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流転の姫君と守護の騎士  作者: 月森あいら
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流転の姫君と守護の騎士(前編)

裏切りと信頼、信愛と忠誠。姫君の、流転の運命をお楽しみください。

【第一章】


◆◇1◇◆


 ルミナリスの、はちみつ色に輝く髪が柔らかい風になびく。緩やかな波を描いた長い髪は、その鮮やかな翠の瞳とともに、誰もが知る彼女の印象的な特徴だ。

 ルミナリスは、あたりを見回した。そして高くそびえる白亜の建物、アウェルヌス神殿の裏門をくぐる。

「まぁ、ルミナリスさま!」

 入ってすぐの石畳で鉢合わせたのは、ルミナリスより少し年嵩の、顔なじみの神殿女官だ。突然現われたルミナリスに、白衣の女官は驚いた声をあげた。

「驚かせないでくださいませ! リューリク殿はいずれにいらっしゃいますの?」

「リューリクには秘密よ、ひとりで来たの」

 ルミナリスは、唇の前に指を立てる。いたずらっぽく笑うと、女官はたしなめるような顔でルミナリスを見やった。

「まぁ、おひとりだなんて、そのようなことをなさって」

 従者のリューリクの目を盗んで、ルミナリスが神殿にやってくるのは初めてではない。女官もそれをよく知っているから、だから少し咎める表情を見せただけだ。

「大丈夫よ、今日のお勉強は済ませてきたから。リューリクも怒ったりしないわ。たぶんね」

「たぶん、でございますか」

 そう言って、女官は小さく肩をすくめる。小さく笑ったルミナリスは、女官を見上げて尋ねた。

「ねぇ、シビュレはいるかしら」

「お部屋においでですよ。先ほどは、書巻を読んでいらっしゃいました」

 目の前に手をかざして、天を仰ぐ。抜けるような青空は輝いて、降る光はルミナリスには心地いいものだけれど。

「今日は、庭に出るのは無理かしらね……」

 そう言って、ルミナリスはため息をついた。白い光の眩しさに、目を細める。

(シビュレの体には、今日の日差しは強すぎるかしら)

「いいわ、シビュレのところに行ってくる」

 ルミナリスは女官に手を振ると、踵を返す。



 神殿の脇の小さな森と川を越えると、隣にひっそりと立つ棟がある。神殿同様に白いその建物は、アウェルヌス神殿の所領内にあるシビュレの館だ。ルミナリスは慣れた足取りで歩み寄り、表の扉を叩いた。

「ルミナリスさま! お供の方はいかがなさいました?」

「シビュレに会いに来ただけだもの、ひとりで充分よ」

 突然現われたルミナリスに慌てる女官の案内を待たずに、中に入る。静かな細い歩廊を行き、石の壁に囲まれた一番奥の木の扉の向こうが、シビュレの私室だ。

「シビュレ、来たわよ」

「まぁ、お姉さま!」

 いつもどおりに扉を開き、顔を覗かせた向こうにシビュレはいた。簡素な室内、彼女は膝に書巻を載せた格好で椅子の背にもたれかかっている。同い年の妹は顔をあげて、ルミナリスの姿を前に目を輝かせた。

「今日来てくださるなんて、聞いておりませんでしたのに」

「お勉強が早く終わったの。だから」

 ルミナリスの声に顔をあげたシビュレの、空色の大きな瞳が輝く。彼女が身動きするとその長くてまっすぐな銀髪が揺れて、薄く差し込む陽の光を反射した。

 石の床を踏み、ルミナリスはシビュレの傍らに立つ。彼女の手もとを覗き込んだ。

「何を読んでるの?」

「あ、これは」

 シビュレの膝の上の書巻に手を伸ばし、そっと端をひっくり返す。

「『ハルシア王国縁起』? 我が国の歴史書? このような書を?」

「ええ……」

 シビュレは、いたずらが見つかったような顔をしてうつむいてしまう。

「びっくりしただけよ、そんな顔しないで」

 そんな彼女に、ルミナリスは微笑みかける。

「それにしても、いったいどこから手に入れたの? 神殿には、こんな書物は置いていないわよね」

(神殿に、アウェルヌス神に関係する以外の書物はないはずなのに)

 訝しむルミナリスに、シビュレは小さな声で言った。

「リウドハルド宰相が、くださったの」

「宰相が?」

 父であるアラリック王の右腕たるリウドハルド宰相は、黒髪と黒い顎髭の偉丈夫だ。もっともどこか何を考えているのかわからないまなざしのせいか、ルミナリスは彼が少し苦手なのだけれど。

「意外だわ、お前が宰相と仲がいいなんて」

「仲がいいなんて、そんなのじゃないわ」

 とんでもない、というようにシビュレは首を振る。彼女の慌てように、ルミナリスは笑った。

「わかってるわよ、冗談よ」

「お姉さま……」

 シビュレは息をついた。ふたりして目を見交わして、そして笑い声を立てた。笑い声は、簡素な石の部屋に柔らかく響く。

「本当に、仲よしだとかそういうのじゃないわ。ただ、この間宰相が拝礼にお見えになったときにね、神殿長と一緒にわたくしがお相手をしたのよ。わたくしが書を読むことが好きだと言ったら、これを届けてくださったの」

 『ハルシア王国縁起』は、この国の成り立ちを記した書だ。文章は、今は使われていない古い言葉で書かれている。だから読み下すのは至難の業で、ルミナリスも教師のもと苦心しながら読み進めている最中だ。決して、楽しみのために読むような種類の書物ではないと思うのに。

「どうして、これを選んだのかしらね」

「それは、わからないけれど……」

 シビュレは膝の上の書巻を両手で押さえて、首をかしげた。ルミナリスは笑って、シビュレの肩にそっと触れる。

「面白い?」

「少し、難しいけれど」

(少し、なのね)

 ルミナリスは内心、舌を巻いた。椅子に座っての勉学よりも馬に乗ったり狩りをする方が好きなルミナリスには不思議なことだけれど、シビュレはまったく逆で、特に文字の類なら何でも彼女の心をとらえてしまうのだ。それが現代の文字のものでも古文字でも、シビュレには関係ないらしい。読むものは何もかも、彼女には楽しいものなのだ。

(この神殿にある書物は、ほとんど読んでしまったというけれど。本当かしら?)

「お姉さま?」

 小さく肩をすくめたルミナリスは、シビュレの手もとを覗き込む。そして彼女に誘いをかけた。

「ねぇ、外に出てみない? ほんの少しだけでも」

「それ、は……」

 その言葉に、シビュレは小さく震えた。

「本当に、ほんの少しだけよ。それに陽の下に出るわけじゃないわ、少し、庭先に出てみるだけ」

 ルミナリスはじっと、シビュレを見つめる。この美しい妹の、銀色の髪、空色の瞳。それらが陽の光を受けるさま、輝いてきらめくさまを、見てみたいのだ。

「……ごめんなさい」

 小さな声でシビュレは言った。心底申し訳ないというようにうつむく。

「今日でもやっぱり、日差しは眩しすぎる?」

 髪を揺らして、シビュレはうなずいた。

「無理にとは言わないわ。ちょっと、お前と外に出てみたいと思っただけ」

「ごめんなさい」

 シビュレの銀色の髪、空色の瞳に抜けるように白い肌。彼女は太陽の光にからきし弱く、光の下でめまいを起こして倒れたこともある。そういう体質なのだという彼女の、氷室の氷でできたような色彩を見れば、誰もが仕方のないことだと思うだろう。

「じゃあ、これを見ましょう? 今日はこんなのを持ってきたの」

「まぁ、きれい!」

 ルミナリスの差し出した書巻は、透かし模様の入った薄様紙で包まれている。シビュレは歓声を上げた。彼女の肩をさらりとすべるきらめく銀色の髪を、ルミナリスは見つめた。

 シビュレはアウェルヌス神殿に住む者ではあるが、巫女ではない。神殿の巫女たちとは、入殿の理由が違う。

 アウェルヌス神殿の巫女たちはアウェルヌス神への深い信仰ゆえ、また神官の血筋に生まれたがゆえに、神殿で働き神に仕える。しかしシビュレが神殿で生涯を送ることを運命づけられているのは、そういった理由からではなかった。

(亡くなったシビュレのお母さまが……キフティ朝の方だから)

 現在このハルシア王国に興っているのは、国の成立から三つめの王朝になるシャムス朝。ルミナリスはこのシャムス朝三代目の王・アラリック王の王女であり、正妃イルミーナとの唯一の子だ。現在は王太姫としての身分にあり、将来的には次期ハルシア国王となる男性を夫として迎えることとなる。

 妹のシビュレの父も、ルミナリスと同じアラリック王だ。ふたりは異母姉妹ではあるが、しかしシビュレは、この神殿から出ることを許されない。一生をこの神殿の中で終えることを決められていて、それは彼女の母の持つ血が理由だ。

(シビュレのお母さまのスカイナ妃も、シビュレみたいに銀の髪と空色の瞳だったって聞くわ)

 シビュレの容姿の持つ特徴的な色は、とりもなおさず彼女が、前王朝キフティ朝の血を引いているということを示している。現王朝シャムス朝の血統にある者、特に王族はすべて、ルミナリスのようにはっきりとした色彩の容姿をしているのだから。

 スカイナ妃は、アラリック王の第二妃だ。彼女は前王朝キフティ朝の生き残りである下級貴族の娘で、シビュレの出産時に亡くなったという。

 キフティ朝の血を引いたシビュレは、このシャムス朝のあるかぎり生涯神殿から出ることを許されず、婚姻することもましてや血を残すことをも許されない。

(だから、シビュレはお父さまに会ったこともなくて)

 ルミナリスも、拝礼のときに偶然シビュレに会うことがなければ、未だに妹の存在を知らなかったかもしれない。神殿の庭園の隅で泣いていたシビュレを見かけることがなければ、こうやって彼女を訪ねる楽しみを知ることはなかったかもしれない。

(シビュレは、何も悪くないのに)

 そのことを思うたびに、ルミナリスの胸は痛む。シビュレ自身に咎はないのに、このように神殿の片隅で一生を送ることを定められている。仮に神殿から逃れる機会があったとしても、その目立ちすぎる容姿ではハルシア王国のどこにあっても、すぐに見つかって連れ戻されてしまうだろう。

(シビュレの姿が、目立たない場所があればいいのに。シビュレが自由に暮らせる場所が、この世にあればいいのに)

「お姉さま?」

「……あ」

 書巻を膝の上に乗せたまま、シビュレは不思議そうに見上げてくる。考えに耽っていたルミナリスは、彼女の視線を前に慌てて笑顔を見せた。

「何でもないわ。それより中身、見てみて。ほら、山とか海とか、ほかにもいろんな場所の絵があるのよ」

 しゅるりと細い組紐をほどき、中身を開く。ぱっと目に入ったのは海の絵だ。白と青、水色と翠。その鮮やかさに、ふたりは呼吸を忘れて見とれた。

「きれい……」

「この間行った、ティレニアの海辺がこんなふうだったわ」

「ティレニアの海辺においでになったの? どんなふうだったか、お聞かせくださらない?」

 シビュレの顔が、期待に輝く。そんな彼女の視線に促されるままに、ルミナリスは海辺での思い出を語った。

 空色の瞳が、きらめきを増す。こうやって妹が喜ぶのを見るのは好きだ。その大きな、色彩の薄い瞳が輝くのを見たくて、ルミナリスは足しげく神殿に通うのかもしれない。

(お父さまとお母さまは、ここには来るなっておっしゃるわ。でも、わたしがシビュレに会いたいんだもの)

