一、遠い記憶 (7)
「二年も離れるから」
ふんと、菫が勝ち誇ったように笑う。
二人は階段を上がり、奥にある部屋の前で立ち止まった。障子に手をかけ、菫は一瞬動きを止めた。不審に思っていると、不意に思い詰めた表情で彼女が振り返り、良明は思わず顔を強張らせた。
「入る前に一つ聞いていい」
「……ああ」
「一陽は……生きてるよね」
菫の祈るような視線に、良明は口をつぐみ、神妙に頷いた。確かに江戸に向かう道中で彼には会っている。だが、菫に聞かせてやれるような再会の仕方ではなかったのだ。頷く以外に菫を安心させる方法は良明には思いつかなかった。
「そ、ならいいの」
いかにも繕った平坦な声音で菫が言い、障子を横に滑らせる。
部屋の中には、文机の前で姿勢良く正座し書物を読む幼い少年の姿があった。髪を頭の高い位置で結い、鶸色の袷に銀鼠の袴をつけている。障子を開く音に振り返り、彼はパッと表情を明るくした。
「母上」
「偉いわね凛、今日も本読んでたの」
菫は優しく微笑み、少年に歩み寄って頭を撫でてやる。
「凛、良明って覚えてる? 昔よく一緒に遊んでくれてた、お兄ちゃん」
そう言って菫は背後に立つ良明を指差し、少年が顔を上げた。向けられた無垢な眼差しに良明は一瞬たじろいだが、同時に懐かしさも込み上げてきた。菫の息子・凛太郎が生まれた時から二年前まで、良明は度々彼の面倒を見ていた。正確には、面倒を見ろと半ば強引に命令されていた。その頃を思い返すと、今目の前にいる凛太郎はかなり大きくなっている。
良明の顔を暫く眺めていた凛太郎は、次第に顔を輝かせていく。
「良明って、あんちゃん?」
「……覚えてるじゃん」
良明が怪訝そうに視線をやると、菫は嫌味たっぷりにチッと舌打ちした。
「忘れてる、って断言してない。凛が忘れたことなんてなかったわよ。一陽が親しくしてた、あんたら二人のこともね」
「へえ、凛は記憶力がいいんだな。どっちに似たんだか」
良明がニヤリと笑いながら菫に言っている時、凛太郎が立ち上がって良明に飛びついた。そして必死な表情でこちらを見上げる。
「あんちゃん、父上とおじちゃんは?」
凛太郎を見下ろし、良明は暫く口をつぐんだ。この幼い子どもは、どれぐらい寂しい思いをしながら、父と自分達を待っていたのだろう。どんなに悲しくても、きっと、健気に明るく振る舞っていたに違いない。せっぱ詰まった表情がそれを物語っている。その場に腰を下ろし、良明は真っ直ぐに凛太郎を見つめた。
「凛はいくつになった?」
「いつつ」
「そうか……父親もおれらもいなくて寂しかったな」
良明が労るように頭を撫でてやると、凛太郎は眉を下げて瞳を潤ませた。唇を噛みながら暫く堪えていたが、良明の肩にすがり小さく嗚咽を漏らし始める。良明は苦笑を浮かべ、凛太郎の小さな背中をぽんぽんと叩いてやった。
「一陽はちゃんと帰ってくる。だからもうちょっと、待ってような」
不意に菫が吐息を漏らし、良明は彼女に目を向けた。 菫は頬に手を当て、感心したようにこちらを見ている。
「凛が泣くとこ久しぶりに見た気がするわ……私の前じゃ我慢してたのね」
「心配かけないようにしてたんだろ、凛なりに」
「んー、良明の方に何かあるんだと思うけど。小さい子を安心させる、何か」
「何かって何」
良明が眉をひそめ、菫は肩をすくめた。
「空ちゃんも小さいし」
「……まだそれ言ってるのか」
「あはは、あの子ムキになるから面白くてさ。余計からかっちゃった」
菫はひとしきり笑い、唐突に姿勢を正した。一瞬で彼女に隙がなくなり、良明は視線を外せなくなった。
殺気とはまた違う雰囲気をまとう彼女は、徳川の忍の内でも、一隊を率いれる程の実力の持ち主である。忍ゆえか、良明でも、彼女の素性は詳しくは知らない。小さい頃からこの旅籠屋には訪れていたし、菫とも接してきたが、分かることは伴侶が一陽で、子が凛太郎であるという程度だった。それからたまに出るくに訛りからして、どうやら生まれは江戸ではないようだ。
