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十六夜の月  作者: 銀花
一、遠い記憶
14/20

一、遠い記憶 (12)

「そういえば」と家康が唸るように呟いた。

 二人の少女が出ていってから、良明は事情を話していた。腕の治療はもう終わっている。清宏や勝重に聞かせるのは気が引けたが、今となってはしようのないことだ。家康が口を開いたのは、良明が大体を話し終えた頃だった。


「神降ろしなどということができる者もいるな、巫(かんなぎ)と言ったか。空もそうなのか」


「……はっきりとは言えませんが、違うと思います。降ろすというより、元から空の中にいるという方が合っています。それに海は神じゃないし」


 最後は小声で付け足した。しかし家康には聞こえたようで、彼は首を傾げた。


「何だ、その海とは」


「先程の者がそう名乗りました。空とは別物、と自覚があるようです」


「空と海なあ……奇っ怪な話だ。私の頭ではついていけん。清宏はどう思う」


「俺ですか」


 急に話を振られ、脇に控えていた清宏は驚いて何度も瞬いた。そして困ったように視線を上に向け、言葉を選びながら彼は話し始める。


「俺は一部始終を見ていた訳ではないので予想の範疇ですが、正直なところ良明の話は信じられていません。現実離れしすぎています」


 そう言って清宏はちらと良明に目を向ける。良明は一瞬視線を合わせたが、それっきりだった。清宏は更に話を続けた。


「ただ、ここに来るまでの空を思い返しても彼女は至って普通の女の子でしたし、殿に害をもたらすようには思えませんでした。城に入ることに少なからず不安はあったようですが、それは慣れない者には当然かと」


「うむ。勝重は」


 家康は考え込みながら今度は勝重に尋ねた。勝重は堂々とした面持ちで話し出す。


「殿に歯向かったのであれば、敵とみなしていいのではないですか。そこの二人の話の様子では、またいつその者が襲ってきてもおかしくはない。捕らえて牢に入れておくのが上策かと」


「……牢に、か」


 そう呟いた家康は扇子で手の平をゆっくり叩きながら、未だ何か思案に暮れている。清宏が慌てて口を挟んだ。


「ちょっと待って下さい。牢にって、空はただの女の子ですよ?」


「なら何でその『ただの女の子』が家康様を襲ったんだ」


 勝重の鋭い切り返しに清宏は言葉を詰まらせた。


「それは……」


「ほらみろ、何も言い返せない。女が絡むとお前はいつもそうだ。第一、その場にいなかったお前に何が分かる」


「お前だっていなかっただろ! 決めるのは殿で、勝重じゃねえんだぞ!」


 かっとなって腰を浮かした清宏の腕を掴み、良明は引っ張った。


「落ち着けよ」


「いやいやいや、逆に何でお前は落ち着いてるんだよ。空のことなのに」


 清宏は振り返って怪訝そうに良明を見つめた。良明は短くため息を吐く。


「清宏が言ってることも勝重が言ってることも一理ある。おれはどちらかといえば加害者になるんだ、家康様のご意向に任せるよ」


 どこか諦めたような良明の口調に、返す言葉がなくなった清弘は黙り込んで座り直した。考え込んでいた家康は、はたと良明に視線をやった。


「私の意向にか。じゃあ問おう、良明はどう思う」


 急な問いかけに良明は僅かにたじろいだ。それからしばらく考え、ゆっくり口を開く。


「……おれは、海に関して詳しく分かっていません。何故家康様に敵意を持つのかも、何故空の中にいるのかも。ただ、先程の行動は空が意図してやったことではないということは分かっています。何が悪い、誰が悪いを考えるのではなくて、これから海を生じさせないようにするのがおれの役目なのだろうとは思います」