「海、行ってみたいわ。わたくしも」

「そうね。そう、できたら」

 大きく息をつく妹の肩を抱き髪に頬を擦りつけるルミナリスに、シビュレは問う。

「お姉さま……お父さまは、お元気?」

「ええ、この間お目にかかったけれど、お元気よ」

「そう」

 シビュレは顔をあげる。そっと手を伸ばして、ルミナリスの金の髪を指先に絡めた。ゆるやかに癖のついた髪はシビュレの指に巻きつく。いつもシビュレはこうやって、ルミナリスの髪を巻き取ってもてあそぶのだ。

 シビュレは、小さくつぶやいた。

「一度、お目にかかってみたい」

 そのつぶやきは、ルミナリスに聞かせようとしてのものではないのだろう。つい口から洩れたというような彼女の願いは、しかしルミナリスもよく知っている。

「ごめんなさい。こんなこと言おうと思ったのではないのよ」

 シビュレは、慌てたように首を左右に振った。そしてルミナリスに向かって笑顔を見せる。いつもの彼女の、笑っているはずなのにどこか寂しそうな表情だ。

(かわいそうに……)

 微笑むシビュレは、ルミナリスには痛々しく映る。ルミナリスは、きゅっと唇を噛んだ。

「お姉さま?」

 見上げてくるシビュレを、ルミナリスは抱きしめた。シビュレはルミナリスの胸に頭を預け、まるで甘える猫のように目を閉じた。

「お父さまに会わせてあげられたらいいのだけれど……」

 しかし父王アラリックは、娘であるシビュレと会うことはない。それが彼の誓いであり、スカイナ妃との許されない恋を実らせたアラリックの、国に対する王としての罪滅ぼしなのだから。

(決してシビュレに会うことはないって、お父さまが御自ら、あんなにはっきりおっしゃったのだもの)

 ルミナリスは、大きく息をついた。そしてシビュレの銀の髪を撫でる。シビュレは顔をあげ、小さく首をかしげた。

「でも、こうやってお姉さまが来てくださるわ」

 彼女は微笑んだ。いつもの悲しげな印象が少し薄くなり、ルミナリスの訪問を喜んでくれる、嬉しそうな色が増す。

「この幸せがあるから、多くを望んだりはしません」

「欲のない子ね」

「あら、お姉さまが来てくださるだけで、わたくしは充分幸せだわ」

 言って、シビュレはルミナリスを上目遣いに見る。どこか、何かをねだるような仕草だ。

「お姉さまがときどきお泊まりくださったら、もっと幸せなのだけれども。ひとりで眠らずにすむもの」

「じゃあ、今度は夜に抜け出してくるわね。リューリクに協力してもらって」

「お待ちしておりますわ。できるだけ、早いうちに」

 そう言って、シビュレはにっこりと微笑んだ。



 神殿の裏門を出たルミナリスは、翳りかけた陽の中に立っている人影を見た。

「リューリク!」

 黒の髪、青の瞳。リューリクだ。彼はルミナリスの従者で、ルミナリスがまだ幼いころから側に仕えている。現在十四才のルミナリスよりも、七つの年長だ。

 彼はいつもどおりに、何も言わずに頭を下げた。濃い色の目は鋭く、彼と対するのに慣れた者でなければ、怒っているのかと勘違いしてしまうだろう。

(怒って……ないわよね?)

 ルミナリスは毎日彼と顔を合わせている。そんなルミナリスでも彼は、このたびはひとりで王宮を出たことを怒っているのではないかと心配になった。恐る恐る彼の顔を見上げる。怒っていないことを確認して、安堵した。

「どうして、わたしがここにいるってわかったの?」

 少し拗ねた口調でそう言うと、リューリクは微笑んだ。もっとも彼の微笑みはわかりにくくて、やはり彼が笑っているということは、見慣れた者にしかわからないだろうけれど。

「ルミナリスさまのおいでになるところは、だいたい把握しておりますので」

「あ、そう……ね」

 言うまでもないという調子でそう言って、リューリクは胸の前に手を置くと頭を下げる。ルミナリスが手を差し出すと、丁重な仕草でそれを取った。

「迎えに来てくれたのね。ありがとう」

「もうすぐ、晩餐の時刻にございますので」

「もうそんな時間?」

「今日は、ヤファ国からの使節がおいでです。王太姫殿下におかれましてはご出席をと」

「あ、そうだったかしらね……」

(すっかり忘れてたわ、そのこと)

 ルミナリスの考えたことを読んだかのように、リューリクは少しだけルミナリスを睨んだ。

「馬は、あちらに。お早く」

 簡潔にリューリクは言って、ルミナリスを招く。ついて歩きながら、ルミナリスは慌てて言った。

「ねぇ、このこと。お父さまとお母さまには秘密にしておいてね!」

(シビュレを訪ねてたってこと)

 声に出してはそう言わなかったけれど、リューリクはうなずいた。鋭い印象を受ける彼の目は柔らかく微笑みの形を作って、ルミナリスを安心させてくれる。

 彼は、こうやっていつもそばにいる。ルミナリスが振り返ると、必ずそこにいてくれる。

 ふと振り返って、そこにリューリクがいないことなど今まで一度もなかったし、これからもないと、ルミナリスは疑うこともなかった。



◆◇2◇◆



 ハルシア王国の都・ハルシャの中央にあるトティラ王宮では、隣国サビニからの使節を迎えての晩餐会が催されていた。

 円卓に腰を降ろすルミナリスの隣には母のイルミーナ、その隣には父のアラリック。リウドハルド宰相と大臣たちが並び、ルミナリスの正面にはサビニ国の使節・ファランタという男性が席を取っている。

 ふたりの従者を従えたファランタは、アラリックより十ほど若い、赤い髪をした大きな体躯の人物だった。

 大きな声で話し、笑う彼はルミナリスを圧倒する。はちみつ入りの果実水を前に、ルミナリスは驚いて彼の話しぶりを見つめていた。

「そういえば、ルミナリス姫」

「……は、い!」

 自分に話が向けられるとは思わずに、話しかけられたルミナリスは大きな声で返事をした。ファランタは大きな声で笑い、恥ずかしさにルミナリスはうつむいた。

「ルミナリス姫には、先日お誕生日を迎えられたそうですね」

 壁には燭台の灯が揺れている。その灯を受けて、ファランタの持つ赤銅の杯の中、赤い葡萄酒が美しく揺れていた。ルミナリスは、髪飾りを鳴らしながらうなずく。

「いくつになられたのでしょうか、姫さま」

「十四ですわ、ファランタさま」

「それはそれは」

 ルミナリスの返事に、ファランタは大きく首を何度も縦に振った。

「もうすっかり、立派な王女におなりですね。前に姫さまにお目にかかったときは、まだこんなに小さくていらっしゃったのに」

 言いながら、ファランタは卓と同じくらいの高さに手をかざした。ルミナリスはきょとんと、首をかしげた。

(そんなに昔に? お目にかかったなんて……覚えてないわ)

 困ったルミナリスはイルミーナを見、イルミーナはにっこりと微笑んだ。

「そうですわね、ファランタさまにお訪ねいただくのも、ずいぶんとお久しぶりですこと」

「ご無沙汰をしております」

 戯けた調子で頭を下げて、ファランタは大きな声で笑った。

「ルミナリス姫は、馬術がお得意でいらっしゃるとか。噂は聞き及んでおりますよ」

「ありがとう存じます」

 小さく、ルミナリスは言った。ファランタはなおも笑って、ルミナリスを見やる。

(お優しい方だと思うのに。それなのに)

 微笑みを返しながら、ルミナリスは考えた。

(どこか、恐ろしい感じがするのはどうして? 微笑んでいらっしゃるのに、何だか恐いなんて)

 ルミナリスは、小さく肩を震わせた。

(お客さまを恐ろしいと思うなんて、失礼だけれど。でも)

 女官たちが入ってきた。彼女たちの掲げているのは銀の椀で、ひとりひとりの前に食欲をそそる匂いの、透明なスープを注ぎわける。

 その先は、商いや貿易の話に終始した。父や使節たちの話すそんな内容は、ルミナリスにはいささか退屈だ。

(退屈だなんて思っちゃいけないのは、わかっているけど)

 誰も見ていないのをいいことに、円卓の下で赤のドレスに包まれた足をぶらぶらさせる。

(でも、わたしが何かを言える内容ではないし。……そのうちわたしも、面白いと思える日が来るのかしら?)

 そんなルミナリスの興味は、むしろ女官たちの運んでくる料理に注がれていた。

 スープの次に運ばれてきたのは、鱈の包み焼きに木の実の揚げもの。焼いたり揚げたりした鶏に鵞鳥、鹿の腿肉、猪の肉がいい香りを漂わせ、兎肉と野菜の入った、乳酪のスープもルミナリスの食欲をそそる。


 ファランタがその話を口にしたのは、一通り食事が終わり、無花果(いちじく)棗椰子(なつめやし)、赤と白の砂糖菓子が振る舞われたときだった。

 ファランタは微笑みながら乳酒の杯を揺らし、そして何でもないような口調で言った。

「オトラントという地のことを、最近知りましてね」

「オトラント、ですって?」

 いきなり耳に入った言葉に、ルミナリスは思わず声をあげた。ファランタは、にっこりと微笑んでルミナリスを見やる。

(オトラント? 地下都市オトラントのこと?)

 驚いているのはルミナリスだけではない。ぱっと顔をあげると、アラリックもイルミーナも、大きく目を見開いている。

「なぜ、そのようなことを?」

 そう言った声の主に、ルミナリスは目をやった。低い声は、リウドハルド宰相のものだ。

「何でも、聞くところによると」

 ファランタは、唇の端を持ち上げた。にやりと意味ありげに笑ったように見えたその表情は、しかし一瞬だけのことだ。ファランタはリウドハルドに顔を向け、言った。

「このハルシア王国の前王朝、キフティ朝の末裔たちが興したという、地下都市だとか――」

「ファランタ殿!」

 リウドハルドが激昂するところなど、初めて見た。ルミナリスは目をみはって、彼を見やった。

「キフティ朝などと……、その名をここで出される意味を、わかっておられるのか」

「鎮まれ、リウドハルド」

「されど、陛下……!」

 椅子から立ち上がりかけたリウドハルドを、アラリックが制する。大きく息をついたリウドハルドは、腰を降ろした。

「そのような話、どこからお聞き及びになった」

 低い、呻くような声でアラリックは言った。大臣たちは動揺した声で話し交わし、ルミナリスの隣のイルミーナは深く眉根を寄せている。

(地下都市オトラント。このハルシア王国のどこか、地下深くにあると伝えられている都市のこと?)

(そこに住まう者たちは、地下から出ては暮らせない、『モグラ』と呼ばれる民たちなんだって。でもそれって、吟遊詩人の譚詩(うた)か、お伽噺の中のものなのではないの?)

 ルミナリスは、ごくりと息を呑んだ。

(それとも……お伽噺では、ない?)

