二、鎮守の森 (2)
「察して下さい」
「……ふん。話だけは聞こう。やるかやらないかはそれから決める」
「助かります」と言って常景は軽く頭を下げた。一陽は片膝を立ててそこに頬杖をついた。
「簡潔に言ってもらおうか。その城の頼みってやつを」
「はい」と頷いた常景は酷く無表情だった。彼は息を吸って、低く呟く。
「――――――」
丁度その時、里乃が襖を開き、その音で彼の声は掻き消された。しかし一陽の耳には届いていた。
「――とのことです」
常景は歯切れよく締め、里乃が入れた茶をすする。知らず知らず息を詰めていた一陽は、大きく吐き出した。
「……クソが」
引きつった笑みを浮かべて、誰に向けるともなく罵った。
「引き受けてくださいますか」
そう言った常景の顔に感情はなかった。異常な空気を感じ取ったのか、常景の隣に座った里乃が心配そうに二人を交互に見ている。
一陽は黙り込み、長い間考えていた。次に一陽が口を開いた時には、茶はすっかり冷めていた。
「引き受けよう」
そう言って、一陽は冷めた茶を飲み干した。常景が安堵したように礼を言い、深々と頭を下げる。
「発つのは三日後にする。やることがあるんでな」
「やること? 何ですか」
「ジジイが気にすることじゃねえよ。危険なことでもねえ」
常景の考えを読んだかのように、一陽は告げた。
「俺は俺のやり方でやらせてもらう」
夜の帳が下り、欠けた月が朧気に闇を照らす。
縁側に腰掛けた一陽は、その月を眺めてぼんやり考え事をしていた。その考えもまとまり始めたと思った途端ばらばらに散り、四方八方に落ちていく。もう一度組み立てようにもどこまで自分が考えていたのか、何を考えていたのかさえも分からなくなる。
昼に常景からの依頼を聞いてからずっとこの調子だった。記憶と感情が入り交じり、区別がつかない。何度かそれを繰り返して一陽は深いため息を吐く。
不意に寝所の襖がそろそろと開き、一陽は振り返った。襖の隙間から里乃が顔を覗かせ、こちらを見てはひどく落胆した表情を浮かべる。
「なぁんだぁ、起きてらっしゃったの」
「何しに来た、夜這いか?」
そう言って一陽はからかうように口の端を上げる。
「ええ、寝込みを襲おうと思って」
里乃がにこにこしながら隣に座り、彼女から湯上がりの匂いが漂った。濡れた髪を横目に一陽は肩をすくめた。
「よく言うよ。はなからそんな気はないだろ」
「あらあら。私が独り身だったら、お相手して差し上げてもよかったんですけど。この身体は旦那さまに捧げていますから」
ふふん、と誇らしげに里乃が言い、一陽はけっと嫌味を込めて返した。
「あんなジジイのどこがいいんだ。ただの老害じゃねえか」
「まあー!」
里乃はキッと眉を上げ、噛みつかんばかりに一陽に詰め寄った。その勢いに気圧され、一陽は思わず身を引いた。
「一陽さんと言えど、旦那さまを貶すのは許しません! 明日の朝餉、抜きにしますよ!?」
「……いや、言い過ぎた。俺が悪かった」
一陽があっさり謝ると、里乃は「もうっ」と頬を膨らませ座り直す。
そのむくれた横顔を見ながら一陽は苦笑し、庭に視線を移した。恐れもせずに食ってかかるところが菫に似ていて、少しばかり調子が狂う。それを彼女に告げればからかわれるだけだと分かっているので、絶対に口にはしない。
「――戻られないんですか」
里乃の落ち着いた声が耳に届き、一陽は振り返った。彼女は先程と一転して神妙な顔をしている。
「……どこに」
「菫さんのところに、です」
彼女の答えに僅かに眉をひそめ、一陽はまた庭に視線を戻すなり黙り込んだ。触れられたくないことだった。
こちらを見たまま、里乃がやれやれとため息を吐く。