 良明は一言一言をしっかりと発した。その眼は揺らぐことなく家康を見据えている。


「妙なことを言っているのも分かっています。でも海を消すのが最善なのではないでしょうか。こちらにとっても、そちらにとっても」


「……脅威がなくなるわけだしな。良明が対応するというのなら、よかろう、咎めはなしだ。捕らえることもしない」


 そう言って家康は扇子で膝を叩いた。清宏が密かに握り拳を作り、良明は頭を下げて礼を言った。一方で勝重は不満げに良明を睨んでいた。


「私はそろそろ行くぞ、急用が入っているのでな」


 一件落着とばかりに立ち上がった家康が「あ」と声を発した。


「この件の口外を禁ずる。いいな」


 家康の命令に三人はそれぞれ頷いた。苦々しく承知した勝重が立ち上がり家康に続く。茶室を出る際、家康は何かを思い出したかのように振り返った。


「良明」


「……はい」


 良明は不思議に思いながら首を傾げた。


「お前にその気があるなら、いつでも戻ってきていいぞ」


 それだけ言って良明の返答も待たずに、家康は茶室を後にした。勝重も二人を一睨みしてから出ていく。


 ほっと息を吐いた清宏が振り返って苦笑した。


「どうなるかと思ったけど、よかったな」


「……ああ」


 良明は上の空で返した。家康の去り際の言葉が妙にひっかかっていた。


「何か、納得いってないって顔だな」


「いや……考えすぎかもしれない。それより、責任重大だな、おれ。海をどうにもできなかったら、今度こそ首が飛ぶ」


「ははは、じゃあ空連れて遠くまで逃げるか」


 清宏が笑いながら冷やかすように言った。しかし良明は首を左右に振る。


「海はおれが何とかする。もう腹はくくってる」


 そう言って立ち上がった良明の表情には一つの覚悟が滲んでいた。

 清宏は眩しそうに良明を見上げていた。二年前まで見ていた彼とは随分違うように思えた。見ない間に成長したことが窺える。


「……良明、でかくなったな」


「背丈が?」


 良明が怪訝そうに言い、清宏は吹き出した。


「そういやまだ俺のが高いか」


 清宏は唐突に立ち上がり、良明の頭の天辺を眺めてケラケラと笑う。


「お前、俺の背を抜けなくて悔しがってたよな」


「昔の話だろ、もう気にしてねえよ」


 鬱陶しそうに言い、良明は清宏を置いて茶室を出た。清宏は直も笑い、そして良明に続く。

 今まで土砂降りの雨だったのが嘘のように空は晴れ渡っている。雨上がりの匂いが鼻先を掠め、良明は一度深呼吸をした。柔らかい空気が胸に溜まり、良明の意思を包み込んだ。




「空」


 良明の声に空は飛び上がり、慌てて振り返った。日の当たる場所に彼は立っている。空がおどおどしていると突然、栞に背を力強く押されて空はつんのめりそうになった。


「ほら、行っておいで」


 彼女はそう言ったが、空はなかなか彼の下に行く勇気が湧かなかった。不安げに栞を見つめていると、彼女は苦笑した。


「心配ないよ。大丈夫、信じて」


 栞は再度空の背を押した。今度は空は足を止めずにゆっくり良明の所へと向かった。彼の前に俯きながら立ち、おずおずと口を開く。


「……ごめん」


「え? 何で空が謝る……ああ、腕のことか」


 忘れていたとでも言うように、良明は頭を掻いた。


「お前が謝ることじゃねえよ。気にするな」


「い、痛いか?」


 空は恐々視線を上げて良明の顔を窺った。


「痛いかと聞かれればそりゃあ痛いさ。が、これはおれの不注意によるものだ。護身してれば怪我はしてねえ」


 良明は肩をすくめ、僅かに眉をひそめる。

 この時、良明は疑問に思っていることが一つあった。それは海によってかけられた術が急に解けたことだ。お陰で大事に至らずに済んだが、情けない話、自分ではどうにも出来なかったのだ。

海が力を抜いたとも、空が何かしたとも思えなかった。

 誰か目に見えぬ所で手助けしてくれたのだろうかと考え、城で術に長けている人がいたのを思い出した。だがあの人が助けてくれるなどまずあり得ない話だと、良明はそこで考えるのを止めた。

