懺悔
駿河瑛太が転校した学校は普通の学校だった。普通にいじめがある普通の小学校である。
おどおどして上手く言葉がだせない駿河瑛太は知らない子供達に囲まれていた。子供達も駿河瑛太のことを知らなかった。
気付いたら弾かれて疎外されて聞きたくもない言葉がいくつも投げられた。
消えろ、死んじゃえ、静かにしてろよ、こっちくんな、気持ち悪い、いなくなっちゃえ、必要ないんだよ…
単純で子供達でもすぐに理解できる短い単語は、確かに駿河瑛太の心に傷をつけていった。
駿河瑛太が黙って俯いて言葉を聞いているだけだとわかると、子供達は次々と行動を発達させる。
意味もなく物を隠す、グループ分けで無視をする、問題に答える際にくすくす笑う、わざとボールをぶつけてくる。
そして最後には誰も駿河瑛太のことを気にしなくなった。存在そのものを無視して何事もなかったように学校生活を過ごした。
ずっと我慢していた。どんなことを言われても、されても、駿河瑛太は耐えていた。しかし存在を消されたことにとうとう堪え切れなくなった。
声をかけても無視されて、立っていても視線が合わず、足場が消えたような不安が心をどこかに落として粉々にした。
学校に行かずに引き籠ったのも、心が砕けてしまったから。どうせ誰からも認識されないなら、存在する意味がない。
しかし駿河瑛太の両親はしっかりと存在を認識していた。そして学校に向かわせようとした。
いじめにあっているのは知っている。それでもこのままでは息子が負けたかのように感じられて悔しかったのだ。
それにどんな物事も年月が経てば自然と解決する。子供ならなおさら中学校や高校などの入学で変化が速いはずだと。
だがそれは大人から見た物事の観点である。子供である駿河瑛太が感じる一年と両親が感じる一年は大きく違う。
たった一年、されど一年。駿河瑛太はこれ以上砕ける心もないのなら次は何を失えばいいのかと発狂しそうになった。
願った、同級生に存在を感知されないのなら、両親からも、誰からも、全てから消えたいと。
透明人間のように消えてしまった方が楽だと、砕けた心の破片が振動して叫ぶかと思うくらい祈った。
駿河瑛太からは両親が見えていた。両親の視界からは駿河瑛太は消えていた。
父親は驚いて手を離した。母親は信じられないと何度も瞬きしている。
近くにあった鏡を見れば自分だけが映らないことに駿河瑛太は気付いた。願った通り消えてしまった。透明人間になった。
しかし駿河瑛太は喜べなかった。むしろ恐怖して声を上げそうになった。そして両親に助けの声を出そうとした。
父親から信じたくない単語が口から零れ出るまでは。
「き、気味悪い…」
それは信じられない光景を目の当たりにした人間が思う、普通のことである。
だが駿河瑛太からすればそれは助けの声すらも消すに十分な、トドメの一言だった。
駿河瑛太は混乱する両親から逃げ去るように姿を消したまま家を飛び出した。
泣き叫ぶ声も消えたかのように喉から出なくて、詰まった嗚咽だけが口内で響く。
誰も走る駿河瑛太の姿を見ない。手を繋いで歩く親子も、いじめていた同級生達も、心配していた先生も、全て。
悲しみと混乱と絶望で歪む顔さえ、道路の様子を窺うために設置された鏡すら駿河瑛太を映さない、認識しない。
あと少しで駿河瑛太が道路に向かって飛び出す寸前、誰かがその腕を掴んだ。見えないはずの駿河瑛太の腕を、だ。
驚いて振り向く駿河瑛太の瞳に映るのは体の半分を火傷で覆われた上に入れ墨をしている少年と、二人を眺める青年だった。
「ふー、あぶねぇな。俺が熱の能力者じゃなかったら気付かないくらいだ」
「そうだな。そのまま離すなよ、今のところ俺にはそいつが見えないからな」
