エピソード6: 溢れる驚き
ついに、両親が心を込めて準備してきた「ハーリンの特別な日」が描かれる。
家に近づくずっと前から、その香りは彼女の鼻をくすぐっていた。
庭を通り抜けて漂ってくる、あたたかくて、濃くて、甘いほどに豊かな匂い。
まるで空気そのものが、とろけてしまいそうな――そんな香り。」
ハーリンが庭に入ると、そこにはメリルがいた。
午後の光の下でひざまずき、枝から慎重に果物を摘み取っている。
選ぶのは、明るく輝くもの、ふっくらしたもの、表面がつるりと美しいもの――
まるで、見えない審査を通った果物だけが籠に入るかのようだった。
「ママ、ただいま。」
メリルが小さく息をのむ。
まだ準備が終わっていない。ヘイルも帰ってきていない。
それでも彼女は振り返り、母の微笑みで受け入れた。
「ハーリン、果物を一緒に摘んでちょうだい。」
手招きする。
ハーリンは隣に座る。
だが、その静かな瞳の奥には、まだどこか遠くに心があるようだった。
それをメリルはすぐに気づく。
「今日は、新しいお友達できた?」
優しく尋ねる。
ハーリンはうつむく。答えられない。
メリルは微笑み、ハーリンの青い髪をそっと撫でた。
「じゃあ明日、ママがハーリンと一緒に遊んであげる。」
ハーリンの頭が勢いよく上がった。瞳が一瞬で輝く。
「ほんと?!」
「ほんとよ。」
メリルは娘の頬を軽く撫でた。
そして果物へ視線を戻し、くすっと笑う。
「ハーリンが“かわいい”って思ったのを選んでみて。」
ハーリンは真剣に枝を見渡した。
まるで科学者のように観察し、じっくり考え――
そして3つの果物を両手にそっと載せた。
ひとつは、大きくて真ん丸の完璧な実。
ひとつは、ちいさくて、まだ子どものように未熟な実。
最後のひとつは、形が少し歪んでいる――けれど、その歪みが小さな“ハート”みたいで可愛い。
「できた!」
メリルはそれを見て、すぐに娘の選んだ理由を理解した。
「じゃあこの3つは特別に料理してあげるわね。」
***
やがて籠は色とりどりの野菜と果物でいっぱいになる。
メリルが立ち上がると、重くて持ち上がらない。
ハーリンはすぐに飛びつき、一緒に籠を抱えて家へ運ぶ。
あの素晴らしい香りの正体――
それは、いつもよりずっと大きな鍋で煮込まれているスープだった。
メリルは丁寧に鍋をかき混ぜ、
スプーンで少しすくって、ふぅっと息を吹きかけ、ハーリンへ差し出す。
「ほら、味見して。」
ずずっ――
――今日は香草もスパイスもいつもより多い。
どうりで庭中に匂いが広がっていたはずだ。
おいしい!
「ねぇママ、今日はなんで鍋が大きいの?」
メリルはしゃがみ、優しい秘密を語るように微笑んだ。
「今日は、一年でとても特別な日だから――」
バァンッ!!
扉が蹴り開けられた。
「我が誕生日ガールはどこだーー!!」
ヘイルが勝ち誇ったように突入してくる。
肩には、巨大な毛むくじゃらの獣がドンと乗っていた。
大人の男ほどの大きさで、牙は彫刻の短剣のよう。
床へ投げ落とすと、重い音が響いた。
ハーリンは怯えて目を丸くする。
――こんなの見たことない…
死んでるのに、まだ怖い…
「その獣を狩るなって言ったでしょうが!!」
メリルがスプーンをヘイルの顔に突きつける。
「簡単に捕まえたぞ! キログは群れで動くが、1匹だけ離せば片手でも捕まえられる!」
とヘイルは胸を張る。
ハーリンは興味津々で近づき、分厚い毛に触れた――
ぽたり。
血が落ちた。
獣ではない。
父の腕からだ。
擦り傷、切り傷、破れた袖――
――パパ…
ハーリンの顔が震え、涙が溜まり始める。
ヘイルが固まる。
罪悪感が丸太のように崩れ落ちる。
「……メリル……」
「んー?」
スプーンを咥えたまま振り向く。
ヘイルは必死に目を見開き、顎をしゃくってハーリンを指す。
メリルはため息をつき、スプーンを置いた。
ヘイルの前に立つと、娘に向かって言う。
「ほら見て。あなたの父ちゃん、いつも私を心配させるのよ。」
ヘイルは気まずそうに頭を掻く。
メリルは小さく詠唱を始めた。
「壊れし者よゆるされよ、失いしもの返したまえ。
私の力分け与え… その過ちを繕え――」
柔らかな緑光がメリルの手から生まれ、
糸のようにヘイルの傷へ流れ込み、塞いでいく。
ハーリンはじっと見つめる。
――この光… この声…
夢で見たような…
治癒が終わると、メリルはヘイルの肩を容赦なく殴った。
「ふんっ!」
そしてキッチンへ戻り、包丁を叩きつけるように刻み始める。
ヘイルは大げさに肩を押さえ、ハーリンにささやく。
「ハ、ハーリン…早く回復魔法覚えてくれ…
母ちゃんは治してから殴ってくるんだ…骨折る勢いで…」
メリルの包丁の音が急に3倍速になる。
コンッコンッコンッコンッ!!
