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十六夜の月  作者: 銀花
二、鎮守の森
15/20

二、鎮守の森 (1)

 空と良明が松葉屋を発ってから五日が過ぎた。二人が去り、松葉屋の面々は物足りなさを覚えていたが、それでもいつも通り勤めをこなしている。表に出さない辺り、彼らには変化への慣れというものが確実に身に付いていた。

 栞とて同じことで、少し寂しい思いはしても切り替えることは容易い。しかしそれは忍という仕事柄が理由であり、人との死別に慣れてしまうこともあるのだと、幼い頃に菫が寂しそうに語っていた。

 この日も松葉屋での仕事を一通り終わらせ、賄い部屋まで下りて行った。


「和平さん、昼餉もらいに来ました」


 部屋に入ってふと顔を上げると、和平が困った表情で腰に手を当て何かを見つめている。

 栞は彼の視線の先を追った。そこには膝を抱えて座る凛太郎の姿があり、見た目で分かるほど彼は酷く落ち込んでいる。栞は訳が分からずまた和平に目をやる。


「凛……どうしたんですか?」


「おお、栞坊」


 和平が驚いたように振り向く。


「菫さんに客が来たら凛がここに来るのはいつものことなんだが、さっきからずっとこの調子でよ。何を聞いても喋らねえんだ」


 お手上げだとばかりに、和平は栞の肩をポンと叩いた。それを交代の合図と受け取った栞は、苦笑を浮かべて凛太郎の前にしゃがみ込んだ。


「凛、どうしたの。具合でも悪い?」


 そう尋ねると凛太郎は微かに首を横に振った。彼はいかにも拗ねている表情だ。栞はその様子を見つめたまま更に尋ねる。


「お昼は食べた?」


 凛太郎はもう一度首を横に振った。


「私も今から食べるんだけど、凛も一緒に食べよっか」


「ね?」と栞が首を傾げると、凛太郎はちらと顔を上げて小さく頷いた。拗ねていても空腹には勝てないらしい。


 栞はクスクスと笑いながら立ち上がった。


「さすが栞坊。ほらよ、二人分の飯だ。残すなよ」


 盆に二人分の飯と吸い物を載せ、それから大きな器には煮物を入れ、和平は差し出した。栞は慌てて盆を受け取る。


「ありがとうございます。ほら、凛は器を」


 そう促すと、凛太郎は立ち上がって俯いたまま煮物の器を受け取った。こっそり煮物の匂いを嗅いで凛太郎は顔を輝かせる。

 その様子を、栞と和平は笑いを噛み殺しながら見ていた。


「よーし、凛、隣にいって食べよう」


「うんっ」


 拗ねていたのはどこへやら、弾んだ声で凛太郎が頷く。

 少年を連れて栞は賄い部屋を後にする。和平は笑いながら二人を見送った。




「栞姉ちゃん」


「うん?」と栞は首を傾げた。


 二人は向き合って昼餉を取っている最中で、凛太郎は落ち込んだ声で栞を呼んだ。


「あんちゃんも空ちゃんも、もうかえってこないの?」


 凛太郎のその質問で、何故彼が拗ねていたのか栞はようやく理解した。二人がいなくなって単に寂しかったのだ。

 栞は少し宙を仰ぐ。


「どうかなぁ……またその内帰ってくると思うけど」


 刀見付からなかったし。と言いかけて栞は飯と一緒に言葉を飲み込んだ。

 良明の目的の一つであった宗佑の刀。城に行ったあの日、良明に場所を聞いて探しに行ったものの、刀はどこにも見当たらなかった。誰かに盗まれたのではと栞が不審がったが、良明はそれを否定した。場所も間違っていないはずだと彼は言った。何故刀がないのか良明にも分からないようで、報告した後彼は少し考え込んでいた。


(……ちょっと残念そうだったな……良明さん)