 ルミナリスは、ファランタを凝視した。目が合ったファランタは、戯けた様子で肩を揺らす。

「ルミナリス姫まで、そのようなお顔で見ないでください。……そうですね、さる筋から聞いた、とでも申しましょうか」

 やはり意味ありげに言って、ファランタは声を立てて笑う。杯の中身を飲み干す彼の咽喉が動くのを、ルミナリスは唖然と見つめていた。

「なぜ、オトラントのことなど出されたのかな」

 低い口調で、アラリックは言う。彼も杯の中身を、ことさらにゆっくりと干した。

「私も、オトラントという名は知っている。子供に語り聞かせる、物語の中に出てきますな」

 子供、という言葉にアラリックは力を込めた。ファランタはうなずく。

「そうでしょうとも、私たちもそう聞いております」

 ファランタは言って、脇に立った女官が杯を満たすのに笑顔を向ける。再び杯を手にし、口をつけた。

「ですが、吟遊詩人の詩、物語の中にはしばしば真実が含まれるといいますからね。地下に住まう滅びたはずの民……何とも夢のある話ではありませんか」

「わたくしは、そうは思いませんわ」

 そう言ったのはイルミーナだ。母はいつも、物静かで優しい。そんな彼女のあまりにもはっきりした口調に、皆がそちらを見やる。ルミナリスも驚いて母に目を向けた。

「滅びたものは、滅びたのです。キフティ朝など、すでにこの世にないもの。それに夢を語るなど、おかしなこと」

「もちろん、そのとおりです。妃殿下」

 棗椰子をつまみながら、ファランタは言った。

「妃殿下のご機嫌を損ねたのなら、幾重にもお詫び申し上げます。麗しきご婦人を不快にするのは、私の望むところではない」

 なおも微笑みながら、ファランタは口を動かす。ハルシア王国側の者たちは皆黙り込んでいて、それをファランタは愉快そうに見やった。

「おかしなことを申し上げてしまいましたね、申し訳ない。このようなつもりではなかったのですよ」

 ファランタはそう言うが、しかし宴の空気は一変してしまった。

 アラリックは平静な表情のまま、しかし眉間には皺が刻まれている。イルミーナは、もう食事に手をつけようとしなかった。リウドハルドは激昂した表情のまま、ファランタを睨んでいる。

 そしてファランタは、なおも愉快そうな表情で杯を干し、菓子に手を伸ばしていた。

(ファランタさまは、どうしてオトラントのことなんて……)

 唖然とその様子を見ながら、ルミナリスは胸の奥でつぶやく。

(我がシャムス朝が、キフティ朝を斃して興ったということを知らない……わけはないのに。キフティ朝の話を、わざわざ?)

(どうして、お父さまとお母さまを不愉快にするようなことを?)

 ちらりとアラリック、そしてイルミーナを見やる。彼らの様子に、オトラント――ひいてはキフティ朝の名が、どれだけシャムス朝の者たちにとっての嫌悪の対象なのか、初めて実感したような気がした。

(お父さまもお母さまも……リウドハルド宰相も。あんなふうに反応するなんて、思わなかった)

(お父さまたちがシビュレのことを認めないのも……無理はないということ?)

 シビュレが、正当に王の血を継ぐ者と見なされていないこと。父が娘と認めないこと。それはシビュレのことを知ってから、ずっとルミナリスをさいなんでいることだ。

(キフティ朝の名を出すだけで、これほどに皆が反応するんですもの)

(だから、仕方ないと……いうこと、なの?)

 ぎゅっと、胸の上に置いた手に力を込める。女官がルミナリスの好きな砂糖菓子を勧めてきたが、もうその美味は感じられないような気がした。



◆◇3◇◆


 国王主催の野狩りは、実りの月の半月の日に行われた。

 王都ハルシャから少し離れた野辺は、今日の遊会に招かれたたくさんの者たちで賑やかだ。

 華やかに着飾った王侯貴族たち、それぞれの従者に侍女たち、また見物の者たちも大勢集まっていて、まるで王宮がここに越してきたかのようだ。

 馬上、手袋を嵌め直しているルミナリスに近づいてきたのは葦毛の馬で、馬にまたがっているのは黒髪と紫の瞳、同じ年の貴族の娘だ。

「ルミナリスさま、今日も負けませんわよ」

「わたしこそ、この前の狩りでは後れを取ってしまいましたから。今日は負けません!」

 そう言って笑ったルミナリスの後ろから、声がかかる。振り返るとそこにいたのはリューリクで、弓を差し出している。

「ありがとう、リューリク」

 受け取り、弦の調子を確かめているルミナリスの耳に、王の声がかかる。狩りの始まりを告げる合図だ。

「お先に、ルミナリスさま!」

 先に行ってしまった黒髪の少女を、ルミナリスも追いかけようと手綱を引いた。

 髪をなびかせて振り返ると、後ろにはリューリクがいる。彼に向かって、ルミナリスは声をあげた。

「今日は、絶対勝ってみせるから!」

 ルミナリスの声に、リューリクは微笑んでうなずいてくれた。


 狩りの群れから少し離れたところで、ルミナリスの視界の向こうを駆けたものがあった。

(鹿……あんな大きな!)

 とっさにまわりを見回すが、皆の目は林の反対側に向いている。どうやら別に獲物がいたらしい。ルミナリスの見つけた鹿に気がついているのは、ルミナリスを囲む従者たちだけだ。

「あっちよ、着いてきて!」

「お気をつけくださいませ! ルミナリスさま」

 しきりに心配する声をかける従者たちの先を取って、ルミナリスは馬を走らせた。駆ける足音の後ろ、同じ速度で追いかけてくるのはリューリクの馬だ。

「リューリク、あっちに行くわ!」

 しかし鹿は、秋の色の濃くなり始めた林の向こうに消えてしまった。ルミナリスは馬の腹を蹴り、速度を上げる。

 馬の足は軽快に地面を蹴る。落ちた枯れ葉を踏む音も心地よく、伝わってくる馬の振動はルミナリスをわくわくさせてくれる。

 迫り上がる興奮のまま、ルミナリスは馬の腹をぎゅっとふくらはぎで挟んだ。馬が、速度を上げる。

 背後のリューリクが、何かを叫んだように聞こえた。

「……え、なに?」

 しかしその声は、突然馬の足もとから響いた、鋭い大きな音にかき消されてしまった。

「きゃっ!」

 馬の足が、落ちていた枯れ枝でも踏んだのだろう。反射的に声をあげてしまったくらいに大きな音だった。

 枯れ枝の音にかルミナリスの悲鳴にか、馬もよほどに驚いたらしく急に嘶いて前脚を上げた。そしていきなりの勢いで走り始めた。

「待って、待って……っ!」

 慌てたルミナリスは手綱を引くが、馬はとまらない。それどころかますます興奮してしまい、ルミナリスを振り落としてしまいそうな勢いで地面を駆ける。

「とまって、とまってっ!」

 ルミナリスを追いかけてくる気配がある。懸命に手綱にしがみついたまま振り返ると、追いついているのはリューリクだけだ。

 彼の見事な手綱さばきに操られる馬は、ルミナリスの馬の常軌を逸した走りにもついてきていて、ふたりはどんどん林の奥に駆け込んでいく。

(いったいどこまで行っちゃうの……?)

 懸命になだめようとしても、馬は足をとめない。それどころかますます速度は増して、紅葉に染まる林の深いところに入ってしまう。

(でも、リューリクがいてくれているから)

(リューリクがちゃんとついてきてくれているから、だから恐がることはないわ)

 彼の姿を目に、ルミナリスの胸には、はっきりとした安堵が生まれている。狂ったように走る馬の上にいるのに安心するなんておかしな話なのに、それでもリューリクがいてくれると思うと不安はまったくない。

 ルミナリスの馬はどんどん奥に入っていく。森の中に入っていくごとに、さすがに疲れたのか馬の足の速度は落ちていく。やがて荒い息とともに馬が足をとめたのは、深く茂った森の奥だった。

「どこ、ここ……?」

 ルミナリスも、馬の上で息をつく。リューリクはすぐに追いついてくる。彼の馬は嘶きとともに足をとめ、すぐにルミナリスの横に近づいてきた。

「ルミナリスさま、大丈夫ですか」

「何ともないわ」

「お怪我は?」

「平気」

 言うと、リューリクはうなずいた。それでもルミナリスを気遣うように、心配そうなまなざしで見やってくる。

「それにしても、ここはどこなのかしら。ずいぶん走ったけれど……」

「クマエの森に入ってしまったようですね」

「そんな遠くまで!?」

 あたりを見回しながら、彼は言った。ルミナリスの馬が、荒々しい大きな息をつく。

「馬を休ませてやらねばなりません。どこか、水場で……」

 ルミナリスも懸命に目と感覚を凝らして、水の気配を探した。リューリクがすぐに馬を先に向け、ルミナリスも手綱を引いた。全力で駆けて疲れきったらしいルミナリスの馬は、今はもうおとなしく従っている。

 ふたりが向かった先には川があった。小石の敷き詰められた川べりに馬を進め、ひらりと降りる。

 馬たちは揃って水に口をつけ始めた。馬の鞍をはずしたリューリクは下に敷いてある布を取り、地面に敷く。

「ありがとう」

 促されるままに、敷物に腰を降ろした。続いて彼は腰につけた革袋をはずすと馬の横に膝をつく。手際よく新しい水を満たし、ルミナリスに手渡してきた。

 縁に口をつけて水を飲んだ。水際から離れた場所に歩いていく姿を目に、何をするのかと思えば生えた下草を集めている。

(藁の代わりかしら。馬の体を拭いてやるとか)

 果たしてそのとおりだった。ルミナリスの馬は、ルミナリスの制止も聞かずに駆け出したとは思えないほど素直に、世話をしてくれる者の手に体を委ねている。

「いっつも、思うんだけど……」

 そんな彼の手際のよさを、革袋を手に見つめながらルミナリスはつぶやいた。

「リューリクは、ものすごくよく気がつくわね」

 ルミナリスがそう言うと、彼は少し顔をあげた。何を言うのかとでもいうような顔がいつになく子供っぽく感じるものだったから、ルミナリスはつい笑ってしまう。

 目が合った彼に、にっこりと微笑みかける。するとリューリクは極まり悪そうに目を反らせてしまった。

「王宮にいるときよりも、野狩りや野営のときのほうが、何だか……生き生きしているわよね」

「……そうでしょうか」

 ルミナリスの言葉に困ったように、リューリクは低い声で言った。なおも馬の体をこすっているリューリクに、ルミナリスは問いかける。

「王宮は、あまり好きではない?」

「そんなはず、ございません」

 リューリクは、視線を馬に向けたまま言った。

「……私の命は、ルミナリスさまにお救いいただいたもの。ルミナリスさまが私を不要と思し召すまで、おそばに」

「そりゃあわたしは! わたしはリューリクにいてほしいわ。当たり前じゃないの!」

 慌ててルミナリスはそう言って、立ち上がる。リューリクの前に立って彼を覗き込み、しかし彼は、それ以上を口にしない。ルミナリスが見つめても、馬に向けた目はそのままだ。

「リューリクがいないなんて、考えられないわ。だって、リューリクはいつもそばにいてくれて……今日だって、お前がいてくれるから、わたし、こんな奥に入ってきても平気だったもの」

 何も言わずに、リューリクは小さく会釈をした。

「ねぇ、リューリク」

 馬の世話を再開した彼に、ルミナリスは話しかける。

「あれから、どのくらい経った?」

「八年前にございます。ルミナリスさまは、六才にあられました」

 リューリクは迷うことなくそう言った。

「よく覚えてるわね」

 年月がすぐに出てくることに感心したルミナリスの言葉に、リューリクは少し肩をすくめただけだ。

「あれも、実りの月のことだったかしら。クマエの森に縁があるわね。わたしたち」

 そう言うと、リューリクは少しだけ小さく笑った。



 ルミナリスが初めて王の主催する野狩りに参加したのは、六歳のときだった。

 その日、初めて狩りに加わるルミナリスは新しい矢筒を背負わせてもらい、新しい弓を手に意気込んでいた。幼いルミナリスを前に、大きな声をかけてきたのは弓を片手に黒馬に乗った父・アラリック王だ。

「ルミナリス、決してゴアルのそばを離れるのではないぞ」

「もちろんよ、お父さま!」

 馬の上、手綱を握ったルミナリスは大きな声で返事をして、頷いた。ちらりと自分の後ろに従っている、昔からの従者のゴアルを見やる。

「ゴアルのそばを離れないわ。ちゃんと気をつけるから」

「ただでさえ妃は、お前を狩りに参加させることに反対だったのだから。怪我でもしたとなれば、何と申し開きすればいいのかわからん」

 アラリックは、太い眉をしかめて言った。

(お父さま、お母さまにはお弱くていらっしゃるから)

 思わず笑ってしまいそうになり、ルミナリスは慌てて口もとを引きしめた。

(お父さまがお母さまに叱られないように、絶対に怪我はできないわ)

 改めて背を伸ばす。抜けるような狩り日和の空の下、緊張は期待に上書きされた。大きく息を吸い、吐くと体中に力が漲るように感じる。

(でも、大丈夫。今日の日のために、弓も剣も練習してきたのだから!)