そう言って二人は姿が透明のまま見えないはずの駿河瑛太を中央エリアに建つビルへと連れていく。
見えないはずの駿河瑛太を見つけて、必要としてくれて、居場所を与えてくれた魔法使い。
家族のように接してくれる子供達に、透明になっても必ず見つけてくれる熱の能力者。
駿河瑛太は最後の希望と言わんばかりに魔法使いが作った居場所に縋った。他には何も見えないくらい、駿河瑛太の心は壊れたまま戻っていない。
癒してくれないが、砕けた心を包み込んで保管してくれる場所として、駿河瑛太は魔法使いにしがみついていた。
透明になって誰からも姿を認識されない駿河瑛太は、警察官が慌ただしく動く病室の前にいた。
扉の前には二人の警官が門番のように仁王立ちしている。誰も通さない壁ともいえるほど強固な姿だった。
視線は廊下を行きかう人々を捉えているが、ニャルカさんのお面を被って姿を消した駿河瑛太は捉えられることがない。
病室の扉が開くのを待つ。中から診断を終えた医者と事件担当の笹塚雄三が深刻そうな顔で話し合いながら出てくる。
「心音もあらゆる音が消えているのでこれ以上の診断は…」
「しかし生きているんですよね…どうにか意識の回復を試みてはいただけないでしょうか?」
扉が完全に閉まる前に駿河瑛太は子供という小さな体を生かして病室の中に入る。
白い壁と天井が静寂を包み込んでおり、まるで雪に埋もれているようだと駿河瑛太は考える。
静かに歩いて病室に安置されているベットに近づく。横たえられているのは眠り続ける音波千紘。
散歩しながら不可解な力でガラスを割った重要参考人として警察監視の下、意識回復のために治療受けているのだ。
なにせ保護されたのが豊穣雷冠による光速移動で吹っ飛ばされた直後だったのだ。肋骨の一本は折れていても不思議ではない。
駿河瑛太はベットの横にある椅子に座る。わずかに音が立つが、扉の前にいる警官達は気付かない。
「……先生心配してたよ」
「………………………そうか。どうやら俺は迷惑をかけたようだな」
駿河瑛太のか細い声に反応して音波千紘は閉じていた瞼をゆっくりと開ける。
音波千紘はあらゆる音を操る。音の作る波から集音、音速で動くこともできる。
警察に保護された時は本当に意識がなかったが、その後数日で目を覚まし、起きているのを気付かれないように検査機を狂わせて誤魔化していた。
心音を消したように見せかけ、波長を読み取る計測器を乱し、脳波すらも音波の一種として操った。
そして駿河瑛太が近づいて来たのも足音で感知していた。だからこそ冷静に対応する。
「飽きたから早めに事件を起こしてみたんだが…失敗だったようだ。この俺としたことが…」
「……先生が言うには人間兵器がいたなら仕方ないって…」
「人間兵器…ああ、あの少年か。この俺を倒すとは、ライバルと認定してもいいな」
上から目線で小声ながらも自信満々に告げる音波千紘に駿河瑛太は仮面の下で小さく笑う。
音波千紘は駿河瑛太とは正反対のような存在だ。いつも自信に満ち溢れてて自分が大好きな明るい少年。
熱を操る氷川露木とは性格的に相性はあまり良くないが、弟子達の中では彩筆晶子に次ぐムードメーカー、及びムードブレイカーでもあった。
神崎伊予は魔法使いであるマーリンに付き添いながら、静かに弟子達を見守る参謀のような位置にいる。
彩筆晶子が話題を盛り上げて、音波千紘が茶々を入れ、氷川露木が合いの手を入れて、駿河瑛太と神崎伊予はその会話に耳を傾ける。
そして賑やかな子供達を眺めるのが魔法使いのマーリンである。秘密基地のようなビルの中でひっそりと暮らす師弟達の幸せな日常。
終わりが近い日常を思い出しつつ、駿河瑛太は音波千紘にマーリンから伝えられた決行日を知らせる。
