VS火鼠小僧
電車に乗ってあとは動き出すのを待つだけだと仁寅律音はバイオリンケースを抱えながら座った。
座席には疲れて眠りこけたサラリーマンや仲の良さそうな親子、少し耳が遠そうな老婆など様々である。
しかし混んでいるかといえばそうではなく、全員が座席に座れる余裕があった。
なので仁寅律音も気兼ねなく座席に座って出発アナウンスを待っていた。
しかし駅のホームから騒めくような声と、緊急アナウンスが車内に流れる。
『大変恐れ入りますが、こちらの電車外にて不慮の事態が起こっております。申し訳ありませんがお客様達には速やかにに避難誘導に従っていただき…』
電車外、不慮の事態が起こっておりますの現在形、避難誘導、この三つのポイントで仁寅律音は嫌な予感がしていた。
仕方ないと電車が発車しないことを知った乗客達と一緒に降りようと立ち上がる。
しかし耳の遠い老婆が少し困ったような顔で辺りを見ており、偶然仁寅律音と目が合う。
こうなると典型的日本人は放置できなくなる。それは利益重視の仁寅律音も同じことである。
老婆の近くまで行き、笑顔でゆっくりとはっきりした声で老婆に電車が動かないことと、避難誘導の件を伝える。
そして杖を使ってゆっくり立ち上がる老婆を見て、途中まで付き添っていくかと親切心を起こす。
老婆の歩行に付き合いながら仁寅律音は最後に電車から出ようとした。その時に鼻に嫌な臭いがつく。
まるで金属を高熱で溶かしているような、普段の生活ではまず嗅ぎ取ることのない臭いだ。
駅員が老婆に手を差し伸べて移動させ、もう一人の駅員が仁寅律音に避難指示を出そうとした瞬間。
電車は大きく横に傾いて、仁寅律音は壁を地面にして落ちるように床を滑った。普段は揺れから身を守るためのポールに頭をぶつける。
強い火花が目の前に散った感覚と、一瞬目の前が見えなくなる暗闇。ドアやガラスにではなく座席のクッション部分にぶつかったのは運が良かった。
それでも横倒しになった電車から這い上がるのは仁寅律音には不可能だ。頭が良くても身体的に言えばまだまだ子供であるし、大人でさえ抜け出せない状況だ。
大切なバイオリンケースを抱えて、体勢を立て直しつつ、状況を把握しようと、横になった電車の地面に隣接しているであろう窓を見る。
するとそこには真っ赤に溶けた線路のレールと、水飴のように崩れた車輪と一部マグマのようになった車体の破片。
つまりは誰かが電車を力ずくで横倒しにしたのではなく、電車の破損による自重が起こした異変である。
「…全く、電車には最近嫌な思い出しかないな」
思い出すのは地底遊園地行きで乗った地下鉄。その先では竜宮健斗達にまた巻き込まれて事件に会った。
途中記憶がないが、なにやらお仕置きというのを受けて眠らされていたのだろうと仁寅律音は結論付けている。
というのも改めて詳しく聞く出来事ではない上に、犯人側に多くの子供達が同情して味方してしまったというのもある。
なにより聞いたとしても仁寅律音が得することなど何一つない、終わったことなのだ。
それでも二度目の電車による事件に巻き込まれたことで仁寅律音は愚痴りたくなったのだ。
父親を飛行機事故で亡くしているわけだが、もしかして自分はいつか電車で死ぬのではないかと冗談でもないことを考える。
しかしここで死んではやっと立ち直りかけていた母親の心の病が深刻化する可能性が大きく、下手したら自殺まで行ってしまうかもしれない。
それだけは阻止しないといけない、仁寅律音は自棄になりつつも打開策を探そうとする。
だが厄介事はいつだって向こうから無遠慮にやってくるものだ。
汗が頬をつたう感触に仁寅律音は慌てて手で拭う。
気付けば気温が不自然に上昇して、次から次に汗が流れ落ちている。
そして肌を焼くような熱の方向を見れば、横倒れした電車の連結部分、ドアが真っ赤に輝いて今にも溶けそうになっている。