良明の目を見つめたまま、菫は静かに尋ねた。
「あの日、何があったの」
「……凛に聞かせても大丈夫か」
「たぶん、聞いても分からないわよ。それに私にもあらかたの話は入ってきてるから、そんなに驚かないつもり……ただ」
「ただ?」
凛太郎の背中を撫でながら良明は首を傾げた。
「あの場にいた、あんたの口から聞きたい」
「……わかった」
菫の真剣な視線を受け、良明は観念したように頷いた。そして、凛太郎の身体を持ち上げて膝の上に座らせ、彼の頭を一回撫でてからぽつぽつと話し始める。
良明の視線は、当時を思い返すかのように遠くへ向けられた。
江戸の町を歩き回っていた空と栞は、一件の蕎麦屋に入り早目の昼餉を取っていた。
この若い二人、年が同じなせいか、出掛けてものの数分ですっかり意気投合していた。今も運ばれてきた蕎麦をつつきながら途切れない会話を繰り広げている。
「え、空ちゃん甲斐生まれなの?」
「生まれは知らない。育ったのが甲斐ってだけで」
「ふうん、結構近くね」
「栞は江戸生まれなのか?」
「そ、江戸生まれの江戸育ち」
頷いてから栞は音を立てて蕎麦をすする。空も箸を動かしながら直も喋る。
「よっしーも江戸生まれなんだろ」
「ぷふーっ! やっぱその呼び方おかしいわ。あははっ、良明さんもよく許してるよねー、私も帰ったらよっしーって呼んじゃお」
空が良明のあだ名を言う度、栞はケラケラ笑った。正直なところ空にはどこがおかしいのか分からないのだが、良明は本来そう言うのは許さないような堅物な性格なのかもしれない。
(そいや初めの内は嫌そうな顔してたような)
彼のしかめっ面を思い返して、空は内心渇いた笑い声を上げた。また蕎麦をすすりながら、栞に尋ねた。
「あのさ、菫さん? は、訛り出てたけど、どこの人?」
「……うーん、それは仕事柄話しちゃいけないことになってるの、ごめんね」
「仕事?」
「そう。味方のことは漏らすことなかれ、が私たちの掟。菫さんは上に立つ人だからもっと話しちゃダメ」
「そんなに偉い人なのか。菫さん、若いのに」
感心しながら空は栞を見つめた。その菫と仲良さげに話していた栞は、どんな立場なのだろう。疑問に思ったが、彼女たちの信条を聞いた後に尋ねることは躊躇われる。
急に栞がにやと笑い、身を乗り出した。
「私のことは聞いてもいいのよ。自分自身のことは、自己責任に任せられているから」
「え、そんなもん?」
「そんなもん。だってもう出生も喋っちゃったし。まあ仕事の中身は話せないけど、得意なことぐらいは話しても大丈夫かな。あ、得意なことって人探しなんだけど」
躊躇いもなく栞が話すため空は呆気にとられていた。空が口をつぐんでいる内に栞は更に続けた。
「これも仕事柄、私顔が広いんだ。だから色んな話が入ってくるわけ。空ちゃんも誰か探してほしい人がいる? なんちゃって」
栞はおどけたように小首を傾げた。
彼女の顔を凝視して、空は大きく息を吸い込んだ。言われてみれば、この蕎麦屋に至るまで栞に話し掛けてくる者が後を立たなかった。行く先々で彼女は誰かと親しげに話していたのである。栞が自ら得意と言ったことは外れていないのかもしれない。
栞なら、もしかしたら見付けてくれるのだろうか。空が、幼い頃から望んで、焦がれた人を。期待は膨らんだが、それはすぐに萎んでいった。空自身でさえ顔を知らないというのに、彼女が見付けられるとは到底思えなかったのだ。
空が何か言いたそうにしているのに気付いたのか、栞は僅かに眉をひそめた。
「もしかして、いるんだ」
笊に視線を落とし、空は重い口を開いた。
「……両親」
「え? 甲斐に住んでたって言ったよね、その時親はいなかったんだ」
「……物心つく前から別の夫婦と暮らしてた。七つでその夫婦が死んで……その後は浪人と、あと女の人に育ててもらった」
小さく語る空を見つめ、栞は怪訝そうに呟いた。
「浪人」
