りは自由である。隠れたいなら悪くないスポットだ。事実、緊急時以外の非常階段の理由は禁止されているにも関わらず、大きさの違う足跡が多い。〝利用者〟がいる事は確かだった。しかしハーブの持ち主に繋がる手がかりはない。

 こうなったら仕方ない。ホームズごっこは止めにして、ケーナインよろしく怪しそうな場所を片っ端からクンクンやるしかない。デジタル式の腕時計を見、夕暮れに染まる空を見、あと一時間ちょっとはやれるなと研悟は頷いた。猶予は明日の放課後までだったが、臭いの猶予はそれほどなかった。

 生徒手帳とペンを懐から取り出し、簡単なまとめを記した後、研悟は五階には戻らずそのまま非常階段を下っていった。

 

 夕日がほとんど沈み、空が黒に限りなく近づいた頃、人気のない場所をぐるぐる回っていた研悟はぴたりと足を止めた。

 校舎から遠く離れた敷地の外れ、現在では使われなくなった焼却場。草木の匂いに混じって微かにハーブの香りがした。鼻から小刻みに空気を吸いながら臭いの出所を探ると、かつてのゴミ集積所の壁の後ろに踏みつぶされたタバコのようなものが一本落ちていた。研悟には近づかずともそれが小袋の中のハーブである事が解った。そろそろ引き上げようと思っていたので何らかの成果があったのは有り難かった。

 身をかがめ、生徒手帳から一ページちぎりとり、ペンでそっと紙の上に乗せる。風で臭いが流されないように身体で覆いながら、ワインソムリエのような気分で静かに嗅ぐ。するとハーブの箱についていた体臭と同じ臭いが僅かにした。持ち主がここでハーブを吸ったのは間違いない。しかし、長期間触れたものではないため個人を特定できるほど臭いが強くない。誰なのか突き止めるためには私物が必要だった。何か落ちてないかと周囲を見渡すと、視界の隅できらりと光るものがあった。近寄ってみるとそれは金網がしかれた排水溝の底、流れ落ちた枯れ葉の上に転がる銀色のジッポライターだった。それほど汚れていないところを見ると、つい最近落ちたものらしい。

「仕方ねーか……」

 ここまで来て手ぶらで帰る訳にもいかないだろと、研悟は勢いで上着を脱ぎ、やたらに重い金網を一分ほどかけて強引に引きはがした。肩で息をしながら排水溝に腕を突っ込み、目的のものを拾い上げる。ゴミだの泥だのが付着したライターと己の手のあまりの臭さに研悟は心で泣いた。水で綺麗に洗いたいところだがそうすると持ち主の臭いもほとんど消える。研悟は鼻の息を止めライターから汚れを取り除くと、覚悟を決めて鼻を近づけた。

 くんくんくん。

 鼻の奥に残る刺激臭の中、例の体臭が確かにした。しかもそれはこれまでとは違って長く持ち歩いていたものなのだろう、格段に濃いものだった。これで同じ臭いを探して個人を特定できる。苦労した甲斐があったというものだ。

「今度駅前のラーメンでもおごってもらおう……餃子セットで」

 研悟は長い息を吐くと、ライターと吸い殻を小袋に収め、上着を肩に引っかけた。

 さて行こうかと数歩歩いたところで、もしかしたらここにも何かあるかも知れないと焼却炉に近づいた。頑丈な蓋を開け中を見下ろすが暗すぎて中がほとんど見えない。しかし常人とは違い、視覚よりも嗅覚が発達した研悟はすぐさまあるものに気づいた。それは時間が経って乾いた血の臭いだった。

「うへぇ」

 思わず呻いたものの研悟はそこそこ冷静だった。

 その理由は腐臭がしなかったためである。

 幼き日の夏、腐った猫の死体を誤って嗅いだ事がある彼は、そこに血を流したモノがいない事を瞬時に把握していた。血が付着した何か――せいぜい鼻血を拭き取ったティッシュとかその程度のものだろうと研悟は考えた。このまま立ち去っても構わない気がしたが、場所が長い間使われていない上に滅多に人が来ない焼却炉である、数日に流れたと思しき血の痕跡を放置するのはどうだろうと彼の良心的なものが足を止めた。結局研悟は悲しい顔をして今度は焼却炉の中に腕を突っ込んだ。指先が暗闇の中で掴んだのは、ティッシュよりは遙かに重い代物――学校で使用されている上靴の右片方だった。

