エピソード18: 衝撃の来訪
少なくとも……もう彼女は一人じゃない。
その朝――
「……あーん」
……
いつものように、ハーリンは母に食事を与えていた。
けれど今日は、ハーリンの長く伸びた声に返事はなかった。
スプーンが、メリルの唇に触れる。
……食べて、ママ。
「最近ね、ハーリン、料理がちょっと上手になったんだよ……」
「お芋は、ちゃんと柔らかくなるまで煮ないとだめで……」
「味付けもね、少しずつ味見しながら……」
メリルは反応しない。
「……どうして、ママ……」
ハーリンは、俯いた。
……
ふと、思い出す。
毎日、野菜スープばっかりじゃない。
ママとパパ、いつも料理を変えてくれてた。
「お肉がいい?」
ハーリンは、ぱっと笑顔を作った。
「森で一番おいしいお肉、取ってくるね!」
彼女はスプーンを置き、テーブルから降りた。
テディベアも持たず、本も持たず――
ハーリンは台所へ向かう。
包丁が、光った。
手を伸ばしかけて――止まる。
ごくり。
ハーリンは母を振り返った。
……
テーブルの上の器は、まだ満たされたまま。
かつて赤かったメリルの唇は、今は薄い桜色だ。
ハーリンの目が、きっと鋭くなる。
もう迷わず、包丁を掴み、ズボンの後ろに隠した。
家を出ようとした、その時――
ふと、視線が止まる。
あの果実。
誕生日に、自分が摘んだ果実。
メリルが、ずっと大切にしていた――
しわしわに、萎れていた。
***
やわらかな朝日が、庭を照らす。
かつて色で溢れていた場所は――
今は、くすみ、痩せていた。
ハーリンは、果実を摘んだ木のそばにしゃがみこみ、
小さな穴を掘る。
「……ここだ」
掌の中の果実を見つめ、そっと呟く。
「おうちに、帰っていいよ」
「ハーリン、もうお世話できないから」
静かに、土をかぶせる。
「……ママのお世話、しなきゃだから」
立ち上がり、服についた土を払う。
村が、前に広がっていた。
最後に家を出たのが、いつだったか――思い出せない。
庭の門は、彼女にとって
安全と恐怖を分ける、細い線だった。
深く、息を吸う。
足が、動いた。
***
気づけば、すでに森に辿り着いていた。
ハーリンは木にもたれ、荒い息を整える。
……ちゃんと、走れた……
チチチ……。
振り向く。
近くで、小鳥が地面をつついていた。
呼吸を落とし、
そっと、近づく。
――今だ。
「はっ!」
ドサッ。
地面に叩きつけられ、鳥は飛び去った。
ハーリンは、うつ伏せのまま、泣いた。
……どうやって、ママにごはんあげればいいの……
……
なにか、湿った温もりが手をかすめた。
顔を上げると、
涙に滲む視界の先に――
「……フラッフェ……?」
ウサギが、頬に頭をこすりつけていた。
「フラッフェ!」
ハーリンは起き上がり、強く抱きしめる。
***
やがて、フラッフェはハーリンの膝の上で眠り始めた。
柔らかな毛並みの温もりが、彼女の手のひらに伝わっていた。
……。
ハーリンの指が、止まる。
背筋を、冷たいものが走った。
森が、静かに狭まっていく。
ゆっくり、視線を落とす。
手のひらの下で、フラッフェの確かな鼓動が続いていた。
……いや……
震える手で、背中に隠した包丁を引き抜く。
呼吸が、早くなる。
……ごめんね……
視界が、暗くなった。
最後に感じたのは――
膝の上で、力を失ったフラッフェの重み。
***
家の扉が、きい、と開く。
ハーリンが中へ入る。
服には、赤い染みがいくつも残っていた。
床を引きずられ、ウサギの亡骸が続く。
台所の台に置かれる。
ハーリンは、しばらく動かなかった。
ハーリンは、棚に置かれた
ヘイルがキロッグを捌くために使っていた解体包丁に手を伸ばした。
震える刃が、ウサギに触れる。
ヘイルの素早い手つきとは違い――
一つ一つが、胸を裂くようだった。
***
湯気の立つ鍋が、食卓の中央に置かれる。
メリルの前には、一つの器だけ。
「……あーん」
その声に、かつての温もりはもうなかった。