「一か月もないのか…そうか」
「……うん、露木は楽しそうにしてたけど、伊予や晶子はまだ渋ってる」
集められた子供達にマーリンは企んでいた計画の一部を知らせた。
指定された日に事件を多数起こし、NYRONという街全体を混乱させる。
その混乱の隙を突いて目的を成し遂げる、というのがマーリンの計画だ。
詳しいことは教えて貰えなかったが、マーリンは子供達に好きに動けと言った。
事件を起こさないという選択肢も子供達には用意された。しかし全員行動する算段である。
自分達を助けてくれた青年に対する恩返しに似た何かを返すために、子供達はマーリンの計画に協力する。
しかし神崎伊予だけは珍しく頷かないまま俯いていたのが、駿河瑛太は少し気になっていた。
神崎伊予はマーリンに助けられてから能力が現れた例である。他の子供達はその前に既に能力があった。
音の能力者、音波千紘もマーリンに拾われたのは能力が現れてからだった。
音波千紘は音楽が大好きで、いつかはロックバンドのボーカルデビューすると笑うような少年だった。
母子家庭、いわゆるシングルマザーによって育てられた音波千紘は貧乏だったがそれを卑下することはなかった。
母親の負担にならないように家事一通りできる自分は偉い、と自信満々に語れるほどには幸せだった。
朝早くから深夜までパートからアルバイト、果ては内職までこなす母親は精一杯音波千紘を愛していた。
父親のことを話すときは笑顔で仏壇の写真を見せながら、消防署のヒーローだったのよと音波千紘に自慢するのが日課だ。
忙しくて疲れていても笑みを絶やさない母親は、いつだって音波千紘に家事ありがとうのハグをする。
音波千紘もそんな母親が帰ってきたらおかえりなさいのハグをする。抱きしめ合うことをコミニュケーションとして、音波千紘は幸せを満喫していた。
お小遣いをこっそりと貯めて、母の日に腕一杯のカーネーションをプレゼントしようと母と手を繋ぎながら西エリアにある有名な花屋に向かった。
信号を見て交通ルールを守りながら歩いていた。音波千紘と母親に落ち度はなかった。
それでも不幸は襲い掛かってきた。信号無視したトラックが二人に向かって突進してきたのだ。
慌てて母親が庇うように音波千紘を抱きしめ、強い衝突音と衝撃で二人は意識を失った。
音波千紘が目覚めた時、残念そうな目で見下ろす医者や看護婦がいた。
病室のベットの上で呼吸器が外せるようになり、起き上がれる頃に医者が音波千紘に話をした。
医者の話では音波千紘は母親が庇ってくれたおかげで、一命をとりとめた。
ただし聴覚機能が異常をきたし、一生耳が聞こえることはないと筆談で説明された。
しかし音波千紘は音を捉えていた。むしろ事故に遭う前よりも遠くの音や心音が聞こえるほどだ。
聴覚の説明を終えた医者の心音が速くなり、その音を聞いているだけで音波千紘は次の話の内容が不安になるものだと理解した。
【残念ながら君のお母さん。音波千早さんは死亡した。即死だった。トラック運転手も…一週間前に死亡が確認されたよ】
簡潔な言葉で書かれた文の内容、それは音波千紘がもしかしたらと思っていた事柄だ。
それは現実にならないでほしいと願った内容でもあった。もう自分を笑顔で抱きしめてくれる母親はいない。
母親の命を奪った運転手もすでに心音が止まっている。復讐も報復もできない、恨みも憎しみも抱けない結果。
一人で生きていかなくてはいけない現状に、音波千紘は声も出さずに涙した。自分の出す嗚咽は確かに音として捉えていた。
しかし耳で聞いているのではないと理解した。脳が捉えているようだと音波千紘は僅かに感じ取っていた。
