エピソード15:ママ……大丈夫だよね。
父親の役割は、メリルにとってあまりにも重すぎた。
それが「力」で生きる村の中では、なおさらだった。
家の中は、また静まり返っていた。
穏やかな静けさではない――
何かを、待ち続けるような静けさ。
ハーリンは窓辺に座り、膝の上に閉じた本を置いたまま、
少しずつ暗くなっていく空を見つめていた。
隣では、一本の蝋燭が静かに燃えている。
暗くなったから灯したわけじゃない。
灯さないままでいるのが――なぜか、いけない気がしたから。
夕食は、もう冷えていた。
***
鍵が回ったのは、それからずいぶん後だった。
その音を聞いた時、ハーリンはもう半分眠りかけていた。
金属が擦れる、かすかな音。
いつもより、遅くて、重い。
彼女は飛び起きる。
「マ……ママ?」
ドアが開く。
メリルが中へ入ってきた。
肩は落ち、微笑みは――ほんの一拍、遅れて浮かぶ。
「ただいま」
軽い調子で、そう言った。
ハーリンは駆け寄り、ぶつかる寸前で足を止める。
近くで感じた母の匂いは、どこか違っていた。
嫌な匂いじゃない。ただ……知らない匂い。
メリルは靴を脱ぎながら、わずかによろめいた。
「ごはん、残してあるよ」
ハーリンは慌てて言う。
メリルは瞬きをする。
「え……そうなの?」
こめかみを押さえ、くすっと笑った。
「無理しなくてよかったのに……」
ハーリンは答えなかった。
もう水を取りに行っていた。
***
二人は食卓についたけれど、メリルはほとんど口をつけなかった。
スプーンで料理をかき混ぜるだけで、視線は定まらない。
そして、突然――笑った。
「ねえ……」
「あなたのお父さんが、どれだけ頑固だったか……話したことあったかしら?」
ハーリンは、少し照れたように微笑む。
メリルはもう一度笑い――そして、ぴたりと止まり、額に手を当てた。
「……ごめんね」
小さく、そう呟く。
「ちょっと……疲れてるだけ」
ハーリンは何も言わず、じっと母を見つめていた。
***
その夜、ハーリンは布団の中で目を閉じられずにいた。
家が、きしりと鳴る。
蝋燭の灯りが、ふっと消える。
隣の部屋から――咳の音。
短く、抑えたような咳。
誰かに、聞かれたくないみたいな。
ハーリンは体を起こす。
……待つ。
やがて、音は止んだ。
彼女は再び横になり、布団を顎まで引き上げる。
天井を見つめたまま、果てしない闇の中で、目が痛くなるまで。
***
次の夜、メリルの帰りは、さらに遅かった。
コートも脱がず、食卓にも寄らず、
そのままベッドの端に腰を下ろす。
目を閉じ、ゆっくりと呼吸をしている。
顔には、はっきりとした痣。
両手は、小さく震えていた。
「ハーリン……」
しばらくしてから、優しい声で言う。
「もし今夜、ママが早く寝ちゃっても……いいよね?」
ハーリンは、すぐに大きく頷いた。
「静かにするよ」
「残したごはんも、全部食べるから!」
メリルは微笑み、手を伸ばしてハーリンの髪を撫でる。
――その指先が、ほんの少しだけ、震えた。
「明日は、休むから」
そう、約束するように言った。
ハーリンは、その言葉を――
壊れない“何か”みたいに、胸に強く抱きしめた。
***
その夜、ハーリンは眠れなかった。
壁越しに、母の呼吸を数える。
一つ。
二つ。
三つ。
……
いつ眠りに落ちたのか、彼女にはわからなかった。
— 作者より —
エピソード15を読んでくださってありがとうございます!
私たちは、少しずつ彼女を失っている……。
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