真っ赤な輝きは燃え広がるように仁寅律音に迫ってくる。仁寅律音は移動しようにも逃げようにも横倒しになった電車での動き方を知らない。
バイオリンケースを抱えて迫ってくる熱に目を奪われていて、近くまでやって来た三日月を横にしたような白い口に気付かないほど焦っていた。
<ここだにゃあ、オーナー★>
聞こえてきた声の次に、電車の車体を貫くドリルが広がっていた熱を断絶した。
そして呆然とする仁寅律音を上から拾い上げる大きな手は懐かしいゴーレムのロボットの手。
ホームでは一般人が近づかないように花の妖精が進入禁止テープを貼り、巨大な鳥と帽子を被った紳士がお茶を零しながら壁になっている。
懐かしすぎて苦笑いになる仁寅律音の目の前で、雨具をつけているが白い肌が隠れ見える少年がドリル片手に告げる。
「僕の遊園地のお客様、神様に危害を加えるのは許さない」
赤い目が溶けた線路の上で嫌な笑いを浮かべている少年を見据える。
仁寅律音は心の中で確かその神様にお仕置きした人いるよね君だよねと呟く。
だがせっかく仁寅律音が黙っていたのに、通気口から空気を吐き出してお茶を吹きだす帽子屋のロボットが大笑いしながら言う。
<ブーメラン!!見事なブーメランですよ、オーナー!!ぶっははははははははは!!>
そんな帽子屋のロボットの後ろ頭を叩くピエロのロボットは速やかにゴーレムのロボットに指示を出す。
仁寅律音は駅の様子を抱きかかえられながら確認する。ホームは外に繋がっているので、雨が横倒しになった電車に降り注いでいる。
必要最低限の駅員が、体半分に大きな火傷を負いつつもその上に入れ墨をしている少年に警戒の目を向けている。
空の色は真っ黒で太陽の光を遮っている。それでもドリルを持った少年はなるべく影になる場所に立っている。
地底遊園地のオーナーであり地底人であるキッキは、太陽の下では生きられない体質だからだ。
ゴーレムのレムに、ドードー鳥、ピエロに花の妖精のフローゼ、チェシャ猫に帽子屋がホームに揃っていた。
ちなみに土竜のマスコットキャラクターであるモグリは留守番ということに、仁寅律音は気付かなかった。
それどころではないからだ。火傷の少年は手に持った線路の破片を真っ赤に溶かしてキッキに投げたからだ。
ドリルで弾き飛ばすが、飛び散った鉄の破片は地面や服を溶かす上に肌に付着すると声も出ないような痛みをもたらす。
熱すぎて痛覚が鋭敏になるのだ。水ぶくれができるほどの熱は人体に良くない。
それでもキッキは熱や鉄の破片を恐れない。地底を掘り進む地底人の末裔として、地底火山や鉱石の扱いには慣れているからだ。
太陽だけを恐れている地底人の文明は地上とは違う発展をしてきた。だからこそ地上人が恐れることを地底人は恐れない。
「僕は地底人のキッキ。君が何者かは知らないけど…僕の友達やお客様に手を出す輩はお仕置きだよ」
「おいおい俺の名前くらい聞いてくれよ。氷川露木っていう今から地底人を殺す男の名前くらい、っさ!!!」
名乗ると同時に氷川露木は手の平でホームの屋根を支える柱に触れる。
すると柱は手の平の部分から少しずつ赤くなって粘液のように溶け始める。
そして崩れ落ちて嫌な水音を立てて地面を溶かしながら広がっていき、屋根の一部が軋む音を立てる。
キッキは不可解な物を見るように表情を険しくし、それでも用心深く氷川露木の動きを見る。
まずどれも溶けたのは手の平で触れた部分。しかし溶けた物には手の平以外では触れていない。
なにより半身に負った火傷から推測するに、熱や火が効かない体には見えない。
「…健斗達が騒いでた能力者の類…最初は火を操ってるのかなと思ったけど…違う」
「へぇ、よく気付いたな。気付いてない馬鹿共は俺のこと火鼠小僧って呼ぶけどな」
不敵な笑みでキッキを見つめて値踏みする氷川露木。
