置いてきたメロディ
十月の夕方、廊下を歩くたびにスニーカーの底が床を擦った。
蛍光灯がひとつ切れていた。廊下の中ほど、ちょうど西棟と東棟の渡り廊下が交わるあたり。その暗い区間だけ足を速めた。早く取って帰ろう。マウスピース。ケースに入れたつもりが、バッグのどこを探しても出てこない。着替えを入れた袋の底、教科書の隙間、財布の横。ない。音楽室に戻るしかなかった。吹奏楽部の練習は三十分前に終わっていて、廊下にはもう誰もいなかった。踵を返した瞬間、さっきまで部活仲間と笑っていたことが急に遠くなった。バッグを背負い直して、階段を上る。三階の廊下は薄暗く、窓から西日が切れ切れに入っていた。
ドアに手をかけたとき、音が聞こえた。
一度止まった。耳を澄ませた。音楽室から音が聞こえることは珍しくなかった。でもこの時間に、この音は変だった。
ピアノの音、というより、音の断片だった。一鍵、また一鍵。同じ箇所を何度も繰り返す、探るような指の動き。ドアを半分だけ開けたまま止まった。室内に夕陽が斜めに差し込んでいた。ホコリが光の帯の中を、ゆっくりと浮いていた。音楽室の匂いがした。木と樹脂と、かすかな湿気の匂い。何年もの音楽がこの部屋に染み込んでいるような、そういう匂いだった。
人影がピアノの前にあった。藤沢悠斗。クラスで隣の列に座っている男子で、それ以上のことをほとんど知らなかった。目立たないというより、風景に溶けるような存在感の薄さがあった。廊下で何度かすれ違っても、視線が合ったためしがなかった。給食を一人で食べているのを見たことがあった。そのことを誰かに話したこともなかったし、特に気にもしていなかった。ただ、見ていた。それだけだった。
その指は、鍵盤を弾いていなかった。押さえていた。一鍵ずつ、顔をわずかに歪め、また次の鍵を押す。音を確かめるというより、音に疑いをかけるような手つきだった。壊れた機械を点検する、という言葉が頭をよぎった。彼の肩に西日が当たっていた。
「ちがう」
小さく言った。「また、ちがう」
ドア枠に肩をつけたまま動けなかった。その声が妙に耳に引っかかった。悲鳴でも嘆きでもなかった。感情を削ぎ落としたように平坦な、事実を確認するだけの声だった。
振り返った。
目が合った。沈黙が伸びた。「マウスピース忘れた」と言って室内に入り、棚の周辺を探し始めた。ケースはすぐに見つかった。
「聴いてた?」
振り返ると、悠斗がこちらを見ていた。責めているわけでも、恥ずかしがっているわけでもない顔だった。ただ聞いている、という顔だった。
「聴いてた」
「どう聴こえた」
少し考えた。正直に答える方が、この場に合っている気がした。
「バラバラだった。でも、必死だった」
鍵盤に目を落として、しばらく黙っていた。それから、誰かに報告するような口調で話し始めた。
中学のころからピアノを弾いていたこと。高校入学の三週間前に交通事故に遭ったこと。後遺症として音の高さが正確に聞こえなくなったこと。旋律が歪んで聞こえる。自分が正しい音を出しているかどうかが、弾いている最中にわからない。主治医には「改善する可能性もある」と言われたが、もう一年近く経った。
話す声に起伏がなかった。正確には、感情を言葉に乗せることをどこかの時点で諦めたような声だった。悲しんでいないのではなく、悲しみを声にする意味を見失ったような、そういう平坦さだった。立ったまま聴いていた。室内の西日が少しずつ薄れていった。
「それでも弾くの」
「文化祭で演奏したい」
なぜかは言わなかった。こちらもそれ以上は聞かなかった。音楽室の空気が少し動いた。どこかの窓が開いていたのかもしれない。
廊下に出て、一緒に階段を降りながら、自分でも驚く言葉を口にしていた。