母親が残した保険金やトラック運送会社からの補償金で葬式代は出せ、また稼げるようになるまで生活に困らないお金を音波千紘は手に入れた。
しかしそんな物は必要なかったと、喪服を着て火葬場から立ち上がる煙を眺めながら音波千紘はぼんやり考えていた。
欲しかったのは笑顔で抱きしめてくれる母親と、その母親に渡すために用意したかったカーネーションの花束だ。
喪服を着た体が抱きしめているのは遺骨が入った骨壺に、白い菊を中心とした花束、そして黒い額縁の中で微笑む母親の写真。
知り合いだけのささやかな葬儀はあっさりと終わり、残った問題は遠い親族達の引き取り問題だった。
母親と父親はあまり実家と良好ではなかったらしく、また両方とも音波千紘から見た祖父母は他界していた。
そのため失意で無表情の音波千紘の前で繰り広げられた親族同士の争いは苛烈を極めた。
音波千紘が一生聞こえない耳を持っていると知っていたから、大声で子供の前では聞かせられないような暴言すら飛び出した。
しかし音波千紘は吐き出される言葉の全てを音として捉えていた。聞き流すことも、耳を塞ぐこともできずに音波千紘は酷い話し合いを把握していた。
そして親族同士のいがみ合いに発達するかと思った矢先、一人の青年が喪服を着た姿で音波千紘の前に現れた。
後ろには青年に付き添うような子供達が三人いた。全員がどこか音波千紘のように欠落した表情を浮かべている。
青年は親族達に優秀な子供を集めて育成する機関だと嘘八百を並べ、押し付け合いしていた親族達から音波千紘を預かった。
元から預かりたくないと思っていた大人達は、深く調べずに音波千紘を青年に預けて全員が即座に故郷へと帰った。
音波千紘は青年を見上げて、どうしてと尋ねた。青年はその声に答えた。
「俺がお前を必要としたからだ。聞こえている…というか音を捉えるその能力はお前の才能の一部だ」
「…才能、の一部?」
「そうだ。お前はもっと凄い才能を持っている。すまないが、その力を俺に貸してくれ」
そう言って青年は音波千紘の手を握り締めて、子供達を引き連れて中央エリアにあるビルへと向かう。
まるで童話で子供達をさらった笛吹のような青年の手が、温かいことに音波千紘は母親を思い出す。
親族に預けられて冷たい視線に晒されるより、自分を必要としていて温かい手で繋ぎ合える青年に音波千紘は好意を抱いた。
そして音波千紘は青年の指導の下で音を捉えるのが能力だと知り、それをあらゆる方面に使えるように鍛えた。
結果として音波発生から音速移動、日常に全く差支えない音収集機能などを身に着けた。
だから音波千紘は会話できる。ただし音を捉えているだけであって、耳は一切聞こえていない。
音波千紘は軽い欠伸をしながら駿河瑛太に告げる。
「マーリン先生が望むなら俺はそれを叶えたい。頃合いを見て病院も抜け出すさ、安心してくれ」
「……うん、わかった。」
そこで会話は終わり、駿河瑛太は改めて音波千紘の様子を見に来た笹塚雄三が開いた扉から出て行く。
もちろん体は透明なので笹塚雄三の目に映るのは薄暗い病室に、ベットの上で健やかそうに眠る音波千紘だけ。
まさか起きているとは知らないままベットの近くに置いてある椅子に座り、深いため息をつきながら寝ている子供の顔を見る。
笹塚雄三には笹塚未来という娘がいる。目の前にいる少年も娘と同じくらいの年齢に見えた。
最近飛び込んでくる事件に子供が多く関わっていることに笹塚雄三は頭痛を覚えた。
そして誰に聞かせるわけでもない独り言を呟いた。
「なんでこんな子供が…」
手を組んで顔の前に持ってくる悩んだ姿は、神に懺悔する信者の姿に似ていた。
日時は違えと雪降る北エリアの教会で、同じ懺悔の姿勢で神父に許しを請う夫婦がいた。
