エピソード17: 昔みたいに
必要なものは、すべてそこにある。
あとは、それを思い出すだけだ。
鍋の中で、湯が静かにごぼごぼと音を立てていた。
ハーリンは踏み台の上に立ち、やっとコンロに手が届く高さだった。
――トン。
――トン。
――トン。
集中した表情で、にんじんを切る。
包丁の動きは遅く、
切り口は……不揃いだった。
「いたっ——」
包丁が床に落ち、カランと音を立てた。
ハーリンは慌てて手を引っ込める。
指に細い切り傷が走り、
赤い血が滲み、ぽたりと落ちた。
反射的に、振り返る。
「……ママ……」
……
彼女は俯いた。
ゆっくりと、再びコンロの方へ向き直る。
ハーリンは出血している指を口に含み、一度鼻をすすったあと、包丁を拾い上げた。
――トン。
――トン。
***
食卓の上には、鍋が置かれていた。
……正確には、
野菜が浮かんだ熱いお湯の鍋、だった。
ハーリンはまず母の分をよそい、
次に自分の分をよそう。
「いただきます、ママ!」
明るく言って、スプーンを持ち上げた。
ズズッ——
……
スプーンが口の中で止まる。
顔が歪んだ。
ハーリンは無理やり、じゃがいもを噛む。
ごくん。
……
「ひっ……ひっ……」
一気に込み上げた嗚咽に、呼吸が詰まる。
彼女は必死に、横に置いてあったコップへ手を伸ばした。
ごくん。
ごくん。
喉の奥の熱い塊を飲み込んでから、ハーリンは顔を横に向けた。
メリルは動いていなかった。
スプーンには、まだ触れていない。
器の中身も、そのままだった。
……ママ、どうして食べないの……?
はっとする。
「あ……そっか。ごめんね、ママ……」
ハーリンは母の器を自分の方へ引き寄せた。
そして、スプーンで野菜を力いっぱい潰し、
どろどろになるまで混ぜた。
そして、また器を押し戻した。
「はい!」
ハーリンは誇らしげに言う。
「これなら、もう喉に詰まらないよ!」
……変わらない。
虚ろな表情。
動かない体。
ハーリンは眉をひそめ、考え込んだ。
……もしかして……
……ママ、お腹が空きすぎて、自分で食べられないのかも!
彼女は首を傾げ、にっこり笑う。
「大丈夫だよ、ママ。ハーリンが食べさせてあげる!」
スプーンを差し出すが——
「んんっ……」
腕が、届かない。
ハーリンは止まった。
迷いなく、食器を脇に押しやり、机の上によじ登る。
今度は、スプーンがメリルの唇のすぐ前に来た。
……それでも、反応はない。
「……ママ……お願い……食べて……」
声が、震える。
ハーリンは俯いた。
……そして——
「あ。」
顔を上げる。
「あーん」
ハーリンは大きく口を開け、見本を見せた。
ゆっくりと——
奇跡のように——
メリルの淡い桃色の唇が、わずかに開いた。
真似をするように。
「……あ。」
ハーリンは固まった。
そして、満面の笑みを浮かべる。
「あーん」
小さく鼻歌を歌いながら、
スプーンをそっと、母の口へ運ぶ。
それを見届けてから、
ハーリンは自分の口を閉じた。
「んむ……」
ごくん。
***
外の空は、橙色に染まっていた。
シャッ、シャッ。
ハーリンは床を丁寧に掃いていた。
……
すると——
箒の近くの床に、薄黄色の水たまりが広がった。
息を呑む。
その跡は、メリルへと続いていた。
「……ママ……」
……どうして、言ってくれなかったの……?
ハーリンはそっと母を支え、浴室へと導いた。
***
湯気が、空気の中を漂う。
ハーリンはびしょ濡れで立っていた。
水を含んだ袖が、ずっしりと重い。
目の前では、メリルが小さな木の風呂に身を丸めて座っている。
ごしごし。
ごしごし。
ハーリンは真剣な顔で、母の髪を洗う。
集中しすぎて、舌が少しだけ外に出ていた。
ハーレの声が、頭の中で響く。
まずは後ろ。
次は、うなじ。
耳の後ろも忘れるな。
小さな手が、優しく髪をすべる。
……
そして、一番大事なところ——
ハーリンは、ぎゅうぎゅうの浴槽に一緒に入り込んだ。
母の顔を間近で見つめ、静かに見惚れる。
……前髪。
少し考え、
彼女は真剣な顔で、こくりと頷いた。
***
居間は、炉の火だけに照らされていた。
メリルは机の前に座り、
ハーリンはその近くで、うつ伏せになって本を読んでいる。
小さなあくびが漏れた。
……でも、それはハーリンのものじゃない。
「そうだね、ママ」
彼女は小さく笑って言った。
「もう寝る時間だね」
本をすぐに閉じ、立ち上がる。
***
ハーリンは、そっと布団をかける。
メリルは天井を見つめたまま、
遠くを見ているようだった。
突然、ハーリンは母に抱きついた。
「……ママ……諦めないで」
胸に顔を押し付ける。
「まだ、そこにいるって……わかってる」
「頑張らなきゃ」
声が震える。
「……一緒に、なんとかしよう……」
— 作者より —
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真実は痛い。
残酷な世界は、誰一人として見逃してはくれない。
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