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流転の姫君と守護の騎士  作者: 月森あいら
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流転の姫君と守護の騎士(後編)

流転の姫君と守護の騎士(前編)の続きです。裏切りと信頼、信愛と忠誠。姫君の、流転の運命をお楽しみください。

【第二章】


◆◇1◇◆


 空には丸い、大きくて白い月があがっている。

 神殿の中のシビュレの私邸、その寝室でルミナリスは、黒い空に浮かぶ月を見つめていた。

「お姉さま」

 ルミナリスの隣にはシビュレがいて、ルミナリスの手をぎゅっと握っている。

 ふたりが十六才になった今でも、ときおりルミナリスはこうやって、シビュレのもとに泊まる。ふたりは寝台の上に横になっていて、小さな窓から差し込む月明かりの中、ふたりの金と銀の髪が絡み合って模様を作っていた。

「今日は、お帰りになっちゃだめよ」

「あら、だめなの?」

「だめよ……今夜は」

 小さく笑ったルミナリスの前、大きく身震いしてシビュレは言った。

「いやな予感がするから。きっと、何か悪いことが起こるの」

「悪いこと? どんなことなの?」

「わからないわ。けれど、ここしばらくずっと悪い夢ばかり見て……。王宮に戻られては、お姉さまの身に悪いことが起きる」

 何かを畏れる顔をしてそう言うシビュレを前に、ルミナリスはうなずいた。

「ここに、いてくださる?」

「わかったわ」

 ルミナリスは笑った。

「お前が言うと、悪いことだっていうのが何だか本当だって思えるのだもの」

 そう言ったルミナリスに、シビュレは安堵したように微笑んだ。彼女の微笑に何とはなしにほっとして、ルミナリスは彼女の額に自分のそれを押しつけた。

「ここにいれば、わたしは大丈夫なの?」

「ええ。ここにおいでになれば……。だめよ、お姉さま。こちらにいて」

 ルミナリスは体を返そうとし、しかしそれをも許さないというように、シビュレは握った手に力を込めた。

「リューリクは、ちゃんと隣に控えているのでしょう? なら、大丈夫だわ。お姉さま、朝までここにいてちょうだい」

「それは……構わないけれど」

 戸惑うルミナリスの腕にぎゅっとしがみつき、シビュレは頬を擦りつけてきた。こうやってねだられて、手をつないで眠るのは今までに何度もあったことだ。

(でも、シビュレがこんなふうに脅えるのは初めてだわ)

「いてね? 帰ってしまったりなさらないでね?」

「わかったわ」

 ルミナリスは苦笑し、シビュレの髪を撫でる。何度も撫でると安心したようにシビュレは笑い、つないだ手に力を込めてきた。

 ふたりで向き合って額を合わせて、手をつないだまま眠る。ふたりの頭の上、白い月は輝いたままで――。



 体の奥までを貫くような、大きな音で目が覚めた。

「あ……っ!?」

 ルミナリスは、反射的に体を起こした。手はシビュレとつながれたままで、手を取り合ったシビュレはまだ眠っている。

 彼女の寝姿を目に、ルミナリスは何度も目をしばたたかせた。シビュレの真っ白な頬に落ちるまつげの影を見つめながら、いったい何が自分の眠りを覚ましたのかとしきりに考えた。

(何か、大きな音がしたような気がしたけれど……)

「――あ!」

 まただ。今度はその音が何かを壊す物音と、人の声だということがはっきりとわかる。

 ルミナリスは完全に覚醒した。扉のほうに顔を向け、いったい何ごとかと息を詰める。

(人の声? 神殿の敷地内で、こんな大きな声をあげるなんて……いったい何があったの?)

「お姉さま……」

 声に視線を落とすと、シビュレも目覚めていた。彼女は大きな目を見開いてルミナリスを見ていて、目が合うと体を強ばらせた。

「いったい、なにが……?」

「わからないわ。人の声と……あれは」

 遠くで怒声が響く。扉が乱暴に叩かれて、ルミナリスはとっさにシビュレを抱き寄せた。

「誰っ!」

「リューリクにございます!」

 彼らしくもない慌てた口調だ。シビュレを抱きしめたまま、ルミナリスは声をあげる。

「入ってきて! リューリク!」

 扉が開くと、いきなり飛び込んできた表からの大声に横殴りにされたように感じた。リューリクはその場にひざまずいたが、その仕草からも彼の神経が張りつめているのが伝わってくる。

「あの物音はなに!? いったい何があったの!?」

「わかりかねます」

 リューリクは青の瞳を険しく尖らせて、首を左右に振った。リューリクの口から『わからない』などという言葉が出てくるなどめったにないことだ。

「お姉さま……」

 ルミナリスは身震いし、抱きしめたシビュレが不安そうに呼びかけてくる。

 走る足音が近づいてきた。ルミナリスは、シビュレを抱きしめる腕に力を込めた。

「シビュレさま!」

 開いた扉から飛び込んできたのは、シビュレの側づきの女官だ。夜着のまま礼儀も何もかなぐり捨てて現われた彼女は、リューリクの隣に膝をついて荒い息を何度もつく。

「ルミナリスさまも! ここにおいでだったのですね! 大変でございます……!」

「いったい、何が!?」

「反逆に、ございます!」

 女官は叫んだ。ルミナリスは大きくまばたきをし、女官の言った言葉を口の中で反芻した。

「はん、ぎゃく……?」

「さようにございます。リウドハルド宰相が、トティラ王宮を手中に収め……アラリック王陛下とイルミーナ正妃陛下を討ち、そして……」

「な、に……? 何を、言っているの……?」

 女官の言っていることの意味がわからない。ルミナリスはしきりに、首を横に振った。

(リウドハルド宰相が? お父さまと、お母さまを……)

(討って。……討った? いったい、どういうこと……?)

 混乱に、頭の中をかき回される。寝台の上に座り込み、腕の中のシビュレをただ抱きしめた。腕が震える。シビュレがそっと、手を伸ばしてきた。

「お姉さま……」

「だいじょうぶ、だいじょうぶよ……」

 わけもわからずに、ルミナリスはそう繰り返す。何度も口にするのはシビュレをだけではない、自分をも励ます言葉だ。腕の中のシビュレも震えていて、それを押さえ込むように抱きしめ直した。

「そんなこと……なにかの、間違い……」

(嘘、嘘だわ。間違いだわ。だって、リウドハルド宰相が、そんな……?)

 リウドハルド宰相は、アラリックの忠実な臣下だったはずだ。常にアラリックを助け、王に意見することにもひるまず、常にこのハルシア王国の発展のために力を尽くす忠臣であったはずだ。

(そんなリウドハルド宰相が……、な、ぜ……?)

「――きゃ、っ!」

 いきなり、強い力で腕をつかまれた。顔をあげるとそれはリューリクで、引き剥がされるようにシビュレと離された。

「なにするの、離して!」

「ここにおられてはなりません、早く、お逃げに!」

「でも、シビュレが!」

「お早く!」

 ルミナリスの言葉を、リューリクは聞かなかった。リューリクはルミナリスの背と両足の下に手を回し、抱きかかえる。ルミナリスはとっさに、リューリクの首に抱きついた。

「リューリク……!」

 そうやってルミナリスを連れ、リューリクは部屋を走り出た。彼の歩は力強く、寝台の上に取り残されたシビュレも扉のところで座り込んでしまっている女官も、歩廊にいる者たちも皆無視して、駆けた。

「リューリク、リューリクってば!」

 彼の腕の中で、ルミナリスは暴れた。

「リューリク、離してよ! シビュレを置いて行けないわ!」

「いけません、リウドハルド宰相が次に狙うのはルミナリスさまです。ここにおられては、いずれ手が伸びます!」

「……あ」

(お父さまとお母さまの次は……わたし、ということ?)

 にわかに全身を貫いたのは、刃で胸を貫かれたような衝撃だ。それは、死の恐怖にほかならない。

(リウドハルド宰相が、わたしを……殺そうとしている?)

 その言葉は、ぞくりとする実感を伴ってルミナリスの全身を包んだ。リューリクの体にしがみつき、そのままふたりは館の外に出る。

 すれ違う者たちをすべて無視してリューリクが走るのは、厩の方向だ。ルミナリスは、ただ懸命に彼に抱きついていることしかできない。

 厩の馬たちも、ただならぬ騒ぎにざわめいている。一番立派な体格の馬に手早く頭絡と鞍をつけると、リューリクはルミナリスを引っ張り上げた。

「ルミナリスさま、お手をこちらに!」

「う、ん……!」

 馬は一度大きく嘶き、リューリクが手綱を引くと勢いよく走り出す。

「シビュレは、どうなっちゃうの?」

「シビュレさまは陛下の血を引いておいでとはいえ、庶子。しかしルミナリスさまは……」

 そこでリューリクは、言葉を切った。ルミナリスは彼の胸もとに置いた手に、ぎゅっと力を込める。リューリクは前を向いていて、そんな彼を見つめるルミナリスの視界の向こうには、どんどん遠くなっていく神殿がある。

 表門から神殿のまわりを囲むのは無数の炬、馬上には武装した親衛兵。

 神殿は、見慣れた場所ではなくなっていた。親衛兵たちは旗を掲げているが、ここからではその旗印はよく見えない。

 神殿から神官や女官たちが次々に飛び出していて、皆とらえられ、炬に光る剣を突きつけられている。皆一様に声をあげ地面にひれ伏し、突然の侵入者たちに脅えている。

(リウドハルド宰相は王宮を制して、次は……アウェルヌス神殿を、ということ……?)

「リューリク、リューリク!」

 顔をあげて、馬を駆っている青年の名を呼ぶ。彼は顔を前に向けたまま、視線だけでルミナリスを見た。

「ねぇ、あれは本当なの? リウドハルド宰相が反乱を? お父さまと、お母さまを……?」

「あの状況からは、信じざるを得ません」

 低い声で、リューリクは言った。

「親衛兵を出すことのできるのは王族のみ。ですがその際に立てられる、王族の旗印がない。その代わりにあがっていたのがリウドハルド家の紋の入った旗でした。そうとなれば……ほかに、考えられません」

「そ、んな……」

 固唾を呑む。リューリクの胸に、すがりつく。

「そんな……こんな、こと……?」

 なおも駆ける馬の上、リューリクは何も言わない。ただ片手だけ手綱を離し、ルミナリスの背に回してくれる。その手には力がこもった。

(……あ、……)

 抱きしめられて、驚くほどの安堵が走る。彼の腕の中で大きく息をつき、ぎゅっと抱きついた。強く目をつぶり、何度も繰り返し、呼吸した。

(あれが、嘘なら……)

 リューリクの腕の中で、考える。閉じた瞼の裏に焼きついたような炬の明るさ、あの異様な光景を必死に振り払う。

(あれが、嘘なら。さっき見たものが、すべて嘘なら……!)

 そうであってほしいと、願った。しかしルミナリスの瞼の裏には、はっきりと神殿のただならぬ光景が残っていて、リューリクの話を聞くまでもなく、この状況が決して幻ではないということが伝わってくる。

 ルミナリスはぶるりと震えて、改めてリューリクにすがりついた。まっすぐに行く手を見ている彼の手は背中に回り抱きしめて、ルミナリスをひとときの安堵に包んでくれた。



 神殿を出て、半日ほど。すでに陽は高く昇り、しかし今ルミナリスたちの走っているのは深く草木の茂る、太陽の光も満足に届かないような森の中だ。

 あれから何度か休息を取った。馬をなだめながら走り続けた道は踏み慣らされた土から徐々に草深くなり、やがてあたりは背の高い木が茂る樹林になった。

 馬の走る速度は徐々に落ちてきて、それと同じころからあたりは鬱蒼とした森になった。道も辛うじて馬が通れる程度で、馬はせり出した枝に顔を叩かれて閉口するような嘶きをあげた。

「リューリク、ここは……?」

「クマエの森の奥です。ここなら、宰相の手も届かないかと」

 聞かされた言葉に、ルミナリスは驚いて声をあげる。

「クマエの森? ここが?」

 ルミナリスは、まわりを見回した。茂った木々の葉は見慣れない形で、首をあげて見上げてみても、何の木なのかわからない。

「クマエの森って、このようなところだったかしら? それとも……よほどに深いところなの?」

「狩り場とは、逆の方向ですから」

 短く、リューリクは言った。

「こちらがわにいらっしゃることは、今までになかったと存じます」

「リューリクは、こっちの道を知ってるの?」

「一度、馬を向けたことがあります。すぐに戻ってまいりましたが」

「どうして戻って来ちゃったの? 何かあったの?」

 顔をあげて尋ねるルミナリスにリューリクは、言いにくいそうにそっと肩をすくめた。

「リューリク?」

「……深すぎて、入るのが恐ろしかったのです」

「まぁ」

 リューリクの口から『恐ろしい』などという言葉が出るとは思わなかった。ルミナリスは目を丸くしてリューリクを見て、リューリクは居心地悪そうに視線を逸らしてしまった。

「少なくとも、宰相の手はここにまでは伸びないでしょう」

 ルミナリスのほうは見ずに、彼はそう言う。ルミナリスはうなずいた。

「リューリクがそう言ってくれたら、本当にそうだって気がするわ」

 そう言うと、リューリクは驚いたように目を見開いた。そんな彼にルミナリスは小さく笑って、彼にしがみつく腕を強くした。

「リューリクがいてくれたら、わたしは平気よ。わたしが本当のことを言っていないと思うの?」

「いえ、そういうわけでは……」

 そして彼は、小さな声で『光栄にございます』とつぶやいた。彼の腕の中で、ルミナリスはうなずく。

 馬は先を進む。しかし木々の深さに、足はどうしてもゆっくりになってしまう。

「このまま、先に行けるのかしら?」

 ルミナリスの問いに、リューリクは難しい顔をしている。ルミナリスは細い枝に頬を叩かれ、声をあげてリューリクの胸に頬を押しつけた。

「クマエの森の奥は、得体の知れない生きものがたくさんいるっていうわ。昼でも暗い場所は……狩人だって避けるというのに……」

「ルミナリスさま、あちらを」

 言われるままに、ルミナリスはリューリクの指差す方に目を向けた。すぐそこまでは伸びた枝が茂って視界もままならないのに、隙間の向こうに何かが輝いているのが目に入った。きらめきが眩しくて、ルミナリスは目を細めた。

「な、に……?」

 リューリクは、ためらう馬を追い立てた。深かった森が、切れる。目の前にあったのは小さな泉だ。

「ここ……は?」

 今までの森の深さが嘘だったかのように、そこは開けた空間だった。泉のまわりは岩場になっていて、左手から流れてくる細い川がこの泉を作っているのだ。

「ここ、いったいどうなってるのかしら」

 リューリクの胸にすがりついたままの格好で、ルミナリスは言った。ためらう馬をリューリクが促し、先に進む。泉のまわりは下草が刈られ、明らかに人の手が入っている。

「こんな深いところに……誰かいるというの?」

 振り返ってみても、リューリクも眉根を寄せているばかりだ。再び森の奥に目を凝らしたルミナリスは、視界の向こう、川の対岸の木が揺れたのを見た。

「誰か……いるわ!」

 ルミナリスの声に、リューリクが勢いよくそちらに目をやる。ルミナリスを抱きしめる腕に力を込めた。

 下草を踏む音がする。身構える先に目に入ったのは、二頭の馬だ。木々の影が濃くてはっきりとわからないが、馬上にはそれぞれに男がいた。奇妙な形をした深い草色の衣服をまとっている。

「人が……」

「誰だ!」

 続けて鋭い声がかかる。ルミナリスは体を強ばらせて、リューリクの胸にすがりつく。そんなルミナリスを守るように、リューリクは腕の力を強くする。

 彼は近づいてくる人影を睨みつけ、男たちは剣をかざしながらこちらに近づいてきた。

「ここに入り込んでくるとは、いったいどこからやってきた」

「ハルシア王国の者たちか……? このようなところにまで踏み込んでくるとは、なにゆえに」

(わたしたちと、同じ言葉を話してる……?)

