二、鎮守の森 (5)
二日が過ぎても政長は戻らず、実知に頼まれたことを良明はこなしていた。
薪を割ったり、茅葺き屋根の補修をしたり、力仕事はとりあえず回された。畑仕事もあるが、こちらは旅の間もたまに手伝っていたため苦ではなかった。しかしやはり山中ということもあり、畑が少し傾いていてやりにくさはあった。
今日も良明は朝早くに目を覚まし、水汲みに一人で谷へと向かった。
川に投げ入れた手桶を引き上げていると、突然、左から飛んでくる黒い何かが視界に入り、良明は咄嗟にそれを避けた。
良明の身体を掠め、ドサッという音と共に落ちたそれは、縄をかけられた兎の死骸だった。
(兎? 何でこんなものが……)
飛んできた方を見ると、男が木にもたれ掛かってこちらを見ていた。
良明は驚愕して数歩後ずさった。いつの間に近付かれたのだろう。気配を全く感じなかった。
警戒しつつも、良明はじろじろと男を眺める。
山にいるのが勿体なく思えるぐらい容姿端麗な男だった。長い髪が山風になびいてゆらゆらと揺れている。足元は旅の装いをしているのに、質のいい羽織を着ていてちぐはぐに思えた。しかも腰には刀を二本差してある。
何故こんなところに武士が、と思ってすぐに合点がいった。
こんな山奥に来る人間はそういない。恐らくこの人が――。
男は身体を起こし、良明に近付いた。
「トロそうに見えて案外いい反応するな。てめぇは誰だ。何でこんなところにいる」
彼の声に良明は目を見開いた。
俄に信じがたいが、忘れたことのないあの男の声と完全に一致していたのだ。二年前のあの日以来、何度も夢に現れては聞かされたその声。夢の中の彼はいつも具足姿だったため、見ただけでは気付かなかったのだ。
動揺の余り、良明の言葉が震えた。
「うそだろ……あ、あんたあの時の」
「あ? 俺はてめぇみたいな小僧、知らねぇぞ」
「こ、こぞ……」
迷惑そうに言う彼に良明はむっとして、微かに眉を上げた。
「あんたが覚えてなくてもおれは覚えてんだよ。二年前の戦で、おれはあんたに会った」
「二年前? ……ああ、関ヶ原か。いつ会ったかねぇ、記憶にないな」
男は腕組みをして宙を仰ぎ、淡々と告げた。良明は大きくため息を吐いた。
「まさかとは思うけど、おっさんが政長か?」
「いかにも、俺が政長だが。つーか誰がおっさんだこら」
「まじかよ……」
もう一度盛大なため息を吐いて良明はがくりとうなだれた。
まさかこのような形で再会するとは思わなかった。いや、再会することなど考えてもいなかった。夢の中であれだけ人のことをガキ扱いしておいて、現実でもこれか。非常に面倒だ。
しかし良明はすぐに体勢を立て直す。
「記憶にねえなら、問題もねえや」
「だな。てめぇが『殺してくれ』って俺に頼んだなんて、格好悪くて人に言えたもんじゃねぇしな」
政長がふんと鼻で笑い、良明は一瞬首を絞められた気分になった。
「……覚えてんじゃねえか」
「他人の死体埋めんのも手伝ってやったんだ、忘れるかよ。それにあの時血塗れで今にも死のうとしてた人間が、今は目の前でピンピンしてやがる、誰でも驚くっつの。つか腹立たしい」
吐き捨てるように政長は言った。あんまりな物言いに良明は絶句していた。
「で、小僧が何でここにいる」
急に政長の口調に刺が混じる。まるでここに良明がいることを許さないとでも言うような声音だった。
良明は少し怯んだが反論するように答えた。
「おれは空と行動してる。それで海のことをおっさんに聞こうと思ってここまで来た」
「ほう、空が小僧とな。妙な因果じゃねぇか。海について知ってどうするつもりだ」
政長の口調は鋭いままだった。それに心の奥底までえぐる、太刀のような視線。真実以外は話せなくなるような威圧感に、良明は数瞬、言葉を失った。
「……海を消してやりたい」
そう一言呟いた途端、政長は呆れたように顔を反らした。