 彼の隠し切れなかった落胆を思い出し、栞はため息を吐いた。


「いつかえってくる?」


 凛太郎が僅かに声を明るくした。


「うーん、私には分かんない。ごめんね」


 申し訳なさそうに首を傾げると、凛太郎は眉を下げた。栞も真似して眉を下げる。


「そんな顔されると困っちゃうなぁ。あ、そうだ、お昼から私仕事ないから、一緒に遊びに行かない?」


「ぼくと?」


「うん、美味しい甘味処見付けたの。凛と一緒に食べに行きたいなー」


「いく!」


 凛太郎が嬉しそうに腰を浮かす。


「じゃあ、ちょっとお昼寝して、それから行こうね」


「うん!」


 大きく頷く彼を、栞は微笑みながら見つめていた。




* * * * *




 菫は着物を膝の上に広げ、思わず感嘆のため息を漏らした。

 地の色は、襟辺りが白金で裾にいくほど朱色に染まっている。扇や桜や菊の柄が描かれ、金や銀の糸で刺繍が施されている。目を奪われる程に、美しい着物だ。


「これを、私に?」


 顔を上げて目の前に座る男を見つめる。微かに笑みを浮かべる男は、そのままゆっくり頷いた。彼の自信に溢れた居住まいに普通の人間なら怯みそうだが、菫は動じることもなく向き合っている。


「こんなに素晴らしい着物、私にはもったいのうございます」


「何、菫に似合うと思って仕立てたのだ。遠慮はいらぬぞ」


 男は立ち上がり、菫の手から着物を取って彼女の背後に回る。そして着物を大きく広げ、菫の肩に掛けてやり、また前に戻った。菫を上から下まで眺め、満足したように頷く。


「うむ、やはり菫には華やかなものが似合うな」


「まあ、定勝様ったら、お世辞がお上手ですね」


 そう言って菫はクスクスと笑った。


「世辞など言うものか、私は事実しか口にはせぬ」


 笑みを浮かべて定勝は菫に膝を寄せた。菫も柔和に彼を見つめ、唇は笑んだまま崩さない。

 二人はしばらく見つめ合い、定勝が先に手を伸ばした。 彼の手は菫の頬を撫で、唇をなぞり、おとがいへと動く。そして定勝は彼女の唇に、自分のそれを寄せた。


「いけません」


 口付けられるすんでのところで、菫は彼の唇を手で優しく押さえた。その顔は相変わらず微笑んでいる。定勝は不満そうに眉をひそめ、菫の顎を離した。


「いつになったら気を許してくれるのだ」


 菫は軽く肩をすくめるだけで何も言わない。


「では私の後妻になることは、考えてくれたかな」


「それは何度も言いました。うちの人が死んだら考えます、と」


 定勝を真っ直ぐ見据え、菫ははっきりと告げた。すると定勝は呆れたように宙を仰いだ。


「何の音沙汰もない男を待ち続ける意味が分からぬ。菫はあの男が生きていると思っているのか、何ゆえに」


 彼の問いに菫は視線を落とし、少し考え込んだ。一陽が生きていると頑なに信じ、待ち続ける理由。

 これまで密かに他の忍に捜索させもしたが、一陽は見付からなかった。本当に死んでしまったのではないかと、何度も悪い方へ考えては塞ぎ込みそうになった。

 だが、良明が戻ってきたことも、自分の問いに頷いた時の彼の真面目な表情も、信用するのには十分だった。一陽は必ず帰ってくる。だから自分は待っている。

 菫はより一層柔らかく微笑んだ。


「妻の勘、ってやつでしょうか」




* * * * *




 甘味処に入った栞と凛太郎は、葛餅をそれぞれ一つずつ取った。きな粉と黒蜜を掛けて、一個一個大事そうに口に運ぶ。


「おいしい」


 幸せそうな笑顔で凛太郎が言った。


「でしょう? 凛も絶対気に入ると思った」


 栞も笑って言い、葛餅を頬張る。舌の上でぷるぷると揺れる食感が何ともいえず、黒蜜の甘さときな粉の香りが口一杯に広がる。


(今度空ちゃんも連れてきてあげたいな)