「菫さんもずっと待っているではないですか。すぐ側にいるのに、会いに行かないのは何故です」
一陽は片膝を立てて頬杖をつくだけで、話すことはしなかった。
これ以上問うことは諦めたのか、里乃も黙り込み、僅かに身じろぎするだけだった。
二人の間に沈黙が流れ、生温い風が吹く。その風の音しか聞こえない時が、ゆるゆると過ぎていった。
「――私ね、娘がいるんです」
里乃の小さな声が静けさを破った。彼女を怪訝に見つめ一陽は首を傾げる。
「娘?」
この家には、里乃の他に手伝いの老婆がいるが、他には一陽と、常景がたまに訪れるだけで子供の気配は全くない。こちらを向いて里乃がはにかんだ。
「前の人との子なんです。今年十二になったんですよ」
「へえ、今どこにいるんだ? まさか売っ……」
「そんなことしません!」
彼女の眉がまたつり上がり、一陽は声にして笑った。
「冗談の通じないやつだな。それで、どこに置いてきた」
「お、置いてきたって……松葉屋に奉公に出しています、住み込みで」
松葉屋と聞いて、一陽は記憶を辿りその年齢の少女を思い返してみる。二年前までの記憶しかないが、当時十歳の女児を思い出せばいいわけだ。そう言えば、一陽がよくからかって遊んだ小さな奉公人がいた。
「……もしや、小夏か?」
宙を仰ぎながら呟くと、里乃はパッと目を輝かせた。そして優しい母親の笑みを見せる。
「はい、一陽さんがご存知で嬉しいです」
「何で奉公なんかに。ジジイが養えないわけでもないだろ」
そう言って一陽は首を捻る。
「ええ、旦那さまも小夏の面倒はあの子が嫁ぐまでみると、おっしゃってくれました」
「なら何で」
里乃は寂しそうな苦笑を浮かべ、視線を落とした。
「……小夏を見てると、前の夫を思い出すんです。旦那さまに拾われてからも……。それが旦那さまに申し訳なくて」
「思い出さないために、奉公に出した。か。分からないでもねえけどな」
やれやれと首を振る一陽の隣で、里乃は細く息を吐いた。それからまた二人は静かに、それぞれ思いを馳せた。里乃は小夏のことを、一陽は――。
一陽はしばらく目を閉じ、ポツリと呟く。
「俺も、今日……昼に息子の顔を見た」
「あ……凛ちゃん」
一陽の横顔を見、里乃は眉を下げる。
まだ五つだという凛太郎の話を、彼はよくしてくれた。彼の中の凛太郎は三つのままで止まっている。そう告げた時の一陽の声も表情も、寂しそうだったのを里乃は覚えている。
この男がここに連れてこられた時、彼の獣のような視線の鋭さと、触れば噛み付かれそうな雰囲気に里乃は竦み上がった。常景は心配ないと言っていたが、正直なところ自分の貞操が、というか命が危ない気がしてならなかったのだ。
だが、ここに匿い話をする内に、彼は自分のことを話してくれたし冗談だってよく言った。最初見た彼の印象は今や崩れ去り、父親の顔をして子供のことを語る彼がそこにいるだけだった。
庭を眺めたまま一陽はふっと笑う。
「見ない間にでかくなってた。ガキの成長は早いな」
一陽がしみじみと言い、里乃の胸も少し苦しくなる。
「……側で見ていなくて、よいのですか」
「それを言うなら、あんたもだろ。小夏、大きくなってるぞ」
一陽の口調が穏やかで、胸の奥がじわりと熱くなった。
小夏に会いたくない訳ではない。今すぐにでもこの手で抱き締めて、細い髪を撫でて、たくさん喋りたい。小夏が嫁ぐまで共に暮らしたいという気持ちは消えてなどいなかった。
里乃は両手をぎゅっと握り締め、囁くように呟いた。
「……親の利己なんですよね……小夏は何も悪くないのに」
「利己……か。俺もそうだろうな。でも凛の周りは菫以外もできた奴しかいねえし、心配もしてねえんだ」
「その中に、一陽さんがいなくても……ですか?」