ヘイルは慌てて話題を変える。
「さあハーリン! これを庭に運ぶの手伝え!」
「うんっ!」
メリルは鼻をつまみながら呟く。
「じゃあなんで家の中に持ってきたのよ…」
「だって村中に見せたかったんだ!
ハーリンの家は“キログ一匹丸ごと食べる家”ってな!」
それを聞きながら、キログの足を引きずるヘイル。
ハーリンは尻尾を両手で必死に掴んで手伝う。
通りすがりの村人たちがひそひそ声で囁く。
「キログを…? あの家の夕飯?」
「ヘイル、やっぱり強いな。」
「とんでもない家族だ…」
得意げなヘイルはハーリンを見る。
「ハーリン、パパすごいだろ?
誰だってこんなの見たら逃げるんだぞ?
でもパパはお前のために捕まえてきたんだ!」
そして彼女の額を軽くトンッ。
「今日は森で一番うまい肉が食べられるぞ!」
ナイフを取り出し、ヘイルはキログの解体を始めた。
刃が動くたび、獣は見事に裂けていく。
速く、正確で、慣れた手つき。
気づけばもう、頭・胴・脚が綺麗に分けられていた。
「ふぅ……」
汗をぬぐい、ヘイルは薪小屋へ向かう。
太い薪の束を肩に担ぎ、英雄気取りで戻ってくる。
庭の中央に薪を置き、ハーリンの前でしゃがむ。
「ハーリン、よく見てろよ。
父ちゃんが火を起こすからな!」
ハーリンはこくこく頷く。
ヘイルは石を2つ手に取り、全力で擦り合わせる。
シュッ! シュッ!
……何も起きない。
火花すら出ない。
ハーリンは首をかしげる。
「なんで火でないの…?」
ヘイルも同じ顔。
それでもめげず、娘にも石を渡す。
「ハーリンもやってみろ!」
ハーリンは気合いっぱいで――
ガンッ! ガンッ! ガンッ!
スパークどころか、ただの石割り大会。
父と娘は長い間力を注いでいたが、ヘイルが気づく前のことだった。
彼は手で止まるよう合図し、石をじっと見つめてから、深いため息をついた。
「……ああ、湿ってる。」
裏切られた英雄のような顔で、青空を見上げて嘆く。
ハーリンも草の上にバタッと倒れる。
「火ってむずかしい……」
棒読みで嘆いた。
大きく息を吐いたあと、ヘイルはハーリンの肩をぽんっと叩いた。
「ここで待ってろ…父ちゃんがやる。」
戦場に戻る兵士のように家へ向かう。
数秒後――
「だったら!! 自分で火起こしなさいよね!!
殺す気!? キログ捕まえたんでしょ!? 火くらい!!」
メリルの怒声が爆発した。
そして2人で戻ってくる。
メリルが先。腕を組み、夫を一切見ない。
後ろのヘイルは完全にしょんぼり。
メリルは薪の前にしゃがむ。
夫の間抜けな期待顔を見ると――
逆に決意が湧いたようだ。
ボッ!!
鮮やかな赤い炎が彼女の手に咲いた。
ハーリンの目は輝き、すっかり魅了されていた。
「おい!!」
ヘイルは跳び上がり、燃えかけたズボンを慌てて叩く。
「熱っ…熱いぃ!!」
ハーリンも駆け寄り、ぱたぱたと叩いて助ける。
しかし、その途中で無邪気に微笑んで言った。
「パパも火できた!」
ヘイル、固まる。
「……ハーリン!!」
後ろでメリルは声を殺して笑っていた。
***
太陽は沈みかけ、空を橙色に染めていく。
焦げた薪は赤く光り、
庭には温かい料理の香りと、家族の笑い声が満ちていった。
— 著者より —
エピソード5を読んでくださってありがとうございます!
ハーリンは魔法に触れ始めており、将来的にはさらに多くのことが彼女を待っています!
読者の皆様、ぜひ私までご感想をお聞かせいただけると嬉しいです!
毎週2章ずつ公開予定です!