 見たことのない服装の者たちが、同じ言葉を話すということに少し安堵した。しかし相手が何者かわからないのは同じで、それは彼らも同様のようだ。彼らはルミナリスたちとの距離を、慎重に少しずつ詰めながら近づいてくる。

 彼らは薄い色素の髪をしていた。瞳の色も薄く、男性にしては白い肌――彼らを見ていると、シビュレの抜けるような色の肌を思い出す。

(あ……!)

 ――シャムス朝のものにはあり得ない色彩。クマエの森の奥深くで出会った者たち――ルミナリスは胸に手を置いた。

(『モグラ』――オトラント!?)

 大きく息を呑んだ。そんなはずはない、そんなわけはない。

(だって、あれはお伽噺で……吟遊詩人の歌う譚詩(うた)で)

 そのオトラントのことを話していた、サビニ国の使節・ファランタのことを思い出した。赤い髪の大柄な人物だった。オトラントのことを話す彼は、笑いながらもどこか真剣な目をしていたように思う。

(単なる、お話の中にあるだけのことであるはずなのに……?)

 固唾を呑んだ。男たちは警戒するまなざしを外さずに、少しずつ近づいてくる。木々の切れたところには強い陽の光が落ちていて、それに当たった男が眉をしかめる。手をかざして日を避けるようにする様子に、シビュレの姿が重なった。

(あの子も、陽の光には弱かった。あんなふうにいつも、陽に手をかざして……)

 ルミナリスは、思わず身を乗り出す。自然に口が開いていた。

「あなた、たちは……」

「ルミナリスさま」

 声をあげかけたルミナリスを、リューリクは押しとどめる。リューリクはルミナリスをかばうように胸もとに引き寄せ、落ち着いた声で男たちに告げた。

「迷い込んだだけだ。怪しい者ではない」

 しかしリューリクの言葉を、男たちは信じていないようだ。

「迷い込んだ、だと? このような場所にか」

 ルミナリスの父ほどの年齢の男たちは、警戒を解くことなくこちらを見ている。リューリクは、素早くささやいた。

「ルミナリスさまは、お降りになりませんように」

「え?」

 ルミナリスを残して、リューリクはひらりと馬から降りた。腰の剣の下げ緒をほどき、身構えた男たちの前に、鞘のついたままのそれを投げ出す。

「危害を加えるつもりはない。このとおり、武器も渡す」

 男たちは、馬上のルミナリスをじろじろと見た。ルミナリスは夜着一枚で、どこにも武器を隠す余地などないということがわかったのか、男たちの警戒は少しゆるんだ。

「この方は、わたしの主人だ。一晩走り通して、お疲れになっておられる。休む場所を貸していただければ、ありがたい」

「ふぅん……?」

 男のひとりが、馬から降りる。リューリクの剣を拾うとルミナリスを見上げ、本当のところを探り出そうというようにリューリクを見やる。

「ついてこい」

 男は口早に言うと踵を返し、再び馬に乗る。リューリクもまたルミナリスの後ろに乗ると、先導する男たちを追った。

「ねぇ、あの者たちって……!」

 小さな声でリューリクにささやきかけたが、彼はルミナリスを見下ろして、何も言うなというように小さく首を左右に振る。

(本当に、あの者たちは『モグラ』なのかしら。あの者たちが住まうのは、本当に地下都市オトラントなのかしら……?)

(そんな、まさか……)

 困惑するルミナリスを乗せたまま、馬は先を進んでいく。先ほどまで森はあんなに深かったのに、泉から向こうはすっかり切り開かれている。

(このようなところに人がいて……、今まで入ってくる者はなかったというの?)

(いえ、ここまでがあんなに深い森だったのだもの。ここまで入ってこようと思う者は少なかったのかも知れないわ……獲物なら、狩り場に近いほうにたくさんいるのですもの。こんな奥には、わざわざ入ろうとは思わないのかも)

(だからといって、本当にオトラントだと……いうの?)

 道はどんどん、進みやすくなっている。大きな岩場の前で、男たちは馬をとめた。

「待っていろ。お伺いを立ててくる」

 男のひとりは、そう言って馬を下りた。大きな岩のほうに歩いていったかと思うと彼の姿は突然消えて、ルミナリスは驚いて声をあげた。

「どこに行っちゃったの……?」

 あがった声は思いのほか大きくて、残った男がルミナリスを睨みつける、それにひるんだが、背後から聞こえた知らない声にもっと驚いた。

「入ってきた者があるようだな」

 そう言ったのは、優しい声だ。その声音の柔らかさは、ルミナリスをどきりとさせる。慌てて振り返った先にあった姿に、ルミナリスの胸はますます大きく揺さぶられた。

(き、れい……)

 そこにいたのは、ルミナリスより少し年嵩の青年だった。髪は透きとおるような淡い金で、風になびいてきらきらと光っている。

 真っ白な肌は異国渡りの白磁のようだ。通った鼻梁も薄赤い唇も、ルミナリスが今まで見たことがないほどに整っている。

 何よりも、髪と同じ色の長いまつげに縁取られたやや切れ長の瞳のその色彩が、ルミナリスの心を奪った。

(真っ赤……!)

 彼の双眸は、血のように赤かった。鮮やかに赤い瞳の真ん中に、ぽつんと黒い虹彩があって、それがじっとルミナリスを見ている。それが木々の間から差し込む陽を受けて、本物の宝石のようにきらめいているのだ。思わずたじろぎ、しかし目が離せない。

(この方も、『モグラ』だというの?)

 ルミナリスは、大きく胸を震わせた。

(この方が『モグラ』だなんて。……そんな)

 目が離せない。ルミナリスはなおも青年を凝視したまま、そよぐ風に自分の髪が頬を打つのを感じていた。

(ずいぶんと……聞いていた話とは違うわ)

「申し訳ない。驚かせてしまいましたか?」

 青年の口調はどこか寂しそうで、ルミナリスは慌てた。彼の淡い金色の髪が揺れる。陶器のような白い肌に髪のかかるさまは、トティラ王宮にある乳白色の池が真昼の陽に照らされたさまを思わせた。

「気味が悪いでしょう。初めてお目にかかる方にお見せするものではありませんでしたね」

 どこか自虐的な青年の言葉に、しかしルミナリスの口から出た言葉は単純だった。

「いえ……ものすごく、きれいで」

 その言葉は、自分でも恥ずかしくなってしまうくらいに陳腐だ。青年は少し目を見開いた。彼の髪と同じ色のまつげは重く、それがゆっくりとしばたたかれる。

「宝石、みたい」

 つい、そうつぶやいた、思わず洩れたルミナリスの言葉に、青年は目もとをゆるめる。

「それは、褒め言葉と受け取ってもよろしいのでしょうか」

「もちろんです!」

 勢いよく答えたルミナリスに、青年は微笑む。そうやって笑みを向けられると、ルミナリスはますます緊張してしまう。ここまで案内してきた男が、声をあげた。

「殿下。得体の知れない者に、易々と姿をお見せになるものではありません」

 慌てる男に、しかし青年は笑ってそれをかわす。

「客人なのだろう。それでは、ここの主として挨拶をしなくては」

 楽しげに青年は言った。彼のまとう白の衣装がたなびいて、ますますルミナリスの目を奪う。

 彼は全身の釣り合いからすると少し大きな手をしていて、その細くて長い指が衣装をさばく様子は、彼の優美に色を添えた。

「私はジュナイドと申します。このオトラントの主です」

(オトラント……やはりここは、オトラント……)

 何と言えばいいのか迷うルミナリスに、青年は微笑んだ。軽く膝を折り、礼を取る。にわかに、自分の汚れた夜着姿が恥ずかしくなった。

「ここまで馬でおいでになったとのこと、さぞお疲れでしょう。せめてものもてなしをさせてください」

「ありがとう、ございます……」

 リューリクが手を差し伸べてきて、しかし自分の足が裸足のままであることに気がついた。

「どうしよう、わたし、裸足だわ……」

 しかし、ルミナリスが下馬する前に足もとに近づいてきた者がある。白と黒の衣装をまとった少女が、ルミナリスの足もとに靴を置いてくれた。それをリューリクに履かせてもらう。

 布の靴は先が天を向いて尖っていて、ルミナリスの知っている『靴』とは形が違う。ジュナイドたちのまとっている衣の形も見慣れないもので、言葉は同じでもここはハルシア王国とは違う土地なのだということを実感した。

(オトラント……『モグラ』。こんな場所だなんて……考えたこともなかった)

 リューリクの手を借りて、馬から降りる。少女たちは躾の行き届いた仕草でルミナリスに上衣を着せかけ、濡れた布で手を拭ってくれる。まるで王宮の、自分の部屋に戻ったようだと思った。

(……あ)

 ジュナイドが、ルミナリスの目の前に立つ。こうやって近くで見ると、改めてその淡い金の髪、白い肌、そして赤の双眸は、やはりとりわけ目を惹いた。

 磨かれた紅玉、夕陽のひとしずく。どんな言葉で表現しても足りないほどにそれらは美しく、彼の繊細でどこかはかなげな印象を受ける容貌とぴったり合っていた。

「ようこそ、オトラントへ」

 彼はそう言って、ルミナリスの前に手を差し出す。慌ててルミナリスも手を出して、その手を取った彼は、そっと唇を押し当てる。

 貴婦人に対する、正式な礼だ。衣服や靴の形に違いはあるが、こういうところはハルシア王国の文化と同じだ。文化を共有している部分もあるのだと、ルミナリスは少し安堵した。

 ルミナリスの手を取ったジュナイドは、にっこりと微笑みかけてきた。彼の笑みは、その際だった美貌のせいでルミナリスを圧倒した。

(そんな、きれいなお顔で……微笑まないでほしい)

(どう応えていいか、わからなくなるわ)

 胸の中で、声にならない声をあげた。何か言わなくてはいけない、そして自分が名も告げていなかったことに気がついた。

「ありがとうございます、ジュナイドさま。わたしは、ルミナリ……」

 途中まで名乗りかけたルミナリスの手を、ぎゅっと掴む者がある。

「だれ……」

 手の主は、リューリクだ。リューリクはルミナリスの手を取ったまま、ことさらにはっきりとした口調で告げた。

「この方は、オルトラーナさまとおっしゃる。アラリック王にお仕えするキラコス卿の、第二姫でいらっしゃる」

(え……?)

 ルミナリスは、驚いてリューリクを見上げた。

(オルトラーナ、って……誰の名前?)

 しかしリューリクの手の力は強く、ルミナリスに口を挟ませない。迷いなくさらりと出たその名が誰の者なのか、気になって仕方がないのに。

(女の方の名前じゃないの。いったい、誰の……)

 どうしてそのことが、そんなに気にかかるのかはわからない。しかしルミナリスの心中など知るわけのないリューリクは、じっとジュナイドを見やっている。

「ほぅ。オルトラーナ・キラコス嬢。そして、その従者というところか?」

 そう言ったのは、いつの間にかジュナイドの後ろに立っていた青年だ。リューリクと同じくらいの歳に見える。

 彼は両腕を組み、隙を見せない姿勢で立っている。見つめてくる視線は、どこかルミナリスたちの奥を探ってくるようだ。

(ちょっと、この人は……恐い)

 そのまなざしは、水色だ。シビュレの瞳に似ているが、少し色合いが違う。その長い藍色の髪は、ジュナイドやまわりの男たちや女たちと比べて色が濃く、そのぶんずいぶんと目を惹いた。

 彼の水色の瞳は油断なくルミナリスに、そしてリューリクに向けられている。彼は口の端を歪ませていて、彼の瞳が鋭く尖るのにルミナリスはどきりとした。

「シメオン=サルス」

 ジュナイドは彼を振り返って、たしなめる顔をした。しかしシメオン=サルスと呼ばれた青年は、そんなジュナイドの叱責などどこ吹く風といった調子だ。

(シメオン=サルス……ジュナイドさまの従者か何かだと思ったのに、違うのかしら?)

(ずいぶんと、親しいようだけれど)

 シメオン=サルスは、腕を組んだままルミナリスを見た。思わずひるんでしまうような、高圧的なまなざしだ。

「ハルシア王国の方々とお見受けするが?」

「いかにも」

 答えたのはリューリクだ。彼の青の瞳と、シメオン=サルスの水色の目がかち合った。

「貴族の姫ぎみと従者殿が、このような奥にまでやってくるとは。尋常ならんことのようですね」

「迷い込んだのだ。他意はない」

 厳しい口調でリューリクは短く言い、シメオン=サルスはなおも疑うようにリューリクを見やる。その口もとには、どこか冷やかすような笑みが浮かんでいるように思った。

(リューリクの言うことを、信じていないということかしら……?)

 彼らの間に緊張感が漂うのは、決してルミナリスの気のせいではない。まるで空気までぴりぴりしているように感じて、ルミナリスは身をすくめた。

「他意はない。そりゃ、なかろうさ。このような場所まで、遠慮もなく入りこんでくるのだからな」

「無礼は重々にお詫びする。しかし我が主、オルトラーナさまの御身を思えば、どのような場所でも疲れきった馬の背の上よりはましというもの」

(リューリク……何だか、いつもよりもよくしゃべるみたい?)