「消してやりたい、なぁ。そりゃ口で言うのは簡単だ」
彼が何を言いたいのか分からず、良明は眉をひそめた。政長は良明を見据え、直も言う。
「俺がそうするために、今までどれだけ手を尽くしてきたと思ってる。あいつと少し行動しただけの小僧に、何ができるんだ? 半端な覚悟で首突っ込まれても迷惑なだけだぞ」
自分に何が出来るのか。
驚いたことに、問われて初めて良明はその事を考えた。
色々理解するのが先だと無意識に思っていたのか、まだ方法や自分の役割などは考えていなかった。
漠然と、自分が海を何とかしなければならない気がしていた。何故だろうと思い返してみてもよく分からなかい。ただ気付いたら空が側にいて、そして海が現れたから、関わらずにはいられなかった。それだけだった。
というか、何故さっきから政長は無遠慮にずけずけと暴言にも似た言葉を吐くのだろう。
そりゃあ、あの時は手を貸してもらったし、傷の手当てをしてもらった恩はあるが、だからと言って彼に偉そうな態度を取られる謂れはない。
少々腹が立ってきた。初対面でもない相手だ、こちらももう遠慮は不要だろう。
良明は彼を睨んだ。
「おれに何が出来るかなんて考えてねえ。でも半端な覚悟だったら、わざわざこんな山奥まで来て、いつ戻ってくるかも分からんおっさん待って畑耕したりなんかしねえよ」
「おーおー、急にクソ生意気になりやがった。つーかおっさんおっさん呼ぶのやめろ、不愉快だ」
「小僧呼ばわりやめたら、やめてやるよ。おっさん」
ふんと鼻で笑うと、政長も冷めた笑みを浮かべた。
「後でぶっ飛ばす。その兎、食うから捨てんなよ」
政長が兎を指差し、良明はそれを拾い上げた。
「これを人に向かって投げるってどうなんだ」
「いちいちうるせぇガキだな。てめぇと空が来たってことは食い扶持が増えた訳か。ったく、迷惑なやつらだ」
政長は奪うように兎を取り上げ、 良明の横を通り過ぎた。
良明は慌てて追うようにしたが、振り返った彼に制止される。
「てめぇは水汲んでから来い」
「……海のこと、話せよ」
「わかったわかった、戻ったら話してやるから」
ため息混じりに、しかしどこか軽い調子で言って、政長は歩いていった。
どうやら彼も少しは警戒心が解けたらしい。良明は密かにホッと息を吐く。
政長を見送り、良明はふと縄を持った手が痛くなっているのに気付いた。よく見れば水の重みで縄が手に食い込んでいる。
引き上げている最中だったのをようやく思い出し、良明はまた水汲み作業に戻ったのだった。
実知の家まで戻った良明は土間の水瓶に水を移していた。その物音を聞き付けたのか、空が慌ただしい足音と共に現れた。
「よっしー! 政長帰ってきた!」
「ああ、さっき会った」
そわそわした様子の空を横目に、良明は淡々と答えた。
「そうなのか? 政長何も言わねえし」
拍子抜けして空が肩を落とす。
「ふーん、何もね」
そう呟きながら、良明はからになった手桶を片付ける。
どうやら、政長は昔のことを話す気はないらしい。べらべら喋られるよりはいいが、想像以上にとらえどころのない性格は接するのに苦労しそうだった。
内心ため息を吐いていると、空の背後から急に政長が姿を現し良明はギョッとした。
彼が空の頭にポンと手を置き、空の身体がびくりと跳ねる。
「空、てめぇは相変わらず小さいのな。ちゃんと食ってんのか」
「びびびびっくりした! いきなり来んじゃねえ! ていうか小さいって言うな!」
空は勢いよく振り返り、煩い心臓を押さえて怒鳴った。
「はあ、相変わらず女らしさの欠片もねぇな」
大袈裟にため息を吐いて政長は良明に目をやった。
「おい小僧、狩りに行くぞ」
唐突に言って、彼は手にしていたものを投げ、良明は反射的に受け取った。
手に収まったのは、弦の張られた弓と、数本の矢が入った矢筒。
「狩り? おれも行くのか? 何で」