妻は目の下にクマがあり痩せすぎて骨と皮のよう、夫は皺だらけの手を強く握りしめすぎて指先が白くなるほどだ。
子供の一人や二人はいそうな夫婦だが、二人には子供はいない。むしろいたのだが、捨ててしまったというのが正しい。
「神父様…私達は数年前に一人娘を捨てました…それ以降にやはり子供が欲しいと励んだのですが…妻が受胎しないのです」
「私は最初タイミングが合わないだけだと思い、不妊治療からあらゆる方法まで試しました…しかし最後には子宮癌と診断され、切除することに」
「神よどうか私達を許してください。娘に地に頭をこすりつけて謝ってもいい…どうか私達に…子供を返してください」
それは身勝手な大人の言い分にも聞こえた。しかし二人は真剣な様子で祈りを捧げる。
敬遠なクリスチャンも見入ってしまうような懺悔は心打つ姿である。
神父は首から下げているロザリオを掴み、二人に向かって静かな声で話しかける。
「信じよ、されば救われん…という言葉を御存じかな?」
「ええ。神を信じ敬うことで私達は…」
「残念ながら私はそのような解釈をいたしません」
透き通るような低い声で神父は明確に告げた。その内容に夫婦は目を丸くする。
神父はロザリオを掴んだ右手で聖書に触れる。しかし触れるだけでページをめくることも表紙を開くこともない。
ただポーズとして聖書を持った方が様になると言わんばかりの姿だ。
「自分を信じない者が救われるなんざ、それこそ寝言です」
「あ、あの神父様?」
「なにせ神を信じる自分を信じないなんて、それこそ偽善、建前、虚偽というものですから」
普通のクリスチャンが聞いたら暴言にも聞こえかねない遠慮のない言葉。
それを教会を管理する神父の口から出てくるということに夫婦は目を白黒させる。
夫婦は悩みを解決してくれる教会があるという噂を頼りに、北エリアまでやって来て懺悔をしているのだ。
さらにその神父にはエクソシストとしての資格があるという話もあったので、娘を探し出した暁には悪魔祓いをやってもらおうと考えていたくらいだ。
エクソシストというのは人格から多国言語習得など厳しい条件が課せられる、由緒正しく名誉ある資格なのだ。
だからこそ噂の神父はきっと人格者で穏やかな人物なのだと勝手に想像していた。
しかし目の前にいる神父は下手したら人格破綻者に近い存在である。夫婦は開いた口が塞がらない。
そんな夫婦を目の前にしてもお構いなしで神父は言葉を続ける。
「大体なんなんですか、あんたらは?一人娘捨てといて、やっぱり子供欲しい?けど駄目だったから娘に謝りたい?そんなのふざけるなっていう話じゃないですか」
「そ、それは…」
「最後には神頼みでどうにかしてもらおう?そんなことよりやること一杯あるだろうって話ですよ、、全く」
「あ、貴方に私達の苦しみの何がわかる!?娘が化け物だった親の気持ちがわかるのか!!?」
さすがに耐え切れなくなった夫が神父に掴みかからん勢いで立ち上がる。
その立ち上がった頭に当たる位置に聖書をすかさず置いた神父は、目の前で聖書の固い表紙に頭をぶつけて蹲る夫を見下ろす。
妻が夫に縋り、狼狽した目で神父を見上げている。まるで理不尽な悪魔を見つめるような目だ。
「わかりませんよ、娘を化け物と呼ぶ親の気持ちなんか。その子が一体貴方達にどんな危害を加えたというんですか」
「え、を…描いた絵が…本物のように目の前に……」
「ほう!そりゃあ凄い才能だ!!娘さんのその不思議な力はきっと神様からの贈り物でしょう!」
やや大げさに大きな声で神父は夫婦に言葉を投げた。その内容に夫婦は目を丸くする。
神父は夫の頭を叩いた聖書をやっと開いてページをめくり始める。使い古した聖書は神父の手に吸い付くようにページを変えていく。