 ふたりの視線が、合った。まるで嫌いな者と目を見交わしてしまったというように、ふたりは揃って勢いよく、顔を反らせた。その様子に、ルミナリスはふと場違いなことを思った。

(何だか、似ている? リューリクに。目つきとか、特に)

 口に出して言えば、ふたりに叱られてしまうだろう。そう考えるとおかしくなってきて、ルミナリスは小さく笑ってしまった。

「どうなさいましたか?」

「ううん、何でもないの」

 そう言ってまた笑ったルミナリスに、リューリクが不思議そうな視線を向けてくる。

「ずいぶんと気の合うことだね、嬉しいよ」

 わかっているのかいないのか、どこかとぼけたような口調で笑いながら言ったのはジュナイドだ。

「ジュナイドさま。誰と誰が気が合うとおっしゃいました?」

 睨みつけてきたシメオン=サルスに、ジュナイドはまた笑う。そしてひとつ、手を叩いた。現れたのは靴を持ってきてくれた少女と同じ衣装をまとった、侍女らしい少女たちだ。

「お客人を客間にご案内しなさい」

「かしこまりました」

 まるで小鳥の群れのようによく似た彼女たちはいっせいに優雅な礼をして、ルミナリスを先導してくれた。



 オトラントが、『地下都市』と呼ばれているわけ。

 それを、ルミナリスは身をもって知った。先ほど男が消えていった岩場は洞窟になっていて、下に降りる白い石の階段が延びていた。階段の先は地下に至る長い歩廊で、やはり石を積んだ壁がまわりを取り囲む。

 いくつか階段を抜けた先、ルミナリスの通された部屋は天井の円い部屋で、あまり広くはない。静かで、ひんやりとしている。

 部屋の壁には燭台がかかっていた。外は眩しい太陽の光が満ちていたのに、窓ひとつないここでは、燭台を使わなくてはいけないのだ。

 この部屋に案内される前、ひょいと首を伸ばして見た先もその向こうにも違う方向にも、石の階段が延びていた。どうやらこのような部屋がたくさん階段でつながっているらしく、その数は見当もつかない。

(地下の洞穴をつなげているみたいだけれど。いったいどのくらいの広さがあるのかしら)

 首をひねって、見当もつかないこの地下都市のことを考える。そんなルミナリスの世話を、侍女たちはそつなくこなす。手や足を拭かれ、髪を梳かれた。新しい衣を着せつけられる。衣は上下のつながったゆったりしたもので、今まで身につけたことのない形だ。腰には、太い編み紐を結わえつけられた。

 座ったルミナリスには錫の杯に入った冷たい水が差し出された。杯の形も見慣れないものだ。

(やっぱり、オトラントはキフティ朝の……)

「オルトラーナさま」

 ルミナリスの考えを、侍女の声が破る。一瞬、誰を呼んでいるのかと思った。

(オルトラーナ……ああ、わたしのこと)

 そう気づくのに、少しだけ時間がかかった。椅子に腰を降ろしたルミナリスは背を正し、侍女を見やった。

「なにかしら?」

「オルトラーナさま、リューリクさまがおいでです」

「ああ、通してちょうだい」

 現われたリューリクは新しい衣をまとっていて、ルミナリス同様に世話を受けたのだということがわかる。彼はルミナリスの前に膝をつき、言った。

「オルトラーナさま、お人払いを」

 彼は、しかつめらしい表情をしている。ルミナリスが告げると侍女たちは揃って下がり、部屋にはふたりだけになった。足もとにひざまずいたリューリクに、ルミナリスは尋ねる。

「ねぇ。オルトラーナ・キラコスって、誰?」

「私の、母の名でございます」

「あ、そうなの……」

 彼の母の名だと聞いて、何とはなしに安堵した。ルミナリスは、息をついて言った。

「誰の名前かと思ったの。とっさに女の方の名前が出てくるのだもの」

 小さく笑いながらそう言ったルミナリスに、リューリクは深く頭を下げる。

「差し出がましいことを、失礼いたしました。けれどあそこでルミナリスさまのお名を出すことは、懸命なことではないと判断いたしましたので」

「そんな、わたしこそ……考えが足りなくて、ごめんなさい」

「いえ」

 まるで聞き耳を立てている者を警戒するかのように、リューリクはあたりに目をやりながら低い声で言った。

「ここの主だと言った、あの青年のことですが」

(ジュナイドさまの、こと……?)

 どきり、と胸が鳴った。そんなルミナリスの動揺が伝わったわけはないのに、リューリクはじっとルミナリスを見つめた。

「ジュナイドとの名。ルミナリスさまには覚えがおありではないですか。百年前に滅んだキフティ朝の、初代王の名です」

「……あ」

 頭の中の歴史書をひっくり返す。言われてみれば、確かにその名には覚えがあった。

「そ、うね……」

(リューリクが言ってくれなかったら、思い出さなかったわ……)

 とっさにその名を思い出せなかったことを恥じた。膝の上に手を置いて、小さく肩をすくめる。リューリクは、なおも続けた。

「キフティ朝の末裔が、地下都市オトラントを築いて密かに暮らしている。書物では知っておりましたが、よもや現実にこのような場所があるとは」

「わたし、あれは単なる言い伝えだと思ってたわ。亡き王朝にまつわる、伝説。お伽噺」

 目を伏せたリューリクは、何も言わなかった。しかし彼も、同じことを思っていたのだということがわかる。

「一国家にも匹敵するような巨大都市だとか、住人は地中深く住まって決して陽のもとに現われることはないとか。そのように話に聞いていたようなことはないようですが、やはり彼らはキフティ朝の末裔と考えて間違いないと考えます」

 なおも油断なくあたりを見回しながら、声を潜めてリューリクは言う。

「あの王子の容姿。初代ジュナイド王も、白金の髪に赤い瞳の人物だったと言い伝えられております。同じ名を持つ王子がここの主なのだとすればやはり、キフティ朝の末裔の牙城なのだと」

「キフティ朝の……」

(シビュレ……)

 その血の半分が、キフティ朝のものである、妹。その持つ血ゆえに神殿から出られず、神殿の敷地内で一生を終えることを定められている、気の毒なシビュレ。

「シビュレに、教えてあげたいわ」

 ルミナリスの言葉に、リューリクははっと顔をあげた。

「だって、シビュレのお母さまはキフティ朝の方だわ。だからシビュレは、神殿から出られなくて」

 勢い余って、ルミナリスは椅子から立ち上がった。リューリクが驚いてルミナリスを見上げる。

「同じキフティ朝の人たちが暮らすここでなら、シビュレはもっと自由に生きられると思わない? シビュレさえよければ、お父さまにお頼みして。シビュレをここに連れてこられないか……」

(お父さま、に)

 胸の中心に、鋭い何かが突き刺さった。リューリクが目を伏せる。ルミナリスの口は、言葉の途中でとまってしまった。

(お父さまと、お母さま)

 ルミナリスの口は、そのまま動かない。立ち上がったまま足も凍りついたように、身動きできない。

(お父さま……。お母、さま……)

 よろり、とルミナリスの足がよろけた。リューリクの手が支える前に足は力を失い、ルミナリスは冷たい床の上にくずおれていた。

(冷たい……)

 ひやりとした温度が、全身に染み込む。冷たい石の上に座り込み、冷たい石の上に手を置いて、ルミナリスはリューリクを見上げた。

「ねぇ、リューリク。本当に、……お父さまとお母さまは、……亡くなって、しまわれたの?」

 声は震えていた。唇がわなないて、ぽとり、と膝に水しずくが垂れ落ちた。

「わたし、なにも見ていないわ。リウドハルド宰相が、お父さまとお母さまを討ったって……どうして? あの報せは本当に、本当のことなの?」

「ルミナリスさま……」

「お父さまとお母さまが、何をしたというの?」

 震える手を伸ばすと、触れたリューリクの手がぎゅっと握ってくれる。そのまま、崩れるように彼の胸に顔を埋める。

「いったいなぜ……どうして、なの?」

 リューリクの上衣越しの温もりに、ルミナリスの感情は爆発した。涙はとまらず呼吸は喘ぎになり、うまく息が継げなくて何度も何度もしゃくり上げる。

「本当なの? わたしはもう、お父さまにもお母さまにも会えないの? どこに行っても? トティラ王宮にも、アウェルヌス神殿にも、ティレニアの海辺にもエリダノスの川岸にも……どこにも、いらっしゃらないの?」

「ルミナリス、さま……」

 ルミナリスの背に、リューリクの腕が回った。ぎゅっと抱きしめられて、その力に慰められたような気がする。

 それでも涙はとまらずに、それどころかあとからあとからあふれて、ルミナリスの視界を曇らせていく。

「……ルミナリスさま」

 リューリクは、ルミナリスの名をつぶやくばかりだ。つまりそれは、ルミナリスの言っていることが真実だということ。リューリクには、名を呼ぶ以外に何も言えないということ。ルミナリスは、辛すぎる確信をした。

(本当なのだわ……本当に、お父さまとお母さまは……)

「リューリク、本当なの……? 嘘じゃないのね? あのことは……本当、なのね……?」

「……ルミナリスさま」

 ほんの少しの希望は、リューリクの低い呻きにかき消されてしまった。リューリクは、ルミナリスの名を繰り返すだけ。その声は悲痛に重く、ルミナリスの胸は引き絞られる。

「お父さま、お母さ、ま……!」

 うまく息ができない。あとからあとから、涙が流れ落ちてくる。ルミナリスの慟哭はやまず、リューリクの腕が強く抱きしめてくれた。

 彼の腕の温かさは、ルミナリスを安堵させてくれる。その温度は優しい記憶につながった。ついこの間まで父も母もそばにいたのに、もう何年も経ってしまったように感じる。それが永遠に遠のいてしまったことが、胸に迫る。

 抱きしめてくれるリューリクの胸も悲痛に裂かれていることが伝わってきて、ルミナリスはまた泣いた。



◆◇2◇◆



 目が開いて、自分が薄暗い中にいることに気がついた。薄闇の中の石の壁、紗のかけ布。小さな燭台。飛び込んできた光景に、目をしばたたいた。ここがどこなのか、わからなかった。

 ルミナリスは、体を起こす。ルミナリスは柔らかい褥の上に横になっていて、体の上にはリューリクのまとっていた上衣と、掛布が掛けられていた。

 床に落ちそうになった上衣を、慌てて拾い上げる。ぎゅっと握りしめたまま、あたりを見回した。

(わたし……)

 リューリクの腕の中で、泣きわめいたことを思い出した。その恥ずかしさに再び褥に突っ伏して、大きく体を震わせた。

(わたしは、泣いていた……なぜ?)

(そう。お父さま……お母、さま……)

 その悲しみは、また新たに胸を蝕んだ。手にしたリューリクの上衣をぎゅっと掴み、体の中から重く暗くなっていく感情に、必死に耐える。

「失礼いたします」

 かけられた紗の向こうから、声がする。ルミナリスは慌てて体を起こし、懸命に目を擦った。何度もまばたきをして、また泣きかけていたのがばれないように、ことさらにまだ眠いふりをする。

「なぁに?」

「お目覚めでいらっしゃいますか」

 侍女がひとり、入ってきた。彼女の手には小さな燈火があって、部屋が少し明るくなった。ルミナリスは何度も、目をしばたたかせる。

「わたし……どのくらい眠っていたの?」

「一日ほどにございます」

 こともなげに侍女はそう言ったが、ルミナリスは驚愕に声をあげた。

「そんなに!? そんなに長いこと眠っていたの!?」

「お疲れのご様子でございましたから」

 掛布とリューリクの上衣をたたみながら、侍女は優しく微笑んでくれた。その表情はジュナイドを思わせて、ふと、彼のことを思う。

「あの、ジュナイドさまは……?」

「オルトラーナさまがお目覚めになるまで、おやすみいただくようにと。お目覚めならば、お食事の用意もできておりますが」

 食事、との言葉とともに、腹部がぐぅと音を立てた。ルミナリスは慌てて両手で腹を押さえる。神殿を出てから、きちんとした食事などしていない。

(こんなに悲しくても、お腹は減るのね。おかしいこと)

 息をついたルミナリスに、侍女は微笑みかけてくる。

「お顔とお手を洗われて、お食事になさいますように」

 彼女は手を打った。入ってきたのは、白い衣に身を包んだ三人の少女だ。ひとりは鉢を、ひとりは燈火と大きな布を、ひとりは食事の載った盆を捧げ持っていた。

 燈火が増えて視界がはっきりすると、窓のない部屋の内装がはっきりと見えた。外に続く窓がないことに少し息苦しさを感じる。

(でも、これがここに住む者たちの日常なのなら。私も我慢しなくちゃ)

 手伝われて顔と手を洗い、用意のできた食膳に案内される。並べられた錫の食器には蒸した米、香り立つ香草の油和え、豆のスープ、とりどりの野菜の浸しもの。

 乾酪、乳、蜂蜜を混ぜた乳酪の隣には、塩や酢の入った小さな鉢が置かれていた。ルミナリスの日常とは少し違う献立に、何度も目をしばたたかせる。

「いつも、こういうものを食べているの?」

「お気に添いませんでしょうか?」

 侍女が心配そうな顔をする。ルミナリスは、ううんと首を振った。

「そんなことないわ。食べたことのないものもあるから、楽しみ」

 そう言って、整えられた食膳の前に座る。錫の杯が差し出され、冷たい水が注がれる。

「ねぇ、リューリクは?」

「従者殿は、別の居室においでです」

 少女は丁寧に頭を下げた。水に口をつけたルミナリスは、侍女たちの入ってきた紗の向こうを見やった。

「一緒に、ここで食べちゃいけないの?」

「オルトラーナさまには、今しばらくここにてお待ちいただくようにと、シメオン=サルスさまのお達しにございます」

「オルトラーナ……?」

 また、自分の名前だということを忘れていた。しかし、その名が最初にリューリクの口から出たときのような、不思議な違和感はもうない。

(リューリクの、お母さまの名前だって。オルトラーナって。かわいらしい名前)

「オルトラーナさま?」

 侍女が訝しげにルミナリスを見やる。ルミナリスは慌てて首を振って、匙に手を伸ばした。スープに入っていた豆は指の先ほどの大きさがあって、噛むとほろりと口の中で崩れる。驚くほどの甘さがあった。

「おいしいわ……これ」

「それは、よろしゅうございました」

 侍女は、まるでルミナリスが王太姫だということを知っているかのように丁重に接した。ルミナリスは、あくまでもハルシア王国の一貴族の姫だという紹介しかされていないはずなのに。

(もしかして、もうわかってしまっているのかしら……?)

 そんなはずはない。そのあたりに関してはリューリクがうまく立ち回ってくれているはずだ。ルミナリスが実のところハルシア王国の王太姫だということが、知れないように。

(……そう、オトラントの者たちがキフティ朝の末裔だというのなら、わたしたちシャムス朝の者たちが、みんなをここに閉じこめているということになる)

 足を置いた床から、冷たさが伝わってくる。その冷たさはこの地下都市の空気の冷ややかさ、ひいては百年の昔に滅ぼされた王朝の悲しさを伝えてくるような気がした。

(わたしは……ジュナイドさまの仇ということになるのね。ジュナイドさまの父祖を斃したのは、わたしの曾祖父に当たる方だもの)

 だから、ルミナリスは身元を明かすことができない。そう思うと、胸がせつなく疼いた。匙をとめて息をつくと、侍女が心配そうな顔をする。

「何か、不都合でもございましたか」

「いいえ、大丈夫よ」

 そう言って微笑んだ。実際食事はいずれも美味で、文句のつけようもない。

「こういうものは、どこで栽培しているの? 酪があるということは牛もいるのね。どこで飼っているのかしら。森の中?」

「わたしたちは、申しつけられたお給仕をしているだけですので……」

 侍女のひとりは、困ったようにそう言った。しかしもうひとり、明るい栗色の髪をした侍女が声をあげる。

「光の間で作っているのですわ。光の間は表にあって、広い場所で、作物を育てたり牛や馬を飼育しているのです」

 その侍女は、ルミナリスよりもふたつ三つ若いようだ。勢いよくそう言って、もうひとりにたしなめられている。

 新しく聞いた言葉に、ルミナリスは首をかしげた。

「光の間……? そこに、わたしも行ってみたいわ」

 しかし侍女たちは、揃って困ったような顔をした。

「オルトラーナさまには、このお部屋においでいただくようにと、シメオン=サルスさまから仰せつかっておりますので」

「じゃあ、リューリクに会わせてくれる? どこにいるの?」

「そのことに関しましても、シメオン=サルスさまにお伺いを立てなくては」

(シメオン=サルスって、いったい何者なの?)