里乃がおずおずと尋ねると、一陽は一瞬柔らかな笑みを浮かべ、立ち上がって部屋へ入った。
「戻る気はある。ただまだその時じゃないだけで……答えが見つかるまでは戻らない」
「答え、とは?」
一陽は肩をすくめただけで特に何も言わず、敷かれた布団の上に腰を下ろす。里乃も立ち上がり、彼の隣に座った。
「凛ちゃんだけじゃなくて、菫さんの顔も見てきてはいかがです」
「いや……菫の顔を見たら、たぶん俺は自分を抑えられなくなる。そうなったら困るからな、今は」
「一陽さん……」
渇いた笑い声を出す彼を、里乃は眉を下げて見つめた。
「俺は寝る。お前も早く寝ろよ」
布団に潜り込む一陽の傍らで、里乃は深々と頭を下げた。
「おやすみなさいませ」
「ああ、お休み」
ひらりと一陽が手を振り、里乃は立ち上がって部屋を後にした。
自室に戻った里乃は、行灯に火を灯し、文机に向かった。紙を取り出し、墨をすり始める。
一陽が発つのは三日後だ。まだ猶予はある。彼の存在を他に漏らすことは約束に反するが、自分がやらなければならない気がした。
彼が行けないのなら、彼女に来てもらうしかない。
自分の前の夫も、戦に行き帰らぬ人となった。愛する者の帰りを待つ間のやりきれない思いは、里乃には痛いほど分かる。
一陽もきっと彼女に会いたくて苦しい思いをしているに違いないのだ。
ここに迎え入れてまだ日にちは経っていないが、彼と話す内に菫に対する想いが見え隠れしているのに気付いた。
我慢すればするほど膨らんでいくというのに、何故この二人は耐え続けるのか。里乃には理解できず、むしろもどかしくて怒りさえ覚えるのだった。
紙の上に筆を滑らせ、ふと手を止める。
(私も……小夏から逃げているのかもしれないわ)
もう五年ぐらい、小夏とまともに話していない。それに今更母親面をしていいものなのか、里乃には分からなくなっていた。
弱々しくため息を吐き、里乃は再び筆を動かし始めた。
夜の闇は深まり、しばらくして里乃の部屋の明かりも消えた。
静寂が包み込む屋敷の上で、欠けた月がひとつ寂しく揺れていた。
* * * * *
清宏は縁側に腰掛けてうんうん唸っていた。
本日は非番なので、久しぶりに実家を覗いてみたのだが、考えることが多くてくつろぐことは出来ていなかった。
昨日栞とも話したのだが、良明と宗佑のことだ。良明を養子にした経緯は何なのか。
良明が実父である晴義の長子であることや、宗佑と晴義が親しい友人同士であったことも分かっているが、それを結びつけてどう答えを導き出せばいいのか。清宏には理解に苦しむ話だった。
というか晴義ってどんな人物だったのだろう。良明が年を取った感じかな、と想像してみて思わず吹きそうになった。良明は年を取ってもずっとあのままのような気がした。
そんなことより、本題は宗佑のご新造だ。手がかりが全くと言っていいほどない。
「愛していても一緒にはなれない」という宗佑の言葉だけを頼りに、ごまんといる女の中から一人を探し出す。気の遠くなるような話だ。清宏は自ずとため息を吐いた。
「兄さまどうなさったの? ため息なんて兄さまらしくないわ」
背後から急に声をかけてきたのは、清宏の四つ下の妹である三咲だ。
清宏は振り返って、あどけない妹の顔を見やった。ほっそりとした身体つきで、青白く見えるくらいに真っ白な肌をした少女だ。
「ちょうどいい、三咲も考えろ」
「何を?」
三咲は首を傾げながら清宏の隣に腰を下ろす。
「愛していても一緒にはなれない相手、ってどんな人だと思うか?」
「なぁに? 兄さま、今度はそんな人を狙ってるの? 栞さんは? ねえ栞さんは?」
目を光らせ三咲がずずいと清宏に詰め寄った。清宏は鬱陶しそうに眉間に皺を寄せる。
