エピソード21: まだ、息をしている
頭では気にしていなかった。
けれど、心はそうではなかった。
馬の蹄の音が響く。
終わりの見えない、静かな一週間の旅のあと。
醜い土の道は、いつの間にか滑らかな石畳へと変わっていた。
「ハーリン!」
ジューキグが呼ぶ。
ハーリンは顔を上げた。
「前を見てごらん」
彼は微笑みながら言った。
信じられないことに――
言葉でしか知らなかったものが、今、彼女の目の前に広がっていた。
巨大な王国。
遠くから見ても、それは石でできた森のように果てしなく続いている。
***
白く、堅牢な高い城壁。
おそらく、ハーリンの家を六つ重ねたほどの高さがあった。
遠くからは、王国全体を見渡せた。
だが、今やその壁は終わりがないように思えた。
ハーリンは、てっぺんを見るために首を大きく反らさなければならなかった。
馬車は門の前で止まる。
巨大な鉄の柵が、幾重にも編み込まれるようにそびえている。
入口の両脇には、全身を輝く鋼の鎧で包んだ兵士が二人立っていた。
「よし」
ジューキグは振り返る。
「ここで待っていなさい、ハーリン」
自信ありげな笑みを添えて。
ハーリンはかすかに頷いた。
ジューキグは馬から降り、ズボンの埃を払うと、何気ない足取りで門へ向かう。
ハーリンは黙って、その背中を見つめていた。
兵士の前に立つ彼は、ひどく小さく見える。
兵士たちは、彼よりも半身ほど高かった。
ジューキグは鞄から何かを取り出す。
一枚の紙だ。
彼はそれを差し出した。
兵士はそれを受け取り、長い間、目を通す。
突然――
兵士は振り返り、ハーリンの方を指さした。
ハーリンはすぐに馬車の中にしゃがみ込み、
小さな目だけを覗かせて、興味深そうに様子をうかがう。
ジューキグは気まずそうに頭の後ろを掻き、何かを話した。
やがて、兵士の視線がハーリンから離れる。
彼は向かいの兵士に向かって頷いた。
それを見て、もう一人の兵士が城壁の上にいる誰かへ合図を送る。
その瞬間――
ジューキグの肩がふっと落ちた。
一気に息を吐いたようだった。
彼は馬車へ戻ってくる。
顔色は青く、まるで憑き物が落ちたかのようだ。
馬に跨り、深く息を吸ってから、ハーリンに微笑んだ。
「ようこそ――
タルムノール王都へ」
その言葉を聞き、ハーリンも少し力を抜いた。
その名前が、なぜか心に引っかかる。
タルムノール……
重々しい軋み音とともに、門が持ち上がる。
思考に留まる間もなく、引き戻されるように。
馬車は再び動き出した。
分厚い城壁の下には、濃い影が落ちている。
外の世界と、これから待つ新しい世界を分ける境界のように。
再び、まぶしい陽光が差し込む。
悲しいのに。
気にしないつもりなのに。
それでも――
ハーリンの目は、正直だった。
家々が並んでいる。
どれも二階、三階建ては当たり前。
ハーリンは馬車の上から、足元を見下ろした。
道は大きな石板が噛み合うように敷き詰められている。
自分の家の床でさえ、こんなものはなかった。
***
二階建ての家の前で、馬車は止まった。
「ここだ」
ジューキグはそう言って飛び降り、うめき声を上げながら背中を伸ばす。
ハーリンもそのあとに続いた。
……
扉が開く。
中は真っ暗だった。
「ちょっと待ってて、ハーリン」
