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十六夜の月  作者: 銀花
一、遠い記憶
13/20

一、遠い記憶 (11)



 茶室は人が四五人入るぐらいの広さで、四角の間取りに畳が敷き詰められていた。中央には小さな囲炉裏があり、茶をたてるための道具が揃えて置かれている。茶について知識のない空にはそれらが何に使うものなのか分からない。

 空と良明は障子を背に並んで腰を下ろしていた。不慣れな格好と場所に空は居心地悪く思いながら身体を揺らし、時折隣の良明の様子を窺った。彼は特に思い詰めているようでもなく、のんびりと構えている。家康と会うことに緊張はしていないようだ。

 その一方で、空は自分の動悸の速さに戸惑っていた。先程治まったときより更に強く、全身で脈がわかるくらいの速さで波打っている。緊張ではないような気がするが、一体何なのかは解せない。


 ふと、茶室の外から何人分かの足音が聞こえ空は顔を上げた。その足音は確実にこちらに向かっている。土を踏む荒々しい音がまるで心中を掻き乱しているようで、空は僅かに具合が悪くなり思わず良明の袖を掴んでいた。

 振り返った良明が怪訝そうに顔を覗き込んでくる。


「どうした。また息苦しいのか」


「……何か……恐い」


 言葉にしてようやく、自分が抱いていた感情が恐怖だということに気付いた。

 城にいることも、家康に会うということも怖い。それだけではなく胸の中に黒い波が押し寄せてくるようで不安が拭えない。何故ついてきてしまったのだろう、松葉屋で待っていればこのような思いはしなかったはずだと後悔してしまう程だった。この時ばかりは自分の好奇心を恨んだ。

 顔をしかめていると、不意に良明に頭を撫でられ空は彼に目を向けた。


「何か唱えとくか? まじないって言うより、気休めだけど」


「唱え……」


「ああ。そうだな……オン、カカカ、ビサンマエイ、ソワカ。これは地蔵菩薩の真言」


「お、おん、かか……?」


 馴染みのない言葉に空は何度も瞬き、首を傾げた。良明がふっと笑い、今度はゆっくりと繰り返す。


「オン、カカカ、ビサンマエイ、ソワカ」


 彼の言葉は包み込むように空の耳に届いた。空は良明の顔を見つめたまま小さく呟いた。


「……オン、カカカ、ビサンマエイ、ソワカ」


「そう。しんどいときは唱えてみろ。印を結ばないとあまり意味はないけど、まあそれは今度教えてやるよ。でも何度も言うが、気休めだからな」


 そう言って良明は肩をすくめた。不思議だった。急に身体の力が抜け、呼吸が楽になった。言葉による効果というよりは、ここに一人でいるのではないと再認識できたことが大きい気がした。

 空は良明を見つめ続けていた。自分が知らないことを良明は知っている。彼は一体、今までにどんな経験をしてきたのだろう。


「……よっしーは修行か何かしてたのか?」


「いや、精神統一の一環で色々教わったんだ。旅の間は寺や神社に世話になったからな。まあ昔からそういうのを教わってたってのもあるけど」


 苦笑混じりに良明は答えた。その時、近付いていた足音が茶室のすぐ側で止まり、外から話し声が聞こえ二人は同時に口を閉じた。



「――私一人でよい。お前たちは外で待っていろ」


「――はい」


「――何かあったらすぐに呼んで下さい」


「――ははは、何もない何もない」



 短い笑い声がしてすぐ、障子ががたんと揺れた。空が身体を強張らせていると、良明が顔を寄せ囁いた。


「顔、伏せてろ」


 空は慌てて頭を下げた。その直後、がたがたと音を立てながら障子が開かれる。


「うーむ、相変わらず立て付けが悪いな。清宏、何とかならんか」


「蝋でも塗っときましょうか?」


「いやそういうのでなくて、業者に頼むとか……まあいい、蝋で」


 家康のものと思われるため息が聞こえ、また煩い音と共に障子が閉められた。顔を伏せている空は横目で家康の足を見ていた。濃紺の袴を揺らしながら彼は茶室の上座に向かい、どかっとあぐらをかいた。