「栞の話はいいから、質問に答えろよ」
「ふーん、なるほど、進展はなしってわけ」
三咲がケラケラと笑い、事実に言い返せない清宏は肩を落とす。
「わたしは人を好きになるって気持ちは分からないけど、色んな本を山程読んできたから想像はできるわ」
「想像ね」
清宏は彼女の言うことが当てになるのか不安になってきた。
三咲は身体が弱く、幼い頃から家で寝ていることが多かった。それ故、人との関わりは余りない。恋だってしたことないだろう。
しかし彼女は様々な本を読んできた。清宏も三咲に頼まれて版元に本を買いに走らされたことが何度もあった。
お伽話から異国の地の本まで、清宏には難しく思える内容でも三咲は難なく読破するのだった。経験は少ないが知識はそこらの女よりも格段に多い。そういうところは、尊敬に値するのかもしれない。
そんな彼女からどのような意見が出るか、不安ではあるが見物でもあるなと考え直した。
三咲は宙に視線を向け、考えながら話し出す。
「愛していても一緒にはなれない、でしょ? 叶わぬ恋ってことよね。身分の違いからか、既にその人に伴侶がいるから……兄さま、それって男の話? 女の話?」
「男だよ」
「じゃあどちらも当てはまりそうね。どちらかの身分が高すぎて親から許しが貰えないか、片方……この場合は女の方かしら、女に伴侶がいて想いを告げられない。あ、あと相手が同性ってことも考えられるわね! どうかしら」
「うん、お前の想像力には感服するよ」
にこにこと自信に満ちた笑顔で振り返る三咲に、清宏は僅かに呆れた表情を見せる。それが不服だったのか、三咲はむうと頬を膨らませた。
「何よ、聞いたのは兄さまじゃない。わたしは考えを言っただけだわ」
むくれる妹の肩を叩いて、清宏は面倒そうに言う。
「あー、はいはい。じゃあ同性の線は無しとして、身分違いと既婚……か」
清宏は顎に手を当て考え込む。
宗佑の身分が高過ぎたか、相手の身分が高過ぎたか。もしくは相手が既婚者の場合だ。宗佑は生涯独り身だったからこの可能性も十分に考えられる。
彼の周りを探れば、何かしら出てくるかもしれない。宗佑の実家、交友関係、それから城。
(……城)
宗佑が城勤めしていたのは毎日顔を合わせていたので清宏も知っている。十六年前については分からないが、当時の宗佑の位は大体想像できる。彼の家はそれなりに位も上だったはずだ。
ふと、清宏は思考を働かせた。そして行き着いた内容に背筋がひやりとし、全身に鳥肌が立つ。
「いや、なし。それはなし」
清宏はかぶりを振って考えを追い出そうとしたが、一度浮かんだものは消えてはくれない。鳥肌の収まらない腕をごしごしと擦っていると、三咲が不思議そうに顔を覗き込んでくる。
「何がなしなの?」
「や、ちょっと恐ろしい予想しちゃってさ。本当、これだけはやめてほしい」
清宏は心からそう呟いた。それからしばらく無言でそわそわしていたが、握り拳を作り、勢いよく立ち上がる。
「駄目だ、気になるからやっぱり調べよう。俺戻るわ」
「えー、帰っちゃうの? 今日具合いいから版元まで付き合ってもらいたかったのに」
三咲がつまらなそうに唇を尖らす。不満げな彼女の頭を優しく撫で、清宏は苦笑した。
「悪い、また今度付き合うから」
「約束だよ」
「ああ、わかった」
互いに頷き合い、妹を置いて清宏は玄関へと急いだ。
向かう先は城の文庫だ。あそこなら今までの様々な記録が残っているはずだ。そこに行けば何か見つかるかもしれない。宗佑に関してだけでなく、良明や良明の実父のことも。
調べれば調べる程、考えれば考える程自分が危ない橋を渡っていると思えてならなかった。でももう引き返すことはできない。こうなったらとことん探ってやる。