 彼女だって女の子である、甘いものは嫌いではないだろう。空が葛餅を食べている姿を想像して、栞は思わず頬を緩めた。


「俺というものがありながら、凛と浮気かい?」


「浮気の意味分かってますか」


 凛太郎の隣に突然男が腰掛けたのにも関わらず、栞は驚いた様子も見せずに彼を睨んだ。机に頬杖をついてにこにこと笑うのは清宏だった。


「清にいちゃん、どうしたの?」


 凛太郎が何度も瞬きをしながら彼を見上げる。同じ表情のまま清宏は答えた。


「二人の会瀬の妨害に来たの」


「……凛、訳分かんないって顔してますよ」


 栞が呆れた顔をすると、清宏は拗ねたように口を尖らした。


「だって折角二人で会えると思ってたのにさ、凛までいるんだもん。ちぇーって感じ」


「私が誰を連れてようと、私の勝手です。それより、何か話があるんじゃないんですか」


「うん、そうそう」


 清宏は懐に手を突っ込み、紙を取り出した。それを栞は受け取り、開いて素早く目を通す。


「説明欲しかったら聞いて。あ、すんません、葛餅もう一個追加で」


 通り掛かった店員に注文し、清宏はまた栞に目を戻す。栞はしばらく考え込み、小さく唸った。


「んー……宗佑さんも謎な方ですね」


「だよなー」


 頷きながら清宏は短く笑った。


「でも大概は俺らが知ってることだ。違ったところはないだろ?」


 栞は彼の顔をちらと窺い、また紙に視線を落とす。


「……良明さんが二つの時に養子にしたこと、私ちょっと妙に思ってるんですよ」


「そう? うーん……」


 考え込む清宏に、栞は尋ねる。


「良明さんのご両親については分かりませんか」


「ああ、父親は晴義って人だ。良明が二つの時に失踪したって」


「失踪? 母親もですか?」


 思ってもみなかったことに栞は眉をひそめた。清宏を見つめていると彼は平然と頷く。


「母親の名前はまだ分からない。ただ、失踪する前に良明はもう宗佑さんの養子になっていたらしい、形式の上でも。何か裏がありそうな話だな」


「……そう、ですね」


 栞は器に視線を落とした。清宏は特に何とも思っていないようだが、栞は嫌な予感を覚えていた。

 頼まれた故に調べている。しかし自分が介入してはいけないような、そんな気がしてならない。何故かと言われたら、勘としか言いようがないのだが。


このことについて菫は何か知っているだろうか。


(……知ってたら教えてくれてるはずよね……)


 はあ、と栞は思わずため息を吐いた。

 丁度その時、清宏が頼んだ葛餅が運ばれ、彼は「いただきまーす」と行儀よく手を合わせ、嬉しそうにそれを食べ始める。

 その様子を、半ば呆れながら栞は見ていた。

 不思議と彼の姿勢が崩れることはない。普段接しているといつも忘れてしまうのだが、清宏も上位の武家の子息なのだ。それを考えると、姿勢や身なりのよさも頷けるものがあった。

 でも、格上の武家によく見られる高慢で偉そうな態度は清宏には全く見られず、誰に対しても分け隔てなく接していた。生まれのよさを感じさせない振る舞いは、やはり彼らしさなのかもしれない。お陰でこうやって色々と頼み事ができるため、こちらとしては有り難いのだ。

 栞は自分でも初めてと思うぐらい清宏の顔をまじまじと眺めた。

 少し長めの前髪の奥に、しっかりした眉と真っ直ぐな瞳がある。頬は高く、顎の線もすっきりとしている。良明同様に清宏とも幼い頃から親しくしているが、二人して栞をからかって遊んでいたあの頃の面影は、今は全くない。