「どうしてこんなとこに……うわ、何だこれ」

 反射的に投げ捨てようとした己の手を慌てて制止する。周囲が暗くなってきたためすぐには気がつかなかったが、それは血にまみれていた。髪の毛も数本付着している。

 全身に鳥肌が立っていた。

 通常なら悪戯を疑う状況だったが、血の臭いは本物に違いない。訳が解らないまま愕然としていた研悟はふと靴のかかとの部分に文字が書いてある事に気づいた。


 2ー5 浅野


 同じ学年の違うクラス。名前は聞いた事がない。

 上靴は血で汚れていたが真新しく、学年が上がった今月にでも新調したらしい事が容易にうかがい知れた。最近流血沙汰になるようなトラブルがあったとは聞いていない。しかも廃棄が禁止されている焼却炉に投げ込んだとなると、血が流れた理由は真っ当なものではないのかも知れない。

「――い、いやいや、いや」

 最も何があったにせよ研悟には関係ない。

 問題はただ一つ、この上靴の持ち主が隠れてハーブを吸っていた者と同一人物なのかそうでないのか、だ。それ以上の事は知りたくもないし、知ったところで何をしたくもない。一昔前の漫画や映画の主人公のように、己の力を使って様々な問題に首を突っ込むような真似をするつもりはなかった。力を過信すれば力に振り回されて全てを失うと、彼の親友は事あるごとに言い聞かせた。もっともな言葉だった。

 故に研悟はすぐさま己の領分を見定めた。

 上靴の持ち主がハーブとライターの持ち主でなければこの怪しい物体は焼却炉に戻し、明日にでも担任か教頭辺りに報告する。同じ人物であればまとめて前田に渡す。そう決めた研悟は血の臭いに圧倒されないよう意識を強く保ちながら、上靴の臭いを嗅いだ。すると血というパン生地の中に織り込まれた、人間と思しき体臭を二つ鼻の奥でかぎ分けた。どちらもハーブの持ち主とは異なる臭いだった。しかし一方は一度嗅いだことのある臭いでもあった。研悟は臭いで人を記憶していたが、視覚記憶と同じように、記憶に残る臭いであっても良く接する人間以外は中々思い出せなかった。しかし今回の場合は違った。それは数日前に嗅いだ事のある、極めて特殊な臭いだったためだ。

「これ……あのカウンセラーの……」 

 彼はぞっとした顔で固まった血に取り込まれた、髪の毛を凝視した。


 現在の日本において、少年犯罪の件数が年々増加している事は周知の事実である。

 もちろん悩みの種ではあったが、経済格差や離婚率などなど原因は幾らでもあったので誰も疑問には思わなかった。

 しかしここ数年、これまでに類を見ないほど犯罪が突然凶悪化したため、政府は対策と原因究明に力を注ぐ事を決め、その一環として小中高の学校に通う生徒に対し、専門家による精神分析を行う事にした。アンケートでは浮上しない心の問題を一対一の会話によって発見しようという試みだった。これには膨大な時間と予算が必要とされたが、カウンセラーとの十分ほどの会話で何が解るのかと否定的な政治家も面と向かって文句を言う事は出来ず、定期的に行われた。しかし政治家も国民も対象となった生徒達も、ほとんどがその効果を期待していなかった。税金の無駄遣いと誰かが言い、誰かが頷いた。

 その無駄遣いが現在、先日研悟の学校でも行われている。

 全校生徒を対象に国に雇われた専門のカウンセラーが四月の頭から数ヶ月間、休み時間や放課後を使って一対一で精神状態を分析する。とは言えお堅いものではなく、当たり障りのない会話をするだけだ。一番忙しくないという理由で二年生から調査は始められたので、研悟も数日前に終えていた。カウンセラーは中年の穏やかな雰囲気を持った女性で、これまで何度もやったような会話を十分ほどした後、最後に握手をした。その時最初から気になっていた事を研悟は思わず口にした。「良い匂いの香水ですね。一度も嗅いだ事ないですけど、どこのブランドのですか?」

 控えめだが不思議と心が落ち着く香りだったので、臭いにうるさい研悟は気になって仕方なかったのだ。するとカウンセラーはにこりと微笑んで、自分で一から調合したこの世に一つしかない香りですなんですよと、少しばかり自慢げに言った。


 つまり、この髪や血はあのカウンセラーのものって事なのか――?