清宏は何故か強気になって草履をつっかけ、外に飛び出した。
* * * * *
「家康様、千姫様と秀頼様のご婚約のことですが」
「ん? 何か出たのか。婚儀はまだ先だが」
正座する蒼の真正面に家康はあぐらをかいていた。家康の鋭い視線に射られ蒼は僅かにたじろぐ。
「いえ……どういうご意思なのかと」
「うむ、豊臣との対立は避けられんしな。お前が妙に思うのも当然だろう。まあ政略と言えば政略だが、秀吉殿の遺言とあっては、やらねばなるまい」
家康は表情も変えずに淡々と告げる。
千姫とは家康の三男、秀忠の娘で、一方秀頼は今は亡き豊臣秀吉の二男である。生前の秀吉の計らいで、二人の婚約は決定していたのだが、千姫は六つ、秀頼は十と、どちらも年端もいかぬ幼子だった。
蒼は不安げに家康を見つめていた。
「それは秀吉様のためではないのでございましょう? 私の占ではまだ出ておりませぬが、豊臣との戦は避けられぬように思います。千姫様は、犠牲に?」
秀吉がいない今、ましてや天下がこの男に傾いている今なら、この話を破棄させることぐらい容易いだろう。だが彼がそうしないのは、その婚約が他の大名――特に豊臣恩顧の将たち――を確実に取り込むための策としているからだと、蒼も薄々分かっていた。
蒼が訴えるような視線を向けていると、家康は口の端を微かに上げ妖しく笑んだ。
「戦になった時は助け出すさ。大事な孫娘を見捨てたりはしない。それより、お前の占ももう少し先まで読めたらよいのだがな。昔からもどかしい」
「……申し訳ありませぬが、そればかりは……」
蒼は視線を落とした。
蒼の占とは、先見の能力のことだ。見えるのは二、三年先までで、その間に何が起こるのか、誰が何をするのかが分かるのだった。その力を買われ、十四の時から家康の側に置かれている。
名目上は側室となっているが、寝所を共にするということは一度もない。身体を交わらせることで力がなくなることを家康が恐れたためだろうと、蒼は考えた。
そればかりか蒼は本丸の隅に建てられた社に実質隔離、幽閉されていて、外界との接触はほとんど断たれている。占に集中できるようにと家康は言っていた。確かにこの力は集中しなければ発揮できず、普段見えることはなかった。しかしこの社は蒼が逃げ出さないようにするためのものであることは、蒼自身も大分前に気付いていた。
家康は、この力を手放したくないのだ。
先が分かることほど、心強いものはない。分かっていれば、先の出来事が吉凶どちらだとしても対応次第でどうとでもなるのだ。そう家康が言っていた。
内心ため息を吐いていると、家康が扇子で軽く膝を叩いた。
「よいよい。そう言えば、先日申した空という娘のことはどうだ? 何か見えたか」
「…………」
蒼は微かに顎を引き、静かに答えた。
「……近い内にあの子が徳川に害をなすという占は出ていませぬ。家康様が気を病む相手ではないでしょう」
しばらく蒼の顔を探るように見つめ、家康がため息を吐く。
「そうか。だが実際に襲われたからな。気にはかけておく。またお前にも尋ねるとしよう」
「はい……承知いたしました」
蒼は瞼を伏せ、密かに握り締めた拳を震わせていた。
家康が社を後にし、ため息混じりに寝所に戻ると、明音がこちらに背を向けて座っていた。顔は見えていないのに、周りにふわふわと花が舞っているように見えるぐらい彼女が浮かれているのが分かった。
まあ、幸せそう。と蒼は苦笑し、明音の隣に腰を下ろした。
「今日も来てくださったの?」
「あー、蒼様。お話し終わったんですねぇ」
とろけそうな微笑みを浮かべながら明音は振り返った。思った通り、彼女の頬はほんのり紅く、瞳もきらきら輝いている。