「手伝う。もし、いいなら」
一段だけ先にいた真帆を、少し見上げるような角度で悠斗は見た。「なんで」とは聞かなかった。しばらく見てから「わかった」とだけ言った。
玄関を出ると、日が落ちかけた空が橙に染まっていた。自転車置き場で別れて、一人で歩いた。しばらく歩いてから振り返ると、悠斗の背中が見えた。少し猫背で、でも確かな足取りで校門を出ていった。
一人で帰りながら、自分の言葉の出どころを考えた。同情ではない気がした。でも何なのかはわからなかった。あの鍵盤を押さえていた手つきが、頭の中で繰り返されていた。確かめている手。探している手。それを見ていたとき、何かが動いた。それが何だったか、夜になっても言葉にならなかった。
* * *
翌週から練習が始まった。
放課後の音楽室。悠斗は必ず先に来て、鍵盤に向かっていた。扉を開けるたびに、室内には試行錯誤の痕跡が残っていた。消えかけのメモ。楽譜に書き込まれた鉛筆の記号。使い切ったシャープペンの芯が机の端に転がっていたこともあった。特に何も言わなかった。フルートケースを開き、リードを湿らせる間に、どの小節から始めるかを確認するだけだった。
部屋に漂う空気は、いつも少しこもっていた。下校時刻が近づくと廊下の雑音が遠くなる。二人の音だけが残る。その静けさに、最初のうちは居心地の悪さがあった。でも次第に慣れた。慣れたというより、その静けさが当然になっていった。
演目は悠斗が選んでいた。ガーシュウィンの『ラプソディー・イン・ブルー』。楽譜を初めて手にして「難しすぎない?」と正直に言った。
「これじゃないと意味がない」
それ以上の説明はなかった。楽譜を手に取り、フルートケースを開いた。難しいなら難しいなりにやるしかない、という諦めではなく、この曲でなければならない理由が悠斗の中に確かにあるのだということだけは伝わった。
練習の方法は、試行錯誤の中から生まれた。一小節ずつ分解して、フルートで正しい音程を鳴らし、悠斗がそれに合わせて鍵盤を押さえる。繰り返す。また繰り返す。「この音が正しい」という感覚的確信が悠斗にない以上、別の方法が必要だった。最初の一週間は、二人とも言葉少なく、ただ音だけを確かめていた。
「正しいかどうかじゃなくて、私の音と合ってるかどうかで判断して」
ある日の練習でそう言ったとき、悠斗が初めてこちらを真剣に見た。何秒かの間があって、「やってみる」と言った。それから少しずつ前へ進めるようになった。正確さを求めるのをやめたことで、かえって音が近づいた。
この方法は、発見でもあった。「正しい音」ではなく「合う音」を探す。正解のない作業だった。でもその曖昧さの中に、何か大事なものがあるような気がした。吹奏楽部の練習で楽譜通りに音を合わせることとは、全く違う手触りだった。音符を追うのではなく、人を追っている感覚だった。悠斗の耳の中にある世界に、少しでも近づこうとする感覚だった。
しかし何度も同じ箇所で止まった。曲の中ほど、音が連続して重なる部分に来ると、悠斗の呼吸が変わった。指が滑り、また同じ音に戻る。同じ失敗を繰り返す。外が暗くなっていく中で、二人の間に焦りのような空気が漂うこともあった。
「何やってんだ俺」
ある夕方、指を鍵盤から離してそう言った。椅子の背もたれに手をつき、うつむいた。窓の外で部活の掛け声が遠くから聞こえてきた。グラウンドで誰かが走っていた。
フルートを膝に置いた。何も言わずに、ただ横の椅子を引いて座った。「頑張れ」とも「大丈夫」とも「もう一回やろう」とも言わなかった。ただそこにいた。
肩が、少しずつ下がった。呼吸が戻るのがわかった。窓の外の声が遠ざかって、音楽室が静かになった。蛍光灯の低い音だけが続いた。五分ほどして、何も言わずにまた鍵盤に向かった。こちらもフルートを持ち直した。