「てめぇの飯ぐらいてめぇで獲りやがれ。甘ったれんな」
「今から?」
「そうだ」
一言頷いて、未だ訝しんでいる良明の横を政長はすり抜ける。その際、彼が意味深な目配せをし、それを見た良明はハッとした。
「よっしーも行くのか?」
傍らで空が首を傾げる。
「ああ、行かないといけないらしい。空はどうする」
「……うちはいい、行かない。苦手なんだ」
苦笑を浮かべてかぶりを振る空を、良明は不思議に思いながら見つめていた。
まあ空も女だし、生き物を殺すところなど見たくないだろう。そう考えた時、既に外に出ていた政長の大声が響いた。
「小僧、置いてくぞ」
「今行く」
空の頭を軽く撫で、良明は外に出ていった。
撫でられた頭を押さえ、空は彼の背を見送った。実知の声がしたのはその時だった。
「見ぃちゃった」
にやにやと笑う実知の顔が囲炉裏の間から覗き、空は「何を?」と首を傾げた。
「最初良明を見たときは何事かと思ったけど、空もちゃんと女の子だったのねー、うふふ安心した」
「どういうこと?」
キョトンとしたままそう言う空を見、実知の顔から笑みが消える。
「あらあら、本人が分かってないようだわ。あんなにあからさまな顔しておいて……まあ初めてでしょうからねぇ。良明はどう思ってるのかしら」
深刻そうに言ってる割には、実知の声はやけに弾んでいた。
「何とも思ってなかったらここまで来ないわよね。ということは脈は十分あるのか。やだ、楽しいわ」
彼女はぶつぶつと独り言ち、口元を押さえてにやりと笑う。
それを目撃した空の腕に鳥肌が立った。どうしよう、何だか怖い。
「よし、そうなったら。空、ちょっとおいで」
立ち上がった実知に手招かれ、空は一瞬躊躇ったが、恐々と彼女について行った。何をされるかのも知らずに。
草木を掻き分けながら、良明は政長を追っていた。
山道に慣れているのか、政長の歩く速さは平坦な道を歩いているのと大差ないようだった。お陰で良明は少し駆け足で進まなければならなかった。
無言で歩き続ける政長に、良明は問いかける。
「この山って、どんな獣がいるんだ?」
「あの兎はここで獲った。他には鹿とか狐もいる。……熊はいねえから安心しろよ」
面倒そうに政長が説明し、良明はふーんと呟いた。
今度は政長が振り返らずに尋ねた。
「そういや、てめぇは狩りをしたことあんのか」
「連れ出しといて今更それ聞くか? 付き添いでなら行ったことはある」
「したことはねぇんだな。弓は?」
「引ける」
良明が頷くと、政長はちらと振り返りふんと笑った。
「まあそれぐらい出来ねぇと、徳川の兵なんざ務まらんだろ」
徳川と言う名に、良明は思わず眉をひそめる。
「……おっさんは、どこまでおれのこと知ってんだ?」
「ああ? 俺がてめぇのこと詳しかったら気色悪いだろうが。興味ねぇよ」
心底迷惑そうに政長に言われ、脱力感を覚えた良明は大きくため息を吐いた。
ああもうこの人面倒臭いし調子が狂う。というのが現時点での正直な気持ちだ。
言い返す気力もなくなり黙々と歩いていると、政長が独り言のように呟いた。
「……元、徳川の兵。くにを抜けてからはずっと浪人。くにを抜けた理由は、まあ主君不信ってとこか。俺も気に食わん、家康は」
そう言って政長は短く笑った。良明は驚いて足を速めた。
「知ってるのか……?」
「面識はねぇな。話を聞くぐらいだ」
政長の背をしばらく見つめ、良明は口を開いた。
「なあ、あんたってどっかの大名に仕えてたんじゃないか」
不意に政長が足を止めて振り返り、良明も思わず立ち止まった。
「どうしてそう思った?」
「……何となくだ。戦のあの日も陣羽織着てたし、大将やれるくらいの人間なんだろうなとは思ってた」
「ふん、記憶力だけはいいのな」
政長はそれだけ言い、良明の問いには否定も肯定もせずに再び歩き出した。
