エピソード10: 嵐の前の雪
何かが違う……世界そのものが霧に包まれているようだった。
その夜は、もう遅かった。
ハーリンと母は、とっくに家に戻っていた。
ハーリンは自分の部屋で静かに本を読み、
母は外で食器を洗っている。
夕食はすでに終わっている。
食卓に残っているのは、
ヘイルの分だけだった。
――まだ、帰ってきていない。
こんなに遅いのは、初めてだった。
カチャ――
玄関の向こうから、聞き慣れた声がした。
「……ただいま」
メリルは振り返らず、皿を洗い続ける。
「今日は遅かったわね。
冷める前に、早く座って食べなさい」
その声を聞いた瞬間、
ハーリンの耳がぴくりと動いた。
彼女は勢いよく立ち上がり、部屋を飛び出す。
「パパ!」
いつものように、
ヘイルは傷だらけで帰ってきた。
――けれど、今回は違う。
表情が暗い。
どこか遠くを見ているようで、
傷もいつもより深く、血が滲んでいた。
それでも、ハーリンは駆け寄った。
ヘイルは彼女を抱き上げ、
無理に笑みを浮かべる。
……けれど、その心は、
まるで別の場所にあるようだった。
父が疲れていること、
傷ついていることを、
ハーリンはちゃんと分かっていた。
彼が彼女を下ろすと、
ハーリンはそっと手を取り、
食卓へと導く。
彼女は父のお腹に手を当て、
目を閉じた。
ゆっくりと、
淡い緑の糸が現れ、
傷に絡みついていく。
――そして、消えた。
癒えた。
ハーリンは目を開け、
父の手を取り、
自分の頬に押し当てる。
「パパ、早く食べて。
まだあったかいよ!」
ヘイルは彼女の頭を撫でた。
「ありがとう、ハーリン」
それを聞いてから、
彼女は部屋へ戻り、
また本を読み始めた。
ヘイルは椅子に深く沈み込む。
スプーンで食事をすくったが――
口には運ばなかった。
ただ、じっとそれを見つめている。
メリルは気づいた。
彼女は皿洗いをやめ、
手を拭き、
彼の方へ向く。
「……今日の仕事、
大変だったの?」
ヘイルは一瞬、言葉に詰まる。
「……ゴブリンの洞窟が――」
その瞬間、
メリルの表情が一変した。
彼女は手を食卓に叩きつける。
「もう話したでしょう!?
あの洞窟には近づかないって、
約束したはずよ!」
声が震えていた。
「ゴブリンは、
執念深いのよ!」
ヘイルは勢いよく立ち上がる。
「中に人がいたんだ、メリル。
生きてる人間が!」
「十数人もの若い娘たちが、
攫われて、
長い間虐げられて……
自分が誰かも、分からなくなるほどだ!」
沈黙が落ちた。
「君だって、
昔は人の命を大切にしてた」
ヘイルは静かに言う。
「俺を助けるために、
死にかけたこともあったじゃないか」
メリルは拳を強く握る。
「……私たち、
この平穏な生活を手に入れるまで、
どれだけ時間がかかったと思ってるの」
涙が、こぼれ落ちる。
「ハーリンを授かるまで、
どれだけ……」
声が途切れた。
「やっと……
休めるようになったのよ」
彼女は顔を上げ、
目を赤くしたヘイルを見る。
「別の仕事を探して。
あなたが冒険者を愛してるのは、分かってる。
……私も、そうだったから」
「でも、それくらいの犠牲でいいじゃない」
一瞬、声が詰まる。
「ただ、
幸せでいたいの。
安全に」
涙は、音もなく落ち続けた。
ヘイルの手が、
反射的に伸びる。
――だが、
触れる前に、
彼女は背を向けた。
拒絶。
宙に残された彼の手は、
やがて、
ゆっくりと握りしめられる。
長い沈黙の後――
ヘイルは頭を下げた。
「……すまない」
掠れた声だった。
「俺が、子どもだった」
メリルは振り返る。
まだ、怒りを残したまま。
ヘイルは続けた。
「明日から、
冒険者はやめる。
約束する」
「……別の仕事を、探すよ」
その時――
ハーリンは、
部屋の扉の前に立っていた。
すべて、聞いていた。
それでも――
何かが、腑に落ちなかった。
ただの任務なら、
どうしてパパは、
あんな顔をしていたの?
どうしてママは、
あんなに怒っていたの?
……傷のせい?
ゴブリン……。
彼女は一歩、外へ出た。
「パパ……
今日、何かあったの?」
「どうして、そんなに悲しそうなの?」
両親が、彼女を見る。
メリルの動きが止まった。
――正しい質問だ。
そう、彼女は気づいた。
メリルはヘイルを見る。
その目には、
静かな哀れみが宿っていた。
ヘイルは重く腰を下ろし、
酒杯を持ち上げ、
ゆっくりと一口飲む。
「……ゴブリンの王を、
逃がしてしまった」
「……え?」
メリルの声が、揺れる。
ヘイルは続けた。
「ゴブリンの巣を潰すには、
王を殺さなきゃならない」
彼は食卓を叩いた。
「一番近くにいたのは、俺だった。
止められたのは、俺だけだった!」
「……でも、
できなかった」
その瞬間、
ハーリンが駆け寄り、
彼を強く抱きしめた。
「そんなの、関係ない!」
彼女は父の胸に顔を埋める。
「パパは、
私が知ってる中で、
一番強い人だよ!」
メリルも歩み寄り、
彼を包み込む。
「……それでいいの」
彼女は静かに言った。
「生きて、
帰ってきてくれた」
— 作者より —
エピソード10を読んでくださってありがとうございます!
何が待っているのかは、もう分かっていた。それでも、痛みは消えなかった……。
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