「面を上げろ。ここでは堅苦しいのは一切なしだと言ってあったはずだが、良明」


 隣で良明が顔を上げる気配がしたが、空はまだ上げなかった。家康から放たれる空気が重苦しく、身動きする勇気が湧かなかった。


「……お変わりないようで」


 良明が家康を見据えて言うと、彼はニッと口の端を上げた。


「ふん、お前もな。いや、少しは変わったか、目付きがよくなった」


 そう言って、家康は懐から扇子を取り出し、閉じたまま手の平を打った。その視線は既に良明の隣の少女へと移されていた。家康は閉じた扇子で少女を指した。


「その者は? 城の者の娘か?」


 家康の言葉に、俯いていた空は息を止めた。自分が何かを言うべきでないことは分かっている。この場は全て良明に任せるしかない。


「彼女は旅の道中で会い、以来行動を共にしています。江戸の者ではないので放っておくわけにもいかず、ここまで連れてきました」


 あらかじめ準備していたのであろう言葉を良明は淡々と話した。すると家康が興味を持ったように目を光らせる。


「ほう、あの良明がな。お前も面を上げよ」


 空の心臓が大きく跳ね上がった。一瞬で頭が真っ白になり、顔を見せるだけの行為にどうすればいいのか分からなくなった。

 俯いたまま硬直していると不意に良明に肘で小突かれ、空は驚いて勢いよく顔を上げた。すると囲炉裏を挟んで座る家康と視線が重なった。

 貫禄のある体格で、頭は月代に髷を結っている。顔には年相応の皺が刻み込まれ、幾多もの戦場を駆け巡ってきたその眼光は鋭く空を射た。

 家康の表情に一瞬驚嘆が混じったのに空は気付いた。それはすぐに消えたが、空の中に疑念が残った。自身の丸い顎を撫でながら家康が尋ねる。


「……これは……お前、名は何と申す」


「空……です」


「空か、覚えたぞ。お前も顔を上げていろ、無礼にはならん」


 家康にそう言われ、空はようやく事前に顔を見るなと言われていたことを思い出した。慌てて良明に目を向けると、彼はこちらを見ていて、しょうがないと言わんばかりに肩をすくめた。

 空から視線を外した家康は良明へ話しかけた。


「それで、話とは何だ。いや、それよりもまず今まで何をしていたのか話すのが道理だろう。話の前に私の問いに答えろ」


 家康の口調は厳しかった。良明の傍らで聞いている空が怖じ気づいてしまう程だった。ちらと良明の様子を窺うと、彼は目を閉じて覚悟したように頷いていた。

 家康はしばらく無言で良明を眺め、口を開いた。


「何故あの日戻ってこなかった」


「……宗佑さんが死んだためです」


 良明の返答に感情は込められていなかった。短く息を吐き、家康が続ける。


「宗佑の死は私にとっても痛手だった。だがその程度でくにを抜けようなどと思うまい。他に何かあったのではないか」


「いえ……全て自分の意思です。それ以上のことは――」


「一陽が戻らないことは関係しているのか」


 家康に言葉を遮られ、良明は一瞬躊躇った。あの日のことを家康がどれだけ把握しているのか分からないため、下手なことを言うのは避けたかった。


「一陽は……関係ありません」


「やつの今の居場所も知らないな?」


「はい。家康様も掴めていないのですか」


 良明が意外そうに尋ね返すと、家康は低く唸った。


「あいつは昔から痕跡を残さないのに長けていたからな、忍のようだ。だが数日前、一陽を見たという話を聞いた」


「……そうですか」


 特に関心を示してないように良明は呟いた。家康が扇子で自分の膝を叩く。


「まあよい。それで、城に戻る気はあるのか」


「いえ、戻りません」


「うむ、お前のその素っ気なさ、気に入っているぞ」


 あっさりと断った良明に対し、家康は怒った様子もなくこれまたあっさりと言った。

 呆気にとられていた空は、不意に室内の張りつめた雰囲気が消えたのに気付いた。家康の表情もどこか和らいでいるように見える。


「二年もどこで何をしていたんだ? 旅をしていたのか」


「はい。西に下って他のくにを見て回っていました」


「西か、向こうはまだまだごたついておるな。やっかいなのは豊臣。島津とはやっと和解できたばかりだ。西国だけでない、豊臣恩顧の将も油断ならん。東諸国もな。徳川は敵だらけだ」