 ジュナイドではなく、シメオン=サルスの許しがないとルミナリスは、リューリクに会うこともできないのだ。

 最初、彼はジュナイドの従者かと思った。しかしそれにしては親しすぎ、それでもジュナイドに対しては敬語だった。

(乳兄弟とか、右腕……そういったところかしら。たぶん、ジュナイドさまが心安くなさっている人物なのだわ。そして、信頼している)

 匙を動かしながら考えるルミナリスは、もうひとり侍女が入ってきたのを見た。彼女は膝をつき、ルミナリスに声をかけてくる。

「オルトラーナさま。お食事がお済みになれば、ジュナイドさまがお会いなさるとのことでございます」

「ジュナイドさまが?」

 彼の名に、胸がどきりと鳴る。彼の宝石のような真っ赤な瞳の輝き、あの金糸のような髪が風に揺れるところが見られること、優しげな唇が開いて話しかけられること。それを考えて、ルミナリスの胸はもうひとつ打った。



 光の間というところがどんなところなのか。ルミナリスの疑問は、すぐに解消した。

 階段を上がった先を出て、岩場から森の中を一刻ほど。ルミナリスの目の前に広がったのはたくさんの者が働いている緑の小麦の畑で、思わず歓声を上げてしまった。

「ここが、『光の間』と呼ばれている農園です。オトラントの者たちはここで働き、ここで得たものを食して暮らすのです」

 そう言うジュナイドの声は、誇らしげだ。農夫たちはジュナイドの姿を見ると深々と礼を取り、そんな仕草ひとつひとつからも、彼が民たちに慕われているというのがわかった。

「光の差すところだから、『光の間』と呼んでいるのですか?」

「ええ。もっとも今日は、雲が多いですからね。その名はあまりそぐわないかもしれませんが」

 ジュナイドは言って、小さく笑う。働く者たちを、目をすがめて見やる。

「これから忙しくなります。刈り込みをして虫を払って。仔牛や仔馬の世話もしなくてはなりませんし、光の間の者たちは、これからが大変な時期だ」

 楽しげにそう話して、ジュナイドはその赤の目でルミナリスを見た。見すえられて、すると彼がルミナリスに会いたいと言っていると聞いたとき以上に、胸が高鳴った。

「わ、たし……」

 ルミナリスは、声を震わせた。

「わたし……オトラントというのは、地下都市だと聞いていました。だからみんな地下で、陽に当たらずに暮らすのだと」

(だから、『モグラ』ってふたつ名があるのだわ。地下でだけ生きる者たちだからって)

 しかし『モグラ』などというのは、決して本人たちに聞かせる名称ではない。だから言葉を切って黙ったルミナリスに、ジュナイドは言った。

「だから、『モグラ』と呼ばれるのでしょうね。私たちは」

「ジュナイドさま……!」

 心の声が聞こえてしまったのかと思った。思わず目を見開いたルミナリスに、ジュナイドは笑った。口もとに手を当てる仕草は、初めて彼を見たときの印象どおりに優美で、優雅だ。

「確かに、陽の光に弱い体質の者もおります。その者たちは、内働きをして外働きの者を支えるのですよ。かく言う私も、あまり長い間光に当たることはできませんが」

「じゃあ、ジュナイドさまは? もしかして、ここにおられるのも辛いのでは……!」

 少し陽に当たると、すぐに具合が悪くなっていたシビュレのことを思い出した。慌てるルミナリスに、しかしジュナイドは、赤い瞳を細めて言った。

「今日は陽が弱いので、少しなら大丈夫ですよ」

 ジュナイドは目もとをゆるめて、口もとに孤を作る。そんな彼に見つめられる緊張に体を固くするルミナリスの口から、自然に言葉がこぼれ出た。

「わたしの、妹も……」

(そう、シビュレ……)

「わたしの妹も、そうなんです。日差しの強い陽には外に出られなくて、でもそうじゃなくても神殿の外には出られなくて……住んでいるところを離れたことがないんです。この間も、わたしが海辺に行ったことを話してあげたら、喜んで。一度行ってみたいって」

「そうなのですか」

 ジュナイドは、沈んだ口調で言った。

「妹ぎみには、お気の毒なことですね」

 心底、そう思っていることがわかる口調でジュナイドは言った。ちらりと、ルミナリスを窺うように見る。

「失礼ですが、血を同じくなさる姉妹でいらっしゃる?」

「……いいえ。お父さまは同じだけれど、お母さまが違うんです」

 ああ、とジュナイドは小さく声を立てた。胸の前に手を置いて謝罪の仕草を見せる。

「すみません、そのようなことを」

「いいえ! 謝っていただくことではありません!」

 慌ててルミナリスが言うと、ジュナイドはにっこりと微笑んだ。許しを得て安堵したというようだ。

「オルトラーナさまは髪の色も肌の色も、はっきりとしていてお美しいでしょう」

(美しい……?)

 その言葉に、胸が鳴った。ジュナイドは目を細めた笑顔のまま、続ける。

「だから、その妹ぎみが私と同じようだと聞いて、だから生まれが違っておられるのではないのかと思ったのですよ」

(ジュナイドさまに、美しいって言っていただいた)

 ルミナリスは、跳ねる胸を懸命に押さえた。この、美しいという言葉を背負って立っているような青年にそう賛辞されては、落ち着かなく胸が高鳴ってしまう。

「オルトラーナさまの、その金の髪も肌も、瞳の色も。私たちにはない美しさですから。拝見するだけで目が癒される」

 他意はないにしても、美しいなどという言葉が自分に向けられているというだけで、ルミナリスは落ち着かなくなる。

「でも……シメオン=サルス、も……。濃い色の髪をしてますわ」

「そうですね」

 ジュナイドはいささか突っ慳貪にそう言って、また顔を小麦の畑に向ける。

(わたし、何か気に障ることを言っちゃったかしら……?)

 そう思うと不安になった。懸命にジュナイドの顔を窺い、すると目が合う。目が合ったジュナイドは、またにっこりと微笑みかけてきてくれて、ルミナリスはほっと安堵した。

 青い小麦が風に揺れる。働く者たちの話し声、牛の鳴き声、そして馬の声も風に乗って聞こえてきた。

(あっちが、厩なのだわ)

 ルミナリスたちが乗ってきたリューリクの馬も、あそこにいるのだろう。知らない者たちに世話をされて、居心地の悪い思いはしていないだろうか。オトラントの者たちも蹄の根もとまでにしっかりとブラシをかけて、世話をしてくれているだろうか。

(そうだわ、馬……!)

 目を細めて畑を見やっているジュナイドを、そっと窺い見た。彼がルミナリスの胸に浮かんだ考えに思い及ぶわけはなく、彼はなおも曇り空の向こうを見ている。

(シビュレを、連れてこよう)

 ルミナリスの胸には、そんな考えが渦巻いた。いても立ってもいられなくなった。

(あの子は王位には関係ないのだから、リウドハルド宰相もシビュレを手にかけるようなことはしていないと思うけれど)

(でも、シビュレもお父さまの血を継ぐ者。宰相の心次第では……そうなっても、不思議じゃない)

 そう思うと、いても立ってもいられなくなった。ジュナイドを見上げ、声をあげる。

「あの、ジュナイドさま……」

「はい?」

(シビュレを連れてきてもいいか、受け入れてくださるか)

 そう尋ねようと思ったルミナリスの脳裏をよぎったのは、忠実な従者の顔だ。黒い髪、青の瞳。ここにはいないリューリクの目に、じっと見られているような気がする。

(ここを出ると言ったら、きっとリューリクにとめられるわ)

(ジュナイドさまも……一日も眠っていたわたしですもの。きっと、だめって)

(でも、わたし……)

「オルトラーナさま、どうなさいました?」

「……いいえ」

 慌てて首を左右に振って、笑顔を作った。

(こっそり出ていくしかないわ。しかも早急に。陽が落ちてすぐにでも)

 ルミナリスは、ジュナイドには気づかれないようにそっと厩のほうを見やった。気が急く。

(オトラントは、シビュレを受け入れてくれるかしら……いいえ、もしだめだというのなら、わたしが出ていくわ)

 胸の上に手を置いて、ぎゅっと握りしめる。抜ける青空を見上げた。

(あの子の身に、悪いことが起きていませんように……!)

 ここにはないアウェルヌス神の像に、ルミナリスはそう祈りを捧げた。



 光の間に出る道は、昼間のうちに確かめておいた。ここから王都へ向かう道は、はっきりとは覚えていないが、幸い夜になって、雲は晴れた。星の告げる方角を間違わなければ、戻ることは難しくはないだろう。

 小さな炬を手に、誰もいない厩に入り込む。夜中の侵入者に馬たちが少し声をあげたが、彼らを興奮させないようにそっと歩きながら、ルミナリスはささやいた。

「しっ、静かにしてちょうだい?」

 リューリクの馬は、一番奥にいた。ルミナリスもしょっちゅう乗せてもらっている、顔なじみだ。知っている者が来て安心したのか、馬はルミナリスの手に顔を擦りつけてくる。

「お願いね、また遠い道になるけれど」

 厩の壁に頭絡と鞍を捜し、つける。手綱を引いて馬を連れ出し、ひらりと飛び乗った。



 同じ道をもう一度行くという道程は、思いのほかの苦労だった。

 オトラントを出たばかりのときは、まだよかった。しかし半分を行ったくらいから徐々に疲れが感じられるようになった。それに堪えて進んだルミナリスの目にやっと入ってきたのは、高くなった陽に晒されたアウェルヌス神殿だ。

 神殿はなおも、リウドハルド宰相の門を染め抜いた旗を立てた軍にまわりを取り囲まれている。

(宰相の軍は、まだあそこに……。わたしを捜してるの? それとも、シビュレに何か……!)

 シビュレのことを考えると、疲れた体に力が漲る。ルミナリスは強く手綱を引き、馬は前脚を浮かせて嘶きをあげた。その頸を叩いてなだめながら、ルミナリスの目は神殿のほうから離れない。

(シビュレは中にいるのかしら。宰相に……危害を加えられるようなことになっていませんように……)

 ごくりと固唾を呑んだ。馬の手綱を引いて方向を変える。向かうのは裏門からも離れた石壁の前、神殿に入るための隠し扉だ。その存在を知るのは王族の中でも限られた者たちだけで、あたりを見回しても、兵の姿はなかった。

 それでも誰かの目につかないように、木陰に添って足音を忍ばせる。

 ルミナリスが足を踏み入れたのはシビュレの館だ。表の仰々しさとは裏腹に館は静かで、まるで何ごともなかったかのようだ。

 恐る恐る、中に入った。しかし誰の姿もない。鼠一匹もいないかのように静まり返っているのが無気味に、ルミナリスを震えさせた。

(誰もいない……本当に誰もいないの?)

 なおも足音を殺したまま歩廊を行き、シビュレの部屋の扉を開けた。

 目に入ったのは扉の脇に立っている白のお仕着せの侍女、そして部屋の奥の椅子に腰を降ろしているシビュレの姿だった。

「シビュレ……!」

 ルミナリスは、思わず大きく呼びかけた。控えていた侍女が、ルミナリスに驚いて声を立てる。シビュレははっと顔をあげ、空色の瞳と目が合った。

「お姉さま……」

「シビュレ、お前無事だったのね……! リウドハルド宰相は、お前に何もしなかった? 大丈夫なの?」

 言いながら、椅子に駆け寄る。驚きに目を見開くシビュレの両頬に、手を添えた。

「怪我はないようね……。ねぇ、何も危害は加えられなかった?」

「お姉、さま」

「館の中には誰もいないようだけれど、いったいどうなっているの? 宰相の兵が神殿を囲んだままなのも……神殿は、宰相の手に落ちてはいないの?」

 そう言いながら、シビュレを見つめる。見慣れた空色の瞳を覗き込むと、心底安堵できた。

 大きく息をつく。シビュレの白い肌は、早朝の空気のように温度が低かった。肌の白さ、さらりとすべる銀色の髪。

「あ、そう……!」

 その髪の艶やかさに、オトラントの者たちのことを思い起こす。ここに来た目的が鮮やかに脳裏に蘇り、勢い込んでルミナリスはシビュレの肩に手をすべらせた。声を弾ませて言う。

「お前の行く先を見つけたのよ! お前の仲間がいるところ、お前と同じ血を持つ者の、いるところ」

「どういう、こと……?」

「地下都市オトラントよ! あそこは、お伽噺の中にあるばかりの地じゃなかったのよ。わたし、今までそこにいたの!」

 ルミナリスの口調は、興奮していた。自分でも恥ずかしくなるくらいだけれども、しかしルミナリスの口はとまらない。

「オトラントの住人はお前と同じ、キフティ朝の末裔なの。小さいながらも国を作って暮らしている……お前、そこに行かないこと? オトラントの主には、わたしからお話するわ。お前もそこに行けば、一生をこのようなところに閉じこめられたままなどということはないのよ!」

「……だから?」

(――え?)

 シビュレの声は冷ややかだった。彼女の口から洩れたのだとにわかには信じがたい調子に、ルミナリスは大きく目を見開く。

 なおも彼女は、冷たい口調で続ける。その表情も何もかも、今までルミナリスの知っていた妹のものとは、まったく違った。

(な、に……?)

「滅びた王朝の死に損ないたちが、モグラのように地下に潜って生き長らえているといって。だから、何なのかしら。お姉さまは、わたくしにそんなところに行けとおっしゃるの? この世に存在しないも同様の、幽霊のような民たちの仲間になれと?」

「シビュレ……?」

 突然、石でもぶつけられたようだ。ルミナリスはよろりと、踏鞴を踏んだ。

(これは、シビュレではないの……?)

 本気でそう考えた。彼女は、肩に添えたルミナリスの手を払う。その仕草は乱暴で、ルミナリスは思わぬシビュレの行動にただ唖然とするばかりだ。

「何を言っているの? お前、いったい……?」

 シビュレは目を細めた。その瞳の色はぞっとするほど冷ややかで、その口調よりも態度よりも、ルミナリスを震えさせた。

 勢いよくシビュレは立ち上がった。ルミナリスの体を押し退け、その薄桃色の唇を大きく開く。

「誰か! 誰か来てちょうだい! ルミナリス王女がここにいるわ!」

 いったいどこに潜んでいたのか。シビュレの声を待っていたかのように、複数の足音が近づいてきた。

「な、に……?」

 ルミナリスが入ってきた扉の前に姿を現わしたのは、三人の兵士たちだ。彼らはルミナリスの腕を引き掴む。たちまち兵士たちに取り押さえられてしまった。

「離して……!」

 懸命に彼らを振り払おうとした。しかし屈強な兵士たちの腕に逆らえるわけがない。押さえつけらえた格好のまま、ルミナリスは懸命に顔をあげた。

「なぜ……? シビュレ、どういうこと……」

 目に映るのは、シビュレの薄い微笑み。小気味いいとでもいうように歪む、小さな唇だ。

(あの子が、あんな笑い方をするなんて……?)