「ああ。夫婦が死んだその日にうちを連れて行ってくれて……あの人がいなきゃたぶんうちは死んでた。でも酷いやつだったよ、酒癖悪いし文句ばっかりだし」
政長のことを思い返し、空は疲れたように肩をすくめた。一方で、栞はプッと吹き出す。
「あはは、会ってみたいかもその浪人。でもそのことは今は置いておこう。両親のことは何か覚えてる?」
「ううん、何も。顔も知らない」
「そう……そういう親はごまんといるからな」
そう言って、栞は口に手を当てしばらく考え込む。彼女の様子を窺いながら空は茶の入った湯飲みに手を伸ばした。会ってまだ数刻しか経っていない人にここまで自分のことを話すのは初めてだった。良明の知り合いだから安心してしまったからかもしれないし、年の近い女の子と接するのが久しぶりだからかもしれない。何故か栞には多くを語っても害はない気がしたのだ。
いや、栞もだが、むしろ菫の方が昔会ったことがあるような、懐かしい雰囲気をしていたのが一番の要因だった。どこかで会ったことがあるのだろうかと空は思考を巡らせ、あることにたどり着いた時急に「あ、」と声を漏らした。向かいで栞が首を傾げた。
「何か思い出した?」
「あ、ごめん違う。菫さんってうちと暮らしてた人と似てるなーと思って。雰囲気が、だけど」
「七つの時に亡くなった人?」
「いや、その後から暮らしてた人。実知姉さんて言って、優しい人なんだ」
彼女がいたからこうして生きていられるのだと言っても過言ではない。何せ政長は基本的に放任していたのだから。空が無意識に穏やかな表情をしていると、栞がフッと微笑んだ。
「菫さんと似てるんだもの、きっといい人ね。空ちゃんの両親のことは頭に入れておくわ。何かあったらすぐ教えるから」
「……ありがと。あっ忘れてた。手掛かりになるかわからんけど、これ」
空は懐から真っ黒に塗られた懐剣を抜き取り栞に差し出した。それを受け取って栞は「ふむ」と両手で感触を確かめた。
「抜いても?」
「いいよ。それ、母親のものらしいんだ」
鞘から少し刀身を出し、それをまじまじと見ている栞に空は教えた。
「うちが赤ん坊の時に預かった、って聞いた」
「ふむ」ともう一度呟き、栞は刀を鞘に仕舞った。そして今度は、漆塗りの鞘や柄を眺め始める。
「私は刀の目利きはできないんだけど、結構いいものな気がするな。その浪人とか良明さんとかには見せた?」
「政長……浪人はいいものだって言ってたよ、よく手入れもしてくれたし。よっしーは……何て言ってたかな……おれはあまり持っていたくない、だったかな。意味わかる?」
空が首を傾げると、栞は若干険しい表情をした。
「良明さんがそう言ったのか……ちょっと不安ね」
栞はぽつりと呟いて、懐剣を空に返した。
「どういうことだ?」
「んー、良明さんって、その手については敏感というか、長けてるから」
「その手って……」
空が怪訝に見つめていると、栞は苦笑して視線をそらし口を開く。
「術のこと」
二人は蕎麦屋をあとにし、栞は用があるからとその場で別れた。栞の用が仕事であることは明らかだったので、空は詳しくは聞かずに済ませた。また半刻程したら橋の近くにある小さな稲荷の前で待ち合わすことになっている。旅籠屋まで一人で戻れる自信はなかったから、それにはホッとした。
空は大通りをゆっくりと歩いていた。軒を連ねた店に家屋、それから人の多さに軽く目がくらみそうだ。時々人にぶつかりそうになりながら、先程の栞との会話を思い返した。
何やら良明は、術に対しての耐性があるようだった。術と聞いても空にはピンとこなかったので、呪いのようなものだろうと解釈している。そういえば、良明は今朝不可思議な行動をした。息が出来ずに空が苦しんでいた時、彼が刀を振り下ろしただけで苦しさがなくなったのだ。あれが斑の術だったと考えると、良明はそれを解いたことになる。いつも飄々としていてとらえどころがない彼にそんなことが出来るとは、驚くと共に妙に納得もした。良明は円どころか、海のことさえ気味悪く思わず、すんなりと受け入れられている。彼は元から、あのような現象に慣れていたのかもしれない。
