エピソード22:希望の灯
痛みはやがて傷跡となり、過去は教訓へと変わった。
ジュウゥゥ……。
温かくて、香ばしい匂いが家の中にゆっくりと広がっていく。
ハーリンが、わずかに身じろぎした。
片方の目がうっすらと開き、もう片方は頑なに閉じたまま。
ゆっくりと瞬きをして、視線が台所へ向く。
「もう起きたのか?」
驚いた声でそう言いながらも、ジュキグの目はフライパンから離れない。
彼が手首をひらりと返す。
シュッ。
食材がふわりと宙に舞い、きれいにフライパンへ戻る。
ハーリンは横になったまま、彼の料理する姿から目を離せなかった。
「どうだ、俺の腕前は?」
にやりと笑いながら、ジュキグがちらりと彼女を見る。
ハーリンの頬が赤くなる。
慌ててくるりと背を向け、壁の方を向いた。
ジュキグが小さく笑う。
「お前の母さんの好物だ。」
壁を見つめたまま、その言葉だけが胸に残る。
お母さん……?
お母さんは、いつもお父さんと私の好きなものを知ってた。
でも……
胸が、きゅっと締めつけられる。
私は、お母さんの好きなものを知らなかった。
ぎゅっと目を閉じる。
何かを堪えるように、顔が歪む。
体を小さく丸め、腕で自分を強く抱きしめた。
***
ジュウゥゥという音が、やがて消える。
足音が近づく。
扉がきぃ、と軋んだ。
「ハーリン、ちゃんと家にいろよ。仕事に行ってくる。」
はっとして、ハーリンは跳ね起きる。
「おじさん、待って!」
閉まりかけた扉の前で、彼の手を掴んだ。
ジュキグが振り向き、目を瞬かせる。
「ん?」
ハーリンの顔が真っ赤になる。
「おじさん……ちょっと、しゃがんでくれる……?」
ほとんど聞こえない声。
ジュキグは首をかしげながらも、しゃがみ込んだ。
「どうした、ハーリン?」
視線を合わせないまま、ハーリンはぎゅっと目を閉じる。
小さな手を伸ばし、彼の額のたんこぶへそっとかざした。
淡い緑色の光が、掌からふわりと咲く。
ジュキグの体が固まる。
「……やっぱり、本当か……」
かすれた声で呟く。
光が消える。
腫れは、すっと引いていた。
ハーリンが手を下ろす。
ジュキグは小さく咳払いをし、気持ちを落ち着ける。
「……あ、ありがとな、ハーリン。」
彼女は小さく頷くだけで、まだ目を合わせない。
ふいに、彼が指を鳴らす。
「あ、そうだ。忘れるところだった。」
ハーリンが顔を上げる。
表情は薄いまま――けれど、その目は待っていた。
ジュキグが一本、指を立てる。
「家から出るな。」
二本目。
「誰も中に入れるな。」
三本目。
「もし兵士が来て、お前が俺の何かと聞かれたら――」
真っ直ぐ、彼女の目を見る。
「ジュキグの妹だと言え。」
「わかったか?」
ハーリンは少し戸惑いながら、こくりと頷く。
「言ってみろ。」
「ジュキグの妹。」
「……私は、ジュキグの妹。」
小さな声で、言い直す。
「よし。」
彼は微笑んだ。
「すぐ帰る。」
扉が閉まる直前、ひょいと顔を覗かせる。
「ちゃんと全部食べろよ。じゃないと、ハエがたかるぞ。」
カチッ。
静寂が戻る。
ハーリンは家の中を振り返る。
しばらくその場に立ち尽くし、ゆっくりと部屋を見回した。
指先が、ワンピースの裾をくしゃりと握る。
……
深く息を吸い、少しずつ力を抜いた。
台所へ歩いていき、フライパンの中の炒め物を見る。
焼く。
煮る。
焼き上げる。
でも……乾いてる?
