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十六夜の月  作者: 銀花
一、遠い記憶
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一、遠い記憶 (3)




* * * * *



──血の匂いしかしない。


 戦は既に結果を与え、裏切り諸々により西軍は壊滅、四散した。戦は終わった。しかし辺りを漂う粉塵はまだ消えようとしなかった。それはまるで良明の晴れない心情を表しているようだ。周り中、数え切れない程の死体が転がっていた。

 自分の腕の中に横たわる息絶えたこの人の顔を、どれぐらい見ているのだろう。既に死んでいたのだが、この人の首を狙い、多くの敵が襲いかかってきた。それを阻止する為に修羅の如く刀を振り、一人残らず斬り伏せた。

 良明も槍で突かれ、鉄砲で撃たれ、具足はぼろぼろになり至る所に傷を負った。身体中に激痛が走り、血が大量に抜けて意識も朦朧としている。だが、それでも倒れようとはせず、この人の傍らを離れようともしなかった。

 この人の死は突然すぎて、良明の未熟な心ではすぐには受け止められずにいた。


「──ここら、全部お前が殺ったのか?」


 その男は突然、背後から話し掛けてきた。


「その紋……徳川か。若いのに大したもんだ」


 傍らに折れて倒れている旗を見て、男は笑った。その男の笑い声は、何故かずっと耳に残る響きをしていた。


「勝ったっつーのに、浮かない顔だな」


 目の前の男が自分の命を狙う敵であったとしても、闘う気力など、既になかった。何の為に生きているのかも分からない。


 どうして自分は此所にいる。


 無気力に、良明は口を開いた。


「なぁ……おれを……殺してくれないか」


 死体を覗いて回っていた男は動きを止め、振り返った。


「死にてえならな、他人に頼む前に、てめえで腹切れ」


 男は良明の髪を片手で掴み、上を向かせる。


「これだけ人斬ったやつが、腹切る度胸もねえのか。小僧」




* * * * *




 木の葉の隙間から朝日が降り注ぐ。

 昨晩は町にも村にも着かない内に日が暮れたため、道からそれた所の森で野宿をすることになった。勿論、空はしつこく文句垂れた。

 良明は暫く眩しい光を眺めていた。まだ朝も早く、冷えた空気が肌には痛い。


(……腹切る度胸……か)


 髪を掻き揚げ、長くため息を吐いた。

 二年前の戦の夢を見る事はこれまで幾度となくあった。多分、これからもあの日の事からは離れられないと、何処か諦めている自分がいた。逃げる事は出来ないのだ、と。

 良明はやれやれと思いながら身体を起こした。同時に腹の上から何か重い物が転がり落ちた。それを見た良明は呆れ果てた。

 今は地面で寒そうに丸まって寝ている空だが、さっきまで良明の腹を枕にしていた事は間違いない。現に転がり落ちた事が不服だったのか、眠りながら空は唸っている。

 良明は彼女の頭を軽くはたいた。空はビクリと身体を震わせ、勢い良く起き上がった。


「っ……何!? …ってよっしーか」


 良明は彼女を睨んだ。


「人の腹を枕にすんじゃねえよ」


 そう言うと、まだ頭が働かないのか、空はキョトンとした。しかし次の瞬間、彼女の顔が赤くなった。


「しっ……してねえよ!」


「はあ? おれの腹から落ちたとこ見たんだけど」


 良明が眉をひそめた。空は恥ずかしそうに視線を泳がせると、唐突に立ち上がった。その行動に良明は驚いたようだった。


「ち、近くに川あったよなっ、か、顔洗ってくるから」


 身体の向きを変え、空は全速力で駆け出した。すぐに空の姿は見えなくなった。


「?」


 一人残された良明は訳が分からない様子で首を傾げた。




 川の畔に膝をついてバシャと顔に水をかけ、手で顔を覆ったまま空は固まった。

 良明と共に行動して数日、既に彼といるのが当たり前になっている。彼の側にいると安心することを、空は覚えるようになっていた。


(あぁ……それにしても……はずかし)


