エピソード14: ゆっくりしな、ハーリン……
扉のない家、柱のない住まい。
いつ崩れてしまっても、おかしくはない。
夕暮れが近づき、空はやわらかな橙色に染まっていた。
その色は、少しずつ薄れていく。
ハーリンは居間で、本を膝に乗せて座っていた。
その時——
コン、コン、コン。
突然、家中にノックの音が響いた。
ハーリンは勢いよく立ち上がり、顔を輝かせながら扉へ駆け寄る。
そして、勢いよく開いた。
「ママ——!」
言葉が、喉で止まった。
そこに立っていたのは、母ではなかった。
大柄で、肩幅の広い男。
その影が、扉口いっぱいに伸びている。
ハーリンは、思わず足を止めた。
「……あの、どなたですか?」
男の視線が、彼女の体をなぞる。
少し、長すぎる。
「母親は、家にいるか?」
「……い、いえ……」
ハーリンは小さく答えた。
「チッ——もうかよ……」
男は独り言のように呟く。
そして、彼女の肩越しに家の中を覗き込んだ。
「……他に、誰もいないのか?」
ハーリンは喉を鳴らす。
「……いません……」
次の瞬間——
男の腕が振り抜かれた。
ドン——
突き飛ばされ、冷たい床が背中に叩きつけられる。
考える間もなかった。
男はその場に立ち、扉口を塞いだまま、静かに言う。
「馬鹿な真似はするな」
ハーリンの手が震えた。
息が、短く浅くなる。
彼女は、ゆっくりと立ち上がる。
片腕を上げ——男の頭へ向けて。
フゥ……
小さな風が生まれた。
……ただ、男の服をわずかに揺らすだけの。
男の声が、低くなる。
「……メリルのこと、大事か?」
ハーリンの動きが止まった。
男は続ける。
「抵抗を続けるなら……母親は、もう帰ってこないぞ」
息が詰まる。
上げていた腕が、力なく下がった。
男は、満足そうに笑う。
「いい子だ」
鈍い音を立てて、扉が閉まった。
***
月明かりが、小さな窓から差し込んでいる。
男は、もういない。
そこに残っていたのは——小さな影だけ。
ハーリンは、台所の床で膝を抱え、うずくまっていた。
落とした魔導書が、近くに開いたまま転がっている。
……ずっと、そうしていた。
カチャリ、と鍵の音がして、我に返る。
扉が開く。
「ハーリン……?」
メリルの声だった。
ハーリンは顔を上げる。
次の瞬間、立ち上がって駆け寄り、母の脚にしがみつく。
「……無事でよかった!」
メリルは驚き、目を瞬かせたあと、膝をついて娘の頬を包んだ。
「私は、いつも無事よ——」
ハーリンは、少し早すぎる笑顔を浮かべる。
「追い払ったよ」
その言葉に、メリルは違和感を覚えた。
「……ハーリン、何があったの?」
娘の腕に残る、かすかな痕。
不揃いな、いくつもの跡。
メリルの手が震え、表情が崩れる。
「……ごめんなさい……」
彼女は囁くように言い、強く抱きしめた。
「ごめんなさい……」
止まることなく、何度も娘の髪を撫でる。
離してしまうのが、怖いかのように。
ハーリンも、同じ強さで抱き返した。
笑顔は、そのまま——
静かな涙が、頬を伝っても。
「……ママ……」
小さく、囁く。
「……パパに、会いたい……」
— 作者より —
エピソード14を読んでくださってありがとうございます!
ひとつの教訓……
あまりにも早すぎた教訓。
読者の皆さんの感想をいただけると、とても嬉しいです。




