エピソード12: こわい……
その朝、世界から、色と声がそっと遠ざかっていた。
その朝――
家には、朝日が差し込む音だけがあった。
そこにいたのは、ハーリン一人だけ。
何もかもが、いつもと違って見えた。
見慣れたはずの家が、どこかよそよそしい。
隅には、ヘイルの剣が静かに置かれている。
けれど、メリルの姿はどこにもなかった。
ふと、食べ物の匂いが鼻をくすぐる。
食卓の上には、まだ温かい朝食が用意されていた。
胸の奥が重くなるのを感じながら、
ハーリンは椅子に腰を下ろす。
そのとき、スープの器の横に置かれた一枚の紙に気づいた――
ゆっくりと、それを開く。
***
ハーリンへ。
ちゃんと朝ごはんを食べてね。
お昼ごはんも用意してあるから、お鍋から気をつけて運ぶこと。
ママは外で食べるから、ハーリンはちゃんと全部食べるのよ。
すぐ帰るからね。
愛してる。
***
……
その瞬間、
ぽつり、ぽつりと涙が紙の上に落ちた。
そこにはすでに、乾いた古い涙の跡が残っていた。
ハーリンは震える手で手紙を握りしめ、
もう一方の手で、何度も涙をぬぐった。
***
家の中は、あまりにも静かで、暗かった。
食事を終えると、
ハーリンは外に出ることにした。
今回は、テディベアと、
お母さんの魔法の本を持って。
それから――
もう帰らないかのように、
お腹がすいたとき用のニンジンも袋に詰めた。
***
どこへ行っても、
人々の視線が突き刺さる。
その目には、哀れみが浮かんでいた。
……知ってる。
……パパが死んだことくらい。
……見るの、やめてよ。
その視線が、
あの日の記憶を何度も引きずり出す。
もう、耐えられなかった。
ハーリンは走った。
どんどん、速く――森へ向かって。
涙が頬を伝い、
テディベアと魔法の本を胸に抱きしめたまま、
足だけが前へ前へと進んでいく。
***
やがて辿り着いたのは――
彼女が、まだ「家」と呼べる唯一の場所。
木々の隙間から、やさしい光が差し込む。
森の歌声が、彼女を包み込んだ。
すべてが……静かだった。
穏やかで、何も変わらないように。
ハーリンは木の幹にもたれ、
小さな声で、本を読み上げる。
腕の横には、テディベア。
彼女に寄り添うように座っている。
敵の動きが速すぎたため、
フィルシは新たな方法を考え出した。
より正確な方法を。
――それが、魔法陣の誕生である。
この本は面白かった。
どの魔法にも、その誕生の物語が書かれている。
ハーリンは、
呪文そのものよりも、
その物語を読むほうが好きだった。
***
突然――
小さな気配が近づいてきた。
ハーリンは手を上げる。
「こ、これ以上近づかないで……
ま、魔法、使えるから……」
声は、かすかに震えていた。
現れたのは、
かつて彼女が助けた、あの白いウサギ。
その後ろから、
雪玉みたいな小さな白い子ウサギが三匹、
母親の影から顔をのぞかせる。
それを見ると、
ハーリンは慌てて袋を探り、ニンジンを取り出した。
ゆっくりと差し出す。
ウサギはそれを受け取り、
子どもたちの前に落とした。
小さな口で、夢中になってかじり始める。
ハーリンは微笑みながら、
そっとウサギの頭を撫で、
「フラッフィーって名前にしよう」
と呟いて、また本に戻った。
ウサギたちは離れなかった。
母ウサギは彼女の隣に横たわり、
子ウサギたちは、彼女によじ登ってくる。
***
日が傾き始めた。
ハーリンは急いで家へ向かう。
――お母さん、もう帰ってるよね。
けれど、近づくにつれて気づく。
家は、真っ暗だった。
中へ入り、
近くのろうそくに魔法で火を灯す。
***
ハーリンは台所で、
身体を丸めて座り続けた。
待って、待って――
夜はすっかり更けていた。
近所の家々の灯りも消え、
皆、眠りについたのだろう。
ろうそくは、ほとんど燃え尽きそうだった。
けれど、ハーリンは眠らなかった。
ただ、待ち続けた。
……ママ、どうしたんだろう。
……探しに行ったほうがいいのかな。
……もし、見つけられなかったら……
……ひとりで生きるの、いやだ。
涙が、あふれ出す。
そのとき――
庭から、足音が聞こえた。
ハーリンは慌てて涙をぬぐい、
踏み台に乗って、窓の外をのぞく。
――いた。
メリルだった。
扉がきしりと開く。
台所で不安そうにこちらを見ている娘の姿に、
メリルは思わず、くすっと笑った。
「ただいま、ハーリン」
父と同じような、
疲れているのに、無理に明るく振る舞う笑顔が、
今は母の顔に浮かんでいた。
ハーリンは駆け寄り、
消えてしまうのが怖いかのように、
メリルの足にしがみつく。
「ちょっと、動けないわ」
メリルは小さく笑いながら、娘を抱き上げた。
髪をそっとかき上げ、
赤く腫れた目に気づく。
「どうしてこんなに遅くまで起きてたの?
ママを待ってたの?」
ハーリンは、こくりとうなずく。
「……帰ってこないんじゃないかって、怖くて――」
「あらあら……」
メリルは彼女を寝室へ運ぶ。
布団に寝かせ、
額にキスをして、微笑んだ。
「ママは、いつもあなたのそばにいるわ。
心配しなくていいのよ」
「おやすみ」
— 作者より —
エピソード12を読んでくださってありがとうございます!
少し前までは、こんなじゃなかった。
早すぎる……これは、夢なの?
読者の皆さんの感想をいただけると、とても嬉しいです。