 狩りの始まりは、父王が告げる。王の宣言とともに、参加者たちが馬の手綱を引き、馬たちが揃って走り出す。ルミナリスもその中に混ざった。

「あ、兎!」

 視界の向こう、林の方向に茶色の小さな影が見えた。

「どうぞ、ルミナリスさまの初めての獲物になさいませ」

 そう言ってくれたのは、隣にいた父ほどの年の大臣だ。

「本当? ありがとう!」

 ルミナリスは笑顔でそう声をあげ、そしてぎゅっと手綱を引き絞る。

 愛馬は軽やかに駆け、しかし兎はルミナリスの矢の先にいてはくれない。立ち止まってルミナリスを見ていたかと思うと、すぐに走って行ってしまう。

「もう、じっとしてて!」

 おとなしく狩られるわけのない兎に、思わずそう声をかける。まるでその言葉がわかっているかのように逃げた兎が駆け込んだのは、少し離れた林の中だ。地面には枯れた葉が敷き詰められていて、馬を走らせると賑やかな音が立った。

「ルミナリスさま、お待ちください!」

 もうすでに老齢といっていいゴアルは、いささか情けない声をあげた。

「だって、兎が逃げちゃうもの!」

 ルミナリスは彼を振り返ってそう叫ぶと、馬を走らせて林の中に入り込む。

 秋の野は乾いたいい匂いに満ちていて、大きく息を吸い込んだルミナリスはなおも馬を走らせる。馬の背の上の振動は心地よく、ルミナリスは声を立ててなおも馬を駆った。

 兎はとうに行方知れずになっていたが、馬を走らせることが楽しくて、ゴアルを待たずにどんどん遠くに行ってしまう。

(あら……?)

 生い茂る木々は、林というよりは森のほうがふさわしいほどに深くなり始める。馬の足もとも深く茂る下草で覆われていて、顔を出した木の根に足を引っかけてしまったのだろう、馬は不平を言うように嘶きをあげた。

(ずいぶん深いところまで来ちゃったわ……ここ、どこ?)

 ルミナリスは馬の足をとめさせて、あたりを見回す。秋の色の深い森はひんやりと冷たくて空気は清廉で、吸い込むとその清らかさが体の中に染み込んでくるようだ。

(こんなところ、来たことない……)

(兎どころか、もっとたくさん動物がいそう)

 あたりをきょろきょろと見回す。馬も、ここはどこだというように不安げに声を立てている。頸を叩いてなだめてやりながら、ルミナリスはそろそろと先を進む。

 かさっ、と木の葉の動く音がした。ルミナリスは、はっとそちらを見る。茂った木々、その向こうに何かの影を見た。

(何か、動物……? いえ、それにしては大きいわ。あれは……)

「誰だっ!」

 鋭い声が飛んできて、ルミナリスは驚いて身を反らせた。大きく目を見開く。

(人、だわ……男の子!)

 青年というにはまだ幼い、ルミナリスより少し年嵩の少年だ。少年は、木の幹に半分体を隠し、射抜くような視線でこちらを見ている。ルミナリスは息を呑んで、その少年を凝視した。

(このようなところ、人が住むところではないわ……この先は、クマエの森よ?)

(クマエの森といえば、狼や猪が出るようなところだというのに? こんな恐ろしいところに、男の子がひとりで?)

「近寄るな、こっちに来るな!」

 大きな声で、少年は叫ぶ。迷い込んだのなら、人の姿を見て助けを求めてきてもおかしくないのに。しかし少年はルミナリスを威嚇してくる。

「お前も、迷い込んだのではないの?」

 そんな彼を訝しく思いながら、ルミナリスは近寄った。少年は、ひるむように後ずさりをした。

「どうしたの、どうしてこんなところにいるの?」

「近寄るなと言うのに!」

 ルミナリスが馬を進めると、少年は逃げてしまう。しかし馬のほうが当然足は速く、ルミナリスはすぐに追いついた。

 少年は木の幹の後ろに身を半分隠し、なおも凄味を利かせたまなざしでルミナリスを睨んでくる。

 背後に馬が駆け寄ってくる気配を感じた。振り返るまでもない、ゴアルだ。

「どうなさいました、ルミナリスさま」

「ゴアル、あそこよ!」

 ルミナリスは、茂みの中を指差す。

「誰か、あそこにいるの。男の子みたい」

「男の子ですって……?」

 ゴアルは腰の剣に手をやった。ルミナリスは慌てて、彼を制する。

「だめよ、そんなの出したら、あの子が恐がっちゃう!」

「ですが、不逞の輩かもしれません」

「いいの、ちょっと待って」

 ルミナリスはそう言い置いて、馬から降りる。これ以上少年を驚かせないようにとゆっくりと、彼のもとへと歩いていく。身構えた少年からは、ぴりぴりするような警戒の気配が伝わってくる。

「お前、どうしてこんなところにいるの?」

 幼いルミナリスの声さえも、彼を脅えさせるものらしい。少年は背筋を凍らせた。

「どうしてこんなところにいるの? お前のおうちは?」

「来る、なっ!」

 近づいてくるルミナリスを前に、少年は大声をあげた。驚いてルミナリスは立ち止まる。木の陰から少年が飛び出してきた。

「来るな、近づくなっ!」

 少年は何かを振りかざす。ルミナリスは悲鳴をあげて、その場にしゃがみ込んだ。背後でゴアルが、剣を抜くのがわかった。

 固いものがぶっかる音がする。ルミナリスの目の前を、枯れた枝が半分に斬れて飛んでいった。

 ルミナリスは慌てて立ち上がる。少年のかざしたのは木の枝で、それがゴアルの剣が受けとめたのだ。

 鋭い刃は、枝など易々と半分にしてしまう。少年は半分になった枝を握ったまま、唖然とその場に立ち尽くしていた。

 ゴアルは身軽に馬から降りた。往年の彼の姿を思わせる身のこなしで少年をその場にうつ伏せにねじ伏せ、剣先を首もとに当てた。少年が、呻き声を上げる。

「だめよ、ゴアル! 剣を離して!」

「しかし、ルミナリスさま。この者はルミナリスさまを狙おうとしたのですよ」

「何かわけがあるのよ、離してあげて!」

 ルミナリスは急いで立ち上がり、少年に駆け寄る。ゴアルを見上げ、手のひらで剣を制した。

「危のうございます、ルミナリスさま、お手を!」

「わたしが話を聞くわ、心配ならそこにいて。でも、剣はしまってちょうだい」

 ゴアルはためらっていたが、やがてそっと剣を引いた。油断なく少年を見やりながら、剣を腰に収める。

 剣が鞘の中に姿を消したのを目に、ルミナリスは少年に向き直った。

「ねぇ、どうしてお前、こんなところにいるの。どうしてわたしを襲おうとしたの?」

 地面にうつ伏せたままの少年の衣服は、ぼろぼろだった。頬もこけ、その黒髪にも何日も櫛を通していないことが明らかだ。

「もしかして、ずっとここにいるの? ずっとここで、ひとりでいるの?」

 ルミナリスは、少年の顔を覗き込む。地面に伏せたまま顔をあげる体勢の少年の、鋭く尖った青の瞳と視線が合った。彼は、恐ろしいまなざしでルミナリスを睨みつける。

「殺せばいいだろう! さっさと殺せ!」

「どうしてそんなことを言うの! 殺したりしないわ、ただわけを聞かせてほしいの!」

 大きな声でルミナリスも言い、その勢いに押されたように少年は口をつぐんだ。そしてなおも、ルミナリスを強く見やる。

「お前たちは、王都の貴族だろう? お前たちは自分たちが安全ならいいと思って、俺たちを見捨てたんだ! 見捨てて、やつらが好き放題するのを放っておいたんだ!」

「やつら……?」

 少年の言うことは不可解だった。しかし彼の言葉に、ルミナリスの脳裏によぎった記憶があったのだ。

(もしかして……!?)

 ルミナリスは地面に手をついた。少年を覗き込むようにしながら、声をあげる。

「やつらってなに、どういうことなの? わたしたちがお前を見捨てたって、どういうこと!?」

「イダの村だ! 聞いたことがないとか、言うな!?」

「イダの村、ですって……?」

 その村の名に、ルミナリスは大きく目を見開いた。一月ほど前、父王が近臣と話していた内容が蘇る。

「お前……、イダの村の……?」

 ルミナリスの言葉に少年は唇を噛み、強い視線を向けてくる。睨みつける中にも悲しみのよぎったその表情に、ルミナリスは固唾を呑んだ。

「イダの村の、生き残りなの?」

 少年は何も言わない。唇を噛んだまま、勢いよく横を向いた。

「やっぱりそうなのね。クルスームがイダの村を襲ったって。生き残った者はクマエの森に逃げ込んだって。……お前が、その生き残りなの?」

 やはり少年は、何も言わなかった。しかしルミナリスの方を向かないままのその顔つきが、何よりの答えだ。ルミナリスは慌てて、視線を逸らせる彼を覗き込む。

「ほかの者は? ほかにも、隠れている者があるんじゃないの?」

「……誰も」

「誰もないの? と、いうことは……?」

(誰も? ……じゃあ、……この子は、ひとりなの?)

「じゃあ、お前はひとりなの!? こんな、子供なのに? 子供なのに、たったひとりで!?」

 思わず声がうわずってしまう。ルミナリスの声は彼にどう響いたのか、彼は訝しげにこちらを見やった。ルミナリスを見た彼は、何かに押しとどめられたように口をつぐんでしまう。

「お父さまと、お母さまは? 誰も、いないの?」

 ルミナリスの声は震えた。少年は、かすかにうなずく。

「誰もいなくて……ひとりなの? ひとりで、このようなところにいたの? ずっと?」

 その勢いに押されるように、少年はまた首を縦に振る。ルミナリスは、息を呑んだ。

(わたしより大きいけれど、でもまだ子供なのに。それなのに、ひとりなんて。ひとりぼっちだなんて……)

 ルミナリスは手を伸ばす。彼の手を握り、声をあげた。

「お父さまも、早々に兵を送ったのよ。だけど間に合わなくて……兵たちが着いたら、もう村には火が放たれていたって」

 その報告を聞いたときのことを思い出した。大きく背を震わせる。少年は、先ほどまでの警戒が嘘のように、素直にルミナリスに手を取られたままだ。

「お前も火に焼かれたの? 苦しかった……わよね。たぶん、わたしが考えているよりもずっと」

 少年は大きく目を見開いて、ルミナリスを見ている。

 そんな彼の顔が、ルミナリスの視界の中で急にくしゃっと歪んだ。あっという間に視界は曇り、頬に暖かいものが伝う。

「ごめんなさい。わたし、なにもできなくて」

 ルミナリスの目からは涙があふれた。留められない咽びに、咽喉が震える。

「ごめんなさい、わたし……」

 懸命に目をこすった。しかしあとからあとからこぼれてくる涙は押さえられず、ルミナリスはがむしゃらに袖を引っ張り、涙を拭いた。

(わたしが泣いても、仕方がないのに。わたしが泣いたからといって、この子が救われるわけではないのに)

 それでも涙はとまらなかった。袖をびしょびしょにしながら涙を拭い、しゃくり上げる息をこらえ、それでもなお嗚咽が迫り上がる。

「何もできなくて……辛い思いをしている者があるのに、何も、できなくて」

 泣きじゃくってしまうなど恥ずかしい、そう思ってもとまらない。ルミナリスは懸命に泣きやもうと息を殺し、しきりにまばたきをし、しかしそうすればそうするほど、涙は次から次へとあふれてくる。

 震えるルミナリスの背に、そっと触れてくるものがあった。温かい手。ルミナリスは目を見開く。

(な、に……?)