 ルミナリスの知っているのは、少し寂しそうな笑みを浮かべるシビュレ、首をかしげて覗き込んでくるまなざし。美しい絵の書巻を嬉しげに広げる表情、神殿から出て海や川岸を歩いてみたいとせつなくつぶやく顔――。

(いったい、あれは誰なの? シビュレ――、違う。シビュレは、あんな……)

「お姉さま、おとなしくしておいてくださいませね。お姉さまの身はわたくしの切り札。どこかに行ってしまわれでもすれば困るのですもの。せっかく、つかまえたのに」

「シビュレ……!」

 兵士たちは、無言でルミナリスを引きずる。抵抗もできないまま、シビュレの姿が視界から消える。兵士たちに乱暴な足取りで廊下を行き、ルミナリスは転がるように階段を降りた。

「痛、……っ、!」

 足は痣だらけになっているだろう。しかしルミナリスの悲鳴にも兵士たちは表情を変えず、抱えられるようにして放り込まれたのは地下の奥の食料庫だ。

「こんな、ところ……!」

 精いっぱい抵抗しても、兵士たちの腕のほうが強かった。冷たい石の床の上に放り出されたルミナリスの目の前、乱暴に扉は閉じる。

「いやぁ、出してっ!」

 しかし、ルミナリスの声は届かない。がしゃん、と大きな音がして錠が下りたのがわかった。

 ルミナリスは懸命に体を起こし、扉を叩く。しかし湿気を通さないようにと作られた金属の扉は、がたがたと音を立てるだけだ。兵士たちの足音が遠ざかる。

「待って! これはいったいどういうことなの? 宰相の命令なの!?」

 ルミナリスの声は、ただ空しく響くばかりだ。

「待って、シビュレに会わせて! ねぇ!」

 しかし返事はない。足音は消えてしまった。オトラントの地下の部屋よりも暗い、陽の一筋も差さない真っ暗な中、ルミナリスは力を失って石の床に座り込んだ。

(シビュレ……、いったいなぜ……!)

 冷たく固い、石の床。それはルミナリスの体の芯までを一瞬にして冷やし、ルミナリスは大きく身震いした。

(わたしは……シビュレを、まったく理解していなかったということ?)

 先ほどの、シビュレの目。引き立てられていくルミナリスの姿を、ただ冷ややかに見つめていた空色の目。オトラントのことを話しても、あのような物言いで問題にもしなかった――決してルミナリスの知っているシビュレではない。

(シビュレは、わたしのまったく知らない一面を持っていた――?)

 それを目の当たりにしながらも、未だに信じられない。あれは何かの見間違いではなかったのか、聞き違いではなかったのか。

 それでいて以前、やはりシビュレが自分の知っている彼女ではないようだったことがあった。彼女の表情、声音が遠く感じられたこと。ルミナリスの知らないシビュレのようだったこと。あのときを思い出すと、確かに表情は重なるのだ。

 彼女の声が、再び耳の中に響く。

『滅びた王朝の死に損ないたち――』

『幽霊のような民たち――』

 あれは、幻聴ではなかった。シビュレは確かにそう言った。それをルミナリスは、未だに信じられないでいる。

(なぜ? どうして? いったい、シビュレは……)

 同じ問いが、頭の中をぐるぐると回る。半日の道を往復した体は疲れ切って、起こすこともできなくなった。しかしルミナリスが冷たい床に座り込んでしまっているのは、身体的な疲労ばかりが原因ではない。

(シビュレ、シビュレ……!)

 声にならない呼びかけは、頭の中で空しく響く。



 どのくらい時間が経ったのか。真っ暗のこの中では一刻も経ってないようにも感じるし、一日二日は経ってしまったようにも感じる。

 時間感覚をも失ったルミナリスの耳朶を打ったのは、剣の音と怒声だった。

(な、に……?)

 ルミナリスは、はっと顔をあげた。

(何か……また、兵士たちが来たの?)

 ぞくりと震えた。このようなところに閉じこめられて、次はいったい何をされるのか。見当もつかず、自分の身に何が起こるのかわからない不安はとめどなく、ルミナリスの指先にまで染み込んでいく。

(また、どこかに……? それとも……)

 体を起こし、扉を探す。しかしこの暗い中では、どちらに扉があるのかもわからない。ルミナリスはやみくもにあたりを叩いた。

(兵士? いえ……リウドハルド宰相、かも……)

 その名が脳裏をよぎり、背筋が大きくわなないた。すべての元凶、反逆の首領。とらわれて殺されるにしても、一矢報いずにはいられない。

 ルミナリスは壁を叩くのをやめ、懸命にあたりを探る。見つかったのは何か細い棒状のもので、手の中でも簡単に折れそうな頼りないものだった。

(これでいい)

 棒を握りしめて、ルミナリスは胸の奥で呻いた。

(これで顔を打ってやるのでも、充分だわ。何もせずに、ただ殺されるよりは)

 体中に力を込める。棒を構えたまま、聞こえる音に神経を集中させる。

 剣の音と怒声は、ややあってやんだ。慌ただしく階段を下りてくる足音がある。ルミナリスはますます身を固くした。

(あ、……?)

 足早の足音に、聞き覚えがあることに気がついた。乱暴に錠を開ける音がする。

 いきなり扉は開き、顔をあげた先にあった姿に、ルミナリスは声をあげた。

「リューリク!」

 どうして、彼が。視線をあげたルミナリスの視界にいたのはリューリクで、ルミナリスは唖然と彼を見た。一瞬、幻覚かと考えた。

「リューリク、どうして、お前がここに……?」

「ルミナリスさま、お怪我は!?」

「大丈夫、わたしは大丈夫だけれど……」

 リューリクの頬には、血のあとがある。彼は手にした剣を大きく振るい、そこからは血飛沫が上がった。

 彼は足早に中に入ってくる。いつにない強い力と乱暴な仕草で、ぐいと腕を引き上げられた。

「お早くお出になってください。新たな兵がやってまいります!」

 そう言いながら、リューリクは剣を収める。ルミナリスは小部屋から飛び出した。リューリクの胸に抱きつく。ぷんと血の匂いがあがった。

「どうしたの、その怪我……鍵は、どこから」

「ルミナリスさまがお気になされることではございません」

 そう言って、彼はルミナリスを抱き上げる。背と両足の下に手を回されて抱き上げられる格好に、とっさに彼の首もとにしがみつく。血の匂いはますます濃く、ルミナリスはきゅっと唇を噛んだ。

(まさか、リューリクは……)

「何があっても、お手を離されませんように!」

 言われて、慌てて腕に力を込める。リューリクの足は、力強く階段を踏んだ。

 あがったところには、倒れた兵士がふたりいる。彼らが石床にできた血だまりの中に顔を伏せているのを、ルミナリスは大きく目を見開いて見つめた。

(これは……リューリク、が……!)

 彼の首もとに顔を押しつけ、大きく何度も息をついた。理解はしていても、今まで実感として湧いてこなかったこと――このたびの変事で血を流し命を落とした者がたくさんいるのだという事実を、彼らの血の赤さが実感させた。

(お父さま、お母さま――シビュレ!)

 とっさに胸に浮かんだシビュレの名に、ルミナリスは目を見開く。小さく首を振って、またリューリクの首もとに抱きついた。

 そんなルミナリスの心中を読み取っているかのように、リューリクは何も言わずにただ先を駆ける。


 リューリクは、ルミナリスを抱き上げているとは思えない身軽さで神殿の森を駆け抜けた。そのまま裏門を飛び出すと、鞍をつけてつないである馬にルミナリスを乗せた。

 ルミナリスの後ろに、リューリクも飛び乗る。彼が強く、手綱を引いた。

 馬は、素晴らしい早さで駆けた。追ってくる者の姿はたちまち遠くなり、馬の蹄の音だけがルミナリスの耳を撲つ。

 しがみついたままのリューリクに、ルミナリスは叫んだ。

「ねぇ、リューリク……、シビュレが……、シビュレが、あ、んな……!」

 ルミナリスの叫びに、リューリクはうなずいた。

「シビュレさまは、リウドハルド宰相と手を組んでおられます」

 冷静な声で、リューリクは言った。その言葉に、ルミナリスは瞠目する。

(まさか、リューリクは以前から知ってて……?)

 そんなわけはない。ルミナリスは大きく首を振って、手綱を握るリューリクに問いかけた。

「お父さまとお母さまの死も……シビュレが関係している?」

「そこまでは、私には」

 しかしリューリクは、小さく首を左右に振った。彼も新たに知ったことなのだと、ルミナリスの胸中に安堵が走る。

「ただ、シビュレさまはリウドハルド宰相にルミナリスさまの御身を渡す約束をなされ、代わりにリウドハルド宰相はシビュレさまに自由を、と」

(……ああ)

 ルミナリスは、大きく息を吐いた。

(ずっと、シビュレに自由をあげたいと思っていた。神殿の館から逃れることができるようにと、思っていた)

(でもわたしは、結局のところシビュレの心には少しも思い至っていなかったのだわ。シビュレがどれほど自由を渇望していたのか――、その強さは、わたしの想像の及ぶところではなかった)

(こんな――リウドハルド宰相と手を組んで、企みを持つほどに……)

 リューリクの腕の中で、大きく息をついた。

(わかっていなかった。シビュレが何を思っていたのか。何を考えてきたのか)

 その思いに、強く頭を殴られたように感じる。首を大きく揺らしてそれを振り払い、ルミナリスは、リューリクを振り仰いだ。地面を駆ける馬の足音にかき消されないように、大きな声で尋ねる。

「誰からそのことを……、シビュレのことを、聞いたの?」

「見張りの兵から聞き出しました」

 そして、その兵はリューリクの剣にかかったのだ。リューリクの振るった、剣に。

 ぞくりと震えたルミナリスは、リューリクの胸もとに額を押しつける。

 彼の肩越し、神殿は遠くなっていく。その方向に、首をかしげた。

(あら……)

「どこに、行くの?」

 リューリクは迷いなく馬を駆っていて、だからすべてを彼に預けたつもりでいた。しかしこの方向は、クマエの森とは真反対だ。逆の方向に向かって、リューリクがどこに行くつもりなのかまったく見当がつかない。

「ねぇ、リューリク! どこに行くの、こっちじゃないわ……」

 彼は、胸もとに抱えたルミナリスに目を落とした。じっと見つめられる。彼の青の瞳は見たことのない色を湛えていて、その色にルミナリスは胸を突かれた。

「どこに、まいりましょうか」

「……え?」

(どういう、意味……?)

 ルミナリスの戸惑いを前に、しかしリューリクはなおも馬を先に走らせる。

「ご一緒に国境を越えましょうか。どこか、誰も知らないところに」

「リューリク!」

 思わず彼の腕に手を置いた。見上げる彼は、薄く笑みを作っている。今まで見たことのない種類の笑みだ。彼がそのように笑ったことは、今までの記憶にない。自嘲するような、それでいてルミナリスに否やを言わせないような。

「国境を、越えて……ですって?」

「隣国の、サビニ国に? それともずっと遠く、西方の国へ?」

「サビニ……? なにを、言って……」

(なに? リューリクは、何を言っているの?)

 固唾を呑んだ。彼の言葉を脳裏で反芻する。しかしその意図は、ルミナリスには理解できない。

「どういう、こと……?」

 リューリクは、ルミナリスの問いには答えなかった。ただ黙って馬を駆る。ルミナリスは声をあげた。

「だめよ、オトラントに戻るわ!」

 声をあげたルミナリスに、リューリクは驚いた顔をした。

「わたし、ジュナイドさまに黙って出てきたわ。突然現われたわたしたちを、快く受け入れてくださった方なのに……何も言わずに去ってしまうことなど、できないわ……!」

 ルミナリスは叫んだ。リューリクの腕を強く掴み、引き寄せる。

 青の瞳は見開かれて、ルミナリスを映していた。すぐに彼は、目を細める。

「……え?」

 リューリクの唇が、動いた。彼は何ごとかを、つぶやいた。

「な、に……?」

 しかしその声はルミナリスには聞こえずに、聞き返す声も馬の足音にかき消される。

「……いいえ」

 そうつぶやいて、リューリクは手綱を引いた。馬は嘶きをあげ、行く手を変える。足は速度を増した。

「リューリク! どこに行くの!?」

 彼の腕を掴んだまま、彼の目指す行く手に目をやった。見上げた先の陽のある方向、一度は通ったこの道。彼がクマエの森を目指していることが、わかった。

「……オトラント、へ?」

 リューリクは、何も言わずにうなずいた。それ以上彼が何かを言わないか、先ほど聞こえなかった言葉を言ってくれないか。

 待ったけれど、彼が言いかけた言葉を口にすることはなかった。休憩を取る道すがらも、まるで自分の言ったことなど忘れてしまったかのようだった。



 ルミナリスが再びオトラントに降り立ったとき、出迎えたのはシメオン=サルスだった。黒のローブをまとった彼は、従者に案内されてきたルミナリスを、驚いたように見ていた。

「お戻りになったのですね」

「……ええ」

 いたたまれずに、ルミナリスは小さな声で答えた。

「勝手に飛び出して、ごめんなさい」

「そのようなことはよろしいのですよ。遠路、お疲れになったでしょう」

 彼の口調は労るものなのに、ついますます身を小さくしてしまうのはなぜなのだろうか。ルミナリスは、上目遣いにシメオン=サルスを見た。彼はルミナリスの後ろのリューリクに目をやり、しかしすぐに逸らせてしまう。

「何よりもまずは、お疲れを取られますように」

「いいえ……!」

 ルミナリスは大きな声でそう言って、シメオン=サルスは驚いたような表情をした。

「大丈夫よ、わたしは。だから……」

 彼に足を向ける。シメオン=サルスは首をかしげて、ルミナリスの言葉の続きを待っている。

「ジュナイドさまに会わせて? お詫びを申し上げなくちゃ」

「いけません」

「どうして?」

 シメオン=サルスは、ルミナリスに大きく一歩、近づいた。驚いた拍子にルミナリスは後ずさりをし、そのとたんに膝が崩れる。その場にくずおれそうになって、伸びてきたのはシメオン=サルスの腕だ。

「おっと、危ない」

 彼の腕は、リューリクのそれと同じくらい強かった。黒のローブから伸びた腕は、ルミナリスを抱きとめる。

 強い腕に抱きしめられた。彼の薄い唇が近づいてくる。大きく息を呑んだルミナリスの耳もと、シメオン=サルスはつぶやいた。

「どうして逃げなかったんです」

「どうして、って……?」

(どうしてって、どういうこと……?)