「今日はこれをいただいたんです」
そう言って明音は大事そうに両手で包んでいた物を見せた。
「あら、お菓子ね。かわいい」
白い花のような菓子が転がり、蒼は頬を緩ませた。
「えへへ、都の有名なお店のお菓子らしいです。わたし、こういうの食べたことがないからもったいなくて」
「ふふ、それだけじゃないでしょう? あの方からいただいた物だから、とっておきたいのよね」
蒼がからかうような視線をやると、明音は顔を赤らめもじもじしながら俯く。その様子が余りに可愛らしく、蒼はクスクスと笑い出した。
「それ生菓子だから、すぐ腐っちゃうわよ。それこそ、あの方に失礼だと思うわ。食べてもらいたくて明音にあげたのでしょうから」
「う、あ、明日! 明日食べます!」
明音は勢いよく顔を上げ、菓子を包んでいたのであろう紙に丁寧に包み直した。
微笑みながら彼女を見つめ、蒼は呟いた。
「私も昔……そういう風にお菓子を貰ったことがあるの」
明音が振り返り、首を傾げる。
「殿方から、ですか?」
「……ええ。明音が丁度、生まれたばかりの頃の話よ」
その日を思い返すように、蒼は宙を仰いだ。
明音のほんの数刻の会瀬に昔の自分を重ねてしまうほど、あの日手渡された包みの色も、彼の笑い声も、全て鮮明に思い出せる。もう何年も前の話なのに、この想いは色褪せることはなかった。
ここに囚われていることを今まで何度嘆いたか。しかし自分が家康に見出だされなかったら、彼とも出会うことはなかっただろう。何とも皮肉な話だ。
「その方は、どこにいらっしゃるんですか?」
物思いに耽っていた蒼は、明音の声に少し驚き、そして寂しそうに苦笑した。
「亡くなったわ。戦に行って、帰ってこなかった」
「そんなぁ……」
眉を下げ、今にも泣き出しそうな表情でこちらを見つめる明音。彼女の頬を撫で、蒼は優しく笑んだ。
「私の中から消えることなんてないわ、決して。それに明音がここにいるのもあの人が生きていた証なのよ」
「え? わたしが?」
明音が目を大きく見開きいて瞬きを繰り返す。
「ふふ、分からないわよね。貴女は私の娘みたいなものだけど、血は繋がっていないし……まあ、その時がきたら、明音にも話すわ」
「えー! そんな風におっしゃられたら気になっちゃいます」
おねだりするように明音は蒼の顔を覗き込んだ。蒼はいたずらっぽく笑って首を横に振る。
「だーめ、まだ話す時ではないの。もう少し待って」
そう、もう少し。そしたら、時は大きく流れ出す。絡み合った糸がほどけるように、凍った水が溶けだすように。
自分と明音と、それからあの子たち。全ては一つに繋がっている。自分はそれを見届けるために、ここにいる。この絡みあった螺旋状の因果を作り出した元凶は、自分なのだから。
(見届けた後は……どこか遠くに、行こうかしら)
心の中でポツリと呟き、蒼は密かにため息を吐いた。
* * * * *
「うーん、違う」
清宏は開いていた冊子を閉じ、書架に戻した。目星をつけていた書物はあらかた読んだ。しかしどれも思っていたような事は書かれてはおらず、清宏は僅かに落胆していた。
城の文庫は本丸の南側に設けられていて、最近になって家康が様々な蔵書収集に力を入れていた。
そのお陰で徳川家に関することの他に、戦の記録や政務、古文書、土地に関するものまで様々な書籍が保管されている。勿論、お伽話もある。
ここに三咲を連れてきたら一生出てこなくなるだろうなと考えて、清宏は声にはせずに短く笑う。
先程自分が考えたことに対する確かな証拠はまだ見つかっていない。このままただの思い違いであってほしいが、やはり何かが引っかかっている。
(あとは……禁書か)