 泣き濡れた目を、精いっぱい見開いた。目の前、少年は体を起こしている。手の主はその少年だった。彼はルミナリスを慰めるように覗き込んできていて、そして呆れたように言った。

「お前が泣いて、どうする」

 少年は短くそう言った。それきり黙って、ルミナリスにまなざしを注いでいる。彼の青の瞳に見つめられて、ルミナリスはまた目をこすった。

「わかってるわ、わかってるけれど……でも……!」

 ルミナリスは大きく首を振った。見つめてくる少年は、ルミナリスの背に置いた手を動かした。

 しきりに撫でてくる手は柔らかく労るようで、先ほどのような気に強い視線の主と同じだとは思えないほどに、優しい。

(何か、わたしにできること。この者に、わたしが精いっぱいできること……)

 少年をじっと見て、そんなルミナリスの視線にひるむ少年の前、ルミナリスの口は勝手に動いていた。

「お前、わたしと一緒に来ない?」

「……え?」

「わたしと来てちょうだい。お湯を使わせてあげられるわ。お食事もあげられる。そして、わたしの寝台で眠ってほしいの」

「で、も……」

「わたし、お父さまのお話を聞いているしかできなかったわ。でも、その間お前は辛い思いをしたのよね。だから……だから、少しでも」

 ルミナリスは言いつのった。少年は驚いた顔をしている。大きく見開かれた彼の瞳は鮮やかに青く、頭上からの陽を受けて際だって映った。

(きれい……)

 しゃくり上げながら、ルミナリスは少年の目に見とれた。

(なんだか、真夏のティレニアの海の色みたい……)

 そんなにきれいな瞳の持ち主である彼が微笑めば、どれほどに魅力的だろうか。どれほどに目を惹くだろうか。そのようなことを思いながら、ルミナリスはなおも言葉を続けた。

「わたし、お父さまにお話しするわ。お父さまも悔やんでいらしたもの、クルスームの襲撃でイダの村が滅ぼされてしまったこと、助けられなかったことが悔しいって、何度もおっしゃっていたもの」

(イダの村の者だもの、お父さまも反対はなさらないはず)

 そう考えるルミナリスの後ろから、声がかかった。

「ルミナリスさま、このような者を王宮に連れていくなどと」

 たしなめるのはゴアルだ。ルミナリスは振り返って、声をあげた。

「だって、この者はひとりでこのような場所にいるのよ? ひとりで、こんな恐ろしい場所に……」

(夜になったら、どんなに暗くて……恐ろしいかしら)

 そう考えると、ぶるりと背が震えた。ルミナリスは胸に手を置き、まだ少ししゃくり上げたまま続ける。

「わたしは、わたしにできることをしたいの」

 ルミナリスは、大きく息を吸った。震える呼吸を懸命に整えて、そして少年に手を差し伸べる。少年は、目を見開いた。

「わたしと一緒に、来て」

 少年はたじろいだ。手を伸ばしたままルミナリスは、じっと少年の乱れた黒髪を、澄んだ青の瞳を、ぼろぼろの衣服を見やる。

「わたしに、何かをさせてくれる?」

 彼は、うなずいた。まだ濡れたままの目からはひとしずく涙が伝い、少年の指がそれを拭ってくれる。その手は切り傷だらけで、それを目に、また涙が落ちた。



 八年前の記憶は、クマエの森の中で鮮やかに蘇る。

 馬たちは、体の手入れをされて満足げに鼻を鳴らしていた。リューリクは、めったに見せない笑顔を馬たちに見せている。水袋を手にしたままルミナリスは、そんな彼を見つめていた。

 ルミナリスの視線に気がついたらしいリューリクは、こちらを見てくる。目が合って、彼は何も言わずにまなざしを伏せた。

(真夏のティレニアの、海の色)

 彼の瞳を目に、あのときそう思った。泣いてしまったルミナリスを慰めてくれた、少年のまなざし。今の彼は体躯はあのころとはまったく違うけれど、その瞳の色だけは変わらない。

 あれから少年を、王宮に連れて帰った。自分の従者にしてくれるように父王と母妃に頼み込み、以来リューリクはそばにいる。ルミナリスがどんなに馬を無茶に飛ばしても、リューリクだけは着いてくる。いつ振り返っても、彼は後ろに控えている。

 あたりは静かだ。深い森の中、いったい自分がどちらからやってきたのか見当さえもつかない中にあってもルミナリスに不安はない。リューリクがいてくれるから。

(リューリクがいてくれるのなら、すぐに狩り場まで戻れるわ)

 それは奇妙な確信だ。あのとき泣きじゃくるルミナリスの背に触れてきた、優しく温かい手。怪我だらけの手。あの体温と傷はルミナリスに、悲しみとともに安堵をくれた。それは今も変わらない。

(リューリクがいてくれれば、大丈夫)

 満足した馬たちは互いに話でもするように鼻面を向け合っていて、リューリクに何かを訴えるかのように鼻を鳴らした。彼は小さく笑って、頸を撫でる。

 ルミナリスは立ち上がった。涼やかな音に誘われるままに、さらさらと流れる水辺に歩いていく。

「あ」

 馬に近づこうとして、ルミナリスの目に入ったのは薄紫の釣り鐘型の花だ。川の流れの中、少し浅くなっているところに二輪咲いている。

(おみやげにしたいわ。シビュレへの)

 ルミナリスはそっと、川の流れのぎりぎりのところにまで歩いていく。浅くなっているところに手を伸ばそうとしたのだ。

「ルミナリスさま、花なら私が」

「大丈夫よ、届くから」

 水の中に落ちないように、両足に力を込めながら手を伸ばす。指先に花が触れ、しかしその勢いで体重が前に倒れ、足がすべって水の中に落ちてしまった。

「きゃっ!」

「ルミナリスさまっ!」

 後ろから手が伸びてくる。強い腕に、抱き寄せられた。

「あ、……」

 腹部に腕を回して引き寄せられて、だからルミナリスが濡れたのは膝から下と、花を掴んだ手だけだ。リューリクの腕の中、ルミナリスは大きく息をついた。

「ありがとう……」

「子供のようなことをなさいませんように」

「ごめんなさい」

 子供のように叱られて、ルミナリスは小さく謝った。リューリクは腕を離さない。手を離しては、ルミナリスがそのまま川に落ちてしまうとでもいうようだ。そんなに強く抱きしめなくても、大丈夫なのに。

「もう風は冷たいのですから。お風邪でも召されては」

「そうね、ごめんなさい……」

 ルミナリスの体を支えたまま、彼は珍しく責めるような口調だ。ルミナリスが謝っても、彼の手は離れない。

「あの、リューリク……」

 体に回った腕が思いのほか強いこと、決して離さないとでもいうような力の大きさに、ルミナリスはひるんだ。

「わかったから……離して」

 言うと、リューリクは慌てたように手を離した。先ほどまでの力とは裏腹に、まるで壊れものを扱うようにそっとルミナリスを引き上げ、乾いたところに立たせてくれる。

「……ご無礼を」

 聞こえるか聞こえないかというくらいの、小さな声でリューリクはそう言った。

「ですが、貴き御身の事なきのため。どうぞご容赦ください」

「わかってるわ……。わたしこそ、慌てさせてしまって。悪かったわ」

 リューリクはルミナリスの体から手を離し、懐から布を取り出した。濡れた手足を拭ってくれる。

 彼は手を伸ばして花を取ると、濡れた布で花をくるんだ。それをルミナリスに手渡してくれた。

「ありがとう」

 受け取って、花を見つめる。上目遣いにリューリクを見上げ、ため息とともにつぶやいた。

「リューリクは力が強いのね……びっくりしたわ」

「申し訳ございません」

「違うの、そういう意味じゃないわ! 助けてくれてありがとうってこと!」

 両手で花を持ったまま、慌ててそう言ったルミナリスに、リューリクは頭を下げる。目の前に手をかざして、空を見上げた。

「そろそろまいりましょう。陽が暮れます」

 リューリクはルミナリスの座っていた敷物を取り、馬の鞍をつけ直す。手綱や頭絡をきっちりと留める手際のよさに、見とれた。

「ルミナリスさま、どうぞ」

「……あ」

 手を差し伸べられて、慌てて取った。鞍にまたがり、花は懐に入れて手綱を持つ。リューリクも馬に乗って、少しルミナリスの前の位置をとって森の中をゆっくりと駆けていく。

 体には、まだ彼の強い力が残っているようだ。先ほどのことなど忘れてしまったかのようにリューリクはいつものとおりなのに、ルミナリスはつい彼を見てしまう。

(痛いくらいの力だった)

 彼が大人の男性であることを改めて実感しながら、その横顔を窺う。しかし彼はまっすぐに前を向いたままだ。その視線が自分の方を見ないことに、少し寂しさを感じた。

 先に行くリューリクが顔に近い枝を払ってくれるので、馬も嫌がることなく前を行く。そうやって森を抜けながら、ルミナリスは花を入れた懐にそっと手を置いた。

(シビュレ、喜んでくれるかしら)

 そう考えると、自然に笑みがこぼれた。



 その日のルミナリスは、昼の陽の高いうちから寝台の中にいた。

 狩りの日、夕刻になって空気は急に冷たくなった。また気温の低い森の奥まで入っていったせいか、手や足を水につけてしまったせいか、ルミナリスは狩りの日から熱を出してしまったのだ。

「ルミナリスさま、お加減はいかがですか」

 薄く目を開ける。昼の日を遮るための窓掛けのおかげで、部屋の中は薄暗い。熱にぼやけた視界の向こう、心配そうに覗き込んでいるのはルミナリスの側づきの女官で、額の上の濡れた布を取り替えてくれる。

「もう、大丈夫……」

「お声が出るようになりましたわね、よかったこと」

 大丈夫とは言っても、熱はまだ高い。女官の手は冷たくて心地よくて、それに吸い込まれるように息をついた。まだぼんやりしている頭は、また眠りの中に取り込まれていきそうになる。

 そうやってまた眠りかけたルミナリスは、低い話し声に再び目を覚ました。目をつぶったまま、誰の声かと考えた。

(あれは、リューリクと……お母さまの女官だわ)

(ということは、お母さまが来てくださったのかしら。リューリクが取り次いでくれている……)

 しかし声に出して尋ねるだけの力はない。ややあって、枕もとに立ったのはイルミーナだった。母は寝台の中のルミナリスを見て、小さく声をあげた。

「まぁ、ルミナリス……こんなことに」

(そんなに、心配なさらなくても。大丈夫)