(実はすごいやつだったりして)
戻ったら色々聞いてみよう。自分だって、聞かれたら話すことが出来たのだ。良明も尋ねればたぶん話してくれるだろう。全てを話してくれるとは、思わないけれど。
気付けば川に架かる橋に足を踏み入れていた。空は欄干に手を置き、短くため息を吐いた。
暇潰しに入っていた小間物屋から出て、空は稲荷へと歩を進めた。少し時間をかけすぎた。半刻はとうに過ぎている。慌てて足を早めると、突然、横から人にぶつかられ空は吹っ飛ぶように転んだ。
「……っすまない」
急なことに呆然としていると、男の焦った声が上から降ってきた。顔を上げれば、そこには月代に鬢を結った青年が片膝を立てて空に手を差し伸べていた。彼の腰には二本の差し料がある。侍だ。
空がおずおずと手を上げると、彼がそれを素早く掴み、空の身体を軽々と引っ張り起こした。
「急いでいた。怪我はないな」
「あ、はい」
侍に早口で尋ねられ、空は思わず丁寧に返した。そしてぎこちない動作で着物の埃を払い落とし始めた時、侍はまた口を開いた。
「無事ならいい。では、急ぐ故」
それだけ言って、彼は走り去った。
空は不思議に思いながら侍の背を見送った。侍にしては、偉そうな態度がなかった。それに、彼は空を相手に子供扱いの喋り方をしなかった。ぶつかっても怒鳴ったりしない侍は初めて見たかもしれない。空は首を捻り、彼が現れた方へ目を向けた。
家と家の間に暗い小道がある。光はなく、闇がその小道だけを覆っているようだ。空は惹かれるように、小道に近寄り、躊躇いなく足を踏み入れた。後から思い返しても、何故この時恐怖を覚えなかったのか不思議だった。
小道に入ってみると日差しは少ないものの、案外視界は良好だった。かろうじて見える青空を見上げながら進んでいくと、どこからか人のうめき声が聞こえ空はようやく自分の行動にハッとした。
(何やってんだうち)
まずい、と思った時はすでに遅く、うめき声はすぐ近くから聞こえていた。
空は目を凝らし、前方を見た。人が立っている。立ちすくんだまま見つめていると、彼は囁くような声で何かを喋った。小さすぎて空には聞こえなかったが、次の瞬間、別の悲鳴のような声が響いた。
恐怖に怯えたその声に空は縮み上がった。怯えた声は叫ぶように言った。
「たっ頼む……! 命だけは……」
「命乞い? ははは、笑わせる」
感情のない笑い声がした後、ドッと何かが突き刺さる音と一瞬の断末魔が耳を貫いた。
ああ、人が殺された。空は瞬時に理解した。ここにいてはいけない。そう頭が警告しているのに、足が震え、もう一歩も動けない。逃げることは叶わない。唇を噛み締めて恐怖に耐えていると、突然目の前に男がぬっと現れ思わず飛び上がった。彼の顔が間近に迫り、空は息を詰めた。
この男、見たことがある。ぼさぼさの黒髪、黒い眼、歪んだ笑み。そして一番に覚えていたのは、眼の奥の光。良明の師を殺した男だ。
彼は空の顔をまじまじと眺め、しばらくしてからポンと拳で手の平を叩いた。
「お前、この間良明の後ろに隠れてたやつだな」
面白そうに男が言い、空はギクリと顔を強張らせた。空が何も言えずにいると、男は更に顔を近付けふんと鼻を鳴らす。
「こんなガキ連れて、あいつは何をやってんだ。そんなに大事なやつなのか」
唐突に男は空の顎を掴み、上を向かせる。目を覗き込んでくる男の手からは、血生臭い匂いがしていた。
「……お前を殺したら、良明は狂うかな」
ニヤリと笑う男の顔に、空は背筋が寒くなった。この男が作り出した血の海を忘れてなどいない。人を殺すことは、この者には容易いことなのだ。悪寒が止まらず、冷や汗が首筋を伝う。それでも、空は彼から視線をそらさなかった。
視線を合わせていた彼は、つまらなそうに空の顎を放した。次の瞬間、背後から空の脇を何かが掠めた。目の前にいた男はそれを避けて後ずさり、飛んできた何かは地面に突き刺さる。