 心配そうにこちらを見ていた空の顔を見下ろし、ふと首を傾げる。


「……泣いたのか? 目が赤いけど」


「うっ……な、泣いてない」


 そう言って、空は決まり悪そうに顔を背けた。良明が苦笑を浮かべる。


「相変わらず素直じゃねえな。強がらんでも、誰も責めねえよ。それで、これからのことなんだが――」


 そっぽ向いたまま空は顔を強張らせた。動悸が一気に速くなる。今後のことなど聞きたくなかった。耳を塞いでしまいたかった。だがそれも、空にはできないことだった。

 良明は声を低くした。


「――海について知りたい。だから、おれを政長ってやつの所に連れていけ」


「……え……」


 良明へと振り返り空は目を見張った。彼は真っ直ぐにこちらを見つめていた。


「円の知らせを待とうと思ってた。でもいつになるか分からないから、先に知れるだけ知っておきたい」


「知って……どうするんだ」


 心からの疑問を空は呟いた。彼は真剣な眼差しのまま答える。


「お前の中から海を追い出す」


 そんなこと出来るのか。その言葉は喉につっかえ、出てこない。

 信じられなかった。良明がこれほど海に関心を持つとは思っていなかった。彼は海と数回話したが、それだけのような気がしていた。海には何か惹かれるものがあったのだろうか。それとも自分のためにと言ってくれているのだろうか。

 訳が分からず、気付いたら口を開いていた。


「何でそこまでしてくれるの……分かんないよ……」


 急に泣きそうになり、情けない表情を隠すために空は俯いた。


「海のせいで……うちのせいで怪我までさせた。もう、よっしーには迷惑かけたくないのに……」


 ああ、違う。言葉にして、不意に空はそう思った。

 迷惑をかけたくないということではなく、ただ単に良明に嫌われたくないだけのだ。何よりも恐れていたのはそれなのだと、ようやく気付いて何だか少しおかしくなった。こういう感情を抱くのも空には初めてだった。

 しばらく二人して黙り込んだ後、良明が小さく呟いた。


「理由がほしいならつけてやるよ」


 空は顔を上げ、「え?」と首を傾げた。


「ほっとけないから。じゃ、不足か」


 そう言う彼の表情は驚くほど真面目だった。

 空は目をぱちくりとさせた。言葉を理解するのに何故か時間がかかった。空が何も言えずに佇んでいると、良明がふっと笑う。


「発つのは明日にするから、今日まで松葉屋に泊まるぞ」


 そう言って良明は後ろを向き、歩き出す。彼の背を見つめたまま、空は動かなかった。

 夢のような信じられない気持ちで一杯だった。それでも嬉しさは後から後から込み上げ、視界が明るくなったようだった。


 今なら何が起きても大丈夫な気がする。良明を頼ってもいいのだ。


 空は駆け足で良明を追い、両手で彼の腕を掴んだ。立ち止まった良明が少し驚いた表情で振り返った。


「どうした」


「あの……ありがとう」


 そう礼を言った空の顔は自然と笑っていた。小さな花が綻んだような笑みに、良明は内心たじろいだ。この時から空を普通の女の子だと意識し始めるのだが、それに良明が気付くのはもう少し後の話になる。

 良明は空の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。


「だぁーっ! こら! 禿げるってば!」


 空が大声で喚きながら良明の手から逃れ、良明は声にして笑った。互いにもう不安はほとんどなかった。




 少し離れた所から二人の様子を見ていた清宏は、彼らの微笑ましさに苦笑した。そしてふと隣に目をやり、栞が佇んでいて仰天した。彼女は静かに遠ざかっていく良明たちを見つめている。本当にいつでも音を立てずに行動するのだなと感心してしまう。

 栞を見下ろしていて、清宏は僅かに眉をひそめた。彼女の表情がどこか寂しそうで、見ていて辛い。清宏は思わず視線を背けた。栞がこんな顔をする理由に気付いてしまう自分が嫌だった。今のは見なかったことにしなければ、自分の胸が痛むだけだ。

 清宏は気を取り直して栞に尋ねた。


「そいや、何で着替えたんだ?」


「え? あ、奥で話を聞いてたので」


 栞が振り返り、少し照れた様子で自身の袖を寄せた。彼女にしては珍しい仕草が可愛らしく、思わず頬が緩みそうになった。清宏はそれを隠すために慌てて首を傾げる。


「何か収穫あった?」


「まあ、ぼちぼちです」


 栞は肩をすくめるだけで、詳しくは話さなかった。


「あっ、いたいたー! 清宏様ー!」


 突然、背後から少女の甲高い声がして清宏は振り返った。栞も彼の背中越しに覗き見る。

 二人の年若い少女が手を振りながら、にこやかに走り寄ってきた。二人とも女中なのだろうが、どちらも華やかな袷を身にまとい、頬がほんのり上気していて愛らしい。栞は静かに清弘の背を見つめた。