 そう言って家康が疲れたため息を吐く。


「敵ばかり見るのもいかがかと思いますが」


 良明が呟くと家康はにやりと笑った。


「そう返すのはお前ぐらいのものだ。まあ、敵も多いが味方も多い、それが徳川だ」




「殿、嬉しそうに喋ってるなぁ」


 茶室の障子にぴたっと耳を付け、清宏は中の会話を聞いていた。その傍らに立つ少年の額に青筋が浮かんでいる。


「いい加減にしないか。盗み聞きなど無礼にも程があるぞ」


 清宏に向かって少年が苛々と呟き、清宏は振り返って眉を上げた。


「うるさいな、でかい声出すと中に聞こえるだろ」


「誰もでかい声は出していない。盗み聞きを止めろと言っただけだ」


 少年が憤然と言い、清宏は大袈裟にため息を吐いた。

 この少年の名は勝重(かつしげ)といい、清宏同様、彼も家康の小姓を勤めている。年は一つ下だが、ことある毎に食って掛かり、喋れば何かと一言多く、清宏にとっては接するだけで苛々を募らせるだけの相手だった。

 思い返せば、まだ良明がいた以前から勝重は二人に対して険悪な態度を取っている。しかし同じ役柄故に、切り離せない相手であることも確かだった。そして余計に不満が溜まっていく。

 清宏が無視を決め込んでいると、勝重は更に話した。


「良明が今更戻ってきた理由が解せない。てっきり死んだとばかり思っていたのだが」


「……あいつが死ぬわけないだろ。お前じゃあるまい」


「その言葉、そっくりそのままお前に返すぞ」


 一瞬、清宏と勝重は冷たく睨み合う。その時、ぽつと何かが頬を打った。二人して空を見上げると、更に大粒の雫が落ちてきた。


「やっぱり降ってきたな」


 清宏はやれやれと呟き、茶室の縁側に腰を下ろした。その隣に少し距離を置いて勝重が立つ。二人の間の無言は続き、今や土砂降りとなった雨の音だけが辺りに響いていた。




 良明と家康の会話を静かに聞いていて、ふと空は彼らの声が次第に遠くなっていくのに気付いた。家康の口が動くのを見ているのだが、何を言っているのかよく聞こえない。


(あれ?)


 土砂降りの雨のせいだろうかと首を傾げた空が、自分の意識が遠のいているのだと気付くことはついぞなかった。

 目を閉じ、ゆっくり開いて、確かめるように両手を握り締める。彼女の動きに気付いた良明は、振り返った。そして絶句した。


 いつの間にか空がいない。


 空の姿をした彼女がこちらに顔を向け、紅を引いた唇が妖しく笑みを形取る。昼間のせいかいつもの青白い光は見えない。その代わりに潤んだ青い瞳が際立ち、良明を穏やかに見つめる。


 海が出てきてしまった。原因は分からないが、これからよからぬことが起こることは明白だった。その証拠か、悪寒が止まらない。


「良明、どうした」


 囲炉裏の向こうから家康が怪訝そうに尋ねた。海の視線が、良明から家康へと移る。


「この時をずっと待っていたわ」


 そう呟き、海は懐から漆の塗られた黒い懐刀を取り出した。突然の海の出現に言葉を失っていた良明は、懐刀が鞘から抜かれるのを見て驚愕した。


「おい……何する気だ」


 慌てて海の腕を掴むと、彼女は振り返り刺すような眼差しで良明を睨んだ。


「離しなさい……邪魔をするな!」


 荒げた海の声に心臓がドクンと震えた次の瞬間、金縛りが良明を襲った。声も出せず、指一本すら動かせない。

 良明の手を振り払い、海は音もなく立ち上がった。彼女の視線は家康へ注がれている。懐刀を持った右手が波のように揺れるのを、良明は視界の端で見ていた。


 不味いことになった。海が城に興味を持っていたことは知っていたのだ。もっとも、海が出てくるのは空が寝ている間だけと聞いていたため、用心を欠いていた。しかも予想外の海の出現に心底驚いたせいで油断し、この有り様だ。良明は心の中で自分を罵った。

