教室
翌朝8時過ぎ。純平は眠い目をこすり、欠伸を噛み殺しながら、再び梓が宿泊するホテルに来ていた。
ロビーでしばらく待っていると、エレベーターから梓がキャリーケースを引いて下りてくる。その背中にはバイオリンケースも背負っていた。
「おはよう、梓」
「おはよう、純平くん」
純平は梓のキャリーケースを預かり、梓はチェックアウトの手続きのためフロントへ向かった。
そこで純平のスマホの着信が鳴る。相手は花純からだった。
「おはようございます、花純先生」
『おはよう純平。今どこにいる?』
「今ですか? 梓を迎えにホテルに来てますけど・・・」
『迎えに・・・? まあ、いいや。とりあえず一緒にいるんだね?』
「はい。それがどうかしましたか?」
『今日、そっちに行くから、梓も一緒に教室で待ってて欲しいんだ』
「あー・・・はい、わかりました」
『それじゃあ、またあとで』
花純は手短に用件だけ話すとすぐに電話を切ってしまった。
「純平くん、お待たせ」
「ん・・・ああ、行こうか」
それから二人はホテルで待機しているタクシーに乗り、そのままバイオリン教室へと向かった。
純平はタクシーの中で花純からの電話の内容を話すと、梓は花純と会えることを喜ぶ。
「そういえば梓、征司さんとか真純さんに挨拶しなくてよかったのか?」
真純とライナーは、今日の夜の便でドイツに帰ることになっていた。
征司は年末に帰省したら会えるものの、真純には簡単に会えるわけではない。
純平が心配して聞くと、なぜか梓は唇を尖らせる。
「私もそう思って、朝から電話したのよ? そしたら二人とも全然電話に出ないし、ライナーさんなんて電源が入ってなかったのよ⁉ なんなのあの人達⁉ 一体どれだけ飲んだのよっ」
と、かなりのお怒りモードだった。
でも、その怒っている顔も可愛く見えた純平は、梓の頭をよしよしと撫で、肩を抱き寄せる。純平の溺愛も相当なものだ。
20分後、タクシーは3階建てのビルの前に横付けして止まる。
純平が働くバイオリン教室は、このビルの2階1フロアすべてが教室になっている。1階は焼き立てパンが美味しいベーカリーショップと駐車場になっていて、3階は1フロアすべてが住居となっているようだが、純平が働きだした頃にはすでに空き家になっていた。
ビルには小さいながらもエレベーターが完備されているため、午前中の特に高齢者の生徒から大変喜ばれていた。いつもなら階段でさっさと2階に上がるが、今日は梓の荷物があるので、エレベーターを利用して上がってきた。
「はい、どうぞ」
ガラスの観音開きになっている右側の扉を開き、純平は梓を中へ入るよう促す。
「おじゃまします・・・」
靴を脱ぎ、スリッパに履き替え中へ入る。
このバイオリン教室には、個人レッスン用の部屋が3部屋、グループレッスン向けの大部屋が2部屋ある。
午前中は主にグループレッスン。午後は小学生から高校生を中心に個人レッスンと、純平は目まぐるしい毎日を過ごしていた。
受付パートの町田は、午後4時からの勤務になっているため、それまでは基本的に純平が一人で切り盛りしている。
教室の入り口を入って突き当りに、純平や町田が休憩するための部屋がある。そこには貴重品を置くロッカー、流し台、テーブル、イスなどが配置されていた。
「梓、俺はいろいろ準備があるから、よかったら個人レッスンの部屋でバイオリン弾いてもいいし、裏で休んでもいいし、自由にしてて」
「何か手伝えることある?」
「いや、大丈夫。俺のルーティンみたいなものだから」
「うん、わかった。何かあったら言ってね」
そう言ってニコッと純平に笑顔を向ける梓を見て、純平は思わずぎゅうっと抱きしめる。
「はぁー・・・ここに梓がいる・・・俺、実はまだ夢じゃないかって思ってるんだ」
「夢じゃないよ純平くん。私はちゃんとここにいるよ」
「うん・・・・・・」
純平は梓の首元に顔を埋め、ひとしきり堪能すると、やっと解放して仕事に取り掛かかった。
☆☆☆
「おはようございまーす」
10時になろうとする頃、教室の入り口が賑やかな声と同時に開かれ、30代から40代の主婦らしき女性が4人入ってきた。
受付の椅子に座って音楽雑誌を読んでいた梓は、その御一行様を見てどうしようと焦ってしまう。
「えーっと・・・どちら様ですか?」
主婦の1人が、受付に座っている梓に戸惑いながら声を掛けてきた。
「あっ、あの、私・・・」
「みなさん、おはようございます!」
梓が挨拶をしようとした時、奥にいた純平が声を掛けてきた。