 両手の隙間から長いため息を吐く。


 昨夜は満月だった。星の見えない夜空に、ぽつんと浮かび上がった白い丸。綺麗だと思うけれど、好きにはなれない物だった。

 不安でたまらなかった。だから昨夜は良明にこっそり寄り添って寝た。彼の温かさは心地よく、不思議と落ち着けて眠ることもできた。

 空は手を下ろし、水面に写った自分の顔をぼんやり見つめた。


「おら」


 突然、そっけない言葉と共に横から手拭いが差し出された。そちらを見ると二人分の荷物を持った良明の姿があった。空は彼の姿を暫く眺めてから、手拭いを受け取った。


「ありがと」


 彼女が顔を拭く傍らで、良明も数回顔を洗った。春と言えど川の水は氷のように冷たい。良明は空から手拭いを受け取り、顔を拭いてから川の水に付けて軽く洗った。

 水が揺れる様子を眺めながら、空は思い付いたことを口にした。


「今日も町とかに着かなかったらどうすんだ?」


「いや、もうすぐ着くはずだ」


 空は良明へと振り向き、眉をひそめた。彼の言い方が、まるで初めからどこかを目指しているかのようだった。行き着く所に向かっていたのではなかったのだろうか。昨日空達が発った村では、良明は道を聞いているような素振りは一切見せなかったはずだ。


「どこに行────」



──────けて……!


 空は弾かれたように顔を上げた。


「どうした?」


 手拭いを絞りながら、良明は彼女へ目をやる。


「声がした」


「声?」


 良明が怪訝そうに尋ねた。

 空は立ち上がって辺りを見渡した。幻聴なんかではなかった。確かに聞こえたのだ。悲鳴のような子供の声が。

 一度首を傾げてから良明は耳を澄ます。


「たすけてぇ!!」


 二人は同時に川の上流へ顔を向けた。子供らしき姿が浮き沈みしながらこちらへと流れてきている。


「ほら、やっぱり」


「あぁ……本当だったな」


 良明が面倒臭そうに答える。


「よっしー助けてやれよ」


「あ、やっぱりおれなんだ」


「当たり前だ、うち泳げねえもん」


 胸を張って空が言う。


「それ自慢にはならねえぞ……」


 呆れたようにため息を吐いてから、良明は裸足になって川に入った。流れはそれほど速い訳ではない。しかし水かさが良明の胸下まであり、子供にとってはかなりの深さである事が分かる。

 泣きじゃくっている子供が良明の所まで流れ着き、その子供を片手で掴み、良明は空がいる岸へと戻った。


「うっ……ぅ……うわぁぁああぁあぁっ」


「はいはいもう大丈夫だから、泣くな」


 腕に力いっぱいしがみつく子供の頭を良明は乱暴に撫でる。子供を抱えたまま岸に上がると、空が心配そうに見上げてきた。


「空、ゆうべ寝たとこに火おこして来てくれ」


「あっ、うん分かった」


 空は慌てて来た道を引き返して行った。

 それを見送った良明は子供を畔に下ろし、おもむろに自分の袴の帯をほどき始めた。


「あーあ……朝っぱらから水に浸かるって……空のやつ泳げねえとかありえん」


 ぶつぶつ文句垂れながら良明は着物を脱いでいった。彼の傍らにいる子供は未だにしゃくり上げている。良明は子供を見下ろし、やれやれと肩をすくめた。

 見た目は七、八歳くらいで、髪を肩の高さで切り揃えている。肌が透き通った白さをしていて、一見少女のようで、角度を変えると少年のようにも見えた。

 良明は子供の前にしゃがみ込んで顔を覗く。


「お前も着物絞らねえと、風邪ひくぞ……て言うかお前いいナリしてんな。いいとこの子供か?」


 良明は子供の着物の袖を触った。着物の素材は絹のようだ。白地に淡い色で何かの模様が描かれていて、緋色の袴も上等そうだった。


「白に緋って……巫女みたいだな」


 良明は笑って言い、自分の着物を絞った。水が滝のように出てくる。そして絞り終わった着物の袖にまた手を通した。いつの間にか泣き止んだ子供は、興味深げに良明を見上げていた。


