序 空と海
わたしは、ふこうなんかじゃない。
だってここまでいきてこられたから。
だから、それ以上のことは望まないつもりだった。
竈用の薪を両腕に抱え、そらは夕日を見つめた。真っ赤な夕焼けはそらの顔も赤く染めた。
今日は一人で薪拾いに出かけた。今はその帰りである。
そらの住まいは裏店で、それでも苦しい生活をしているわけではない。一緒に住んでいる若い夫婦がいるのだが、彼らはそらの両親ではなかった。二人には子がなく、あるところから引き取ったのだと聞かされている。
気さくで優しい二人に、そらも素直に甘えることができていた。本当の親のように慕っていた。七つのこの年まで育ててくれた彼らに、いつか必ず恩返しが出来たらと幼いながら密かに思っている。
そらは夕日を見上げながら笑みを浮かべた。柔らかい風が、そらの黒漆色の髪を揺らす。いつもと変わらない、初秋の夕暮れだった。
そらは裏店の木門を押し開け、自分の家へ駆け足で近付いて行った。
「ただいまぁ」
勢い良く開いた戸の向こうの光景に、そらは凍り付き、目を見開いた。薪が全て腕から落ちる。出迎えてくれるであろうと思っていた人たちは、今変わり果てた姿で床に転がっていた。
「……え……」
立ちすくんだまま混乱する頭を抱えるしか出来なかった。何が起きているのか全く分からない。広がる血の色と、立ち込める血の臭いに眩暈がした。
そらが口を押さえて俯いた時、何かの動く音が聞こえた。顔を上げると一人が呻き声を上げている。そらは草履も履いたまま部屋に這い上がり、急いで彼女に近付いた。
「お峰さん!」
「……そら……無事だったのね」
血まみれの身体を動かし峰は仰向けになった。彼女の血の気のない唇は安堵したように微笑んでいた。
「なんで……どうして」
そらは涙を浮かべて峰の顔を見つめた。
少し離れた場所に倒れている峰の旦那はピクリともしない。既に事切れているようだった。彼の手には今までそらが見たこともなかった刀が握られていて、それが静かな死闘を物語った。
峰は優しく微笑みそらの頬を撫でた。
白い肌に、血の筋が引かれる。
「……あんたはまだ知らなくて良いのよ……大きくなったら……」
きっと、分かるから。
そう言って、峰は目を閉じた。ゴトと峰の腕が床に落ちる。
そらは呆然と彼女の顔を見つめていた。
「──遅かったか……」
開け放たれたままの戸の外から急に男の声がして、そらは振り返った。そこに髪の長い、長身の男が一人立っていた。
彼は床の亡骸を見て、そこに座り込んでいるそらに視線を向けた。そして苦笑を浮かべ、後ろ手で戸を閉めた。
「大きくなったな……いくつだ?」
少し目元がきつかったが、男の声は思っていたより優しかった。
そらは質問には答えずに、無言で彼を見上げていた。彼の存在がどこか懐かしく、初めて会った訳ではないような気がした。
そう感じた瞬間、そらの目から涙が零れ始めた。
訳が分からなかった。
突然、一人ぼっちになってしまった。
男は部屋に上がり、そらに近寄った。
「悪かったな……俺がもう少し──」
早く来ていれば、そう言いかけた時そらの身体がグラリと傾いた。男は咄嗟に手を伸ばして彼女の小さな身体を受け止めた。腕に中の少女を見下ろし、男は短く息を吐いた。
「気を失ったか……無理もない」
そらの身体を抱き上げ血の海から離れたところに横たえた。
「さて……どうするかな────」
二つの遺体を見下ろし、男は一人言ちた。
* * * * *
暗闇の中で何かの気配を感じ、政長は目を覚ました。機嫌悪そうに重い瞼を開くと、そこにそらの姿があった。彼女は頬杖をついて政長の髪をサラサラといじっている。
そらを連れて行動を始めてから一月が過ぎていた。
政長は盛大にため息を吐いた。
「勝手に出てくるのは構わないが、俺を起こすな。何刻だと思ってる」
「外に出ていくなと言ったのは、あなただわ」
そう言って、そらは不満そうに頬を膨らませる。
彼女は容姿に似合わず、落ち着いた大人の声をしていた。雰囲気も、どこか大人の女性を思わせた。
それに良く見れば、彼女は青白い光をまとっている。真夜中の部屋の中は明かり一つないのに、そらは表情までもがはっきりと見えるのだ。
政長は頭を掻き、寝返りを打ってそらに背中を向けた。
「その身体がそらの物だからだ。一人で遊んでろ、うみ」
「うみ?」
「お前の呼び名だ。そらの反対で、うみ」
面倒臭そうに説明する政長の顔を青い瞳で覗き込み、うみは微笑んだ。
「わたしに名前を付けるなんて、不思議な人」
「……お前、誰なんだ」
うみに目も向けずに、政長は尋ねた。うみはにっこりと意味深に笑い、首を傾げた。
「さあ?」
それだけ言って、うみは消えた。
チラと振り返り、静かに寝息を立てているそらを確認して、政長はもう一度ため息を吐いた。
序 空と海 終わり