 研悟は上靴から視線を外し、焼却場に繋がる唯一の道を振り返った。

 ここまで来る途中、血の跡も臭いもしなかった。これだけの出血なら特殊な薬剤を用いない限り、研悟の鼻をすれば数日間は臭いがする。焼却炉も上靴もカウンセラーも学校に関係しているのに、血の痕跡も事件があったという話もない。研悟にはどうにも矛盾しているように思えてならなかった。ただ、何が起きたかは二つに一つのように思われる。すなわち怪我をしたカウンセラーと五組の浅野とやらが出くわしたか、あるいは。

「――浅野がカウンセラーに怪我をさせたか……なんてな」

 研悟は乾いた声で笑った。

 

 手を校庭近くの水道で洗った後、力のない足取りで昇降口に向かうと、部活を終えた生徒達がちらほら帰宅しているところだった。

 上靴を持ってこなくて良かったと研悟はほっと息を吐いた。

 明日の放課後にでも担任あたりに話を聞いてみようと思い、上靴は焼却炉に戻した。誰も使わないはずだからなくなったりはしないだろうし、何より持ち運ぶのは恐ろしい。今すぐ職員室に行く勇気もない。仮に何か事件があったとすれば、自分が疑われる事にもなりそうだった。こんな時間に焼却炉の周辺をうろうろしていた理由を説明するのも難しい。少なくとも今日はもう、厄介ごとはごめんだった。

 下駄箱で靴を履き替えた後、心残りがあるのか何となく二年五組の下駄箱の方に近づいた。すると見知った顔と目が合った。同じ美術部員の北森真央だった。

「お、乾君お疲れー。風紀委員長の頼み事は終わったの? こっちはみんな上がったよ」

「そっか、お疲れ。前田さんの方は、まあ大体。でもそうか、北森は五組だったのか」

「うん? そうだけど、そんなに驚くような事?」

「いや、ちょっとね。あのさ……」

 止めとけと思いつつも、研悟の口は疑問を発した。

「五組に浅野ってやついる?」

「いるよ。浅野一葉ちゃんでしょ? それがどうしたの?」

「いや、どんなやつなのかなーと思って」

「どんなって言われてもな……一葉ちゃん中学に入ってからあんまり学校来てないし、来ても教室に顔出さないから解らないなあ。小学校の時は低学年ずっとクラス一緒だったから仲良かったんだけどね。一葉ちゃん、色々大変だったから」

「……そうか、何か知らんが大変なんだな。あと、その、浅野さんって二三日前が学校来てた?」

「ん? ああ、来てたんじゃない? 全国一斉調査あってるし。教室にはいなかったけどね……なに、ひょっとして一目惚れ? 一葉ちゃん美人だもんね」

「え? あ、ああいや、ちょっと気になっただけ」

「ふうん。まあいいや。それじゃーね」

 北森は手を振ると彼女を待っていた女子グループに合流し、校門へと皆で歩いて行った。「なにー告白ー?」「いやタイプじゃなーい」「だよねー、乾って足速いだけで微妙だもんねー」とかいう声も聞こえたが、研悟は傷つきつつも無視し、人のいなくなった五組の下駄箱へと足を踏み入れた。臭さを我慢しつつ、女子の棚の最初の方を探した。すると上から二番目の棚だけが上靴も外靴も入っていなかった。使用頻度が少ないらしく、臭いも限りなく薄い。浅野が上靴を紛失した可能性は高かった。

「それが解ったところで意味はないけど……」

 やれやれと首を振り、鞄を置いている教室に取りに戻ろうとしたところで、気になる臭いを鼻が拾った。何だろうと考えたところ、それが放課後中探し回ったハーブの持ち主の臭いである事をすぐさま思い出した。しかし臭いは制服の中の密閉した小袋からではなく、別の場所からしていた。それはすぐ近く、二年五組の男子の棚からだった。研悟は手間が省けたと思いつつも、顔をしかめた。女子の下駄箱もかなり臭かったが男子はその比ではない。研悟にすれば靴の群れから同じ臭いを探し出すという行為は、普通の人間で例えれば何十年も掃除していないドブに顔を突っ込んで深呼吸しろと言うようなものだ。もはや拷問だ。が、やるしかなかった。長く履かれた靴というのは体臭というスープをどろどろになるまで煮込んだ後に、腐った牛乳を軽く加えたような臭いがする。吐き気さえ我慢すれば臭いの照合にもっと最適なものでもあった。