「冷てー……今日で乾くのかこれ」


 半分諦め気味に良明が呟いた。それを聞いた子供は急に顔を輝かせた。


「わたしが乾かします! 助けてくれたお礼に!」


 袴の帯を締めていた良明が「え?」と言うのと同時に、子供は懐から何かを引っ張り出した。ちらと白い石のようなものが見えた。すぐ両手で握り締めたため、それが何だったか良明には分からない。

 小さな口が動き何かが呟かれた瞬間、どこからともなく突風が良明を襲った。


「わっ」


 良明は咄嗟に両腕で顔を庇った。不思議と温かいこの風は、長いこと良明達の周りを巻き上げるように吹いていた。




 がさがさと草木の揺れる音に空は振り返った。良明が子供の手を引いて現れた。


「よっしー遅かったじゃないか。風邪ひく……何か乾いてる?」


 空は不審そうに眉をひそめた。見た目で分かる程、良明達の衣服に濡れた様子はなかった。良明が困惑したように頭を掻いた。


「いや、うん……乾いてる」


「は?」


 空はポカンと口を開けた。


「こんな早く?」


「おれにも分かってねえんだよ……説明してもらったけど」


 そう言って、良明は隣の子供に目を向けた。子供はニコニコして二人を交互に見つめている。空はどこか嬉しそうにしている子供へ視線を移した。


「お前が何かやったのか?」


「うんっ」


 子供が揚々と頷き、空は少し呆気に取られた。


「名前は?」


「円!」


 円(つぶら)と名乗った子供は、どこからどう見ても七、八歳くらいのただの子供だった。空は良明を見上げて首を傾げた。彼は肩をすくめるだけで何も言わない。空はまた円に目を向けた。


「円……溺れたとき頭打ったんじゃないか?」


「ぇえっ、打ってないよ。ちゃんとわたしの力だもん」


 円は怒ったように頬を膨らませた。良明が円の頭に手を置き、神妙に頷く。


「こいつが言ってることは本当だと思うぞ。実際おれが体験してる訳だし」


 そう言った彼の声も、まだどこか半信半疑だった。空は自分の髪を掻いた。


「んー? お前術か何かが使えるってことか?」


「んー……」


 円は一瞬宙を仰いだ。そして何も言わないまま空に近付いて隣に座り、懐を探った。円が取り出したのは、紐が通された小さな乳白色の石だった。丸の一ヶ所を引っ張ったような形──いわゆる水滴の形──で、細まった方に穴が開けられおり、厚みは然程ない平石だ。空は怪訝に思いながら、石を握り締める円を見つめた。その後ろに良明が近寄る。

 円の口が動き、小さな声で呟いた。空が何かの歌の一節かなと思った時、周りの木々がざわめきだし、突然、目の前の焚火が大きくなった。その爆発したような炎の音に空は身体を震わせた。


「……おい、空」


 ごうごうと爆ぜる炎を見つめていると、良明がどこか緊迫した様子で空の肩を掴んだ。顔を上げて、空は辺りを見渡した。


 青々としていた木々の葉が次第に色付き始め、赤や黄に染まっていく。瞬きを数回繰り返す内に自分の周りがすっかり秋の装いになり、空は目を見張った。時期の違う日差しのせいか、紅と黄金の色合いは、目を閉じたくなる程に眩しく鮮やかに感じられた。

 そしてその葉も枯れ、一枚、また一枚と地面に落ちる。枯れ葉がはらはら散っていく様に、急に一人ぼっちになってしまったような、心細くなる程の不安を覚えた。生気を失って一斉に萎れていく音が、不気味さを際立てる。そこは一転して、寒々しい冬景色となった。ただその光景に違和感を覚えるのは、空気の温かさが変わっていないからだった。

 視覚に感覚が追い付かず、混乱は増すばかりだ。鳥肌の立った腕を擦り、空は息を吸い込んだ。

 その時、みずみずしい花と緑の匂いが胸を満たし、枝から小さな芽が息吹を上げ始めたことに気付いた。これまで嗅いでいた匂いに戻り、安堵を覚えた空は噛み締めるように深い呼吸を繰り返す。