答えろ、と良明は言いかけたが、もしかしたら触れてはならないことだったのかもしれないと考え直し、口を閉じた。
黙り込んだまましばらく歩いて行くと、急に自分を取り巻く空気が変わったのを良明は感じた。それはあまりにはっきりとした、例えるなら水の中に飛び込んだような感覚で、戸惑いさえ覚えるくらいだった。
実知の言う「山頂一帯」に入ったのだ。
数日前に入ったときはぼんやりとしたものだったのに。
そう考えて、良明は緊張しながら政長に目をやった。
「……おっさん、まだ行くのか」
「社までだ、我慢しろ。感じやすい体質ってのも難儀だな、ちったぁ空を見倣え」
振り向きもせずに政長は淡々と言った。
何故彼がこの体質を知っているのか、疑問に思って良明は首を捻った。それよりも体質をどうやって見倣えってんだ、と反論したくなったが、唾と共に言葉も飲み込んだ。
想像以上に息苦しい。それに辺りが静かすぎて耳鳴りがしている。自分の足音さえ遠くから響いてくるようだ。
「おい、分かってるだろうが息は止めるなよ、あてられるぞ」
無意識に顔をしかめていると、政長の声が耳に届き良明はハッと顔を上げた。
「ぶっ倒れても放っておくからな」
「……分かってるよ。おれだっておっさんの前で倒れたくなんかねえ」
「そんだけ憎まれ口叩けりゃ十分だな……持ってる物か地面に集中してみろ。触覚ってのは気を取り戻しやすいんだ、目や耳はすぐイカレるからな」
政長の言葉を聞き、良明は手にしている弓を持ち上げ、それをしげしげと眺めた。
こうなることを分かっていて彼はこれを持たせたのだろうか。
少し弦を引っ張って弾くと、頭の片隅が微かに澄んだようだった。
良明は立ち止まって、呼吸を整える。そして矢は用いずに弓を構えた。木々の間に照準を合わせ、ゆっくり引き絞っていく。
腕を目一杯開いたところでしばらく静止し、息を止めて弦を離した。
すると突然、木々の間を矢のように突風が吹き抜け、鳥たちが慌ただしく飛び立っていった。
今まで静かだった山の中が一気に騒々しくなり良明は唖然とした。
「何だぁその面。てめぇでやったんだろうが」
顔にかかる長い髪を払いのけながら、政長が呆れた物言いをする。
「いや、こんなにはっきり変わるとは思わなかったから……」
「まあ小僧のやり方は独特だわな。弓以外でもやったことあるんだろ」
「ああ……刀で」
つい最近もやったな、と思い返して良明は宙を仰いだ。円の従者である斑の術を解いた時とこの感覚に大差はなかった。ただ今回のこれは解くというよりも、身を守ることに近いかもしれない。
政長がふんと鼻を鳴らす。
「あの竹光か」
「……見たのか」
良明は訝しげに眉をひそめた。
「見てくれと言わんばかりに置かれてちゃあな。竹光持ってる理由は別に問わんが、中途半端じゃねぇのか」
厳しい彼の一言に息が詰まった。自分でもそう思っていた節があったのだ。思わず視線をそらしてしまい、言い返せない自分に腹が立った。
「てめぇで分かってんなら、さっさと始末つけろ。半端なもんいつまでも持ってっと、いつか痛い目に遭うぞ」
そう言って再び歩き出した政長の背に、良明は小さく呟いた。
「説教かよ」
「助言だ」
聞こえたらしく政長は即座に切り返した。良明はやれやれと大袈裟にため息を吐いた。
それを無視して政長は直も続ける。
「媒体なしで何もできんようなやつは、大した役にもならん。よくそんなんで空と行動できるな」
「……何かすごい腹立つ。やってみないと分かんねえだろ」
良明が心外に思って反論すると、政長はこちらを睨んだ。
「その強気がいつまで持つか見ててやる。泣き言いったら叩きのめすぞ」
「泣き言なんか言わない。おれが空と行動してんのも、ここにいるのも、全部自分の意思だ」
その言葉が口から出たことに、良明は内心自分でも驚いた。政長が鼻で笑う。
「口先だけにならんよう、せいぜい頑張るんだな」