ジューキグはそう言って中へ駆け込み、急いでオイルランプに火を灯す。
ハーリンは袋を引きずりながら中へ入り、静かに部屋を見回した。
家は小さい。
自分の家の三分の二ほどの広さしかない。
けれど――
どこか、落ち着く空間だった。
ジューキグは部屋の隅にあるベッドへ駆け寄り、自分の毛布と枕を放り出す。
それから、マットレスの上の埃を丁寧に払って、息で吹き飛ばした。
最後に、腰に手を当てて振り返る。
「ほら。ここがハーリンのベッドだ」
彼は誇らしげに笑った。
「遠慮せず、使っていいからな」
ハーリンはゆっくりと荷物袋をベッドの足元まで引きずる。
毛布と枕を取り出し、慎重にマットレスの上へ広げる。
最後に、魔導書を取り出し、
ベッドに上がって座り込んだ。
身体を丸め、ぎゅっと本を抱きしめたまま。
一言も、口を開かない。
ジューキグは心配そうに頭を掻きながら、その様子を見ていた。
――と、何か思いついたように、近くの本棚へ駆け寄る。
そしてすぐ戻ってきた。
「おお、見てくれ!」
彼は手のひらを開く。
中には、小さな木製の引き馬があった。
ジューキグはそれを差し出す。
ハーリンはそっと触れ、黙ったまま受け取る。
視線は、また遠くへ向いたまま。
手の中で、紐がほどけ、
ベッドの上へ落ちた。
ハーリンはそれを、無言で見下ろす。
ジューキグは固まった。
誇らしげだった笑顔が、顔に貼りついたまま止まる。
何も言わず、彼は再び本棚へ向かった。
今度は、木製のペグ人形を持って戻ってくる。
だが、渡す前に――
じっとそれを点検した。
息を吹きかけ、
シャツで丁寧に拭う。
まるで宝石でも扱うかのように。
「……綺麗だろ?」
前と同じように、
ハーリンは一瞥するだけで、そっと受け取った。
満足できず、ジューキグはまた走る。
――そして、また。
木のおもちゃが、次々と増えていく。
***
やがて、ハーリンの腕では抱えきれないほどの量になった。
彼女はそれらすべてを胸に抱き、
魔導書も一緒に押し込む。
けれど――
姿勢は変わらない。
視線も変わらない。
果てのない空間を見つめるような、遠い目。
「あっ、そうだハーリン!」
ジューキグが急に言った。
「二階に庭があるんだ。すごく綺麗なんだぞ」
「見に行って――」
……
返事はない。
その沈黙に、声がしぼんでいく。
「……よかったら、だけど」
「はは、腹減ったな!」
ジューキグは指を鳴らす。
「ハーリンも、そうだろ?」
答えはない。
それでも彼は、明るく厨房へ向かった。
鍋。
香辛料の袋。
壁の棚に手を伸ばし、開けた瞬間――
ガシャッ! ガラン!
ドンッ。
ジューキグが倒れた。
ハーリンははっと振り向き、目を大きく見開く。
棚は開いたまま、中身が散乱している。
だが――
厨房のカウンターが視界を遮り、
彼女からジューキグの姿は見えなかった。
ハーリンは少しだけ顔を上げ、口を開く。
――息が詰まったように、
音は出なかった。
そのとき、
カウンターの縁に手が現れる。
「くそっ、この棚……!」
ジューキグは起き上がり、
額にできたこぶを押さえた。
一瞬、
ハーリンの瞳に心配の色が走る。
けれど――
ゆっくりと、元の姿勢に戻った。
……
「おい!」
外から鋭い声が飛び込んでくる。
「馬車をちゃんとした場所に停めろ!
