二、鎮守の森(6)
「襲った? 家康を?」
江戸城での件を話していると、不意に政長が眉を寄せた。
良明はこくりと頷いて見せる。
「何でまた家康なんか」
「おれには分からない。だけど入れ替わった時に、この時を待っていた、って海が言った。前から家康様を狙っていたのかも」
「……そうか」
顎に手を当て、政長はしばらく考え込んでいた。そして急に顔を上げて尋ねた。
「そういや、家康は何て? てめぇらがここにいるってことは、何もなしってことか」
「おれが海を何とかするなら、咎めも捕まえもしないらしい。それより気になったことがあって」
そう言って良明は探るように政長の顔を覗き込んだ。すると政長に鬱陶しそうに睨まれた。
「何だよ」
「家康様、空の顔見て驚いたようだったんだけど……何か心当たりないか」
「……どういう意味だ?」
「いや……分からないなら別にいい」
政長が何か知っているような様子は見られず、良明は軽く首を横に振った。少し引っ掛かりはするが、あれは自分の見間違いだったのかもしれない。
「話はそこまでだな」
「ああ、城を出てからは海は現れてない。新月を過ぎたからなのか、もう分からないけどさ」
膝を立てて頬杖をついた政長は、じっと良明を見下ろした。
「空と行動を始めて、悪い夢をよく見るようになったろ」
「え?」
唐突な問いに良明は意味がよく理解できず、首を捻った。
「心の傷で一番深いものだ、それを夢で見るかと聞いている。小僧の場合は、あの戦の日の夢だろうな」
急にあの日の話が持ち上がり、良明はたじろいだ。
「見るけど……」
「空と会ってから、毎日見てるんじゃないか」
「……それが何だよ」
良明は訝しげに政長を見上げた。
宗佑が死んだ日の夢は、空に会うまでにも何度も見てきた。確かに思い返せば昨日も一昨日も見たのだが、同じ夢が続くことは不思議ではない。ただ単に、見ている夢が見たくないものなだけで。
政長は短くため息を吐いた。
「小僧は体質のせいもありそうだが、海の特徴の一つだ。側にいる者の傷をえぐって夢に出す。俺も実知も頻繁に見せられた。てめぇみたいに毎日とまではいかなかったがな」
「……やけに生々しかったり?」
良明が唖然としながら尋ねると、政長は頷いて更に続ける。
「実知はガキの頃住んでいた村を焼かれた時の夢を見るんだと。逃げ惑う人間が焼け死ぬのを目の前で見ている……そんな夢だ」
考えただけでぞっとした。
良明自身は戦で死体を何度も見てきたため多少は動じたりしないのだが、実知は武士でもなければ男でもない。どれだけ彼女が辛い思いをしているのか計り知れなかった。
「……おっさんは?」
良明は思わず尋ねてしまった。
僅かに眉をひそめた政長が品定めするようにこちらを眺める。
聞いてよかったのだろうかと不安に思ったが、気になったことでもあったので、良明は静かに言葉を待った。しばらくした後、政長は目を閉じ、ため息混じりに呟いた。
「俺の目の前で、親父が腹を切った」
その答えに良明は絶句した。
何故空の周りには、苦い過去を持つ者が集まるのだろう。空に、いや海にそういった人たちを引き寄せる、何か力があるのかもしれない。
そう考えて、良明は急にあっと息を呑んだ。
「しまった……ってことは栞も……」
「あ? 誰だそいつ」
「いや……江戸にいる間、空のこと任せてて。そいつ、空と同じ部屋で寝てたから」
「ほう。真っ先に心配するってこたぁ、てめぇの女か」
政長がにやにやしながら言い、良明はため息を吐いて肩をすくめた。
「……妹みたいなもんだよ」
「ほーう? ……おい、そこの石取ってくれ。その小さいやつだ」
急に政長が地面を指差し、良明は訳が分からないまま指定された、親指の爪ぐらいの大きさの石を拾って彼に手渡した。
政長はその石ころを手の平で数回転がし、そして良明の背後の茂みへと投げた。途端「いでっ」と小さく悲鳴が上がり、良明は呆気に取られた。今の声はどう聞いても空のものだった。
ため息混じりに政長が茂みに向かって言う。
「何しに来た。盗み聞きたぁ悪趣味だぞ」
一瞬間をあけてから、頭を押さえた――石はどうやら頭に当たったらしい――空がおずおずと顔を覗かせる。
「だって実知姉が社行ったらいるからって、ホントにいるし……しかも何か真面目な話してるっぽくて出ようにも出づらいし。狩りそっちのけじゃん」
「今からすんだよ。で、何の用だ」
政長に冷たくあしらわれ、空はむうと頬を膨らませた。しかし未だに茂みから顔しか出しておらず、良明は怪訝に思っていた。空が拗ねながら口を開く。
「……朝飯」
「ああ、俺はいい、麓で食ってきた。小僧は飯食いに行け」
「いいのか」
良明が振り返ると、政長は地に下り立ち、良明の傍らにある弓矢を取り上げた。
「一人で狩りたい気分なんでな」
「……あっそ」