小馬鹿にされた気がしてむっとしていると、背を向けた政長の肩越しに何かが見え良明は覗き込んだ。
小さな社だった。大分古いもののようで所々朽ちてはいたが、注連縄や供物はまだ新しく見える。政長や実知が頻繁に取り替えているのだろうと、良明には自ずとそう思えた。
そしてもっと目を奪われたのは、社を護るように、いや、飲み込むように枝を伸ばす巨木だった。地面から露出したごつごつとした根は大きく広がり、太い幹は苔むし、葉は黒々と見えるくらいに青い。
古代から生きてきたような堂々とした佇まいに自然と言葉を失った。己の小ささが身に染みるようだった。
政長の隣に良明はふらりと立ち、天辺の見えない木を見上げたまま口を開く。
「もしかして、これがあるから……空をここに?」
「それもだが、この山は水の流れもあるからな。そういうのが、あいつには合うらしい」
ああ、それで空はこの山にいて何の影響も受けないのか。この山全体と、この神木、そして空自身の波長が一致しているのだろう。
良明は感心したように息を吐いた。そして社の段に腰を下ろした政長へ目をやった。
「狩りもしないつもりか」
「何言ってやがる。確かに空から離れるための口実だったが、狩りはやるぞ。実際飯も足りねぇだろうが」
居候のせいでな、と言いたげな目で見られたため、良明は一瞬視線をそらした。
「……そういや、何で空は狩りが苦手なんだ?」
良明が首を傾げると彼は記憶を辿るように宙を仰いだ。
「あいつがチビだった時に狩りについてきたことがあってな。俺が獲物を仕留めたら急にぎゃーぎゃー泣き出して、それからは一度もついてこなくなった」
「どんな仕留め方したんだよ……」
良明は呆れたように言い、こっそり空を哀れに思った。
「この際だから色々聞くが、空にスリ仕込んだのはおっさんか」
「ん? ああ、あいつなかなかやるだろ」
そう言って政長がニヤリと笑い、良明は僅かに眉をひそめつつまた問う。
「懐剣の扱いと刀相手に慣れてるのも、あんたの仕業か」
「自分の身ぐらい自分で守れねぇとな。あいつの身体に何回痣作ってやったかね、懐かしい」
「……空の言葉遣いが悪いのも……」
「俺の真似だろうな」
自分に非はないとばかりに政長はあっさりと言う。
(全ての元凶はこいつか)
良明は彼を見下ろしたまま絶句した。
空のためを思ってやったのかそうでないのか分からなくなるほど、政長は面白そうに話す。
「ガキ相手だ、手加減はしてたさ」
「……ガキの前に女じゃねえか」
「知るか。まず言っとくが、懐剣の扱いを教えてくれっつってきたのはあいつだからな。男だの女だのこだわるな、面倒だ」
政長に鬱陶しそうに言われ、良明は不満げな表情を浮かべた。
空が政長に似た言動をするのは、育ててもらっている内に自然と身に付いたものなのだろうが、裏を返せば空が彼のことを余程気に入っているからそうなったのではないか。
彼女が政長の影響を多大に受けているのだと考えると、何だか面白くない気分になるのだった。
政長が眉をひそめる。
「文句言いたそうな顔だな」
「……別に」
「ふん。じゃあ、次は俺が問う。ここに来るまでに何があったのか全部話せ」
彼の視線を睨み返しながら、良明は言った。
「話したら、あんたも海のことを話すんだろうな」
すると急に政長が懐に手を入れ、良明は何事かと身構えた。彼が取り出したのは緑色の表紙をした冊子だった。
「海がいつ何を喋って何をやったか全部書いてある。俺と実知が欠かさずつけてきた」
そう言って、彼はその冊子を良明に投げ渡した。
良明は驚きながら政長を凝視した。彼の顔は至って真面目で、嘘をついているようには見えなかった。
「話しが先だ。読むのは済んでからにしろ」
「……わかった」
手に収まった冊子を見下ろし、良明は息を吸い込んだ。
そして政長の前に座り、事のあらましを話し出した。