 円が振り返ってほうと息を吐いた。


「ここじゃこれが精一杯です」


 円は手の甲で額を拭い、更に告げる。


「腕を見てみて」


 空は怪訝に思いながらも袖を捲った。自分の腕を見下ろして空は息を呑んだ。昨夜、この森に入ってくる際に木の枝が当たってできた切傷が、今や跡形もない。一瞬、切傷は夢で見たことだったのだろうかと考えたが、切ったことによって血が出たことも、良明に文句垂れたことだって空は覚えている。塞がったのではなく、元から傷などなかったかのようにきれいに消えてしまったのだ。第一、円が怪我の箇所を的確に当てたことにも驚いた。何せ円には怪我をしていたことさえ教えていなかったのだから。

 空は思わず困惑した視線を良明へ投げた。彼は空同様の表情をして円を見下ろしている。


「円……これどうやったんだ?」


 良明の声には何とか自分で理解しようと考え込む色が混じっていた。にこにこと笑う円へ、空も顔を向けた。


「自然の力を借りました。ちょっと疲れもなくなってるでしょ?」


 円の言葉に、空と良明は顔を見合わせた。言われてみれば、先程に比べて身体が軽い。野宿をした時によくある、拭い切れずに残った疲労が殆どなくなっている。

 二人して黙り込んでいると、円は慌てて話し出した。


「ごめんね。説明もなしにいきなりこんなことされたら、驚くよね」


「いや、まあ、な」


「何が何だか」


 空と良明が曖昧に返し、円は説明のために座り直して姿勢を正した。


「木や草、それから水とか、自然には治癒の力があるの。あまりに小さい力だから、人は気付かないけど。森や山で空気が濃く感じたことってない?」


 少し考えてから空がコクと頷く。


「それが自然の力。病気で静養するなら自然のあるところがいいっていうのも、そのせいなんだ」


「……何で円がそんなこと知ってんだ」


 自ずと空は不審がる口調になった。自分よりも幼い、小さな子供の口から出てくるにしては難しい内容だった。

 空の問いに、円はにこりと微笑む。その笑顔は、不自然に思える程に落ち着いている。


「太古から、人は恵みを受け、自然は崇められて互いが尊重し合うことで共存が成り立ってきました。その均衡が崩れないようにするため、わたし達が調律しているのです」


 円は小さな両手で、乳白色の石を握り締めた。


「人と自然の間で調和を築くのが、わたし達の役目」


 空はポカンと開いていた口を慌てて閉じた。円の話は現実離れしているようで、それでも自分自身何度も経験してきたことのような、そんな感覚を引き起こした。その時不意に自身の影が動いた気がして、空は微かに肩を震わせた。小さな恐怖が胸の中で生まれたことに気付き、空はそれを押し殺した。何に対しての恐怖だったのかは空自身、分かっている。

 無意識に顔をしかめていると、急に円がはにかんだように笑った。


「っていうのは母上の受け売りなんだけどねー」


 更に明るい声で笑い飛ばす円を見て、空も良明も脱力感を覚えた。


「要はわたしにはそういう力があるってこと。自然の力を引き出して人に与えることができるし……逆に人の命を奪うこともできる」


「……そういう怖いことあっさり言うんじゃねえ」


 気分が悪くなったように小さく呟く空の傍らで、良明は微かに笑っていた。

 時に荘厳な雰囲気をまとい、時に幼くなる円を、空達は自然と超越した存在なのだと認識して、そして不思議とすんなり受け入れることができた。空は自分自身が少し異質故に多少のことには動じなくなっていたから、円という存在も認められた。しかしどこからどう見ても普通の侍の良明が、何故驚いた風も見せずに笑っていられるのだろう。

 空がチラと良明を見上げると、彼は怪訝そうに視線を合わせた。

 急に円が真顔になり、探るように空の目を覗き込んでくる。そのまま暫く考えた末、円はゆっくり口を開いた。


「……さっき怪我を治した時もおかしいと思ったんだけど、空ってもしかして──」


 円の続きの言葉は良明は聞くことは出来なかった。空の手が円の口を塞いだからだ。円は苦しそうにもがいている。良明は首を傾げながら二人の様子を見ていた。


「どうした?」


「えっ! あ、いや、何でもねえんだ」


 振り返った空の顔にはあからさまに焦燥が浮かんでいる。それを隠すかのように、空はまた円へ振り返り顔を近付けた。


 良明は僅かに眉をひそめた。



「いいか、何も言うなよ」


 そう釘を打ってから空は手を外した。解放された円は一息入れ、空を見上げて首を傾げた。


「隠してるの?」


「……そんなんじゃねえよ」


 弱々しく否定した空だったが、動揺は隠し切れていなかった。円の術を見た時、自分の異質さを改めて実感させられた。自分はただの人だと何度言い聞かせても、抱えている存在のお陰で自分が何者なのか分からなくなる。