その日の終わりに、初めて音が合った。たった八小節のフレーズだった。鳴らした瞬間、二人とも動きが止まった。音が重なっていた。フルートとピアノが、空気の中で一つになっていた。それはほんの数秒のことだったが、確かにそこにあった。
弾き終えた後、悠斗が鍵盤を見つめたまま動かなかった。こちらも息を止めていた。どちらも先に声を出したくなかった。その静けさを壊したくなかった。
「……合った気がした」
「合ってた」
声が震えていた。自分でも気づかなかった。悠斗はまだ鍵盤を見ていた。フルートを握ったまま、その横顔を見ていた。窓の外はすっかり暗くなっていた。音楽室の蛍光灯だけが二人を照らしていた。二人の影が床に伸びていた。
帰り際に、次の練習日を確認するために二人で楽譜を覗き込んだ。肩が触れた。どちらも何も言わなかった。しかしその沈黙は、それまでの無言とは少し質が違っていた。
* * *
十一月に入ると、昼休みも音楽室に顔を出すようになった。理由を考えると曖昧になるので、あまり考えないようにしていた。
友人の麻衣に「最近どこ行ってんの」と聞かれたとき、「音楽室」と答えた。「誰かいるの?」と聞かれて「うん」と答えた。それ以上聞かれなかった。麻衣はそういう子だった。そのことに少し安堵した。
授業中、窓際に座る悠斗の横顔が視界に入るたびに意識が引っ張られた。それに気づいたとき、「なんでだろう」と一瞬思い、すぐに考えるのをやめた。
その日の練習で、テンポを合わせるために悠斗の手首をメトロノーム代わりに叩いて拍を刻もうとした。やり方を確認しようと手を伸ばした瞬間、指と指が重なった。一瞬のことだった。冷たくて、それから温かかった。
「ごめん」
「いや」
二人とも楽譜の方を向いた。練習は続けた。しかし耳に、自分の心拍が聞こえていた。フルートを構えるたびに息の合わせ方が少しだけ乱れて、二度吹き直した。悠斗は気づいていたかもしれなかった。でも何も言わなかった。
帰り道、一人で歩きながら、手先に残っている感触を確かめた。じわりとした熱があった。夜道の空気が冷たかったから余計にそれが目立った。自販機の前を通り過ぎるとき、自分の顔が反射しているのが見えた。そこから目を逸らした。
「好き、なのかな」と思った瞬間、すぐに首を振った。違う。音楽が好きなだけだ。同情かもしれない。でもその否定が、繰り返すたびに空っぽになっていった。家の玄関についても、手先の熱はまだ残っていた。
練習を終えた日の帰り際、鍵盤カバーを閉めながら悠斗が聞いた。
「明日も来る?」
それまでの無口な態度からすると、明らかに違う声音だった。確認というより、問いかけに近かった。
「うん」
ピアノの方を向いたまま「そっか」と言った。
たった三文字だった。しかしその言葉には何かが含まれていた。安堵なのか、それとも別の何かなのか、わからなかった。わからないまま、その一言を、夜のあいだじゅう、温めるように持ち歩いた。
そこから数週間、二人の練習は続いた。
弾き方は少しずつ変わっていった。最初のころは一音ずつ確かめるように弾いていたのが、小節を流れるようになった。全部が正確になったわけではなかった。音が歪んで聞こえる耳の中で、何が変わったのかはわからない。でも指の動きに、以前とは違う何かが加わっていた。
吹きながら、そのことを感じていた。フルートを構えるたびに、悠斗の音に耳を向けた。ずれているところがあれば、もう一度同じフレーズを吹いた。それを聴いて、また鍵盤に向かう。言葉は少なかった。しかし音のやりとりは、毎回少しずつ密になっていった。