 ルミナリスの声は形にならなかった。イルミーナは寝台のかたわらの椅子に座ると、手を握ってくれた。その手も冷たくて、心地よさを求めてルミナリスはぎゅっと手を握り返す。

「だから狩りなどいけないと陛下にも申し上げたのに、お聞き入れくださらなくて。もう狩りになど行ってはだめよ」

「違います、お母さま……!」

 ルミナリスは懸命に声を紡ぎ出し、言いつのった。

「狩りとは関係ないわ。ただ、あの日は少し寒かったから……」

「確かに、冷え込んだ日だったけれど」

 ルミナリスはいきなり、咳き込んでしまう。背を丸くして咳をするルミナリスにイルミーナは慌て、背を撫でてくれた。

「ごめんなさい、病のお前に話させるなんて」

 イルミーナは女官を呼び、女官が水の杯を手渡してくれる。ひと口含むと楽になり、大きく息をついた。ルミナリスは再び背を寝台につける。

「お父さまも、ずいぶん心配していらしてよ。見舞いに来たいと言っておいでなのだけれど、どうしても時間が割けなくてね」

「お父さまも……」

(お父さまにまでご心配をかけて、申し訳ないことを……)

(でも、何だか……心配していただくのって、嬉しい)

 懸命に目を開けて、イルミーナを見る。母は優しい目でルミナリスを見つめ、髪を撫でてくれる。

 母はいつも、こうしてくれた。長い金の髪をすくい上げ、指で繰り返し梳く。イルミーナの手から心安らぐ温かさが伝わってくるようで、ルミナリスは目をつぶった。

「あら」

 イルミーナが小さく声をあげたことに、ルミナリスははっと目を開ける。イルミーナは枕もとの小さな花瓶を見やっている。

「あれは何の花? かわいらしいわね」

 その花をとろうとして、水に落ちたのだ。そんな子供のようなことは恥ずかしいと、ルミナリスは口をつぐんだ。

「狩り場にあったの? かわいらしい花ね、見たことのない種類だわ」

(お母さまのお気に召して、嬉しい)

 しきりにイルミーナが褒めてくれることが嬉しくて、ルミナリスは口を開いた。熱に鈍った頭では、自分の言葉にイルミーナがどう反応するのか、考える余裕はなかったのだ。

「シビュレに、おみやげと思って」

「……シビュレさま、ですって?」

(あ、……!)

 ルミナリスは、慌てて口をつぐんだ。しかしもう遅い。おまけに自分では枕から頭を起こすことはできず、だからイルミーナがどのような表情をしたのか、見ることはできなかった。

「ルミナリス」

「……は、い」

 イルミーナの口調は、強ばっていた。名を呼ばれて、ルミナリスはゆっくりと掠れた声で返事をする。

「お前、シビュレさまをお訪ねするのを、やめないのね」

「だ、って……」

 先ほどまで髪を撫でてくれていた優しさが、遠のいてしまったことが悲しい。迂闊なことを口にしてしまったと悔やむが、しかしシビュレへのみやげだということは本当のことなのだから、どうしようもなかった。

「神殿には出入りしないようにと、あれほどに言っているのに。拝礼のためならいいわ。けれどお前の目的は違うでしょう?」

「……ええ」

 つい正直に答えてしまい、イルミーナはため息をついた。目に映るイルミーナは眉根に皺を寄せて睨みつける顔をしているが、その表情はどこか悲しそうに見えた。

「シビュレさまと関わりを持たないようと、言っているのに」

「……はい」

(お母さまに、こんな顔をさせてしまって)

(でも、シビュレは……シビュレはわたしの妹だもの。ただ、それだけよ)

 思うことは言葉にならない。わずかに唇が動くだけだ。

「あの娘に罪がないのは、わたくしとてわかっています。けれど」

 イルミーナは、いつもの優しさを失ってしまったかのように厳しい口調で言った。

「いけないと言うことを、どうしてわざわざするの? お前も、わからない年ではないでしょう?」

(でも、あの子だってお父さまの子なのに)

 ルミナリスの言葉は、声にならない。

(神殿から外に出ることを許されず、一生をあの館で過ごさなくてはいけないなんて……そんな、こと)

 その悲しさは、熱にぼんやりとした中にも深く響く。そんな中、耳もとにイルミーナのため息が聞こえる。

「キフティ朝の血が、未だ存在するから。あのようにはっきりとした形で存在するものだから、おかしなことを考える者が絶えないのだわ」

「え?」

(おかしなことを考えるって、いったいどういうこと……?)

 イルミーナの言葉に、ルミナリスは目を見開いた。渇いた口は、自分でも驚くほどにはっきりとした言葉を綴った。

「お母さま、それってどういう意味なの?」

「……あ」

 はっとしたようにイルミーナはルミナリスを見、すぐに笑みを作って首を左右に振った。

「ごめんなさい、お前に聞かせるようなことではなかったわね」

(お母さま?)

 それ以上、イルミーナは口を開かなかった。ルミナリスも何と問えばいいものか、言葉を考える思考力はない。混乱する中にも、熱の怠さが邪魔をしてうまく考えられない。

(キフティ朝の血? それっ、て……)

「ゆっくりおやすみなさい」

 優しく撫でる、手が触れる。髪を再びゆっくりと梳かれ、頭を撫でられてほっと息をついた。

「何か食べたいものは、ない? 果物でも持ってこさせるわ」

「大丈夫よ」

 ルミナリスは、ゆっくりと首を左右に振る。イルミーナは微笑んで、また頭を、ルミナリスの金の髪を撫でてくれる。ルミナリスの目には、枕もとの紫の花が映った。

(お母さま、ごめんなさい)

 眠りに吸い込まれていきながら、ルミナリスは胸の奥でつぶやいた。

(でも、シビュレは……わたしは、シビュレが好きなの。あの子に会いたいの。会うのをやめるなんて、そんなことできないわ)

 口を閉じたままなのは、熱のせいばかりではない、そのようなことを口にしては、イルミーナはまた悲しそうな顔をするだろうから。

 だから言葉は、胸の中にしまい込んで。ルミナリスの意識にあるのは、母の優しい手の感覚だけになった。



 やっと寝台から解放されたのは、三日後だ。元気になってすぐのその日、ルミナリスは神殿への道を馬で駆けていた。後ろにはリューリクがついていて、ちらりと見やると馬の足を速めて近づいてきた。

「ルミナリスさま、どうぞごゆっくり。回復されたばかりなのですから」

「大丈夫よ、もう平気!」

 そう笑いながら言って、ルミナリスも馬の腹を軽く蹴った。愛馬も、ルミナリスを乗せて駆けることが嬉しいとでもいうように力強く道を走る。

(やっとシビュレに会いに行けるわ)

(この花を渡したときの、顔が見たい)

 胸にそっと、手を置いた。そこに収めてある花、それを目にしたときのシビュレの表情を想像すると、自然に頬がゆるんでしまう。

 いつもどおりに裏の門から入り、厩に馬をつなぐ。神殿の脇の小道を行き、シビュレの住まう館のほうに歩いていく。

「ここにまた来られて、よかった」

 顔をあげて、リューリクに微笑みかけた。

「あのまま熱が下がらないんじゃないかと思ったわ」

「ここしばらくのお疲れもあったのでしょう」

 短く言ったリューリクは、うなずいた。

「あのままで、起きあがれなくなったらどうしようかと思っていたの。思っていたよりも早く元気になれてよかったわ」

 ルミナリスは現われた女官に訪問を告げ、その先導に従ってひやりとした廊下を歩く。


 シビュレはいつものように部屋にいた。椅子に腰を降ろし頬杖を突いているシビュレは、膝の上の書巻に目を落としている。

「シビュレさま、ルミナリスさまがおいでです」

 しかしシビュレは、うつむいたまま返事をしない。

「シビュレさま?」

 なおも身動きしない彼女は、かけられている声にも気づかないくらいに書巻に気を取られているらしい。

(相変わらず、素晴らしい集中力ね)

 ルミナリスは、手を上げて女官を制した。そしてそっと床を踏む。足音を殺してシビュレの後ろに立ち、手にした花を目の前に突き出した。

「きゃっ!」

 声をあげたシビュレの膝から、書巻が落ちる。シビュレは飛び上がって椅子から立ち、振り返った。彼女の銀色の髪が、光を散らしたように輝いた。

 大きく目を見開いたシビュレの、瞳の色が美しい。その色彩に、ルミナリスはしばし見とれた。窓から薄く差し込む陽が、彼女の容姿に色を添えている。

「まぁ、お姉さま!」

 振り返ったシビュレは、なおも大きく目を開いたまま、声をあげた。

「ご病気だと伺っておりましたけれど、もう大丈夫でいらっしゃいますの?」

「大丈夫よ、ありがとう」

 ルミナリスは書巻を拾ってやり、シビュレは呆然とした表情のまま、それを受け取った。

「元気になられたのは嬉しいですけれど、驚かせないでくださいませ、心の臓が飛び出すかと思いましたわ」

「ごめんなさい、だってわたしが入ってきても、気づかないのだもの」

 胸を押さえるシビュレは、扉のほうを見た。

「いつの間においでになったの……?」

「さっき、声をかけたわよ?」

「お呼びになった? 本当に?」

 まだ驚きから抜け出せないらしいシビュレの目の前に改めて、花の束を差し出した。ルミナリスは目を丸くする。

「ほら、これ」

「まぁ……かわいらしい」

 シビュレはつぶやいた。両手で花を受け取り、じっと目を落とす。そして驚いたままの顔をあげてルミナリスを見た。

「いただいても、よろしいのですか?」

「ええ、もちろん!」

 弾んだ声で、ルミナリスは言う。

「この間の狩りのおみやげ……と言いたいところなのだけれど、床に就いている間にしぼんでしまったの。だから似たようなものを探させたのだけれど、同じものはなくて」

「いいえ……いいえ!」

 肩をすくめるルミナリスに、シビュレは首を左右に振った。その髪が、また陽を受けてきらめく。

「お姉さまのお気持ちが嬉しいですわ。ありがとうございます」

 今の彼女からはいつもの寂しげな印象は薄く、見ているほうが嬉しくなるような表情をしている。ルミナリスもつられて、満面の笑みを作った。

 シビュレは目を落として花を見ている。そして、銀色の髪を揺らして顔をあげた。

「お花も嬉しいけれど、お姉さまがお元気になられたことがもっと嬉しいわ」

「ありがとう」

 心底シビュレがそう思っているということが、その表情から伝わってくる。ルミナリスはにっこりと微笑んで、シビュレもはにかんだような笑みを浮かべた。紫の花を両手に握り、にっこり微笑む様子は、手にした花もかなわないと思う。

「水に生けるわ。あ、かわいらしい容れものがいいわね」

 シビュレは声をあげて、女官を呼ぶ。ルミナリスが顔をあげるとリューリクと目が合った。

 彼は、シビュレが花を喜んだことを一緒に嬉しがってくれるというように、微笑んだ。ルミナリスもつられて、笑顔を向けた。



◆◇4◇◆



 ルミナリスは大きく息をついた。今日は風が強い。広い馬場を囲む見物人たちからときどき声があがるのは、その強い風に帽子を飛ばされたり砂が舞い上がったりするせいらしい。