さもないと没収するぞ!」
兵士の低く、威圧的な声が家の中に響いた。
「すぐ動かします!」
ジューキグはそう叫び返す。
そしてハーリンを振り返る。
「ここで待ってて、ハーリン。すぐ戻る」
***
外はすっかり暗くなっていた。
家の中を照らすのは、ひとつのオイルランプだけ。
その灯りは、温かな料理の匂いと混じり合っている。
二人は床に並んで座り、夕食をとっていた。
スプーンが触れる音と、かすかな咀嚼音だけが響く。
――沈黙。
***
外では虫の声が鳴き、月は高く昇っていた。
ジューキグは床に大の字になり、いつの間にか眠り込んでいる。
オイルランプは消されずに残されていた。
――ハーリンのために。
木のおもちゃの山と魔導書は、きちんとまとめられ、ベッドの上に置かれている。
夜は、異様なほど静かだった。
それでもハーリンは、
身体を丸めたまま、目を閉じずに座っていた。
そして――
決めてしまったかのように。
ゆっくりと、ベッドから降りる。
風が通り抜けるようにジューキグの横を通り、
足音を立てず、台所へ入った。
カウンターの中を探る。
何かを――探している。
引き出しが、開く。
灯りを受けて、刃が光った。
ハーリンはそれを握る。
ゆっくりと、胸の方へ向ける。
指先が震え、
息が、乱れる。
一度、
大きく息を吸った。
――震えが、少しずつ、止まる。
胸からわずかに離した位置で、刃を構える。
覚悟、というより――
止まれなくなっただけのように。
かすかに、笑った。
前へ。
ヴロォシュ。
……
カラン。
ナイフは弾き飛ばされ、床を転がった。
ハーリンは息を詰まらせ、振り返る。
すぐ隣に、ジューキグが立っていた。
息を切らし、目を大きく見開いて――
不安。
恐怖。
どうして、という顔。
すべてが、そのまま出ていた。
「ハーリン……!」
「――何してるんだ……!」
ハーリンの力が、抜けた。
「……ママに……会いたい……」
「……パパに……会いたい……!」
その言葉が、
ジューキグの胸を、強く打った。
彼は何も言わず、彼女を引き寄せる。
きつく、抱きしめた。
「……大丈夫だ……」
「会いたい……!」
ハーリンは声を上げて泣いた。
ジューキグは目を閉じ、
顔を歪める。
長く息を吐き、
しがみつく彼女を抱えたまま、そっと持ち上げる。
嗚咽。
床のナイフを見ると、
迷いなく蹴り飛ばした。
汚れたものを遠ざけるように――
台所の隅へ。
ゆっくりと、
ハーリンをベッドに戻す。
ジューキグは膝をつき、
彼女と同じ高さまで身を低くした。
ハーリンは、顔を背ける。
「……ハーリン」
「……お前には、俺がいる」
声は、低く、震えていた。
彼の手が、彼女の肩を掴む。
「……生きてるか……?」
揺らすというより、
確かめるように。
ハーリンは、小さく首を振る。
「……生きてない……」
肩の手に、力がこもる。
「……違う……」
……言い聞かせるように。
「……考えてる」
「……話してる」
「……俺の腕、感じてる……」
声は優しいまま、
けれど、必死だった。
「――お前には、もう一度やり直す機会がある!」
……
ハーリンは、ゆっくりと顔を上げる。
涙が、瞳に残ったまま。
「……じゃあ……」
「……どうして……パパとママは……?」
ジューキグは、一瞬だけ俯く。
答えを探すように。
それから、顔を上げた。
「……お前が――」
彼は、もう一度、彼女を軽く揺らす。
言葉が、止まる。
「……きっと……」
「……あの二人は……お前に、生きてほしい……」
視線が、少し逸れた。
……
「……俺も、そう思う……」
「……前に進んでほしい……ハーリン……」
そう言って、
彼女の目を見る。
手のひらで、そっと頬を包む。
「……お前には……まだ、先がある……」
囁くように。
「……待ってるものが、ある……」
手が、離れる。
「……考えてみてくれ……」
ジューキグは、再び床に横になる。
ハーリンは、その背中を黙って見ていた。
そして、その場に残り――
考えの中に、沈んでいった。
— 作者より —
エピソード21を読んでくださってありがとうございます!
彼女は、ユキグが差し出し続けていた温もりを求めていた。
それを受け取れない理由は、自分でも分からなかった。
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