同じ曲を何十回と繰り返すうちに、その曲の形を体で覚えた。目を閉じていても、次にどの音が来るかわかった。悠斗の指がどこで迷うかも、どこで安定するかも、だいたいわかってきた。音楽室の夕方の光の差し込み方も、外から聞こえる部活の声も、蛍光灯の低い音も、全部が練習の一部になっていった。
ある日、入室すると悠斗がすでに弾いていた。楽譜を見ずに弾いていた。途中まで弾いて、止まって、また最初に戻る。しばらくドアのそばに立って、黙って聴いていた。この曲のこのフレーズは何度も聴いた。でも今日の音は少し違って聞こえた。指が鍵盤を探していない。探している手ではなく、鍵盤の位置を知っている手だった。正確ではないかもしれない。でも知っていた。
しばらくして真帆の存在に気づいた悠斗が「いたの」と言った。「聴いてた」と答えた。何も言わずに弾き直した。その日の練習は、今までで一番よく進んだ。
* * *
ある夜、自室で定期演奏会の楽譜を机に広げたまま、固まっていた。
スタンドライトだけがついていた。部屋は静かで、外から車の音が時々通り過ぎた。楽譜には付箋がついていた。先週の部活でパートリーダーに指摘された箇所に、赤ペンで書き込みがしてある。練習しなければならなかった。演奏会まで三週間しかなかった。なのに指が動かなかった。フルートを構えたまま、唇が離れていた。
頭の中で『ラプソディー・イン・ブルー』が鳴っていた。悠斗のピアノが鳴っていた。正確ではない、それでも止まらないあの音が。
なぜ吹奏楽をやっているのか、と初めて自問した。入学のとき、音楽が好きだから入った。でも「好き」の中身を、一度も正確に言葉にしたことがなかった。演奏が好き。音が好き。でも何が好きなのか。誰かと音を合わせるとき、一瞬だけ世界が揃う感覚がある。ずれがなくなる、あの瞬間。それを求めていたのかもしれない。悠斗と一緒に音を探しているとき、その感覚を強く感じていた。こんなに強く感じたのは、久しぶりだった。いや、初めてかもしれなかった。
吹奏楽部で合奏するとき、あの感覚が全くないわけではなかった。でもどこか薄かった。楽譜通りに合わせる、という行為には、探す余地がなかった。悠斗との練習は違った。正解がなかった。悠斗の耳の中にある歪みを、自分の音で少しでも整えようとする、その過程に引き込まれていた。
フルートを膝に置いた。部屋の天井を見た。定期演奏会の楽譜が、机の上でぱらりと一枚めくれた。
翌日の練習で、試しに聞いた。
「悠斗って、なんでピアノ始めたの」
「親が弾いてて、真似した。そのうち好きになった」悠斗はさらっと言った。「気づいたら弾いてた、っていう感じ」
「どんな曲を弾いてたの」
「色々。コンクールとか出てたころはクラシックが多かった。でも好きだったのはジャズ寄りのやつ。ガーシュウィンとか」
思わず楽譜の方に目をやった。悠斗がその視線に気づいたかどうかはわからなかった。
「事故の前は?」
しばらく間を置いた。鍵盤の上に指を置いたまま、どこか遠いものを見るような顔をした。
「楽しかった。音が全部わかった。どの音もちゃんと聞こえた。弾きたいと思った音が、そのまま出た」
言い終えて、また鍵盤を見た。指が鍵盤の上で静止していた。「今は?」と聞こうとした瞬間、悠斗の方から続けた。
「今も楽しい。歪んでてもわかる音がある。お前のフルートが鳴ったときの、あの感じは、ちゃんとわかる」
黙った。
支えているつもりだった。手伝いに来ているつもりだった。でも気づいたら、支えられていたのは自分の方だった。その重さが、急にはっきりと感じられた。
自分のフルートが「基準」として使われている。悠斗の耳の中で、自分の音が地図のような役割を果たしている。そのことを今まで考えたことがなかった。自分が吹く音に、意味がある。誰かの世界の中で、自分の音が確かなものとして鳴っている。