ただの人間や銃を持つ大人には飽きていた所に飛び込んできた同い年くらいの少年。
嘘だと思っていた地底人というSF世界の住人が目の前で対峙してくる。
巨大なドリルを片手に、多くのロボットを引き連れて氷川露木を敵として見据えてくる。
その敵意の視線に背筋を震わせて歓喜する。身も震えるような殺し合い。
氷川露木はずっとそれを望んでいた。
毛布を抱きしめて少女はひたすら青年の帰りを待つ。
神崎伊予は一人でいると落ち着かないのだ。しかし誰かいてくれればいいというわけでもない。
安いアパートの二階、トイレの中で毛布を抱えて神崎伊予は成長していた。
母親はキャバクラで働き、父は酒飲みのろくでなし。リビングと台所が障子一つで繋がっている狭い住まい。
トイレだけが鍵をかけられて扉を隔てることができる、唯一の安息の場所だった。
ストーブも冷房もないアパートでは、夏の暑さも冬の寒さも酷く激しかったが、トイレでは厳しさを増した。
それでも飲んだくれの父親から暴力を受けるよりはましだった。母親もそうやって泣きながら神崎伊予をトイレに匿っていた。
美しい、とはいっても中の上程度の母親である容姿を神崎伊予は受け継いだ。父親はそれで神崎伊予を金の足しにしようとした。
だから母親は泣きながら神崎伊予の体に傷をつけて価値を下げた。父親が傷をつけるよりは軽いが、確実に痕の残る傷を。
クリスマスも正月も誕生日も安息などなく、出生届け出も父親の横暴で出していないので、誰も神崎伊予のことを知らない。
おそらく近所の人間は赤ん坊の泣き声など聞いていたので、子供はいるかもしれないと思っていただろうか、あえて関わろうとしなかった。
幼稚園も学校も行けず、狭いトイレの中で毛布を抱えてひたすら耐え忍ぶ生活を神崎伊予は続けていた。
終わりを告げたのは寒さで心も凍りそうな二月の半ば。春はまだ来てくれそうにない日。
父親が酒瓶で母親を勢いで殺してしまい、錯乱して神崎伊予も殺そうとした。
トイレの扉の鍵はあっさりと壊され、血に染まって真っ赤になった瓶を神崎伊予は見上げていた。
栄養失調でやせ細った体に、思考能力の低下の中で神崎伊予は幻覚を見ていた気がする。
父親の皮を被った悪魔が真っ赤な歯を見せて、襲い掛かってくるような錯覚。
毛布で身を守ろうとしながら願う。神様ではなく、絵本で貧しい娘を助けた魔法使いのことを。
神様はいくら祈っても助けてくれなかった。だから魔法使いを頭に描いて、ひたすら願った。
助けてください、助けてください、助けてください、助けてください、助けてください、助けてください、助けてください、助けてください、助けてください、助けて…
願いは通じた。神崎伊予を青年は助けてくれた。
何処から現れたのかわからなかったが、神崎伊予の目の前に出てきて庇ってくれた。
やせ細って傷だらけの体を抱きしめてくれた。体温が心地よくて神崎伊予は危機的な状況の中で泣きそうになった。
すると瓶を振りかざした父親が熱で真っ赤になったかと思ったら、焼けて炭になって消えた。
まるで炎で浄化されてしまった悪魔のように。浄化したのは氷川露木だった。
そしてスケッチブックを片手に妄想が大好きな彩筆晶子が、早く移動しようよとスケッチブックに新たに絵を描いていく。
描き終えていた一枚は女の子を助けるために登場する魔法使いが描かれていた。
次の一枚は四人でどこかの部屋で笑い合いながら食事をする風景画。
彩筆晶子は描いたことを現実にすることができた。だから魔法使いは目の前に現れて助けてくれた。
そして神崎伊予は生まれて初めて、なににも怯えることもなく思う存分食事をすることができた。
以来神崎伊予は助けてくれた青年を慕っていたし、例え利用されているとわかっていても大好きだった。
自分の予知能力だけが目当てだとしても、神崎伊予は青年が傍にいることが最上の幸せだった。