 ルミナリスの金の髪も、風に吹き上げられる。髪を押さえながらルミナリスは、御前での馬術大会の会場を見やった。ルミナリスも今からそこに向かうのだ。

 風の吹いた方向に顔を向けると、馬の手綱を引いているリューリクがいる。彼の姿に少し緊張が解けたような気がして、ルミナリスは大きく息をついた。

「失敗せずにやれると思う?」

 そうリューリクに問いかけたのは、答えがほしかったわけではない。そんなことは神にしかわからないし、リューリクもルミナリスが返事をほしいのではないということはわかっているはずだ。

 案の定彼は何も言わずに、ただルミナリスを見た。彼に引かれている馬もルミナリスの緊張がわかっているというのか、ぶるると小さく声をあげる。

「練習は、いっぱいしてきたけれど。うまくいくかしら」

「ルミナリスさまのお心次第でしょう」

 まるで心さえしっかりしていれば、技術のほうは問題ないとでもいうようだ。ルミナリスは首をかしげて、リューリクを見やる。

「心? 技術のほうは?」

 彼の口調がおかしくて、そう問い返す。リューリクは顔をあげて、じっとルミナリスを見た。

「それは、ルミナリスさまが一番ご存じなのではないですか」

「自信を持ってやれってこと?」

 リューリクは返事をせず、ただ小さく口の端を持ち上げただけだった。

(頑張れって言ってくれたらいいのに)

 そうは思いながらも、実際彼が『頑張れ!』なんて言うことがあれば、彼の額に手を当てて熱でもないかと確認してしまうだろうけれど。

(頑張れって思ってくれてるとは、思うけれどね)

 ルミナリスは、新調したばかりの乗馬服の裾をきゅっと引っ張る。薔薇色のビロード仕立ての乗馬服は、一目見て気に入ったものだ。

「この衣装を着て、みっともないところは見せられないわね」

 リューリクは、小さく微笑んだ。彼の笑みにつられるままに笑って、ルミナリスは馬場に目を向ける。ちょうど、前の競技者が演技を終えたところだ。

 右手にある観覧席の中央にはアラリック王とイルミーナ正妃が席を取っていて、まわりを近衛兵たちが守っている。ルミナリスが顔をあげると、こちらを見たイルミーナと目が合った。

(お母さま)

 イルミーナはルミナリスを励ますようににっこり微笑んでくれて、それに力を得たように感じた。

「ルミナリスさま、騎馬ください」

 係の者にそう言われ、ルミナリスはうなずく。リューリクの手に手伝われてひらりと鞍にまたがり、馬の頸をぽんぽんと叩く。馬は頭を揺らして、返事をしてくれた。

「お願いね、わたしも頑張るから!」

 そう言って、手綱を引いた。馬は馬場に足を向け、ルミナリスの姿に観客席の者たちが声をあげる。

 御前の大会を見物するのは、観覧席を埋めた大臣たちに貴族たち。また馬場の入り口近くの見物場には、王都の民たちがひしめいている。王都の住人が皆集まっているのではないかと思うような人だかりを前に、緊張が増した。

(あんなにたくさん……!)

 大会に出るのは初めてではないが、それでもこのような場ではどうしても緊張してしまう。

 それでも、馬に乗ると全身に力が漲るように感じる。手綱を握ったルミナリスは高く一声叫び、そしてふくらはぎで馬の腹を締めつけた。馬が、一気に馬場に駆け出す。


 ルミナリスの操る馬の足は、馬場の障害を難なく越えていく。

 膝までの高さに積み上げられた煉瓦の障害、平行に並んだ二段の垣根。垣根が三段になったものも易々と越え、そのたびに歓声があがる。

 褒め称える声に誇らしく、ルミナリスは馬上の背を正した。馬もそんなルミナリスの意気に応えるようにますますなめらかに足を進め、大きな水壕をひらりと飛び越えたときには、また新たな歓声が上がった。

 一番難しいところを無事にやり終えたことに、ほっと息をつく。あとは最後の煉瓦の壁を越えるだけだ。

(あ……ら?)

 観客席の脇の見物人たちの中、風に吹かれる銀の髪が見えたような気がした。ルミナリスの目は豊かな銀色の波に惹きつけられて、見開かれた。

(シビュレ……?)

 どうして、シビュレがここに。気を取られたルミナリスは、馬への扶助を少し間違えた。最後にひとつ、煉瓦の壁を乗り越えての大きな跳躍を見せるはずだったのに、壁のまわりを回ってしまった。

 がっかりした観衆の声に申し訳ないと、肩をすくめる。それでも馬の手綱を引くルミナリスの目は、見物人のほうに注がれたままだ。

 出発点に戻ったルミナリスを待っていた者たちの中、リューリクを懸命に手招く。彼の耳もとに、ささやきかけた。

「ねぇ、リューリク! シビュレが来ているわ!」

「……シビュレさまが?」

 リューリクはルミナリスの指差す見物人の方を向いた。そこでは小さな騒ぎが起こっている。

(表に出るのに、シビュレがあの目立つ髪を隠さないわけがない)

(あの子の髪が目に入ったのは、フードがはずれるか何かして……こんな、風が強いのですもの。何かそういうことが……)

(だから、あんな騒ぎが……)

 続けて頭をよぎったことに、ルミナリスは息を呑む。

(しかも、あの子は陽の光に弱いのに……!)

「リューリク、リューリク!」

 気づけばルミナリスは、叫んでいた。

「リューリク、シビュレを助けてあげて!」

「御意」

 その言葉を待っていたかのように、リューリクは頭を下げた。素早く踵を返した彼の背が遠くなるのを目に、ルミナリスは安堵の息をつく。

 彼に任せていれば大丈夫だ。ルミナリスは係の者に促されるままに馬を降り、観覧席に向かう。両親の前でひざまずいた。

「ルミナリス、いったい何があった?」

「お前があれを飛び越えられないとは思わなかったわ。どこか具合の悪いことでも?」

 観覧席のアラリックとイルミーナが、心配そうに話しかけてくる。両親を前に、ルミナリスはふと考えついたことがあった。その考えに、低く息を呑んだ。

(シビュレが、ここに来ている)

(これは機会なのかもしれないわ。お父さまとシビュレを会わせるための)

(シビュレはお父さまに会いたがっているのですもの……あの子の願いをかなえる、好機)

 ルミナリスは改めて、顔をあげる。そして小さく、ささやくように告げた。

「お父さま、お母さま」

「どうした」

「……シビュレが、来ているの」

 その名にアラリックは大きく目を見開き、イルミーナも、目にはっきりと体を強ばらせた。

 ふたりの表情は、嫌悪する者の名を聞いたとでもいうようだ。その様子は、ルミナリスの心をかき乱す。かっと体中が熱くなる。

「どうして? どうしてシビュレを疎外なさるの?」

 気づけば、そう叫んでいた。

「シビュレが、キフティ朝の血を引いている者だから? そんな、シビュレの落ち度ではないわ。それなのに、あのようなところに……一生、あのままだなんて!」

「ルミナリス。黙るがいい」

 厳しいアラリックの声が降ってきた。いつもルミナリスには優しい父がそのように表情を尖らせるのを見たのは、初めてかもしれない。それでもなお、ルミナリスは食い下がった。

「どうして? このような場で、あの子も晴れがましい扱いを受けてもいいはずだわ。あの子だって、お父さまの子なのに……」

「ルミナリス!」

 父の一喝に、ルミナリスは大きく体を震わせた。アラリックは立ち上がり、かたわらの従者に厳しく告げる。

「連れて行け、部屋から出してはならん」

「お父さま!」

 アラリックは、席を立ってしまった。残されたイルミーナは顔色をなくし、立ち上がることも忘れてしまったかのようだ。

(ごめんなさい、お母さま)

 胸の奥で、そっと謝る。

(でも、王女であるはずのシビュレがあんなふうにこっそり大会を見物するだけだなんて……そんな、こと)

 イルミーナは、しばらく呆然とその場に座っていた。しかしすぐに立ち上がると、慌てたようにアラリックのあとを追う。衣擦れの音ともに、天幕の後ろに姿を消してしまう。

「お父さま、お母さま!」

 大声をあげて立ち上がったルミナリスの後ろから、声がかけられる。

「ルミナリスさま、お部屋にお戻りを」

 ルミナリスは振り返り、従者たちを睨みつけた。胸の前に手を置いた従者はひるんだが、しかし強ばった声で続ける。

「陛下の、お申しつけですので」

「……ええ」

 彼らを困らせるのは本意ではない。そしてこの場で、あのように叫ぶべきではないということもわかっている。

(お父さまと、お母さまの……お顔)

 しかし先ほどの、両親の表情。シビュレの名に、歪められた顔。シビュレのことなど耳にしたくないと、忌むような。

 あのときのふたりの顔を思い返すと、胸には怒りとも悲しみともつかない感情が嵐のように吹き荒れる。この場で叫び出したい衝動に駆られながら、ルミナリスはぎゅっと唇を噛みしめた。



 ルミナリスの部屋にリューリクが入ってきたのは、陽もすっかり落ちてからだった。

 彼はいつもどおり、静かに入室を求めた。ルミナリスは何も言わなかったが、その返事がわかっているかのようにリューリクは入ってきて、寝台の横に立つ。

「シビュレは?」

 寝台の上にうつ伏せになったまま、ルミナリスは尋ねた。かたわらに膝をついたリューリクは、言う。

「神殿にお送りしてまいりました。幸い、シビュレさまがお出になったことに気がついた者は少数。今はお館で静かにしておられます」

「そう、ありがとう」

 ルミナリスの言葉は、素っ気なかった。リューリクに八つ当たりをするようなことはよくないと思っているのに、それでも言葉が尖るのはとめられなかった。

 勢いよく、ルミナリスは起きあがった。ルミナリスの心中など何でもないというようなリューリクを前に、身勝手な怒りが湧き上がる。

「どうして……」

 リューリクを見やった。彼はいつもどおり、そこにいる。

「どうしてシビュレは、王宮に入る資格を与えられないの? あの子だって、王女なのに。お父さまの子なのに」

 自分の声に後押しされたように、ルミナリスは続けて声をあげた。

「どうしてあの子は、馬場にさえ胸を張って来られないの? あんなこっそり、……悪いことでも、してるみたいに……!」

「ルミナリスさま」

 リューリクの声に、顔をあげた。彼の口調はいつになく優しく、ルミナリスは驚いて彼を見た。

「その理由は……ルミナリスさまも、おわかりなのでしょうに」

「わからないわ! わからないわよ!!」

 ルミナリスは叫んだ。また寝台に顔を押しつけ、敷布をぎゅっと掴んだ。

「どうして、あの子だけ……? あの子が悪いのではないのに……」

 敷布に口を押しつけた、くぐもった声でルミナリスは呻いた。同じ言葉を繰り返す。

「どうして? どうして、なの?」

 リューリクは、何も言わない。そっと顔をあげて彼を見ると、彼はルミナリスに目を注いでいた。

「……怒らないの?」

「何にですか」

 彼は短くそう言った。本当に、ルミナリスの問いの意味がわからないといったようだ。そんな彼の口調が拍子抜けで、ルミナリスは何度も目をしばたたいた。

「わからないことを言うなって、叱らないの?」

「叱られたいのですか?」

 はっきりとしたリューリクの言葉の前に、ルミナリスはうなだれた。大きく息をつき、また額を敷布に押しつけた。呻くようにつぶやく。

「……わかってるわ。キフティ朝の者の特徴を色濃く持つあの子は……このシャムス朝においては、表に出ることはできないのだということは」

 ルミナリスも、わかってはいる。大声を上げたのはリューリクに八つ当たりをしただけ、自分の言っていることは、国政の前にはわがままでしかないということを。

「あの子のせいじゃなくても、それでも」

(シビュレを担ぎ出そうという考えの者が現われれば、キフティ朝の者たちが国家の再興を考えでもしたら……そのようなことがあってはならないから。だから)

 だから、とルミナリスは胸の奥でつぶやく。

「でも、あの子は悪くないのよ? それなのにあの子のことを聞いたとき、お父さまはあのようなお顔を……あんな、いやなことを聞いたとでもいうような」

 敷布の上で、ルミナリスは身を震わせる。

(たとえばお父さまがわたしのことを聞いて、あのような顔をなさったとしたら。そんなこと、わたしなら……辛い)

「でも、機会かも知れないって思ったの……シビュレが、お父さまに会うための」

 ルミナリスはつぶやいて、小さく息を呑んだ。口もとが震えて、涙があふれそうになる。唇を噛んで、それを堪える。

「ルミナリスさま」

 リューリクがそう言ったので、ルミナリスは顔をあげた。目の前にはまっすぐこちらを見るリューリクがいて、ルミナリスは驚いて身を起こした。

「……」

 リューリクは、黙ってルミナリスを見つめている。彼の青い瞳が見つめてきて、ルミナリスは思わずうつむいた。

「お父さまを怒らせたり、お母さまに悲しい思いをさせたり。あんなこと……したかったわけではないのに」

「私は、それは悪いことだと思いません。ルミナリスさまは、シビュレさまを思う気持ちゆえにそうなさったのでしょう?」

「え……?」

 その言葉に、ルミナリスは目をしばたたかせた。リューリクをじっと見る。

(そんなふうに言われるとは、思わなかったわ……)

(悪いことでは、ないの? 悪いことでは……?)