メリルのものと、変わらない。
***
日は、とうに沈んでいた。
ハーリンにとっては――
さっきから、ずっと闇の中だった。
食卓の上の一本の蝋燭だけが、家を照らす。
メリルは、微動だにしない。
ハーリンは台所の床で膝を抱え、うずくまる。
鍋は冷え、
残っているのは、彼女の分だけ。
ぐぅ……
腹が鳴る。
鍋を見る。
ためらう。
ぐぅ……
ごくり。
……
すぐに椅子に登り、引き下ろした。
スプーンも、フォークも、柄杓もない。
素手で掴み、
獣のように口へ押し込む。
外で、足音。
ゆっくり。
遠くから。
庭のほうから。
扉の前で、止まる。
コン、コン、コン。
ハーリンは凍りつく。
手の甲で口を拭き、
包丁を取る。
慎重に、扉へ近づき、
覗く。
若い男が立っていた。
二十歳そこそこ。
闇の中でも、鮮やかな青髪が目立つ。
彼は、微笑んだ。
「ハーリン、だよね?」
「……誰」
男は軽く笑う。
「母さんから聞いてないかもしれないけど……」
「俺、叔父だ」
ハーリンは答えず、入れもしない。
じっと、観察する。
男は瞬いた。
「……警戒心、強いな」
「メリルそっくりだ」
彼女の目が、細くなる。
「……あ、えっと」
「俺は、メリルの弟。ユキグだ」
少し考え、
ハーリンは包丁を棚に戻す。
扉を開け――
そのまま、角へ戻って食べ続けた。
ユキグは呆然とする。
「……なんで、お母さんと一緒に食べないんだ?」
返事はない。
彼はメリルの肩に手を置く。
「姉さん……何か言わないのか?」
「……手で食べてるぞ」
メリルは反応しない。
気に留めず、ユキグは呼びかける。
「ヘイル?いるのか?」
「久しぶりに来たんだが」
返事はない。
再び、メリルを揺する。
「姉さん、ヘイルは?」
……無言。
もう一度。
「姉さん?」
「……無理だよ、叔父さん……」
小さな声。
「やっても……動かない……」
ユキグの笑顔が、消えた。
彼はメリルの方を振り返った。
「ハーリンに、何かあったのか?」
「……メリル?」
……
「メリル?!」
今度は、強く揺する。
それでも――
彼女は、丸太のように動かない。
嫌な予感が、胸を締めつける。
「メリル!」
立たせる。
……
虚ろな瞳。
冷たい顔。
知っている姉では、なかった。
「……メリル……?」
彼は叫ぶ。
「ヘイル!!」
返るのは、自分の声だけ。
彼は勢いよくハーリンの方を振り向いた。
「ハーリン!父さんはどこだ?!」
声は震えていた。
「……メリルに、何があったんだ?!」
ハーリンは、さらに身を縮める。
「……わからない……」
***
蝋燭の光が、食卓を照らす。
向かい合って座る、ハーリンとユキグ。
メリルは、主の席で、像のように動かない。
ハーリンは、叔父を見る。
ユキグは、顔を覆った。
時折、嗚咽が漏れる。
長い沈黙の後――
「……ハーリン」
掠れた声。
「俺は……裕福じゃない」
「だから、選択肢は二つだ」
ハーリンは聞く。
「一つ目。俺が、お前と母さんを引き取る」
飲み込む。
「その代わり、この家は売る」
ハーリンの目が、大きく開く。
「二つ目。家は残す」
声が震える。
「俺は、ここにはいない。
でも、生活用品は毎月送る」
「いや!!」
ハーリンは腕を叩きつける。
「二番がいい!!」
「家、取らないで!!」
涙が溢れる。
ユキグは目を閉じた。
「……わかった」
ハーリンは母を見る。
蝋燭の光が、無表情な顔を撫でる。
「ママ……」
声が震える。
「寝る時間だよ」
涙を拭い、手を取る。
ユキグは、席を立たなかった。
***
ベッドまで、引いていく。
「誰にも、家は取らせない」
布団をかける。
「……もう、失いたくない……」
テディベアを、メリルの胸に置く。
「ママを、守って」
最後に、抱きしめる。
「おやすみ、ママ」
……
— 作者より —
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