 覚悟を決めた研悟は頭の中のラーメンを大盛りに変えた。


「研悟、青い顔してどうしたんだよ?」

 藁山から針ならぬ、ゴミ袋からポイントカードを見つけ出す事に成功した研悟が教室に帰還すると、驚いた顔の惣助に出迎えられた。

「ちょっと腹を壊しててね。自分のクソの臭いにあてられたよ。それより惣助こそどうしたんだ? 生徒会は?」

「もう終わったよ。帰ろうとしたところで忘れ物に気づいて教室に戻ったら、お前の鞄があったから待ってたんだよ。腹はもう大丈夫なのか? だったら帰ろうぜ」

「大丈夫だ。帰ろう――ところでさ、惣助」

「ん? どうした?」

「あの……」

 世界で一番頼りになる友人に、研悟は例の上靴について相談しようとした。

 しかし今日の昼休みに見た彼の顔が一瞬脳裏をよぎったため、声が出せなくなった。

 おそらく家族の事で悩んでるだろう親友に、関係のない問題で煩わせたくはなかった。むしろ今は相談する時ではなく、相談に乗るべき時だった。研悟は喉の奥に準備していた言葉を換えた。

「悩みがあるならいつでも聞くから。無理するなよ」

 その時、惣助は複雑な表情をした。

 驚きと喜びと悲しみと……様々感情が混ざり合って大きく揺れた。そして最後に何かの決意が全てを飲み込み、居座った。惣助はいつも以上の不敵な笑みを浮かべ、ぐっと頷いた。

「解ってる。対処出来なくなったら力を貸してくれ。でもまずは一人でやってみるよ。俺の将来は俺が勝ち取ってみせる。俺がこの戦いで勝利した時はいっぱいやろうぜ」

 将来という言葉で研悟は惣助の状況を大体理解した。

 彼はかつて同じ言葉を口にした。

 それは彼の両親が離婚しかけていた時で、どちらもがただ一人の子どもを全く必要としていないと彼が知った時だった。日が暮れる公園の遊具の中で九才の子どもは声もなく鳴きながら身体を丸めていた。宿題で書いてこいと言われた作文用紙が引き千切られ、周囲に転がっていたのを今でも研悟は覚えている。「将来の夢って何だよ」と、震える声で惣助は何度も何度も呟いたのだ。

 幸いあの時は離婚は回避され、ある程度家族仲も回復した。その後人が変わったように惣助は明るくなり、良く笑うようになった。親に対して嫌悪ばかり口にしていたが、やっぱり両親を愛していたんだなと当時の研悟は心の底からほっとした。

 だから多分今回も、彼の大切な居場所に危機が迫っているのだろう。本来なら彼の家に行って一言言ってやるところだが、今の惣助の顔を見る限り呼ばれるまで待っていた方がいいらしい。研悟は小さく笑った。 

「……生徒会の役員がそんな事言っていいのかね。まあいいさ。楽しみにしてるよ」

「おう、そうしとけ。ささ、帰ろうぜ」

「ああ」

 そうして二人は黄昏の消える教室を後にした。


 夕飯を食べて風呂に入った後、自室へと引き上げた研悟は携帯電話を使って前田に連絡を取った。

 電話で調査結果を伝え回収した証拠品の写真を送ると、前田は大いに感謝した。さすがさすがと褒めちぎる先輩に、まだ解ったのはクラスと出席番号だけだと言ったところ、前田は心当たりがあるから解ったようなもんだとため息をついた。何でも二年五組には豊島という不良チックな男がいて、生徒指導室の常連なのだそうだ。しばらく顔を出していなかったが、例の精神分析があるため学校に来ていたのだろうと。不登校とヤンキーが微妙なところで繋がったなと思いつつ、会話の流れに乗って研悟は件のカウンセラーについて尋ねた。そしていくつかの会話の末、研悟はごくりと唾を飲み込んだ。

「いや、俺もよく知らないけどあの人、何日か前に突然事情があるとかで休む事になってそれ以降別のカウンセラーが受け持ってるよ」

 心臓の鼓動と共に疑念は増していくばかりだった。こうなると気持ちが悪くて仕方ない。電話を終える直前、研悟は前田に思い切って頼んだ。

「先輩、お願いがあるんですけど……二年五組の浅野一葉の住所が知りたいんです――」

 