 シメオン=サルスの、水色の瞳がじっとルミナリスを見つめる。

「お逃げになったのではないんですか。逃げて、このオトラントの存在と引き替えに、おのが命を長らえようと」

「な、に……それ?」

「私たちを、売ろうとなさったのではないのですか」

「……そ、んな……」

 間近にある水色の目を、まじまじと見た。シメオン=サルスの言葉にルミナリスは驚いたが、それ以上にシメオン=サルスは驚き、訝しんでいるようだ。

 ルミナリスは、大きく首を横に振った。

「逃げるつもりなんて、ないわ。オトラントを……ジュナイドさまたちを。そんな、こと」

 唖然とするルミナリスに注がれるシメオン=サルスの水色の視線は、胸のうちを見抜こうとでもいうようだ。そのまなざしの色に、大きく身震いする。

「そうですか」

 言って彼は、ルミナリスを抱き起こしてくれた。彼はルミナリスの背後に目をやり、近づいてきたのはリューリクだ。

「姫殿下は、お疲れだ。お連れして差し上げてくれ」

「ああ」

 低い声で、リューリクは言った。奪うように、シメオン=サルスの腕からルミナリスを抱き寄せる。

(姫殿下? 今、わたしのこと……『殿下』っ、て?)

 しかし、それ以上はうまく考えられない。リューリクの腕に身を移したルミナリスは、大きく息をついた。慣れた彼の腕の中で、がくりと膝が折れる。立とうとしても、まったく足に力がこもらない。

「わた、し……」

 どうして、自分の体は言うことを聞かないのか。尋ねようとして顔をあげる。リューリクの青の瞳が、心配そうにルミナリスを覗き込んでいる。

「この数日の間に、三度も同じ道を行かれたのですから。お疲れになっていて当然です」

(そうね……でも)

 体に力が入らないのは、それだけではない。身体的な疲労はもちろんだが、しかしその疲れを実感するとともに、心の奥が痺れるようにわなないていることに気がついた。

 ルミナリスの耳もとに、リューリクがささやきかけてくる。

「お疲れなのです。ルミナリスさまは。どうぞ、おやすみください」

「……ええ、ええ」

 ルミナリスはうなずいた。リューリクの腕の中で目を閉じると、頭の奥からどっと闇が押し寄せてくるように感じた。

(疲れ、た……)

 ルミナリスは何度も息をついた。自分は疲れている、半日もかかる道を三度も駆けて、しかもひとりでオトラントを出てからは、ろくに眠りもしていないのだから。

(疲れただけ……わたしは、疲れて)

 手が、自分の胸に伸びた。きりきりと痛むところは左胸のような、それでいてそこだけではない、体中のどこもかしこ、外側も内側もありとあらゆるところが痛むような気がする。

(どうして、こんなに痛いのかしら……)

 その理由を、今は考えたくなかった。ただ、リューリクの腕に全身を委ねていたかった。



◆◇3◇◆



 ルミナリスがジュナイドに会ったのは、オトラントに戻ってきてから七日が経ってからのことだった。

 その間も何度か会いに来てくれたというのは、付き添っていてくれた侍女から聞いた。しかしルミナリスはずっと枕があがらず、オトラントの地下都市の一室、壁に燭台の灯の揺れる部屋で侍女の世話を受けながら過ごした。

「オルトラーナさま、ジュナイドさまがおいでです」

「え、……ジュナイドさま、が?」

 その日、寝台の上に腰を降ろしていたルミナリスは、自分の格好を見下ろした。着替えたばかりの衣服の胸もとに目を落とし、慌てて整える。

 侍女の先導で、ジュナイドはすぐに現われた。立ち上がろうとするルミナリスを、彼は制する。

「もう起きても、大丈夫なのですか」

「はい、もう大丈夫です! 何回もお訪ねくださったと伺いました、ありがとうございます!」

 勢いよく頭を下げたルミナリスに、ジュナイドは微笑んだ。

「お礼を言われるようなことではありませんよ」

 穏やかな笑みのまま彼はルミナリスの横に腰を降ろし、じっと顔を覗き込んでくる。

 彼の赤い瞳に見つめられて、ルミナリスはひるむ。その目が、悲しそうにすがめられた。

「おかわいそうに。ずいぶんと痩せられて」

「もう平気なんです。本当に」

「それはよかった」

(……あ)

 彼の手が、ルミナリスの髪を撫でる。まるで小さな子供にするようにされて、驚いた。金の髪を何度も梳くようにされる。ルミナリスは、大きく身を震わせた。彼の手が蘇らせた記憶に、身震いした。

(お父さまやお母さまに、こうされたときみたいな……)

(シビュレも……こうするのが好きだった。わたしの髪に触れて……そのまま、眠ってしまって)

 ルミナリスの脳裏を貫くのは、シビュレと手を取り合って眠った夜だ。あの夜もシビュレは、ルミナリスの髪に触れたがった。指で梳いては、絡めとってまた梳いた。

「あ、……」

 突然、視界が歪んだ。慌ててジュナイドの手から遠のく。しかし潤んでぼやけた視界はそのままで、ルミナリスは何度もまばたきをする。

「だめです、ジュナイドさま。わたし……」

 大きく首を、左右に振った。そうすると目頭から一粒落ちるものがあって、ルミナリスは大きく息を呑んだ。

「そんなこと、していただいたら。わたし……」

(思い出してしまう。シビュレのこと……)

(シビュ、レ……!)

「悲しいのでしょう?」

 ジュナイドの声は、混乱するルミナリスの脳裏に、まるで子守歌のように優しく響いた。それは体の奥深くに染み込んでいくようだ。体の深い部分、埋まり込んでいる悲しみの固まりに直接触れるようだ。

「あ、……」

 彼がルミナリスの髪を撫でたのは、この胸の中に詰まっているものを、こうやって溶かすためとでもいうのだろうか。溶かして、涙で流してしまうために。

「気持ちを我慢するものではありませんよ。悲しいのなら、その気持ちに身を委ねなさい」

 涙に霞む視界の中、ジュナイドを見つめた。彼の笑みは、どこかせつなさを孕んでいるように思う。

(なんだか……ジュナイドさまにも、そんな経験がおありのような)

 彼を見上げる。赤い瞳に見つめられている。ジュナイドは、また優しく手をすべらせてきて、彼の手がいざなうルミナリスの涙は、頬を流れた。

「あ……、ぁ……」

 あふれる涙にむせんだ。懸命に手で拭っても、涙はあとからあとからあふれてくる。両手はびしょびしょになり、衣服の胸もとも濡れた。それでもとめどなく涙は流れて、とめられない。

 以前も、誰かにこうしてもらった。その腕の中で泣きじゃくった記憶に揺れながら、ルミナリスはまた泣いた。その記憶は、涙の膜の向こうに曇ってよく見えない。

 その間も、ジュナイドはずっと髪を撫でてくれていた。温かさが伝わってくる。泣き濡れながらも、その体温が胸に染み込んでくる。

(お優しい手……、ずっと、こうされていたい……)

 やがて涙が治まって、しゃくり上げるだけになっても、彼の手は子供をあやすようにルミナリスの金の髪に触れていた。

 ルミナリスは濡れたまつげをしばたたいて、ジュナイドを見つめる。滲む視界に、淡い金の髪と真紅の瞳が映る。その色彩の鮮やかさに、目をすがめた。

 ジュナイドの手は、髪から離れた。指が、ルミナリスの口もとにそっと触れてくる。

「……あ」

 はっと身を引いたルミナリスの唇に一瞬だけ彼の指が掠め、それにルミナリスはびくりと背中を震わせた。

「そんな無防備ではいけませんよ、私の前で」

 苦笑して、ジュナイドは言った。彼の瞳が近くなる。磨かれた紅玉、夕陽のひとしずく。その目に自分が映っているのが、見えた。

「ジュナイドさま……?」

「ルミナリスさま」

 彼はそう言った。ゆっくりと、罪を告白するように口を開く。

「私は、シャムス王朝の姫であるルミナリス王女を、リウドハルド宰相に引き渡そうとしていたのですから」

「……え?」

 がん、と頭を殴られたような気がした。彼の言葉は、言葉としては頭に入ってきた。しかしその意味を理解するのに、時間がかかった。

「な、にを……?」

(利用? ジュナイドさまが? わたしを? いったいどういうこと?)

 そこで、はっと気がついたことがあった。ルミナリスは低く、息を呑む。

(ここではわたしは、『オルトラーナ』だったはず)

(わたしが、ルミナリスだって……もうわかっちゃってる?)

 それはどういう意味なのか、混乱するルミナリスは、ぎゅっと胸に手を置いた。

(リューリクが言ったのかしら?)

(いいえ、わたしを『オルトラーナ』と偽ったのはリューリクだわ。そのリューリクが、真実を告げるはずがない)

 ごくり、とルミナリスの咽喉が小さく鳴った。ジュナイドは、じっとルミナリスを見ている。

(ということは……わかっていたということ? ジュナイドさまたちは……わたしたちの本当の姿をご存じだったということ?)

 シメオン=サルスの、水色の瞳を思い出した。どこか、何か意味を孕んだようにルミナリスたちを見ていた彼は、ルミナリスがなぜ逃げなかったのかと問うてきた。ルミナリスが、オトラントの存在と引き替えに自分の身の安全を図ったのではないかということも言った。

 そんなルミナリスの混乱に答えを与えるように、ジュナイドは言った。何もかもを見透かしたような口調だ。

「あなたはオルトラーナ・キラコス嬢などではない、シャムス王朝の王太姫、ルミナリス・カリスト・シャハリート殿下。まさにその方だということは、あなたが教えてくれたのですよ」

「え、……」

 どういうことかと戸惑うルミナリスに、ジュナイドは微笑んだ。

「あなたは、おっしゃったではありませんか。妹がいらっしゃる、妹ぎみは日差しの強い陽には外に出られない。そうでなくても神殿の外には出られない方なのだと」

「あ、……っ!」

 光の間での話を思い出す。自分の口の迂闊さに、思わず口もとに手を押し当てた。

 ジュナイドは、そんなルミナリスにまた小さく笑った。

「ハルシア王国でそのような立場にあるとすれば、キフティ朝の末裔以外にありませんからね。あなた方がおいでになったときから、よもやとは思っていましたが」

「そ、れは……」

 ジュナイドの表情は、うろたえるルミナリスを微笑ましいとでもいうような柔らかい笑みだ。そんな優しい微笑のまま、彼は続けた。

「私たちはずっと、表の世界で生きていく場所がほしいと思っていました。それはオトラントの民の悲願だ。シャムス朝が興って、このような場所に隠れ住むことになってから、ずっと。そんなところに、あなたは飛び込んできたのです」

 悲哀を孕んだまなざしは、見ているルミナリスのほうが辛くなる。ルミナリスは小さく背を震わせた。

「なぜ、シャムス王朝の王太姫がと思いましたよ。そして、リウドハルド宰相の反乱のことを知った」

「……あ」

 戸惑うルミナリスを見やりながら、ジュナイドは続ける。

「あなたを捜しているリウドハルド宰相に引き渡し、その代わりに私たちの願いを聞き届けさせる。いなくなったあなたを追いかけて捜し出して、私たちはそうするつもりでした」

「それ、は……」

 ルミナリスは、胸の前で両手を握りしめた。

(わたしを、に……。ジュナイドさまが、そんなことをお考えだったなんて……)

 リウドハルド宰相に引き渡されて、そして自分がどうなるか。それは想像力を働かせるまでもなく明白で、ルミナリスの体はまた震える。

(シビュレ、も……同じことを考えて)

 脳裏によぎったのは、シビュレのことだ。彼女の閉じこめられている、神殿の館。オトラントの民の住まう、クマエの森の奥深いこの場所。シビュレにとって、ジュナイドたちにとって、それぞれの場所は同じ『牢』なのだ。

(閉じこめられて……自由は、許されずに)

 そう思うと、ジュナイドの取ろうとした行動の理由は理解できる。シビュレはまさに、その望みを実行しようとしたのだから。

(私が同じ立場なら。わたしも神殿に、この森深い場所に隠れるように住まう運命にあったのなら……)

(同じことを考えていたかもしれない。いいえ、恐らく、考えていた)

 ルミナリスは、顔をあげた。まっすぐにジュナイドを見て、言う。

「どうして、わたしにそのことをお話しになるのですか? 今からでも……遅くないのではないですか。わたしを、リウドハルド宰相の前に連れ出せばいい」

 固唾を呑んでそう言うルミナリスに、ジュナイドはどこか、自虐的な笑顔を向けた。

「あなたが帰ってこられなければ、どんな手を使ってもそうするつもりでした」

「え……」

 その笑顔はにわかに暗い色を孕んで、ルミナリスは少し、後ずさりをした。続くジュナイドの口調にも、同じ色が広がっている。

「あなたがいなくなったとわかった時点で、追っ手をかける用意はありました。しかしあなたは必ず戻ってくると、あなたの従者が」

「リューリクが……?」

 大きく目を見開くルミナリスに、ジュナイドはうなずいた。

「私もシメオン=サルスも、あなたが帰ってくるなどとはまったく考えていなかった。すぐに追っ手をかけようとしたのですが、しかしあなたの従者が言うのです。あなたは必ず帰ってくる、と」

(リューリクが、そんなことを?)