お母さんの好物は、特別。
フライパンとスプーンを持ち、床へ座り込む。
***
フライパンは空っぽだった。
ひとかけらも残っていない。
背後の本棚へと視線を向ける。
木のおもちゃが、きれいに並んでいる。
昨日ジュキグにもらった分は、その半分だけ……
ふと、目に留まるものがあった。
木枠に丁寧に収められた、一枚の絵。
ヘイルがジュキグを脇に抱え込み、拳で頭をぐりぐりしている。
抗議するように顔をしかめながらも、確かに笑っているジュキグ。
そして、メリル――
大きくなったお腹を優しく抱え、静かな温もりをたたえた笑み。
お母さん……お父さん……
ハーリンはそっと額縁を持ち上げる。
涙が、じわりと滲んだ。
***
午後の陽射しが二階のバルコニーに降り注ぎ、やわらかな橙色に染めていた。
木々と花々がその周りを囲んでいる。
かつてメリルが故郷で育てていた植物は、ここにもすべて揃っていた。
ハーリンは小さな木のブランコに座り、ゆらり、ゆらりと揺れている。
胸にはあの絵を抱いたまま。
二匹の蝶が、近くでひらひらと舞っていた。
やがてふわりと近づき、彼女の膝にそっととまる。
ハーリンはそっと手を伸ばし、その羽に触れようとする――
けれど蝶は、また空へと舞い上がった。
彼女は何も言わず、その姿を見送る。
***
一つだけ灯された油ランプが、かすかに揺れている。
夜空には星が散りばめられていた。
ハーリンはベッドに座り、額縁を抱きしめている。
……
カチッ。
「ただいま。」
疲れた声のジュキグ。
それでも、彼は笑ってみせた。
あの、疲れた顔……
あの、作り慣れた笑顔……
ハーリンは突然泣き出し、駆け寄って彼の足にしがみつく。
「おじさん!」
「うわっ?」
驚きながら、彼は彼女を抱き上げる。
「ど、どうした?」
ハーリンは一瞬だけ顔を上げ――
そして、さらに強く泣き出した。
ジュキグが固まる。
慌てて彼女を床に下ろす。
ハーリンはもう一度、彼の足にぎゅっと抱きついた。
「な、何があった?」
「今日は兵士が来たのか!?」
「それとも……ど、泥棒でも入ったのか!?」
彼女は首を横に振る。
顔は彼のズボンに埋めたまま。
ジュキグはほっと息をつき、彼女を抱き上げてベッドへ座らせる。
その隣に腰を下ろした。
ハーリンは彼の腕にしがみつき、涙で袖を濡らす。
「じゃあ、何が――」
視線が、額縁へ落ちる。
「……なんだ。」
声が静かに途切れる。
口元に、小さな笑みが浮かんだ。
絵を持ち上げ、二人の前に掲げる。
「ハーリン、知ってるか?」
「俺、あの日死ぬかと思ったんだぞ!」
「な、なにが……?」
ジュキグの袖越しに、くぐもった声。
「お前の父さんの脇、めちゃくちゃ臭くてな。」
ハーリンの口から、震える笑いが漏れる。
「描かれてる最中に、吐きそうになった。」
涙を流しながら、彼女は笑った。
ジュキグも笑う。
「その後のお前の母さんの怒りよう、知らないだろ。」
「絵師が帰った瞬間、父さんの後頭部を思いっきり叩いたんだ。」
ジュキグは声を低くして、メリルの不機嫌な声を真似る。
「家族写真のときくらい、ふざけないでちょうだい!」
「いつもいつも、弟をいじめて――」
ハーリンの嗚咽は、静かな笑いへと変わっていく。
その瞬間。
いたずらっぽい顔で、ジュキグはそっと彼女の頭をくしゃりと撫でた。
……
「ハーリン。」
優しい声。
彼女が見上げる。
「もっと笑え。」
「お前の母さんと父さんが見たら、きっと喜ぶ。」
彼は天井を指差した。
「もしかしたら、今も見てるかもしれないぞ。」
ハーリンの目が、その先を追う。
「鳥になってるかもしれないし……」
「それか、蝶とか。」
「お前の道を、見守るためにな。」
……
「よし!」
ぱん、と一度手を叩いて立ち上がる。
「さあ、晩飯の時間だ!」
ハーリンは勢いよく立ち上がった。
「はーい!」
— 作者より —
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