また神父も聖書のどこにどんな内容が書かれているのか完全に把握していた。数十年、神を見上げていた男は祭壇を前にして聖書の内容を掻い摘んで読み上げる。
「かつて神の子は処女の腹に宿りました。石をパンに、水をワインに変えました。処刑されても三日後に復活を遂げました」
「そ、そんなの誰でも知っている…」
「ええ、誰でも知っている…化け物の話です」
冷徹な目を夫婦に向けて、またもや神父はクリスチャンに相応しくない言葉を吐いた。
かつて神の子は人間としてあり得ないことを行っていた。まるで夫婦が捨てた娘のように。
しかしそれらは全て神の贈り物、または奇跡として後世に語り継がれている。そして誰もが神の子が十字架に磔にされた像に祈りを捧げる。
神の子を通して神に祈りを捧げるため、もしくは神の子自体に祈りを捧げるため。かつての奇跡を信じて。
また神の子は周囲の人に恵まれたのだろう。奇跡だと理解してくれる人々に出会い、裏切りや僻む者が現れても、神を信じて教えを広げた。
夫婦が捨てた娘はただ不運だったのだ。一番理解してほしい両親に理解されなかったのだから。
神父は理解もしなかった夫婦が自分達の都合だけで娘を取り戻したいと神に縋るのが許せなかった。
神は救いの手を差し伸べる。しかしそれは御都合主義の人間を助けるためではない。自分にできることを信じて続けてきた者に差し伸べられるものだ。
だからこそ相応しくない言葉とはいえ、言わずにはいられなかった。
「貴方達の過ちは娘を化け物と呼んだことです。なぜ世界的に有名な神の子のことを知っておきながら、同じような才能を持った娘を化け物として捨てたのですか?」
「あ、ああ、あああ…」
「貴方達が娘を奇跡の子供と認識していれば、こんな目に合わなかった話なんですよ!!才能として認めればいいだけの話だったんですよ!!」
「だ、だが……あんなの人間じゃない…」
「神の子だって一説では精霊の子ですよ。そんな言い訳で逃げるのは私が許しません」
「神父さまにも子供いるんでしょう?普通の…平凡な…」
「…いや、最近重力操れるとか呑気に話しているヒーロー気取りの馬鹿息子がおりますが。ちなみに百キロダンベルを持ち上げましたよ」
平凡な子供がいるという部分で苦い顔をした神父に、夫婦はもう何も言えなくなった。
神父、絵心太夫の実の父親である絵心般若は息子を呼んで実例見せますねと告げる。
父親に呼ばれて絵心太夫は教会の中に普通に入ってきた。一見はどこにでもいる普通の少年である。
ただ服装センスがベルトが多かったり、古びたゴーグルを首から下げていたりなど、やや漫画の影響を受けている。
そんな絵心太夫は父親の指示通り、祭壇に飾ってある等身大の神の子の十字架銅像、およそ百キロ以上の物質を羽ペンでも持つかのように片手で持ち上げた。
夫婦は信じがたい光景を目の当たりにし、しかし信じるしかないと卒倒しそうになった。
「太夫、その銅像傷つけたら許さないから慎重に下ろしなさい」
「高いんだっけ?親父殿がたしかバチカン市国でオーダーメイドしたとかなんとか前に話してた…」
「そういう与太話せずに!…と、こういう訳でして、私の子供も神から授けられた才能があるようなのです」
冷静に締めくくろうとした絵心般若だったが、夫婦はすでに脳の許容量が超えたらしく目を開けたまま気絶していた。
そして後ろから聞こえてきた銅像が音を立てて置かれたのを耳で聞きとり、名前通り般若のような表情で振り返る。
さすがにやばいと感じた絵心太夫は持ち前の運動神経をフル活用して逃走を試みたが、投げられた古びた聖書が頭にぶつかったことにより失敗した。