フルートを持ったまま、窓の外を見た。枯れかけた木の葉が光を透かしていた。音楽が好きだった。ずっと好きだった。でも、これほど音を吹くことに意味を感じたのは初めてだった。
「ありがとう」と言いたかった。でもそれは何に対してのお礼なのか、まだうまく言葉にできなかった。だから黙って、また楽譜を開いた。
* * *
文化祭の一週間前。通し練習を始めた日の午後、音楽室に西日が入っていた。
最初から通す。二人でそう決めていた。フルートを構えたまま、立って聴いていた。悠斗の指が鍵盤に落ちて、曲が始まった。冒頭は安定していた。今日はいける、と思った。中盤も越えた。しかし曲のもっとも激しく音が重なる箇所に差し掛かったとき、悠斗の指が止まった。
止めたのではなく、止まってしまった。
顔が青ざめた。呼吸が浅くなるのが見てわかった。指が鍵盤の上に置かれたまま、動かなかった。鍵盤と悠斗の間に、目に見えない壁があるようだった。
「大丈夫」と言おうとした瞬間、席を立った。窓際に歩いた。窓の外の欅が夕風に揺れていた。葉が何枚か舞い落ちるのが見えた。フルートを下ろして、動かなかった。
しばらくして、窓ガラスに片手をついて、絞り出すように言った。
「事故のとき、ラジオがかかってた。この曲だった」
動かなかった。
「救急車を待ってる間、ずっとかかってた。意識が半分しかなかったけど、音だけ聞こえた。体が動かなくて、アスファルトが冷たくて、でも音だけ聞こえた。目が覚めたら、音が全部ずれてた。あの日から全部、ずっと歪んで聞こえる」
窓ガラスを風が揺らした。細い音が続いた。窓の外を見たまま動かなかった。その背中を見ていた。
肩の形。少し落ちた首の角度。一年近く、こうやって一人で抱えてきたのかと思った。誰かに話したことがあったのかどうか、知る術がなかった。でも音楽室でひとり、鍵盤を一音ずつ確かめていたあの姿が頭にあった。
「だから、この曲を自分の手で弾き直したかった。取り戻したかった。でも」
言葉を切った。沈黙が長かった。
「やっぱり無理かもしれない」
何かが崩れた。あるいは、固まった。どちらでも同じことだった。
「逃げないで」
声が震えていた。悠斗が振り返った。
「私は、悠斗の音が好き。うまいからじゃない。完璧だからじゃない。あの日から——最初に音楽室で聴いたあの日から、ずっと聴いてた。バラバラで、必死で、それでもやめない音を」
黙って見ていた。何も言わなかった。
「私、ずっと音楽が好きで、でも何のために吹いてるかわかってなかった。悠斗と一緒に音を探してて、初めてわかった。誰かの音と合わさる瞬間のためだって。それを気づかせてくれたのが悠斗の音だった」
息を一つ吸った。
「だから舞台に立って。完璧じゃなくていい。私が近くで聴いてる。それだけは確かだから」
窓の外で欅が揺れた。校庭の声が遠くから届いた。部活の笛の音と、誰かの笑い声が混じっていた。
部屋が静かだった。長い間、真帆を見ていた。こちらも目を逸らさなかった。こんなに長く誰かと視線を合わせたことがなかった。それでも逸らさなかった。
それから鍵盤の方を向き、ゆっくり席に座った。指を鍵盤の上に置いた。しばらく、そのままでいた。
「もう一回やる」
今度は指が震えなかった。正確ではなかった。一箇所、また音がずれた。しかし止まらなかった。曲が流れた。終わりまで流れた。
弾き終えてから、鍵盤を見たまま「ありがとう」と言った。声が低かった。普段と同じ低さだったが、いつもより柔らかかった。「うん」とだけ言った。それ以上の言葉は要らなかった。音楽室の蛍光灯がまだついていた。外はすっかり暗かった。どこかで誰かが校門を閉める音がした。