「あの者の断言するさまに、私は驚きました」

 淡々と、ジュナイドは言った。

「そして、理解できなかった。あなたが帰ってくるわけはないと、そうとしか思えなかったから。しかしあの者が、あまりにはっきりとそう言いましたので。あなたによほどの信頼があると見える」

 ジュナイドは息をつく。ルミナリスを見やり、話を続ける。

「あなたの従者の信頼を、私は試してみようと思ったのですよ。あなたは帰ってこない、くるわけがない。その現実を前に彼がどうするのか……見てみたいと思ったのです」

 金の髪がさらりと揺れる。またじっと見つめられて、たじろいだ。

「けれど、あなたは帰ってきました。あなたもあなたの従者もを信じていなかった、私のもとにね」

 ジュナイドは、なおも赤のまなざしを注ぐ。

「そんなあなたを前に……計画を遂行する気は、失せました」

「そ、んな……」

 苦笑混じりの吐息を前に、ルミナリスはまばたきをした。そんなルミナリスを見て、ジュナイドは少し声を立てて笑う。

 そんな笑い声は優しくて、それだけを聞いていれば彼がそんなことを考えていたなんて、信じられないと思うのに。

「シメオン=サルスには、ずいぶんといろいろ言われましたけれどね。あなたの誠心と、あなたの従者があなたを信頼する様子を前に……悪巧みはできないと思ったのです」

 ジュナイドの言葉は、どこかせつなく響く。彼が本心を語っているのだということが伝わってきて、ルミナリスは大きく息をついた。

(こんな言い方をなさっているけれど、結局ジュナイドさまはまっすぐなお方なのだわ。今からだってわたしを宰相に引き渡すことはできるのに、そうはなさらないなんて)

 ルミナリスは視線を俯けて、膝の上で手を握った。ぱっと、ジュナイドを振り仰ぐ。

「ジュナイドさまのお心はよくわかりました。聞かせていただいて、ありがとうございます」

「お礼には及びませんよ。私にはその価値はない」

 言って、ジュナイドはまた笑みを作った。きらめく赤の瞳を細める、優しい微笑を向けてくる。

「あ、の……」

 その表情につられるように、ルミナリスの口は動いた。ルミナリスの言葉に、ジュナイドは耳をそばだてる。

「妹は、お母さまがキフティ朝の方で。アウェルヌス神殿にいるんです。あの子は、わたしをリウドハルド宰相に引き渡そうとしていて……」

(今まで私の知っていたあの子とは、別人みたいだった。あんな……表情をするなんて)

 ルミナリスは、大きく息をついた。自然に目線は、膝の上に落ちてしまう。

「リューリクが助けてくれて、逃れられましたけれど」

「なるほど、私たちは妹ぎみに先を越されかけたわけですね」

 顔をあげると、ジュナイドは苦笑していた。肩をすくめて笑う彼が、シビュレと同じ計画を持っていたとは、とても思えない。

「いつから、あの子はあんなことを考えていたのか……」

 呻くように、ルミナリスはつぶやいた。

(ジュナイドさまも、同じことをしようとしていた。けれどジュナイドさまのお心は、聞けばわかった。納得もできた)

「どうして、急に変わってしまったのか。……いいえ、私があの子の本当の姿を知らなかっただけなのかもしれません。知らなかっただけで……本当の、あの子は。あの子の考えは」

(……シビュレ、も。訊けばわかるかもしれない。あの子の考えていること、あの子の、本当に思っていること)

 その考えが脳裏を貫いて、突然ルミナリスは立ち上がる。驚くジュナイドに、ルミナリスは自分の内側からの衝動に押されるままに、口を開いた。

「わたし、もう一度シビュレに会いたい。会って、シビュレの考えていることを訊いてみたい……」

「……そう、ですか」

 ジュナイドは驚いたように何度かまばたきをして、つぶやくように言った。

「お心のままに、なさればいい」

 彼はそれ以上何も言わず、ルミナリスは勢いよく頭を下げた。

「失礼します、ジュナイドさま!」

 そして、部屋から駆け出した。



 侍女に案内されて向かった部屋に、リューリクはいた。彼はシメオン=サルスとともにいて、ふたりは卓を挟んでいる。

 卓の上に大きな皮紙が広げられていたが、そこに描かれているものが何なのか、見届ける余裕はルミナリスにはなかった。

 ルミナリスはリューリクに駆け寄り、彼の腕に手を置いて、叫ぶ。

「リューリク! わたし、シビュレのところに行きたいの……!」

「は……」

 驚く声をあげたのは、シメオン=サルスだ。彼の目は突然飛び込んできたルミナリスを映して、大きく見開かれている。

 一方のリューリクは、ルミナリスに向き直って礼を取った。

「シビュレのところに行って、あの子の話を訊きたいの。どうして、あんなことを……した、のか」

 大きく息をついて、ルミナリスは続けた。

「何を思ってあのようなことをしたのか、いつからあんなことを考えていたのか……訊いて、みたい」

 リューリクは、青の瞳を見開いてルミナリスを見ていた。

「また、とらえられることになっても?」

 シメオン=サルスがそう言った。ルミナリスはひるむ。そうなったときの想像に身を震わせて、しかしゆっくりとうなずいた。

「……構わないわ」

 固唾を呑んで、ルミナリスはうなずく。

「シビュレに、会いたいの。あの子の心が、聞きたいの」

 じっとリューリクを見ると、彼は胸の前に手を置いたまま、つぶやくように言った。

「お供いたします」

「リューリク……」

 その言葉に、安堵する。彼がそう言ったことに、その言葉を待っていた自分の心に気がついた。

 彼は深く頭を下げて、その向こう、驚いたままこちらを見ているシメオン=サルスと目が合った。

「また、勇ましくおひとりで向かわれるのかと思いましたが」

「……う」

 そう言われると、いたたまれない。ルミナリスは肩をすくめて、口もとをきゅっと引きしめた。

「ごめんなさい、あのときは」

 視線がかち合うと、シメオン=サルスは唇の端を持ち上げて微笑んだ。彼の主人の笑顔よりも何倍も意図の読めない不可解な表情だったが、そこにあるのが楽しげな色だということはわかる。

 シメオン=サルスは、それ以上何も言わなかった。振り返ったリューリクと目が合ってもなおも何も言わず、また卓の上の皮紙に目を落としただけだった。



 前回は、勢いに駆られるままにひとりで馬を操った道。今のルミナリスはリューリクとともに、だく足で馬を進めている。

「ねぇ、リューリク」

 声をかけると、リューリクはルミナリスの方を向いた。

「ジュナイドさまが、わたしをリウドハルド宰相に引き渡そうとしていたこと。リューリクは知っていた?」

 隣に走る馬に乗ったリューリクに、そう尋ねる。ルミナリスの驚いたことに、彼はうなずいたのだ。

「いつ聞いたの?」

「シビュレさまのもとに向かわれたルミナリスさまを、追いかける直前です」

「……だから?」

 手綱を握り直して、ルミナリスは問う。

「だから、逃げようって言ったの?」

(だから、国境を越えようなんて? 隣の国に、行こうだなんて)

 そのルミナリスの問いに、リューリクは何も言わなかった。まっすぐ前を向いて馬を走らせるばかりで、その横顔を前にルミナリスは、ため息をついた。

(こういうときのリューリクは、いくら話しかけても答えてくれないから)

 なおも彼を見やり、何か答えをくれないかと窺う。しかし正面を見たリューリクの視線は動かず、ルミナリスは諦めて自分も前を向いた。



 アウェルヌス神殿は、静かだった。いつもどおりに幾人かの門衛が守る建物は、天空からの陽を受けて白く輝いている。

 ルミナリスは、そっとリューリクにささやきかけた。

「宰相の軍は、引き上げてしまったのかしら?」

「わかりません」

 リューリクも眉根を寄せ、神殿のほうを見やる。ルミナリスは、馬の手綱を引いた。

「ルミナリスさま?」

「いいわ、わたし行ってくる」

 馬を走らせ、門衛の前に立つ。彼らは驚いて、ルミナリスを見上げていた。馬をとめながら、ルミナリスは叫んだ。

「シビュレに会いたいの。取り次いでちょうだい」

「です、が……」

 ためらう門衛に、ルミナリスは声をあげた。

「ルミナリスが来たって、伝えて!」

「かしこまりました!」

 その声音に、門衛たちはぴしりと背筋を正した。ひとりが慌てて中に入っていく。

 ルミナリスは馬から降り、手綱を門衛に預ける。後ろのリューリクも、それに続いた。

(こんなふうに正面からシビュレを訪ねるなんて、初めてかもしれないわ)

 胸の奥で、ルミナリスは小さく笑った。

(シビュレに会うときには、裏門から入っていたから。シビュレに会うときはいつも、こっそりとで……)

 現われたのは、顔なじみの女官だ。彼女はルミナリスの姿に、驚いた顔をしている。

「シビュレは?」

「……中に、いらっしゃいます」

 どこか脅えた口調で、彼女は言った。

「会わせてちょうだい」

「かしこまりました」

 緊張した仕草で礼を取り、女官は先を歩く。ちらりとリューリクを見上げると、うなずきかけた。

(宰相の軍は引き上げていて、神殿はこんなに静かで。いったい、あれからどうなったのかしら……?)

 女官の案内で、いつもどおりにシビュレの館を訪ねる。女官が部屋の扉を叩くと、中から返事があった。その声を耳に、ルミナリスの胸は跳ねる。

(シビュレ……!)

 大きく震え、反射的にルミナリスはリューリクの手首を掴んでいた。彼はそっとルミナリスの手をほどかせてくれて、励まそうというようにぎゅっと手を握ってきた。

「ありがとう」

 言うと、リューリクは小さく微笑む。その笑みに力を得たような気がして、ルミナリスはうなずき部屋の中に顔を向けた。

 シビュレは、いつもどおりに椅子に腰を降ろしていた。膝の上に書巻を置いて目を落としている。ルミナリスが入ってきたのにしばらくは気づかないような様子で、しかし指先がいらいらと、銀色の髪をもてあそんでいる。

「シビュレ」

 呼びかけると、彼女は顔をあげた。空色の瞳にはたった一度だけ見たルミナリスを憎むような色が広がっていて、それにたじろいだ。

「何をしにいらしたのかしら。お姉さま」

 シビュレは、冷ややかに言った。

「再びのこのこ現われて。わたしがこのまま、お姉さまを逃がすと思う?」

「話を聞きに、きたの」

 うわずった声で、ルミナリスは言った。

「話? 何のかしら」

 やはり、シビュレの声は冷たい。彼女は書巻を女官に渡し、座り直してため息をついた。

「どうしてお前は、急にこんな……こんな、変わってしまったのか、その理由を尋ねたくて、来たの」

「わたくしは、変わってなどいないわ」

 はっきりとそう言って、ルミナリスを見上げた。

「お姉さまは、わたくしが今までずっと、何を思っていたのか。何を考えてきたのか。想像もできないでしょうね」

 言って、シビュレは笑う。その笑い声はルミナリスを嘲笑うようで、ルミナリスはただ、呆然とシビュレを見た。

「今まで……、何を考えてきたというの……?」

 ルミナリスの問いに、シビュレの笑みはますます濃くなった。

「わたくしは、ずっと探していたわ。ここから逃れるための方法を。逃れる隙間がないか、どこかにそのための鍵がないか……ずっと、探していたのよ」

「そのために、わたしを……?」

 シビュレはうなずいた。目をすがめ、ルミナリスを見やって呻くようにつぶやく。

「ここから出るためなら、何を犠牲にしても構わなかったの」

 改めて、彼女の渇望の強さを思い知った。お姉さま、と笑顔を向けてくれたこと。ルミナリスの髪を美しいと褒めてくれて、何度も指で梳くのを好んだこと。一緒に書巻の絵を見て、笑いあったこと。

(すべてをなかったことにしても、それでもほしいと、願うくらいに……)

 膝から力が抜けかけて、後ろから伸びた手が支えてくれる。リューリクだ。彼は強い力でルミナリスを支えてくれて、その様子にシビュレは眉根を寄せた。

「宰相の反逆の企てを耳にしたとき、わたくしはすぐにリウドハルド宰相に書状を送ったわ。お姉さまを引き渡す代わりに、わたくしをここから出してくれるように、って。リウドハルド宰相は、喜んで応じてくれた」

(反逆の企てのときから……? なら、あの日よりもずっと前から、シビュレはリウドハルド宰相とつながっていたことになる)

 ルミナリスは、震える唇を開いた。

「じゃあ、あのとき……宰相が反乱ののろしを上げた日。わたし、ここに泊まったわ。あのとき……すでにお前は、宰相と手を組んでいたというのね?」

 シビュレは何も言わなかった。しかしその表情が、何よりの答えだった。

「お姉さまという方は、どうしてリウドハルド宰相が反逆などということをしたのか、その理由さえもおわかりではないのでしょうけれど。アラリック王とイルミーナ正妃も死の直前まで、リウドハルド宰相がなぜ自分たちを欺いたのかなどわからなかったでしょうね」

(いったいなぜ、リウドハルド宰相はあのようなことをしたのか。お父さまの忠臣だと思っていた、あの宰相が……)

「お前には、わかるというの……?」

「ええ」

 シビュレは、迷いなくうなずいた。

「お姉さまは、お幸せなかたね。王と王妃も同じだわ。幸せな人に他人の心は見えないもの。ましてや自分たちのせいで闇の中にある者の心になど、思い及ぶはずもない」

 シビュレの声は、重く響いた。ルミナリスは胸に手を置いて、ぎゅっと拳を握りしめる。

「リウドハルド宰相も、闇に……?」

 ルミナリスには答えずに、シビュレは顔をあげた。まなじりをつり上げて、ルミナリスを睨みつける。

「それなのに……お姉さまが牢から逃げたおかげで、わたくしはリウドハルド宰相の信頼を失ったわ。そしてまた、こんなところに閉じこめられる生活が……!」

 彼女は大きく首を振った。銀色の髪が、きらきらと彼女の顔を彩る。

「ここから出られる機会だったのに。この囚われ人のような生活から、陽の当たる場所に出られるところだったのに……!」

 シビュレは、憎しみを込めた口調で言った。立ち上がると足音を立てて床を歩き、ルミナリスの前に立つ。

 その手は、ルミナリスに向かって振り上げられた。撲たれるのかと思ったのに、その手を遮ったのはリューリクだった。リューリクの大きな手が、シビュレの手首を掴む。

「な、……っ……」

 ひるんだシビュレは、リューリクを鋭く見やった。

「お離しなさい! 従者の分際で!」

 しかしリューリクは、シビュレの手を離さない。なおも彼女はリューリクを睨んだ。しかしリューリクがシビュレに向ける視線は、ルミナリスもが震えてしまうくらいに、強い。

 彼女の体から力が抜けるのがわかった。細い腕がだらりと垂れ、それでも拳は強く握られている。

 やがて手もほどけ、そこで初めてリューリクは、拘束した手をゆっくりとほどく。

 シビュレはルミナリスを睨みつけ、そして唇を噛みしめる。

「わたくしが、今までどのような思いで生きていたのか。わかる?」

 低い声で、シビュレは言った。

「王宮も神殿も、海も川も森も。自由に行き来することのできるお姉さまのお話を聞くばかりで、わたくしは……、ずっと」

 シビュレは大きく息を吸った。しゃくり上げそうになるのを堪えるようだと思ったのは、ルミナリスの気のせいだっただろうか。

(シビュレ……)

 その空色の瞳の中の、ある色に気がついた。それは怒りでも苛立ちでもなく――深い悲しみなのだとわかったのは、同じ色を別の人物のまなざしの中に見た記憶に思い当たったからだ。それは誰かと考えて、ルミナリスは声をあげそうになった。

(ジュナイドさま……!)