 満ちていく月が空なら、欠けていく月はそいつだ。陰と陽の関係が、幼い頃から同じ身体に共にある。

 円が静かに告げた。


「隠してて正解だよ、あまり外に出すものじゃない」


「え?」


「同じ類のを知ってるから、何となく分かるんだ。わたしと似ていて、極端に違う」


「……円は、これが何なのか分かるのか?」


 胸に小さな希望が生まれた気がした。空は思わず円の肩を掴んだ。しかし、円は微かに首を横に振った。


「ごめんなさい、はっきりは分からない。けど」


「けど?」


 空は肩を落としかけて、慌てて持ち直した。


「母上なら分かるかもしれない」


「母上?」


「うん、すごいんだよ母上。何でも知ってる」


 母の話をする円は、見た目相応の無邪気さが溢れていた。空は急ききって尋ねた。


「円の母親に、うちも会えないか?」


「うーん、少し難しいかもしれない。わたしの家、結界が張ってあって簡単には出入りできないんだ」


 円が申し訳なさそうに身体をすくめた。


「そっか……」


 空が僅かに俯くと、良明が静かに声を掛けた。


「なあ、話が全然見えないんだけど」


「うっ……それは……夜になれば分かる。たぶん」


「たぶんってなんだよ。おれにも害が及ぶことなのか?」


「それは……そうなるかもしれない。たぶん」


 どの問いに対しても空は曖昧な返事しかしなかった。

 空が隠し事をしているのは一目で分かる。だがその隠し事が何なのか、数日共に行動していても良明には到底理解できるものではなかった。それぐらい、そのことに関して空は無言を貫いていた。

 良明自身は詮索するのは好きでなかったし、空が伝えたくないことを無理に聞く必要もないと思っている。それに夜になれば分かると彼女は言ったのだ。待つくらいならできる。


「まあいいや、その内分かるなら。話はこれぐらいにして、そろそろ行くぞ。明るい内に町に入っておきたい」


 そう言って良明は立ち上がり、円を見下ろした。


「円はどうする? 何なら送っていくけど」


「本当に? じゃあ江戸まで一緒に行ってほしいな」


 円が嬉しそうに笑った。


「なんだ、ちょうどよかったな。おれらもそこに行くつもりだったんだ」


 良明があまりに自然に返したものだから、空はそのまま聞き流すところだった。彼の言ったことは聞き捨てならず、空は眉をひそめた。


「いつ江戸に行くって決まったんだ」


「言ってなかったっけ」


「聞いてない!」


「じゃあ今言う。江戸に向かう」


 あっさりと良明が言い、その飄々とした様に空は無性に腹が立った。何故行き先を一人で、しかも勝手に決めるのか。それでは共に行動する意味がないではないか。

 空が無言で怒りの抗議をしていると、良明はやれやれと頭を掻いた。


「ここらに来てから気付いたんだよ、このまま行けばもうすぐ武蔵に入る。だから、江戸に行っておこうと思って」


「ふーん」


 空は頬を膨らませたまま呟いた。


「何だその不服そうな顔は。江戸はおれの生まれ故郷だ。二年帰ってなかったから寄りたくなったんだよ」


「ふーん」と空はまた呟いた。


 江戸に興味がない訳でもない。空自身は江戸を見たことがなかった。良明の故郷だということにも惹かれる。それに今や天下人となった徳川の本拠地を見てみたいという気持ちも少なからずあった。ただ良明が何も告げずに行き先を決めたことが不満なだけだった。

 不意に良明が小首を傾げる。


「空が行きたいとこあるなら、そっち行くけど」


「……ない」


「だよな」


 良明がケラケラ笑うのを、空は睨み上げた。その傍らで、円が面白いものを見るような目で二人を交互に眺めていた。

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