 それよりも早くこの状態を解かなければ彼女を止められない。全身を縛られた時の一番の対処法は、術者以外の誰かに触れてもらうことだった。家康はそのことをきっと知らないだろう。外にいる清宏たちに助けを呼ぼうにも、声が出せないのでは不可能だ。

 確か真言があったはずだと記憶を辿るも、焦る余り何も思い付かない。そうしている内に海は家康の前に立ち、彼を見下ろしていた。


「徳川家康……貴方が死んだらどうなるかしら」


「さて? 私が死んだら、土に埋められるんじゃないか」


 怖じた様子を微塵にも見せない家康を見下ろしたまま、海は目を細めた。


「ふん、戯れ言を」


 冷たい表情の海は両手で懐刀を握り締め、頭より高く振り上げた。そして家康の胸目掛けて振り下ろす。どっと懐刀が突き刺さる音が茶室に鈍く響いた。


 しかし懐刀が刺さったのは、家康の胸でもどこでもなく、横から伸びた良明の腕だった。庇うことに必死で、護身など良明の頭にはなかった。


「いっ……て」


 良明は激痛に顔を歪め、思わずよろけた。家康が良明の肩を掴んで支えた。その手には脇差が握られている。

 懐刀を良明の腕に残したまま海は手を離し、二人から少し距離を取った。そして顔をしかめて一度舌打ちし、目を閉じた。すると、彼女は崩れるように座り込み、頭を前に垂れてしばらく動かなかった。

 次に彼女が顔を上げた時、その表情は夢から覚めたばかりのようにキョトンとしていた。しかし良明と家康の様子を見、良明の腕に刺さる懐刀と滴り落ちる血を見た彼女の顔は、一瞬で恐怖の色に染まる。

 良明はちらと彼女に目を向け、口を開いた。


「空だな」


「…………」


 声が出ず、空は小さく頷いた。良明の一言とどこか安堵した表情で空は全てを悟ってしまった。

海が表に出てきた。記憶が飛んでいることもそのせいだ。そして海は、空の懐刀で家康を襲ったのだろう。それを庇って良明が代わりに刺されたのだ。

 分かった途端、恐怖は一気に押し寄せ軽い目眩を引き起こした。そして胃から込み上がってくるものを覚え慌てて口を押さえる。


「おい、清宏、勝重!」


 突然、家康が大声を出し空は飛び上がった。間髪入れず障子が素早く開き、呼ばれた二人の小姓が姿を見せる。彼らに向かって家康は言った。


「清宏、良明の怪我の処置をしろ。勝重は薬だ」


「承知」


 二人は同時に頷き、勝重は茶室を後にした。清宏は座り込んでいる空の肩を掴み、軽く揺さぶった。


「空、大丈夫か? ちょっと下がっててもらえるかな」


 そう言っても空は放心したように一点を見つめたまま動かなかった。その顔はハッとする程青ざめている。清宏がちらと良明に目を向けると、彼は視線を合わせ微かに首を振り、口を開いた。


「栞」


 突然、栞が入り口に現れた。彼女は黒装束ではなく、花浅葱の袷に白橡の細帯を締めた格好に着替えていて、一瞬城の侍女と見間違えそうだった。彼女は静かに良明を見つめている。