 目の前のシビュレは、ジュナイドを思い出させるのだ。ジュナイドの赤い瞳の孕んでいた虜囚の悲嘆。色こそ違え、同じものがシビュレの目に浮かんでいることに気がついた。

(……ああ、似ているのだわ)

 ジュナイドの瞳に、同じものを見た。その悲哀の深さに胸を突かれたことを思い出す。

 今までルミナリスは、シビュレの目の中にあるものに気がつかなかった。気づくこともなかった自分は、確かに幸せだったのだ。何憂うこともなく、幸せな日々を享受していた。

(シビュレが何を思っていたのか……今まで、考えることもなかった)

 今ならわかる。今なら、シビュレの目にあるものがジュナイドのそれと同じだということがわかる。囚われ人の悲哀を読み取ることができるのに。

 それは、ルミナリスにも失ったものがあるからかも知れない。そんな思いが、胸をよぎった。

「わたくしは、外の世界を知らない」

 呻くように、ルミナリスは言った。

「外に、出たい。……お姉さまのように、自由に生きたいのよ!」

 それは耳にするだけで大きく震えてしまうような、悲痛な叫びだった。

(ジュナイドさまと、同じことを……)

 シビュレの瞳から涙がこぼれていないことが不思議なくらいだ。大きな目は揺れてルミナリスを映し、薄赤い唇はわなないている。

 気づけば、ルミナリスは手を伸ばしていた。シビュレの手を取ると、彼女はぎょっとしたようにルミナリスを見た。

「シビュレ」

 ルミナリスはつぶやいた。

「わたしを、リウドハルド宰相のところに連れていって」

「お姉さま!?」

「ルミナリスさま!」

 ふたりの声が、重なって耳を撲つ。ルミナリスはなおもシビュレの手を離さず、言葉を続けた。

「わたしを宰相のもとに連れていけば、シビュレは自由になれるのでしょう? なら、連れていって。今からでも遅くはないでしょう」

「……どういうつもり!?」

 シビュレは、ルミナリスの手から逃げようとする。しかしルミナリスは彼女を離さず、力を込めて握りしめながら一歩距離を詰める。

「あなたの苦しみを知らなかったのは、わたしの罪だわ。罪は、あがなわなくてはいけない……」

 シビュレは大きく目を見開いている。その表情は、ルミナリスに以前のことを思い出させた。シビュレへの贈りものの花を、突然握らせたとき。あのときの驚いたシビュレの表情は、そう遠い話ではなかったと思うのに、もう何年も経ってしまったかのように感じる。

「連れていって、わたしを」

 そう言って、ルミナリスはシビュレの手を握り直した。


 遠くから、足音が聞こえた。ルミナリスが振り返った先、リューリクが扉に歩み寄る。

 現われたのは革鎧姿の親衛兵で、大きく荒い息をついていた。

「何ごとだ」

 鋭い声でリューリクが言った。兵士はその場にひざまずく。そして大声を上げた。

「トティラ王宮にて、異変です!」

 ルミナリスは、大きく目を見開いた。

(異変? 王宮は今、リウドハルド宰相が手中にしているはず。そこで、いったい何が……)

「王宮で……? なに、が……?」

 震える声でシビュレが尋ねる。兵士は、押されるような声を立てた。

「トティラ王宮は、突如なだれ込んだ軍勢によって占拠されました! リウドハルド宰相は、とらえられて弑されて……」

「何ですって!」

 シビュレはルミナリスの手を振りほどいて、親衛兵に駆け寄った。悲鳴のような声で問いかける。

「それはどういうこと!?  その、軍勢とはいったい……?」

 ルミナリスは、とっさにリューリクを見た。リューリクはいつもどおりの表情だ。それは単に彼が、感情を表に出さない性質だからだというだけではないと感じた。

(まさかリューリクは、……こうなることを知っていた?)

 兵士は、シビュレに急かされるままに話した。

「軍勢は、キフティ朝の末裔と名乗っております。旗印も、かつてのキフティ朝の紋を掲げて……」

「なに、が……」

 シビュレが、よろりと体の均衡を崩す。リューリクが彼女の倒れるのを救い、腕の中に抱きとめた。

「リューリク」

 呼びかけると、彼はシビュレを抱えたままルミナリスに目を向ける。

「リューリク。何か……知ってるのね」

 リューリクはうなずく。彼はゆっくりと、口を開いた。

「軍勢とは、オトラントの民。そして彼らに密かに手を貸していたサビニ国の軍です」

「サビニ国ですって?」

 思わず大きな声をあげてしまい、ルミナリスは慌てて口をつぐんだ。

(サビニ国……ファランタさまは、サビニ国の使節だった)

 あの晩餐のとき、彼はオトラントの話をしていた。オトラントがキフティ朝の末裔だという話をして、晩餐の場をかき乱したのだ。

「まさか、あの晩餐のころから。このことが計画されていたというの?」

「それはわかりません、ただ」

 そう言って、リューリクは口をつぐんだ。そんな彼に、ルミナリスは眉根を寄せる。

「リューリク。お前、何をしたの?」

 このことは、リューリクが何か関係している。半ば直感的にそう思ったルミナリスは、声を尖らせた。

 リューリクは、しばらく口を開かない。

「シメオン=サルスと……」

 やがて低い声で、リューリクは言った。

「シメオン=サルスと、取引をいたしました。我が王都ハルシャとトティラ王宮の地図を教えること……裏道も、すべて。その地図をもとに、オトラントは正面からリウドハルド宰相を討つと」

 そこで言葉を切って、リューリクは目を伏せる。

「……代わりにルミナリスさまの御身には、決して危害を加えないと」

「そんな、ことが……」

 混乱する頭を押さえ、ルミナリスは大きく息を吐いた。

(リューリクが、そんなことを)

(それでは、ジュナイドさまたちは悲願を達されたのだわ……! オトラントから出て、表の世界で生きていく場所がほしいとおっしゃっていた……その場所は、ハルシア王国)

(キフティ朝が、再び興ったということ……)

 キフティ朝。その名に引きずられるように、胸を射た考えにルミナリスは震えた。

(シビュレは……キフティ朝の血を引くシビュレは、ジュナイドさまたちに受け入れていただけるんじゃないかしら?)

(そう、同じ道をたどった人たちですもの。受け入れてもらえるはず。シビュレも、陽の下で――!)

 その考えは、ルミナリスの背を大きく押した。

 ルミナリスは手を伸ばし、シビュレの手を取った。リューリクの腕に抱えられたままのシビュレは、何ごとかというように目を大きく開いた。

「シビュレ、あなたは陽の当たるところで生きていけるのよ!」

「お姉さま……?」

 唖然としたシビュレの口調は、ルミナリスの知っていたものに戻っている。いつもどおりの彼女、ルミナリスの妹、かわいいシビュレ。

「わたし、ジュナイドさまにお話しするわ。いいえ、そうするまでもないわね、あなたのこの髪、瞳に肌の色。キフティ朝の血を引いていることが、一目でわかるもの」

 自分でも、声が弾んでいるのがわかる。勢い込んで、ルミナリスは言った。

「お前は、トティラ王宮に住まうことが許されると思うわ。もちろんいつだってどこだって、好きなところに行くことが許される。お前は、自由になれるのよ……!」

 しかしシビュレはやはり呆然と、ゆっくりとまばたきをするばかりだ。

「どうしたの? 嬉しくないの?」

「そんな……こと。ありえ、ないわ……」

 シビュレは首を、横に振った。リューリクの腕の中で震える彼女の銀色の髪が、きらめいて空を彩る。

「そんなこと、あるわけがない。……ありえない。そ、んな」

「いいえ、ありえるわ。ありえることに、してみせる」

 ルミナリスの声には、自分でも驚くほどの力が漲っていた。シビュレの手を取ったまま、ルミナリスは続ける。

「決して、あなたの望まないようにはしない。あなたが自由に生きていけるようにする。わたしの、すべてをかけても」

 シビュレは呆然と、人形のように手を取られたままだ。見上げている目は、なおも大きく見開かれているばかりだった。



【第三章】


 丘の上に吹く風は涼しくて、肌寒ささえ感じさせる。

 馬上のルミナリスは、身を震わせた。ここは小高い丘の上で、王都を一望できるルミナリスのお気に入りの場所だ。

 王宮は、まっすぐ東の方向にある。白い建物は中天から傾き始めた陽に照らされて、眩しく目を射た。住まう者の顔ぶれは変わっても建物の様相は変わらずに、昔から変わらずそこにあった。

 ルミナリスは、じっと王宮を見下ろしている。まばたきも惜しんで見つめる主を訝しむように、馬が小さく嘶きをあげた。

「ごめんなさい、もうちょっと」

 馬の頸を、軽く叩く。それに馬は応えるかのように啼いて、ルミナリスは微笑んだ。きっちりと首もとまでを覆った上衣の胸もとに手を置いて、なおも視線を王宮に向けた。そうやってじっと、見つめていた。

(あ……)

 そんなルミナリスの耳を奪った音があった。背後から馬の足音が近づいてくる。驚いて、ルミナリスは振り返った。

「リューリク……!」

 そこにいたのはリューリクだ。彼は馬をとめるとルミナリスの足もとに降り、ひざまずいて礼を取る。

 彼は、ルミナリスが馬の背にくくりつけた荷物に目をやる。そして馬上のルミナリスを見上げて、言った。

「なぜ、黙って行ってしまおうとされるのですか」

「だって……!」

 いたずらを見つかった子供のように、ルミナリスはうろたえてしまう。しかしはっきりとした答えを聞くまではというように、リューリクの視線はルミナリスから離れない。

 ルミナリスは、ためらいながら口を開いた。

「わたしは、シャムス朝の……前王朝の、王太姫だった者よ。シャムス朝の遺臣たちが、わたしがいることで何を考えるか」

 言葉を切って、ルミナリスは息をついた。

「いくらわたしにそのつもりがないとは言っても、わたしを担ぎ出そうとする者があるかもしれない。また国が荒れるのはごめんだわ。だから」

 そう言って、ルミナリスはまた視線を王宮に注ぐ。

(だから……わたしは、ここから)

「ハルシア王国を去ろうと。そうお考えなのですか」

「ええ」

 王宮に目をやりながら、ルミナリスは言った。視線をリューリクに向ける。

「でも、リューリクはそんな必要はないの。シメオン=サルスは功労者としてリューリクに地位を与えるつもりだと言っていたし、リューリクはここに留まるべきよ」

 そう言って、リューリクに微笑みかけた。

「でも、わたしは行くわ」

 リューリクは黙って立ち上がった。そのまなざしに、何ごとかとルミナリスはひるんだ。

 ルミナリスに手を伸ばしてくる。鞍にかけた腰を引き寄せられ、声をあげる間もなく馬から降ろされていた。

 地面に降り立ったルミナリスの背に、腕が回される。気づけばリューリクに、抱きしめられていた。

「な、なに……!」

 いきなりのことに、ルミナリスは声をあげた。大きく震える体をリューリクは優しく、しかし強く抱きすくめた。その腕の力と伝わってくる熱に、身動きができない。

「あのとき、あなたを攫っていけていたら……」

 耳もとで、彼がささやく。その声は甘く、吐息は熱くて、ルミナリスはまた身を震わせる。

「そう、思っておりました。あのまま、あなたを」

「あの、とき?」

 彼の髪が、頬をくすぐる。リューリクが耳もとでうなずいたのだ。

「シビュレさまのお館の地下から、あなたを連れて出たときです。あのとき、あなたはオトラントに戻ると仰せでしたが……」

(あのとき、リューリクは……国境を越えると言っていた。誰も知らないところに行こうか、と)

 リューリクの胸に身を寄せた格好のまま、その言葉を聞いたときのことを思い出す。彼の見せていた表情、あのときまで見たことのなかった自嘲するような笑みは、今でも記憶に残っている。

「あのまま、わたしを?」

「はい」

 リューリクの腕は強くて、身動きもできない。身を揺すっても力は少しもゆるまずに、ルミナリスは細く息をついた。

「はな、して……」

「離しません」

(こんな、リューリク……)

 このようなリューリクは、初めてだ。いつもの慇懃な礼儀はなく、まるでルミナリスをこのまま連れ去ってしまいそうな、このまま自分のものにするとでもいうような――。

「あ、……」

 胸が早鐘のように打ち始める。リューリクに気づかれてしまうのが恥ずかしくて離れようとするのに、しかし彼は、ルミナリスを抱きしめたままだ。彼の腕に包まれて、鼓動はまた大きくなる。

「でも、もう自分の心を隠しません。このままあなたを連れていく。私の望みを、叶えます」

「望み……?」

「あなたを、私だけのものにする」

 大きく息を呑んだ。胸はますます大きく鳴って、しかし指一本動かせない。

(リューリクが、そんなことを考えていたなんて……)

 今まで、思ったこともなかった。いつも影のように寄り添ってくれていたリューリク、彼の存在に救われてきたことは幾度となくあった。そんな彼の忠誠を嬉しく思いこそすれ、ルミナリスを『自分だけのものにする』など、そんなことを考えているなどと。

(そんな……こ、んな)

 リューリクの腕の力が、少しだけゆるんだ。ルミナリスは慌てて背を逸らせ、すると目の前にリューリクの顔があった。青の瞳にじっと見つめられて、また胸が跳ねる。

「お前……そんなことを考えていたの?」

「はい」

「いつ、から……?」

 ルミナリスの声は震えていた。リューリクは目を細めて顔を覗き込んでくる。口の端を持ち上げて、小さく笑った。

 リューリクは、リューリクなのに。今までよく知っていた彼のままなのに、その表情は何かを脱ぎ捨てたかのようだ。

「さぁ、いつからでしょうか」

 こんなリューリクを見たのは初めてだ。いつも目を伏せ口数は少なく、そんな彼の知らなかった一面を前に、どうしようもなく胸が揺さぶられる。

(わたし……こんなにどきどきして)

 胸に手を置こうとした。しかしその手は、リューリクに取られてしまった。

 手の甲に、唇を押し当てられる。それは身分ある女性に対する通常の礼、ことさらに意識するようなことではないはずだ。それなのにまるで彼の唇から直接血が流れ込んできたかのように、ルミナリスは耳まで熱くなる。

「ルミナリスさま」

 リューリクが見つめてくる。まばたきさえも許されないようなまなざしに、息がとまる。

「愛しています」

「あ、……っ……」

 その言葉は先ほど抱きしめてきた腕と同じくらいの熱でルミナリスを包み込む。ルミナリスは、大きく息をついた。

「あなたは、もう私のものだ」

「リューリク……」

 こうやって彼に抱きしめられて、愛をささやかれて強い口調で動揺させられて。戸惑いながらも、しかし同時に彼の言葉は優しく、離れない腕が心の底からの安堵を連れてくることも感じている。

 ルミナリスは、おずおずと手を伸ばした。自分からリューリクを抱きしめる。リューリクは、驚いたような顔を見せた。しかしすぐに、腕は再び背に回ってくる。

(このまま、こうしていていいのだわ。リューリクに……寄り添っても)

 こうやって自分から身を寄せて初めて、ひとりで旅立つ不安が胸の奥にあったことに気がついた。

(ひとりで行かなくても、いい……)

 こうやって抱きしめてくれる腕がほしかったこと――それがリューリクであることを、心のどこかで待っていたことを自覚した。

「わたしも……、そう、だわ」

 彼の耳もとで、ルミナリスはつぶやいた。

「お前と一緒にいたい。お前が一緒に来てくれるなら、こんなに嬉しいことはないの」

 彼の温かさに、体の中の何か――それはハルシア王国を離れることを決意したときからなのか、シビュレの本心を知ったときからなのか。それとも父と母の死を知ったときからなのか――体の中に張りつめていたものが、ぷつりと切れたような気がした。

「リューリク、リューリク……!」

 彼の腕に抱きしめられたまま、ルミナリスは泣いた。今までにも何度も泣いたけれども、これはそのいずれとも違う、甘美な涙だと思った。

 ルミナリスを抱きしめたまま、リューリクは背を撫でてくれた。それはルミナリスの涙がとまるまで続く。

 顔をあげたとき、目に入ってきたのは優しく微笑む彼の表情だった。今までに見たことがないほどに優しく柔らかく、それでいて引き寄せる強さでルミナリスを包むリューリクは、言った。

「まいりましょう、ルミナリスさま」

「どこ、へ……?」

「どこへなりとも。あなたの望むところへ」

 ルミナリスはうなずいた。リューリクはルミナリスを抱き上げる。馬に乗せてもらい、手綱を握った。リューリクも騎馬して、ふたりで轡を並べる。

 ふたりは王宮の方角に背を向け、二頭の馬の足音は並んで、そして森の奥へと消えていった。


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