エピソード19: 母の愛(ソングスペシャル)
そこにいないはずの彼女が、
それでもなお、ハーリンを守り続けていた。
静かな夜。
フクロウの鳴き声だけが、闇を破っていた。
ユキグは、台所の近くの床で眠っていた。
冷たい土の床を、軽い足音が滑るように進む。
一つの影が、彼のそばを通り過ぎた。
扉が、かすかに軋みながら開く。
細い隙間から月明かりが差し込んだ。
その青白い光に、ユキグは寝返りを打ったが――
目を覚ますことはなかった。
***
やさしい朝日が、温かな手のようにハーリンの部屋へ差し込み、そっと彼女を起こした。
彼女はゆっくりと目を開け、体を起こす。
「はぁ……〜」
小さく、眠たげなあくびがこぼれる。
ひとしきり伸びをすると、ハーリンはベッドを降り、ぱたぱたと部屋を出た。
居間では、ユキグが妙な格好でいびきをかいていた。
毛布は蹴飛ばされ、枕は頭の下ではなく、腕の下に挟まれ――
まるで絞め殺されかけているようだった。
ハーリンは小さくくすっと笑い、母の部屋へ向かう。
そっと――慎重に――扉を開けた。
「ママ、朝だよ――」
言葉が、途中で途切れた。
ベッドは空だった。
羊毛の毛布は乱れ、枕には――
頭が乗っていた痕跡すらない。
母が、いない。
……そんなはず、ない……
ハーリンは慌ててベッドへ駆け寄る。
毛布を跳ねのけ、枕をひっくり返す。
空っぽ。
……なに……?
呼吸が速くなる。
彼女は振り返り、そのまま居間へ走った。
「ユキグおじさん!」
その切羽詰まった声に、ユキグは飛び起きた。
体を起こし、目をこすりながら言う。
「どうした、ハーリン……?」
「ママが――ママがいないの!」
震える声で、彼女は叫んだ。
「はぁ? なに言って――?!」
「一緒に探して、お願い!」
ハーリンの顔に浮かぶ恐怖を見て、
ユキグは一瞬で立ち上がった。
***
二人は家中をひっくり返した。
声が、家の隅々まで響く。
「メリル!?」
……
「ママ!?」
……
***
ユキグは浴室を探し、次にメリルのベッドの下を覗いた。
ハーリンは台所の戸棚を開け、食卓の下にもぐり込む。
混乱の中――
ユキグとハーリンがぶつかり、二人ともよろめいた。
「す、すま――!」
ユキグが慌てて支える。
「大丈夫!」
ハーリンは即座に答え、彼の手をすり抜けて、また走り出した。
***
母を呼ぶハーリンの声は、次第にかすれていく。
再び家の中を駆け回ったそのとき――
やさしい風が、ユキグの頬をなでた。
彼は、凍りついた。
ゆっくりと、振り返る――
扉が……
庭へ通じる扉が、わずかに開いている。
目を見開き、その場から動けずに見つめる。
「……ま、まさか……」
ユキグは庭へ飛び出した。
「メリル!? メリル!」
それを見て、ハーリンも後を追う。
彼女は必死に探した。
物置を荒らし、木片が小さな手に突き刺さる。
近くの井戸へ駆け寄り、身を乗り出し――
暗闇へ顔を近づけ、覗き込む。
水面は、沈黙で応えた。
深く、底のない闇。
その静けさが、彼女を引き込む。
……ママ……どうして……?
……どうして、隠れてるの……?
……もっと、ちゃんと守ってあげればよかった……
……ごめんね……
ユキグは苛立ちをぶつけるように地面を踏みつけた。
だが、その怒りは、顔に刻まれた不安を隠せない。
「どうしてだ……!?
俺のすぐそばを、通り過ぎたっていうのか……!?」
ハーリンは、なおも井戸の闇を見つめていた。
……ママ……どこにいるの……?