「空を頼む」


 そう良明が言い、栞は一度頷き空に近付いた。


「空ちゃん、一緒に外に出よう」


 空の耳元で栞が優しく言うと、空はゆっくり振り返り今にも泣き出しそうな顔で頷いた。大丈夫と言うように栞は微笑み、空の腕を掴む。

 空がよろめきながら立ち上がったその時、家康が唐突に口を開いた。


「待て。これだけのことをしていてお前は去るのか? 私には何もなかったが、それで収まると思うのか」


 家康の厳しい口調に空は震え、顔を強張らせた。彼の言う通りだ。記憶がないとはいえ、彼に刃を向けたのは事実である。


「あ……あの……」


 何か言わなければと声を絞り出したが、それに続く言葉が出ず、空は俯いて黙り込んだ。


「……空は、どうしてこうなったのか何も分かっていないんです」


 家康に向き直って良明が告げた。彼の助け船に空は心底安堵すると共に、逆の感情も奥深くに抱いていた。


「おれが説明します。だから今は彼女は退室させてください」


 お願いします、と良明は家康に向かって頭を下げる。家康は顎を撫でながら良明と空を交互に眺め、しばらくしてからため息を吐いた。その目は良明の懐刀が刺さったままの腕に向けられた。


「良明への借りはなしだぞ」


「はい」


 良明はホッと息を吐き、栞に目配せした。栞は空を連れて茶室を後にする。

 茶室を出る前に空は不安に思い振り返ったが、良明は「いいから行け」と小さく言った。空は唇を噛み締め、栞を追った。




 栞に連れられ、空は茶室の裏の茂みまでやってきた。雨はまだ降っているが大分弱まっている。

 頭の中は恐怖と混乱で渦巻いていた。昼間に海が出てきたことなど聞いたことがなかった。自分が起きている間は一度も入れ替わったりしなかった。今まで信じてきたものが崩れてしまったような感覚を覚えた。

 月が欠けていく間だけという条件も覆ったのではないかと考えると、背筋が寒くなった。もしそうだとしたら、いつ自分の意図していないところで急に入れ替わってもおかしくない。それだけは避けたかった。

 海にこの身体の主導権を握られたら、二度と自分に戻れない気がした。


 意識が戻った際、空は家康が脇差を手にしていたのを見た。恐らく、家康は抵抗するつもりだったのだろう。良明が間に入ってこなかったら、今頃自分は斬られていたかもしれない。ぞっとして空は自身の腕を擦った。

 それに良明の腕に刺さる懐刀と、血の匂いを思い出すだけで胸を締め付けられた。今一番身近な人を自分のこの手が傷付けた。信じられなかったし、嘘だと思いたかった。しかしあの黒い懐刀は何度も見てきたため、見間違うはずがない。あれは、空のものなのだ。


 空は今や小降りとなっている雨を見上げた。

 傷はどの程度の深さになってしまっただろう。自分を庇ったことで家康から何か咎めがあるのではなかろうか。彼は海にも自分にも嫌気が差したかもしれない。

 頭の中で何を問うても、答えは返ってはこない。ただ、考えている間も思い出すのは良明の笑い顔と、心配そうに頭を撫でてくれる彼の手の平の温かさだった。

 空がいくらぶっきらぼうな態度を取っても彼は危機には助けてくれたし、不安なときは励ましてもくれた。短い間で良明に救われたことは何度もあったのだ。彼に安心感を抱かないはずがなかった。