 持つべきものは風紀委員長。いや、教師の信頼が厚く話術と嘘に長けた風紀委員長だ。

 一年近く付き合いがあるのに研悟のクラスを知らなかった男は、次の日の昼休みには証拠品と引き替えに、浅野の住所が書かれたメモを手渡してきた。事情を聞かず肩を叩いて去って行く後ろ姿を、研悟はぼうっと見つめた。信頼されているのか口止め料か。研悟はかなわないなと頭をかいた。


 放課後、すぐに学校を後にした研悟は携帯の地図サービスに住所を入力し、ナビに従って歩き出した。

 徒歩による予想到着時間は歩いておよそ三十分。自宅とは反対方向なので自転車を取りに帰るのは止めた。足には自信があるので問題ない。問題はそう、浅野一葉に会えた場合、果たして何と切り出すかだった。

「ま、着くまでに考えつくだろ……」

 しかし研悟の頭は自分で思っている以上に使えなかった。

 早足で歩いて二十分ほどで目的地であるマンションの前に到着した時、からからになった彼の口の中には何の言葉も用意されていなかった。

 こうなったら浅野家が入る部屋まで行く前に、それっぽい台詞を考えなければならない。例えばそう、プリントを持ってきたとか何とか――はクラスが違うから駄目だ。じゃあプリンはどうだ? 馬鹿か。くそ、接点がない。こういう時惣助なら上手い台詞を思いつくのだろうな。あいつ、女の扱いも上手いしな。お前はそのままで良いとかあいつは言うけど、正直俺はお前のようになりたいぜ惣助――。

「おい、お前。ここで何してんだ?」

「ひ!?」

 己の不甲斐なさを噛みしめる事に没頭していた研悟は、突然声をかけられ飛び上がった。

 見れば少し離れたところに金髪の少女が一人立っていた。射貫くような眼光がこちらをがっちり捉えている。

 足音やマンションの自動ドアがが開く音がすればさすがに気がついたはずなのに、一体どうやってここに現れたのだろう。研悟は混乱しつつも、不審者と思われてはなるまいと目を背けつつ慌てて口を開いた。

「あ、あのですね、ぼ、僕はこちらにお住まいの浅野さんの娘さんと同じ学校のものでして、ちょっとばかし彼女に確認したい事があって来たわけでして……」

「――へえ。で、その用ってのは何だ? 言ってみろよ」

「え、え? ああいや、極めてプライベートな事ですので、余所様にはちょっとお話しできませんので」

「あ? お前はアタシに用があるんだろ? だから聞かせろって言ってんだよ」

「は――」

 言われた意味が解らず、研悟はこの時初めて真っ直ぐ少女の姿を見返した。

 肩まで伸ばされた金髪、整った容姿、研悟とほぼ変わらない身長、長い手脚。誰だか全く解らない。そもそも彼は浅野一葉に関する見た目の情報をキレイな女としか知らない。

 しかし視覚はともかく嗅覚は、浅野一葉を知っていた。

 彼の優秀な鼻は目の前の人物が彼女であると断定した。

「君は、あのカウンセラーに何をした?」

 動揺したまま研悟が口走った言葉は、事の核心を突きすぎていた。

 少女――浅野一葉は笑った。

 それは獣が獣を狩る時に浮かべる類いの、人間離れした獰猛な笑みだった。

「殺した。お前も殺す」

 日本語を上手く話せない外国人のような簡潔な台詞に、研悟は無意識に後ずさった。冗談ではない。全く〝冗談〟ではなかった。

 少女が一歩踏み出そうとした時、研悟もまた逃走の一歩を踏み出そうとした。

 しかし両者の足が地面を捉えるより先に、どこからか猛スピードで走ってきた車がマンションの前で停車した。背後に止まったワゴン車を研悟がぎょっと振り返った時には、後ろのスライド式のドアから顔を覆面で隠した者達が飛び出してきていた。研悟は一瞬で口を塞がれ身体の自由を奪われ、夜のように暗い車の中に押し込まれた。尖ったものを首筋に感じたのは意識が遠のいた後だった。

 彼が最後に感じたのは、あのカウンセラーがつけていた香水の匂いだった。  

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