「何か用か?」


 清宏が不思議そうに訊く。すると少女らの一人が清宏の腕を掴んだ。


「お見せしたいものがあるんです、一緒に来てください」


「もう、ふみったら、私が見つけたんだよ!」


 もう一人が不服そうに頬を膨らました。二人に挟まれ清宏は困惑しきっていた。


「えーと、事情が飲み込めないんだけど」


「いいから、とにかく来てください」


「そうそう、行きましょ」


 二人の少女が更に詰め寄り、清宏はその勢いに圧された。


「……私、戻りますね」


 背後で栞が小さく呟き、清宏はハッとした。急いで振り返った時には、彼女は既に背を向け足早に歩き出していた。


「し、栞」


 清宏が恐る恐る声をかけるも、栞は振り向きもせずに歩き続け、右に折れて木立の向こうに姿を消してしまった。呆然としていると、少女らが決まり悪そうに呟いた。


「やだ……お話の最中でした?」


「怒っていらしたようね……」


「……ちょっとごめん」


 少女たちから離れ、清宏は栞を追って木立の先まで行くも、彼女の姿はもうどこにもなかった。清宏はしばらくそこに佇み、大きくため息を吐いた。

 いつも唐突に現れ、そして忽然と消える。そんな彼女を自分が捕まえることなど、無理なことのように思えた。せめて栞の胸の内が分かれば、と考えてはむなしさが募っていくのだった。




* * *




「いかがでした?」


 その男は待ち伏せていたかのように現れ、勝重を従えている家康に向かって尋ねた。彼の顔には微かに笑みが浮かんでいる。男を見た勝重は僅かに顔を強張らせ、数歩下がって俯いた。

 家康は短くため息を吐いた。


「お前の言う通り、襲いかかってはきた。だが私が斬るまでもなかったぞ」


「それはそれは、一先ずご無事で何より。良明が庇ったのでありましょう。想定の内です」


「まああいつは、私を庇ったと言うより娘を庇ったのだろうがな、良明らしい」


 そう言って家康はふんと鼻を鳴らす。


「娘のことはお前に任せる、定勝。お前の好きにしろ。ただし」


 釘を打つように家康は間を開けて定勝(さだかつ)に一歩近寄る。


「蒼にもこのことは話しておく、いいな」


「承知いたしました」


 定勝は笑みを貼り付けたまま頷いた。

 しばらく探るように定勝の顔を見つめ、それから家康はまた歩き出した。勝重も顔を上げ、慌てて彼に続く。


「要領よく参れ」


 すれ違い様に定勝が呟き、勝重は足を止めて振り返った。彼は既に歩き始めていて声を掛けられる距離ではなかった。

 勝重はギリと歯を食い縛り、口の中で呟いた。


「分かっています……父上」




* * *




 少女が格子窓から外を眺めていた。一面緑一色なのだが、先程降った雨の雫が光を反射してきらきら輝いている。

 肩より少し長めに切り揃えられた鳶色の髪が風でふわりと舞い上がった。その風の匂いを吸い込み、少女は少し眉をひそめた。いつもと違った匂いがする。


「何だかお天気が不安定ですね」


 そう言って少女は振り返り、祭壇の前に座る女に目を向けた。彼女からの反応がなく、少女は怪訝に思って立ち上がった。


「蒼様、祈祷なさっているのですか?」


 近寄ってもう一度声をかけると、蒼(あおい)と呼ばれた女はハッとしたように顔を上げた。あどけなさの残る少女がこちらを見ていて、蒼はほっと息を吐く。


「ああびっくりした、明音だったの。ごめんなさい気付かなくて。ちょっと手助けをしていて……無事に帰れたようだわ」


「……どなたの話ですか?」


明音(あかね)が不思議そうに首を傾げても、蒼は優しく微笑むだけで何も言わなかった。


「そろそろ家康様がいらっしゃるわ、明音は寝所に行ってなさいな」


「……はい」


 腑に落ちない顔をしながらも明音は素直に頷き、部屋を出て行った。


 一人になって、蒼は細くため息を吐いた。


「もうすぐね……」


 ようやくこの時がきた。長いこと待ち望み、逆に恐れていたことでもあった。だが逃げも隠れもしない。


 蒼は大きく息を吸い込み、真言を唱えながら両手で印を結んだ。


(……あの子たちに加護を――)

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