 精悍な顔付きをしている彼が、たまに見せる柔らかい表情を栞は知っていた。黙っていれば好青年なのに、と勿体なく思ったことも幾度かある。


(女の子が寄っていくのも、分かるけど……)


 家康の小姓という立場を顧みずに女をとっかえひっかえしていた彼を思い出し、何とも言いようのない気持ちになった。

 時折凛太郎と話をする彼を見つめていて、栞はふと気付いた。


(……そう言えば、この頃女の子追いかけてるとこ見ないな)


 いつからだろう、と思い出そうとした時、視線に気付いたのか不意に清宏が顔を上げ、栞は僅かに動揺した。

 すると清宏がハッと口を開く。


「もしかして栞、食べたいの? しょうがないなぁ、あーんしてあげ――」


「いりません」


 栞はため息混じりに答え、清宏の隣で凛太郎が羨ましそうに呟く。


「ぼくも食べたい」


「お、いいよ、分けてやる」


 そう言って、清宏は凛太郎の器に葛餅を数個移してやった。


「やったー、ありがとう」


 顔を輝かせながら凛太郎は貰った葛餅を頬張った。

 凛太郎を見つめたまま、清宏が呟く。


「端から見たら俺らって親子に――」


「見えません」


 栞は半眼でピシャリと否定した。




 松葉屋に戻った栞はすぐ菫の部屋へ向かった。後ろから凛太郎もついてきた。客はもう帰ったはずだが、控え目に障子を開いて中を窺う。


「……菫さ――」


 窓際に座る菫の姿を見て栞は口を閉じた。窓枠に頬杖をつき外を眺める彼女の横顔がとても寂しげで、儚げで、今にも消えてしまいそうでぞっとした。

 栞が無言で立ち竦んでいると、凛太郎が脇をすり抜け菫へと駆け寄っていく。


「母上ーっ」


 急に飛び付いた凛太郎を、菫は驚きながらも受け止めた。向き合う形で膝に座らせ、彼の頭を撫でながら菫はふっと笑う。


「おかえり。今日は何してきたの?」


「えっとね、おやつたべて、清にいちゃんとあそんできた」


「清宏と? ……本当、あいつはいい頃合いに出てくるわね」


 菫は感心したように呟いた。

 良明たちが去って凛太郎が寂しがっていたのは気付いていた。本来なら自分が構ってやらなければならないのに、それすら出来ず母親として不甲斐なく思う。

 無邪気に笑う凛太郎を菫はそっと抱き寄せた。凛太郎も嬉しそうに菫に甘えた。息子の頭に頬を寄せ、菫はしばらく瞼を伏せた。


「――なぁ、栞」


「……っ、はい」


 未だに部屋の入り口に佇んでいた栞は急に訛りのある口調で声をかけられ驚いた。話があるのだと察し、栞は慌てて部屋に入って障子を閉めた。

 菫が一呼吸入れて小さく呟く。


「もし、もしや。うちが……一陽捜しに行く言うたら、アンタはどないする?」


 一瞬、全身の血の気が引いたようだった。

 菫は、この二年間、一度もその言葉を口にしたことなかった。彼女の胸の内はきっと、一陽を想う気持ちで溢れていたはずだ。松葉屋を飛び出して捜しに行ってもおかしくはなかったのに、菫は耐えてきた。しかし良明が戻ってきて、一陽の安否が分かったことで彼女の心も限界まで達してしまったのかもしれない。

 会いたい気持ちは、栞にも痛いほど分かる。菫の傍らに急いで座り、栞は早口で尋ねた。


「一陽さんの居場所が分かったんですか?」


「……いんや。何となく聞いてみたかっただけや……もしそないなったら、栞はどう思うやろか、ってな」


 そう言って菫が肩をすくめた。


「私は……」


 小さく呟いたきり、栞は口ごもってしまった。

 菫がいなくなった時のことなど考えてもみなかった。幼い頃に彼女に拾われ、忍として育ててもらい、ずっと彼女に尽くしてきた。これからも菫のために働くのだと心のどこかで決め込んでいた。菫が出て行くのなら、自分も行きたい。そう思うのに、胸の中で何かが引っ掛かっている。