半眼になって呆れたように言う良明を無視し、政長はさっさと森の中へ入りすぐに姿が見えなくなった。
良明が短くため息を吐いて視線を戻すと、空は茂みに隠れたまま政長を見送っていた。
「何で出てこないんだ」
「えっ、いや、実知姉に遊ばれて……」
しどろもどろになりながら空は答えた。良明は訳が分からず首を捻った。
そしてしばらくの沈黙の後、空が意を決したように勢いよく立ち上がった。肩や袖に落ち葉をつけたその姿を見て、良明はなるほどと思った。
彼女は着替えていたのだ。前の着物は深紅の無地でところどころ痛みさえもしていた。しかし今着ているのは薄青の生地に白い花が描かれていて、とても女の子らしいものだった。
良明がぶしつけにまじまじと眺めていると、空は眉を上げてこちらを睨んだ。
「おかしいなら、おかしいって言えばいいだろ!」
「え? おかしいとか思ってねえけど」
良明が不思議そうに言う。すると空はふんとそっぽを向いた。
「江戸で着替えたときは似合ってねえみたいなこと言ったくせに」
「あー、あれは似合ってないっつーか、空らしくなかった、かな。それは似合ってるよ」
さらりと言って良明は空の着物を指差した。
一瞬空は目を見開き、そして微かに顔を赤らめて俯いた。
あれ? と良明は首を捻る。
少し間をあけてから空は口を開いた。
「……政長と、何しゃべってたんだ?」
「ああ、海のことだ。これも預かった」
緑の表紙の冊子を見せると、空は「何それ」と眉をひそめた。
「そうか、空は字が読めないんだったな……おっさんたちが海のことを書き留めてきたらしい」
「えー、そんなの一度も聞いたことねえ……何でうちには隠すんだろ、うちのことなのに」
拗ねたように、しかしどこか寂しそうに空が呟き、良明はふっと苦笑した。
「おれが読んだら空にも教えてやるから、それで勘弁してやれよ」
「……うん」
頷きつつも空はむすっとしていた。
「でもおっさんも実知さんも字は書けるのに、空に読み書きを教えなかったってのはおかしいな。理由があるのか何なのか」
「実知姉は教えようとしてくれたみたいだけどな」
「じゃあおっさんの考えか……まあこれに書いてるかもしれん」
そう言って良明は冊子を揺らした。
すると空は何故かキョトンとする。
「さっきから気になってたけど、よっしーって政長と知り合いなのか?」
唐突な問いに良明は内心驚きながら「何で」と返した。
「だって、おっさん、て」
「……まあ、昔会ったことがあるだけだよ」
「へぇ、いつ? どこで?」
「それは……追々話す」
気まずそうに言うと、空は眉をひそめた。
「聞きたいことあったら聞けって言ったの誰だよ」
「聞けとは言ったが、答えるとは言ってない」
「卑怯だぞそれ!」
怒鳴る空に、良明はため息をもらすだけで何も言わなかった。彼女はむっと頬を膨らませる。
「……じゃあ政長に聞くからな」
「お好きにどうぞ」
肩をすくめて、良明は家へと歩き出した。
政長に会ったあの日、良明は死にたがっていた。それを自ら空に話すのは気が引けるのだ。数えきれない人を斬り、そして自分は生き残った。それなのに死を望んだ。何故自分はまだ生きているのか、二年たっても答えは見つからない。
中途半端じゃねぇのか。
政長の言葉が、頭の中でこだましていた。
良明の少し後ろを歩きながら空は拗ねていた。
(知られたくないならそう言えばいいのに)
そう考えながら無言で歩く良明の背を睨む。
政長といつ会ったのか。政長も政長で、いつ誰と会ったかなんて話してはくれないから、この疑問はきっと流されてしまうのだろう。
隠し事されるのが嫌な訳ではなくて、ただ仲間外れにされているようで少し寂しいだけだった。
空が海のことをひた隠ししていたとき、良明もそんな気分になっていたのだろうか。そう考えて、ふと急に理解できた気がした。
人の気持ちに踏み込んでいくには、まず自分が心を開かなければならないのだ。
尋ねられたことが答えにくいことであっても、そのまま隠すのではなくて、少しずつ、話せることから話していく。歩み寄るって、そういうことなのかもしれない。
良明と出会って、考えるという機会が増えた気がする。それはたぶん、今まで自分が多くを考えなくてもいい環境に無意識の内に置かれていたから、そう感じてしまうのかもしれない。
政長に連れられて旅をして、実知の家、この山で生活している間は、考えることなんてしなくても生きていられたから。
それに比べて良明は、複雑な物事をあの背に抱えて、空は知らない色んなことをたくさん見て来たのだろう。それがどのようなものなのか、彼が何を見て何を感じているのか、空には興味があった。
すぐには変われそうにないけれど、もう少し素直になれたら――。
空はうんと伸びをしてから、足を速めて良明の隣に並ぶ。
その後ろで、ご神木の葉がさわさわと揺れながら、二人を静かに見送っていた。