 次第に胸から込み上がってくるものを感じ、我慢していたがやがてそれは目から溢れ出た。


「……うっ……く……」


 空は嗚咽を必死に堪え、手で何度も目を擦った。自分が泣くのは空にも妙に思えたけれど、先程の恐怖も相まって一度溢れたものはなかなか収まらない。

 傍らに静かに立っていた栞が手を伸ばし空の頭を胸に引き寄せた。


「よしよし」


 そう優しく言って、栞は空の背中をぽんぽんとゆっくり叩いた。しゃくり上げながら空は口を開く。


「ご……ごめ……」


「あはは、それは何に対する謝りなのかな。今はそんなこと気にしないでいいから、落ち着くまで泣きなよ」


 短く笑い声を上げた栞が更に続ける。


「今日だけで色んなことがあったから心がついていかなかったんだよ。その反動ね、きっと」


 話す間も栞は空の背中を擦り続けた。



 しばらく泣き続けてようやく落ち着いた空は、目を拭いながら顔を上げた。


「ごめん……もう大丈夫」


「そう?」


 栞はにこりと笑い手を離す。


「……空ちゃん、ごめんね、私も海のこと知ってるんだ」


「え……?」


「空ちゃんたちが松葉屋に来た日の夜に見ちゃって。良明さんにも聞いたの」


「……そっか」


 栞の突然の告白にそれ程驚きはしなかった。いや、驚く余裕がなかったという方が合っているかもしれない。空は僅かに視線を落とし、黙り込んだ。

 少し間を置いて栞は再び口を開く。


「あのさ、泣き寝入りしちゃ駄目なんじゃないかな。海のこと、何とかしなきゃ空ちゃんの身体にも負担が増すかもしれないよ」


「……うん。うちの身体だけじゃなくて、たぶんこれから他の人にももっと迷惑がかかる」


 俯いたまま空は答えた。


「自分だけだったらよかったのかもしれないけど……人を、よっしーを傷付けたのはさすがにこたえてる。これからはちゃんと向き合うよ。だから政長に話聞きに――」


 急に「しっ」と栞が口に人差し指を当てたので、空は言葉を切った。見上げると、栞は茶室へと視線を向けている。不思議に思いながら空も振り返った。

 慌ただしい足音がして、茶室の障子が開き、閉まる音が聞こえた。


「勝重さんか。中はもう少しかかりそうだね。話もどそう。政長って空ちゃんが言ってた浪人だよね、その人は色々分かってるんだ」


 栞が首を傾げ、空は頷いた。


「うん、たぶんだけど。今すぐできるのはそれぐらいしか思いつかなくて……」


「ううん、相手のことを知るってすごく大事。忍もそのためにいるようなもんだし。そうとなると……」


 栞は少し考えを巡らせ、右手を口に当てた。途端、微かに甲高い笛のような音が聞こえ、空は何度も瞬いた。


「あれ、聞こえた? 空ちゃん耳がいいんだね、忍に向いてるよ」


 栞がおどけたように言うと同時に彼女の肩に黒いものが舞い降り、空は飛び上がった。

 よく見るとそれは翼を持っていて、更によく見るとそれは鳩だった。鳩は大人しく栞の頭に身体を寄せて、時折彼女の髪をつついている。

 空が面白そうに見ているのに気付き、栞はくすくすと笑った。


「この子は伝達用の鳩なんだ。菫さんのとこに飛ばそうと思って」


 そう言って栞は懐から赤と白の布切れを取り出した。そして赤だけを鳩の足にくくりつけ、それを合図にしたかのように鳩は飛び立っていった。鳩を見送り、栞は腰に手を当てて空へと振り返った。


「よし、ひとまずは安心。でね、空ちゃん、もしかしてだけど、一人で行こうと思ってるんじゃない?」


「えっ」


 空は目を見開いた。栞の言う通り、政長の下へは自分一人で行こうとしていた。叶うなら今すぐにでも発とうと思っていたのだ。

「やっぱり」と栞がため息を吐く。


「まあそう考えるのもしょうがないか。でも今はまだ行っちゃ駄目だよ。良明さんが出てくるの待ってからでも遅くはないから」


「……よくわからない。うちがいると迷惑にしかならないのに」


「そうだね、迷惑かもね。でもそうじゃないかもしれない。それは良明さんの考えを聞かなきゃ分からないことでしょう。自分の思い込みだけで行動するのは浅はかだよ」


 彼女の声音は穏やかだったものの厳しさも含まれていて、空は閉口した。

 浅はか。確かにそうかもしれない。それにやはり良明に何も告げずに行くのは余りに自分勝手だ。被害を与えてしまった今、もう彼は部外者なんかではない。

 空は数回深呼吸を繰り返した。良明と顔を合わせるのも、今は怖い。だけど逃げてばかりいるのもよくないと分かっている。


 空は目を閉じ、良明が教えてくれた言葉を心で呟いた。

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