空が振り替えると同時に黒い影が隣に立ち、またも飛び上がった。よく見れば、それは栞だった。彼女は空を庇うように男と対峙する。空は彼らの様子を固唾を飲んで見守った。
「町ん中でそんなもん振り回してると、仕事バレるぞ」
「え、うそ……その声……一陽さんですか?」
栞が信じられないと言うような声を上げた。
(一陽……)
暗がりで顔が見えなくなる程離れている彼を見つめて、空はそれが彼の名前なのだろうと考えた。良明と顔見知りの栞が彼のことを知っていても何の不思議もない。
空はチラと地面に目を向け、栞が投げたと思われる物を確かめた。暗くてはっきりは見えないが、空には見たことのない細長い形状をしている。何だろうと首を捻っていると、突然栞が大声を発した。
「いつ戻って来られたんですか! 良明さんも今日松葉屋に来て……もしかして、菫さんには会わないんですか!?」
「……会うつもりはない。栞、このことは菫には言うなよ」
それだけ言い、一陽は身体の向きを変えるなり足早に去っていった。
「一陽さん!」
栞が呼び止めるも、彼は振り返ることなく姿を消した。その後もしばらく、二人は無言で佇んでいた。空が心配に思いながら栞の顔を窺うと、彼女は盛大にため息を吐いた。
「一陽さん攻撃しちゃった……空ちゃん怪我はなかった?」
「ああ、大丈夫……」
「そっか、よかった。空ちゃんに何かあったら良明さんに怒られるもの」
そう言って栞は苦笑する。
「ちょっとここで待ってて、確かめてくるから」
「何を?」と空が首を傾げたが、彼女は何も言わずに空から離れて行った。数歩歩いたところで栞がしゃがみ、空はようやく気付いた。彼女は死体の確認に行ったのだ。
「まずいな、この人、私たちをつけてた人だよ」
「つけてた?」
空はギョッとした。誰かが後からついてきていたなど、全く気付かなかった。
「何もしないようだったから放っておいたけど……私がつけられてるんじゃなかったし」
小さな声で栞が話したため最後は聞き取れなかった。彼女は地面に刺さっていた物を拾い、空の下まで帰ってきた。
「二人いたはずなのに、死体はひとつだけだ。空ちゃん、他に誰か見なかった?」
栞の問いに、空は先程の侍を思い出した。
「いた、侍が走っていった」
「本当? それだとなおさらまずいな。早く帰ろう、菫さんたちの話も終わってる頃だろうし」
空の腕を掴み、栞は足早に引き返し始めた。駆け足で彼女を追い、空は尋ねる。
「つけてたやつらって誰なんだ」
「さあ、私には分からないな。でもただの浪人って訳ではなさそう。普通の町人の女の子つけ回すだなんて、気持ち悪い」
嫌悪した様子を隠さずに栞は言葉を吐き捨てた。小道から出ると、そこは余りに眩しく空は顔をしかめた。それほど今までいた場所が暗かったのだ。
二人は無言で松葉屋を目指す。しばらくしてから前を歩く栞がチラと振り返り、微かに笑った。
「空ちゃん、今日一陽さんに会ったことは誰にも言わないでくれるかな」
「……ああ」
「ごめんね……はあ」
言い様のないため息を吐く栞に、空は慌てて話した。
「ここに来る前に一度、あの人に会ったんだ」
「えっ」
栞が目を見開く。
「よっしーに初めて会った日に、あの人にも会った。その時も、今日みたいに人を……」
「いいよ、言わなくて。怖かったね……でも、本当は悪い人じゃないの。私も小さい頃から遊んでもらってたし、それに何よりあの人は菫さんの旦那さんだし」
「そうなのか」
驚いた空が声を大きくすると、栞は微かに頷いた。
「何を思って行動してるのか分からないけど、私は一陽さんを信じてる。そうじゃなきゃ、菫さんを信じてないことになるもの……だけど菫さんのとこに帰れない理由は何なんだろう」
栞はもう一度ため息を吐いた。空は口をつぐんだまま彼女を見つめていた。出会ったばかりの空に言えることは何もなかった。