 栞は一度深呼吸をして口を開いた。


「……私も行きます」


「なんや……栞ほんまええ子やなぁ」


 菫が声にして笑うのを見て栞は何度も瞬いた。


「アンタ拾ったんは確かにうちや。せやけど、別に無理強いしとる訳やないんやで。自分の胸ん中、しっかり見てみぃ」


 菫の言葉の意味がよく分からず、栞は首を傾げた。こちらを見て、菫は笑んだまま続ける。


「アンタ、昔っから一歩引くとこがあるよってに、心配やねんで。我慢ばっかして、気持ち押し隠してんのとちゃうやろかって。ええか? 栞はもちぃっと、自分の気持ち大事にせなあかん。栞が辛そうなん見ると、うちも辛なんねん」


 ああ、菫は気付いていたのだ。

 自分が何を思っていたのか、今何を思っているのか。ずっと隠してきた気持ちや、まだ自分が気付いていない気持ちも、全てを。

 栞は顔をしかめて俯いた。

 長い間仕舞い込んできた想いは、行き場なくさ迷っていた。もう消えそうなほど小さくなっていたのに、彼を見て膨らみ、また同じ所を漂っている。この想いの居場所がないのは、自分がいつまでも気持ちを整理できていないからだ。そう考えると胸が苦しくなり、栞は膝の上で指を絡めぎゅっと握り締めた。

 その様子を見ながら菫は短くため息を吐いた。


「栞にこないな面させよって……あんの男共、次会うたらしばき倒すわ」


 怒りのこもった菫の呟きに栞は狼狽し、オロオロと両手を振った。


「いや、あの、そこまでしなくても……」


「冗談や」


 そう言って菫がケラケラ笑い、栞はがくりと肩を落とした。


「まあ、うちが一陽を捜しに行くんはまずあらへん、安心しぃ。せやけど、近い内アンタにはおっきい仕事任せるかもしれへんな」


「っ、はいっ」


 顔を上げ、栞は大きく頷いた。一陽が帰ってくるまで菫を支える。この思いだけは貫きたい。

 こちらを見て菫が微笑む。彼女の訛りもここまでだった。


「それで、何か話があるんでしょ? 聞くわよ」


「はい、頼まれていたことなんですが――」


 栞は懐から紙を取り出し、菫に渡した。




* * * * *




 妾宅の玄関を上がった常景つねかげは、奥から男女の笑い声がして眉をひそめた。やれやれと思い、話し声のする部屋へと向かう。開けたままの襖から中を窺い、声の主を確認した。

 ころころ笑う女は自分の妾、一方男は――。


「里乃も一陽さんも、外まで声が漏れていましたよ」


 ため息混じりに言いながら、常景は部屋に足を踏み入れ襖を閉めた。

 正座する里乃さとのの傍らで一陽は腕を枕に寝そべっている。少し照れ笑いを浮かべた里乃が立ち上がり常景の腕を取った。


「だってね旦那さま、一陽さんが可笑しな話ばかりするんですもの。あ、お出迎えしなくてごめんなさい」


 そう言って里乃は申し訳なさそうに肩をすくめ、ちろと舌を出した。里乃は彼女が二十二の時に常景が囲い、今年で三十となった。昔から子どもっぽい仕草をするが、それは今でも同じだ。