 それ以上彼は何も言わなかったが、その青の瞳は彼が心からの言葉を言っているのだということを告げてくる。彼の澄んだ目を前に、ルミナリスは両手をぎゅっと握りしめた。

「どうして、みんなが幸せに暮らせないのかしらね……」

 大きく息を吐いた。ぎゅっと目をつぶると涙が滲んできて、それでも泣いてしまわないように懸命に涙を堪えようとした。

「……あ」

 何か、暖かいものが背に触れる。それはルミナリスを慰めるように柔らかくて、同時にその昔、森の中でのことを思い出させる。

 険しく、青の視線を尖らせていた少年。棒を振り上げて、従者の剣を前に向こうを張ろうとしていた少年。その彼の、傷だらけの手。撫でてくれた手。

 唇を噛みしめた。小さく息をつき、ルミナリスはなおもつぶやく。

「お父さまもお母さまも、シビュレも。みんなで一緒に暮らせるようであればいいのに」

 返事はない。ただ手は、優しくルミナリスの背を撫で続けてくれる。

 その手に、沈んでいた心が少しずつ浮き上がってくるように感じた。気持ちを和らげてくれるリューリクの手に、大きく息をつく。

 ルミナリスは、ぱっと振り返った。リューリクが驚いた顔をしてこちらを見やっている。

「ねぇ、リューリク。シビュレに会いに行きたいの」

「ですが……」

 リューリクは、ちらりと窓の外を見た。すでに表は暗く、壁には燭台の灯が揺れている。

「この時間ならまだ眠っていないはずよ」

 リューリクは眉根を寄せた。しかし目が合って、見つめるルミナリスの視線の前に、彼は仕方がないというように少し微笑んだ。

「ついてきてくれる?」

 リューリクは目を伏せ、頭を下げた。



 夜の神殿は、新月の細い明かりの中、威圧的に建っていた。

 いつもどおりにシビュレを訪ねると、果たして彼女はまだ起きていた。昼間のままの装いでルミナリスを迎えてくれたシビュレは、しかしまっすぐにルミナリスを見られないとでもいうように視線を落としている。

「お姉さま、このような時間に来ていただけるなんて……」

「お前の顔が見たかったの」

 いつも勧められる椅子に座ったルミナリスは、向かいのシビュレを見やる。しかし目が合うと、彼女はいたたまれないとでもいうように目をうつむけた。

「どうしたの、シビュレ?」

「ごめんなさい、お姉さま」

 ルミナリスは、小さくつぶやいた。

「今日の、馬術の大会……わたくしはあのような場に行くべきではなかったのに、あのような騒ぎを起こしてしまって」

「そんな、わたしこそ……」

(お父さまとシビュレを会わせられるかと思ったのに、結局お父さまもお母さまをも、傷つけただけだった)

 シビュレは胸に手を置いて、きゅっと手を握る。その手に視線を落とし、ルミナリスはつぶやく。

「お前が、お父さまに会えるかと思ったのだけれど」

 自分の不首尾を思い出すと、ますます目をあげられないと思った。絞り出すように、ルミナリスはつぶやいた。

「……ごめんなさい」

「お姉さまがお謝りになることではないわ」

 シビュレは首を左右に振って、いつものどこか寂しそうな笑みとともに言った。

「わかっております、わたくしが不都合な存在であることは。重々、承知しておりますから」

「シビュレ……」

 シビュレは微笑んだまま、首を横に振った。その笑みは仕方ないと諦めるような、見ているほうが辛くなる表情だ。

「シビュレも、お父さまに会いたいと言っているのに。わたし、何もできなくて……」

「……いいえ」

 シビュレは言った。浮かべた笑みはそのままに、ゆっくりと首を左右に振った。そして口を開く。

「いいの、お父さまたちのことは」

「え……?」

(な、に……?)

 ルミナリスは目を見開く。彼女の口調が、妙に乾いていると感じた。どこか冷ややかな、父のことなどどうでもいいというような。

 ルミナリスは目を見開いて、シビュレの空色の瞳を見る。シビュレは薄く微笑んだ。

「お父さまのことは、いいのよ」

「シビュ、レ……?」

 しかしシビュレはそれ以上は言わずに、微笑んでルミナリスを見つめる。

 その顔は確かに笑みを浮かべているのに、いつもの彼女の笑みではないと思った。どこか暗い部分があるような、ルミナリスの知らない何かを秘めているような。

(何だか、いつもと雰囲気が違う……?)

 思わず腰を引いたルミナリスは、固唾を呑んだ。ゆっくりと言葉を継ぐ。

「何かあったの、シビュレ……?」

「何もないわ」

 しかしそんな違和感も、ほんのわずかの間だけだ。シビュレの表情はいつもの見慣れたものになり、彼女は銀色の髪を揺らして首をかしげた。

(ここにいるのは、本当にシビュレかしら……?)

 そんな、馬鹿馬鹿しい疑問がよぎった。疑う余地などないはずなのに、思わぬ彼女の表情を前にルミナリスは困惑する。

 思わずルミナリスは、手を伸ばした。シビュレの頬に触れる。指先で撫で、髪をかき分けると、そこに小さな擦り傷があるのが目についた。

「この怪我は……?」

 あ、とシビュレは声をあげる。

「何でもないの、ええ、何でも!」

 シビュレは慌てた様子で、ルミナリスから遠のいた。しかしルミナリスは彼女の肩に手をすべらせて、引き寄せて離さない。

「あのときの、騒ぎのせい?」

 うつむいたままのシビュレの返事は、なかった。シビュレは懸命にルミナリスの腕から逃れようとするものの、しかしルミナリスの手の力から逃れるには、彼女は華奢すぎた。

「ねぇ、シビュレ」

「……ええ」

 観念したように、シビュレはうなずいた。しかしすぐに、顔をあげる。

「でも、リューリクが助けてくれたわ。すぐにわたくしを連れ出してくれて、だから、大丈夫」

 ルミナリスの後ろに従っているリューリクに、シビュレは目を向けた。振り返ると彼はいつもどおり目を伏せた格好で、その表情からは彼が何を考えているのかは読み取れない。

「でも、どうしてもお姉さまのお姿が見たかったの。お姉さまがお出になるというから、ここを抜け出したのだわ」

「抜け出したの? ここを?」

 思わぬ言葉に、ルミナリスは目を見開いた。シビュレはうなずく。

「お姉さまのお話を伺うたびに、行ってみたいと思っていましたの。だから……」

 彼女は胸に手を置き、そのときの喜びを思い出したように微笑んだ。そんな表情はやはりいつものシビュレで、先ほどの表情や言葉は何かの間違いだったのではないかと思わせる。

「でも、お姉さまは素晴らしかったわ。特に水堀を飛び越えるお姿なんて、本当に素敵だった。見に行ってよかったと思ったもの」

「……そう言ってくれて、嬉しいわ」

 戸惑いながら、ルミナリスはうなずく。どうあれ、褒め言葉は純粋に嬉しい。シビュレは顔をあげ、その銀色の髪がさらりと揺れる。

 彼女の手を取ると、ひんやりとした温度が伝わってきた。いつもの妹の体温にため息をつく。

「お前の姿を見つけたとき、驚いたけれど嬉しかったの。来てくれたんだって。あんな大胆なこと……シビュレがするとは思わなかったけれど」

 そう言うと、シビュレは笑った。柔らかく弧を描く唇で微笑む姿は、いつもの妹だ。

(何だったのかしら。さっきの、感じは)

「失礼いたします」

 部屋に女官が入ってくる。彼女の手には盆があって、赤銅の杯と水差しが載っている。その向こうの扉を、ルミナリスは見やった。シビュレにそっと、ささやきかける

「それにしても、いったいどこから出たの?」

(わたしは……神殿の隠し戸を知らされているけれど。万が一のときのためだって)

 そこをくぐれば誰の目にもとまらずに神殿から出入りすることができるが、しかしそれはシビュレにも告げていない秘密だ。シビュレには心を許しているルミナリスではあるが、さすがに王家の秘密を口に出したことはない。

「それは……」

 シビュレの目に、困惑するような色が浮かぶ。ルミナリスを見上げて小さく肩をすくめ、口早につぶやく。

「手ほどきしてくれる者がありましたの」

(手ほどき? 女官か誰かかしら)

 先ほどすぐに消えてしまった表情が、再びルミナリスの心に引っかかる。妹は、姉の自分の思わぬ一面を持っているのではないかという考えがよぎった。

(わたし……シビュレのことで知らないことがたくさんあるの? シビュレのことは何もかも知っているように思っていたけれど……そうでは、ない?)

 女官がふたりの前の卓に杯を置き、水差しの清水を注ぐ。声の届く近くにいる女官の耳に入ってはいけないと、それ以上を尋ねることはできなかった。

(シビュレに同情的な者はここには多いから、その者たちが助けたのかも)

 ふたり、窓際に並んだ椅子に腰を降ろす。こぽこぽと清水の注がれる音を聞きながら、ルミナリスは息をついた。

(それにしても、いったい誰が?)

「それよりも、お姉さま」

 ルミナリスは、胸の前で両手を組んだ。空色の瞳をきらめかせてルミナリスを見つめる。

「あのように素晴らしい騎馬の技術、どうやって磨かれるんですの? やはり、たくさん練習なさったんでしょうね?」

「ええ、……それはね」

 馬の話には、ルミナリスの心は浮き立つはずだった。しかし刺さった小さな疑問は棘のように抜けずに、声はいつものようには弾まない。

 ルミナリスの困惑になど思い至っていないかのように、シビュレは話の先を待っている。ルミナリスは慌てて、言うべき言葉を探した。

「あの子を馴らすのは、……とても大変だったの」

「まぁ、それではいったいどうやって馴らしたの?」

 興味深いというように耳を傾けるシビュレの目の前、ルミナリスは促されるままに話を続ける。

 胸に抱いた違和感は、ぼんやりとではあるが胸にあるままだった。


(続く)

(後編)も、よろしくお願いいたします。

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