* * *
文化祭当日、体育館の客席は午後の日差しで温かかった。ステージの上には花の装飾と横断幕があった。他のクラスや部活の出し物の最後に吹奏楽部の演奏があった。プログラムには『ラプソディー・イン・ブルー/ピアノ独奏:藤沢悠斗」とだけ書かれていた。
プログラムを両手で握りしめ、ステージを見ていた。舞台袖の暗がりに悠斗の影があった。黒いシャツを着ていた。いつもより背筋が伸びているように見えた。周囲の生徒が話したり笑ったりする声が聞こえていたが、耳に入らなかった。手のひらが汗ばんでいた。
前の演目が終わる。拍手。MCが次のプログラムを読み上げる。吹奏楽部と悠斗がステージに立つ。スポットライトが肩に白く落ちていた。客席がしんと静まった。椅子を引いて座り、少し間を置いてから、悠斗は鍵盤に指を置いた。その間が長かった。息が止まりそうだった。
最初の一音が鳴った。
目を閉じた。
音は練習室で聴くより遠く、それでいて体育館の空気を全部揺らしていた。悠斗の指が動いていた。冒頭から中盤へ。曲が膨らみ、収縮し、また膨らんだ。体の中で、何かが一緒に動いていた。
中間部に差し掛かったとき、音が一瞬揺れた。止まりそうな感触が広がった。隣で誰かが息を止めるのがわかった。こちらも息を止めていた。心の中で「止まらないで」と思った。声に出さなかった。でも確かに思った。
止まらなかった。
指は続いた。揺れた後、音が戻った。終盤、最後のフレーズへ向かう長い跳躍。その音が歪んでいたかどうかはわからなかった。けれど届いた。音楽室で初めて聴いたあの必死な音が、今度は舞台の上にあった。完璧ではなかった。でも、それだけが真実だった。
曲が終わった。
一瞬の静寂。
それから拍手が広がった。大きかった。気づいたら泣いていた。自分でも気づかなかった。何故だか泣きながら拍手した。隣にいた同級生が「え、泣いてんの」と囁いたが、止まらなかった。止める理由もなかった。それだけ悠斗の演奏はすごかった。いや、演奏よりここまで積み重ねてきた努力に涙しているのだ。
* * *
拍手が収まった後も、体育館は文化祭の喧騒に満ちていた。模擬店の呼び込み声、グループで笑う同級生、廊下を走る足音。その全部が遠かった。目に映る全部がぼんやりしていた。涙のせいかもしれなかった。
人の流れに逆らうように出口へ向かった。校舎裏の通路は薄暗く、日が陰ってからの風が冷たかった。石畳に落ち葉が何枚か積もっていた。十一月の夕暮れの匂いがした。金木犀はもう終わっていた。土と枯れ葉の匂いだった。
一人で立っていた。壁に背をつけて、空を見るでもなく、ただ立っていた。疲れているようには見えなかった。どこか軽くなったような、でも着地先が見つかっていないような顔だった。演奏が終わった後の人間の顔だと思った。
歩みを止めなかった。そのまま近づいた。
「私、悠斗が好き。ずっと一緒に音を探したい」
目が動いた。真帆を見た。
「ずっと考えてた。だからこれは本当のことだと思う」
少し驚いた顔をした。それから小さく笑った。眉が少し下がった。初めて見る顔だった。演奏中も、練習中も、見たことのない顔だった。
「俺、まだちゃんと弾けないかもしれない」
「それでもいい。隣で聴いてる」
今度は、意図して手を重ねた。
体育館の拍手が遠くなっていた。風が通路を抜けた。コンクリートの壁が夕暮れの光を受けて、ぼんやりと温かい色をしていた。どこかの教室から笑い声が漏れてきて、また消えた。
指が、真帆の手に触れた。最初は軽く。それから少しだけ、力が入った。
音は歪んでいる。それでも鳴り続ける。二人の間で、まだ名前もついていない、これから探していくものとして。