 常景の腕を引っ張り、里乃は一陽の側へと戻って腰を下ろした。


「旦那さまはお聞きになりました? 一陽さんね、色んなとこを見てきたんですって。その話が面白いんですよ」


 隣にあぐらをかく常景に里乃は擦り寄った。


「ああ、聞いてるよ」


 常景はにこやかに笑いながら一陽へ目を向けた。


「今日も頼んだこと以外の殺生をしてきたことも知っている」


「何だ、もう聞いてんのか」


 残念とばかりに一陽がため息を吐くと、里乃が驚いたような声を上げた。


「まあ、何てこと……一陽さんたら、人を殺めていらしたのですか!」


「……戦に出る度、殺ってきたけどな」


 一陽がにやりと笑みを浮かべ、里乃は僅かに怯んだ。

 常景の顔からすっと笑みが消える。還暦を越えた男の顔に刻まれた皺は、威厳を増長した。


「戦は戦です。何を考えているのかは知りませんが、今余計なことにまで首を突っ込むと、私では匿えなくなりますよ」


「そうですよ! と言うか人殺しはいけません!」


 里乃が頬を膨らませて常景に加担する。彼女の膝に手を置き、常景は優しく言った。


「里乃、ちょっと静かに」


「えー」と里乃はつまらなそうに唇を尖らせた。

 すると今まで寝転がっていた一陽がむくりと起き上がった。


「何だよ、説教でもすんのか? これだからジジイは」


 そう言って一陽は着物に手を突っ込んでぼりぼりと腹を掻く。更にはだらしない欠伸も。

 常景はふんと鼻を鳴らし、冷めた視線を一陽に投げた。


「ジジイで結構。こちらとの約束は守ってもらわねば。菫に話してもいいと言うのなら、話は別ですが」


「……そこで菫の名を出すのはちと卑怯じゃねぇ?」


「むしろ教えてやりたいですわ、一陽さんがここで女と暮らしてるとね」


 大袈裟にため息を吐きながら常景は首を振った。あぐらに頬杖をつき、一陽は老いた男を睨んだ。


「あいつはそれぐらいで動揺したりしねぇよ」


「動揺させたいのではない、貴方を叱り飛ばしに来て欲しいんです」


「あーそうかい」と一陽は面倒そうに肩をすくめた。


「菫さん、って松葉屋の若女将ですよね? 私まだお会いしたことないわ」


 二人の会話を黙って聞いていた里乃が口を挟んだ。


「あら? ひょっとして一陽さんの」


「かみさんだ」


 一陽はへらっと笑った。里乃はぱっと顔を明るくし、興味津々に身を乗り出す。


「どんな方ですの? お美しいとの噂は耳にしていますが」


「さあ、どんなだったかね。二年顔を見てないからな」


「……お忘れになって?」


 里乃が不安そうに首を傾げると、一陽も笑んだまま首を傾げ返してはぐらかした。その様子を見ながら常景はこっそりため息を吐いた。


「里乃、悪いが茶を入れてきてくれないか。喉が渇いてね」


「はい、すぐに」


 里乃はにこやかに頷き、立ち上がって部屋を後にした。


 彼女の足音が遠ざかったのを皮切りに、一陽は口を開いた。


「それで、今度はどんな話だ」


 黒い瞳で探るように常景を見つめる。彼はしばらく視線を合わせ、一瞬躊躇いを見せてから低く言った。


「……城からの依頼です」


 一陽はぴくりと眉を動かし、視線を鋭くする。


「城の頼みは一切なしだと言ったはずだ。松葉屋の連中に回せ」


「分かっています。ただ内容が内容だったものですから」


「松葉屋では請け負いきれねぇってか? 落ちたもんだな、殺しの達人衆も」


 嘲笑混じりの一陽の発言に、常景の目が細められる。二人は睨むように視線を合わせた。


「私は松葉屋を切り盛りするのみで、直に依頼を受けたりはしない。今回は極希な件です。内密に進めよとのこと故、まず貴方に持ってきたのです」


「そうか。誰に、内密にしなければならないんだろうな?」


 薄く笑みを浮かべたまま一陽は首を傾げる。常景は瞼を伏せて首を振った。

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