「あっ、先生おはようございます」
「夏見先生、この美人さんはどなた?」
奥様たちは梓に興味津々だ。
「彼女は遠山梓さんといって、花純先生の姪御さんで・・・僕の大切な人です」
純平が紹介すると、急に奥様たちの目の色が変わる。
「やーだー! 夏見先生っ。いい男なのに全然女っ気がないから、もしかして男性の方が好きなのかしらってみんなで噂していたんですけど、やっぱり美人な彼女がいるんじゃないですかー!」
「私、夏見先生のこと割と本気で狙ってたのにぃー。ざんねーん」
「あら、長谷川さん、そんなのみんな狙ってるわよー。2丁目の大山さんなんて、娘と見合いさせるって写真まで準備して張り切っていたのに、彼女がいるなんて知ったらショックでしょうねぇ・・・」
「それを言ったら、佐久間呉服店の佐久間さんは孫の婿にするって息巻いて、そのお孫さんの奈那ちゃんも乗り気で、先月からわざわざこの教室に通い始めたじゃない。確かこの後のレッスンでしょ? 大丈夫かしら・・・」
その後も4人の主婦のおしゃべりは止まらない。そして明日には、この教室に通う全ての主婦に梓の存在が知られているなんて、純平は想像もしていなかった。
「ほら、みなさん、もう時間なので準備してください」
「えぇー・・・今日は先生たちの馴れ初めを聞きたいのにぃー」
「まぁ、それはまた次の機会に。はいはい、始めますよ」
主婦たちをなんとか部屋に押し込んだ純平は、やれやれという顔で受付に戻る。するとそこには、ほっぺたを膨らませた梓がいた。
「梓・・・?」
「・・・・・・相変わらずモテモテですこと」
梓は、自分が可愛げのないことを言っていることは理解しているが、それでもあんな話を聞いた後なので、言わずにはいられない。
そして純平は純平で、ヤキモチを焼いてほっぺを膨らませている梓が可愛くてしょうがなかった。
純平は膨らんだ梓の頬に優しく手を添え、耳元で囁く。
「梓、俺には梓だけだよ」
「・・・・・・本当に?」
「うん、ホント。しかもかなり重たいくらい」
「知ってる」
そうして二人の顔が近づいた時「きゃっ」「しぃーっ」という声が後ろから聞こえ、純平の動きが止まった。
「またお預けだね」
「・・・・・・続きは今夜、絶対するからな。レッスン行ってくる」
純平は梓の頬をスルッと撫でると、後ろ髪をグイグイ引っ張られつつも、自分のバイオリンを持ってレッスン室へと入る。
それから主婦たちが帰った後もレッスンは続いていく。生徒が入れ替わる度にみんな梓に興味を持ち、その都度純平は「大切な人」だと言って紹介していた。
それを聞かされた2丁目の大山さん、佐久間呉服店の佐久間さん、そして孫の奈那がショックを受けて帰っていったことは言うまでもない。
梓は梓で、純平が沢山の生徒を教えていることに驚くと同時に、自分と一緒にいなかった10年間の間、ひたすらバイオリンと向き合っていたんだなと、尊敬の眼差しを向けていた。
昼の1時になり、午前中の生徒が全員帰ったところで、純平はやっと一息つく。
「お昼を買いに下のパン屋さんに行くけど、一緒に行く?」
純平はお昼を下のベーカリーショップで買うことが多く、梓を誘う。梓も朝見た時から気になっていたので、それについて行くことにした。
店に入ると、焼き立てパンの香ばしくていい匂いが鼻に抜ける。
「いらっしゃい先生。・・・・・・おや? 先生、もしかして彼女?」
「あははっ、まぁ・・・」
店頭にいたのは水色のボーダーシャツの上に白いエプロンを着た男性で、この店のオーナーだった。元々柔道家だったのだが、趣味が高じて引退を機に店を開くと、あっという間に人気店となり、夕方には全て完売するほどだ。
いつも一人で買いに来る純平が梓を連れてきたので、オーナーも梓のことをまじまじと見ていた。
「初めまして。遠山梓と言います」
「オーナー、梓はずっとドイツにいたんですよ」
「へぇっ、ドイツに? そんな方にうちの商品が口に合えばいいんですけどね」
オーナーがそう言うと、梓は両手を前に出してぶんぶん振る。
「いえっ、私、ドイツにいたって言っても高校卒業後からですし、ドイツによくあるライ麦のパンは少し苦手で・・・日本のパンの方が馴染み深いんです」
「そうかい? そう言ってくれると嬉しいね」
梓の言葉で機嫌を良くしたオーナーは、帰りに「おまけだ」と言って小袋のクッキーを入れてくれた。
パンを買って二人で外に出ると、ちょうどタクシーが止まっており、そこから真純、花純、征司、ライナーの四人が降りてきた。