――そのとき。
一つの記憶が、浮かび上がる。
ハーリンは勢いよく顔を上げ、水から離れ、振り返って走り出した。
それを見て、ユキグが叫ぶ。
「ハーリン!? どこへ行くんだ!」
彼女は止まらない。
振り返らない。
答えない。
ユキグは、その場に立ち尽くした。
空が少しずつ明るくなり、
朝の光が、庭をはっきりと照らし出す。
メリルが、時間と愛情を注いできた庭。
――今は。
枯れ果てていた。
もう、時間がない。
ユキグは眉をひそめ、歯を食いしばり、走り出した。
***
土の道を、二人は駆ける。
先を行くのはハーリン。
背後から、ユキグの声が何度も響く――
朝の空気を引き裂くように。
***
鳥がさえずる。
木々が、そよ風に揺れる。
小川が、丸い石の上を静かに流れる。
すべてが……
異様なほど、静かだった。
***
二人は、立ち止まった。
――ドサッ。
ユキグは、小川のそばの砂利に膝をついた。
「……いや……いやだ……」
涙が、頬を伝い落ちる。
そこにいたのは、メリルだった。
水辺に横たわり、微動だにしない。
生気のない顔。
それでも――
死の直前に浮かべたかのような、かすかな微笑み。
胸の上には、テディベア。
冷たくなった両手で、そっと抱かれていた。
大切に――
大切に、抱かれて。
「ごめん……!」
ユキグは泣き叫び、深く頭を下げた。
「もっと……ちゃんと……!」
「俺は……役立たずだ……!」
その隣で、ハーリンは立ち尽くしていた。
顔は青ざめ、頭の中は真っ白。
唇が動く。
けれど、声は出ない。
小さな手が、服を掴み、
何度も、何度も、くしゃくしゃに握りしめる。
ゆっくりと――
彼女の意識は、遠のいていった。
――あのときへ。
***
ハーリンは、両親の部屋の前に立っていた。
喉の奥から嗚咽がこぼれ、涙で視界がにじむ。
テディベアを、胸に強く抱きしめている。
「かわいそうなハーリン……」
メリルの声はやさしかった。
「また、怖い夢に悩まされたの?」
ハーリンは、くすんと鼻を鳴らしながら、軽く首を振る。
「くそっ、悪い夢め!」
扉の向こうから、ヘイルの怒鳴り声が響いた。
天井を指さすようにして、叫ぶ。
「うちの娘に、ちょっかい出すんじゃない!」
メリルは、静かにため息をついた。
「文句ばっかり言ってないで、こっちに来て慰めてあげたら?」
「はぁぁ……」
ヘイルは苛立ったように顔をこすり、
まだ眠そうなままベッドを出て、ハーリンの方へと歩いてきた。
メリルは腰に手を当て、
そのだらしない姿に、明らかに呆れている。
ハーリンは、急いで父の元へ駆け寄った。
「んん……」
ヘイルはハーリンを抱き上げ、
自分の脇に引き寄せる。
「まったく、嫌な夢だな……」
ぼそりと呟く。
「また、ハーリンを困らせたのか?」
ハーリンは、唇を尖らせながら頷いた。
「今、まさにそれを聞いたんだけど」
メリルが、頬をふくらませて小声で言う。
突然、ヘイルはハーリンの腕からテディベアを取り上げた。
目の高さまで持ち上げ、
そのまま叱りつける。
「お前はな、一つの役目のために作られたんだ」
「それすら、まともにできないのか!?」
言いながら、テディベアを前後に振る。
ハーリンは慌てて、小さな手で父の手を押さえた。
「パパ、テディベアを怒らないで」
「この子のせいじゃないよ……」
ヘイルは動きを止め――
やがて、力の抜けた小さな笑いを漏らした。
「結局……」
彼は静かに言う。
「守られてるのは、そっちじゃなくて――
お前の方なんだな」
そう言って、テディベアを返す。
ハーリンはすぐに、それを胸に抱き戻した。
「……うん」
メリルは、夫の肩にそっと手を置いた。
「ハーリンを寝かせてあげて。もう遅いわ」
それを思い出したかのように、
ヘイルは大きくあくびをした。
「……ああ、そうだな……」
やがて、三人は
小さくて窮屈なベッドに、寄り添って横になった。
「ほら、泣かないで……ママはここよ……」
メリルのやさしい歌声が、部屋を満たす。
綿のように、甘く、柔らかく。
ハーリンは母に腕を回し、
メリルの胸に顔をうずめた。
「あなたは、ママの腕の中で――」
メリルは、娘の髪をなでる。
「そして、たとえ――」
ハーリンが顔を上げ、
小さな声で、母の歌に重ねる。
「――お日さまが沈んでも」
メリルは微笑んだ。
「ママは、そばにいるわ。あなたを導くために」
二人の声が重なり、
あたたかく、安心する旋律となる。
「ぐぅ……」
すぐ横から、大きないびきが聞こえた。
ハーリンはくすっと笑い、母を見上げる。
「ママ、パパが歌で寝ちゃったよ!」
メリルは微笑み、
ハーリンの額にキスをした。
「でも――
小さなハーリンは、まだ眠れないの?」
ハーリンは、すぐに目をぎゅっと閉じる。
「すぅ……」
わざとらしい、小さないびき。
メリルはくすっと笑い、
娘をそっと引き寄せた。
***
メリルの墓石は、ヘイルの隣に並んでいた。
陽の光が、強く降り注いでいる。
ハーリンは、その前に立ち、目を伏せていた。
隣には、ジュキグが硬く立ち尽くし、
腹の前で両手を組んでいる。
少し離れた場所から、
女の胸を引き裂くような泣き声が響いた。
「どうして……どうして、こんなに早く逝ってしまったの……!」
女は、息子の墓石にすがりつき、
嗚咽を漏らしながら泣き崩れている。
……
「チッ」
墓掘り人が、鼻で笑った。
ハーリンは、顔を上げた。
「あのハーリンって子は、まるで呪いだな」
「父親も、母親も――」
その呟きは、
ジュキグの鋭い視線によって遮られた。
男は一瞬、体を強張らせ、
それ以上何も言わずに背を向けて立ち去った。
言葉だけが、残る。
それは、
真っ直ぐにハーリンの胸を突き刺した。
……私のせい?
私は……呪い……
ジュキグは、彼女の前に膝をつき、
そっと肩に手を置いた。
「気にするな」
低く、静かな声だった。
「そんなこと、考えなくていい」
「俺がいる」
ハーリンは、ゆっくりと顔を上げ、
叔父を見つめた。
「さあ、帰って荷物をまとめよう、ハーリン」
ジュキグは、姪の手を取る。
二人は並んで、墓地を後にした――
背後には、
なおも消えぬ、女の慟哭を残したまま。
— 作者より —
エピソード19を読んでくださってありがとうございます!
この章でメリルがハーリンに歌った歌は、物語の外にも存在しています。
子守歌としてフルで制作しました。もし聴いてみたい方がいれば:
https://youtu.be/KEbXFzzaNp4
読者の皆さんの感想をいただけると、とても嬉しいです。




