虚無
「純平、ご飯よ」
房恵が部屋をノックして声を掛ける。それに対して返事はない。
東京から帰ってきたあの日、両親は泣き腫らした純平の顔を見ても、何も言わなかった。いや、正確にはただ一言「おかえり」とだけ声を掛けられた。
その様子からたぶん両親は、梓がいなくなることを知っていたか、もしくは知らされていたのだろうと思った。
純平は東京から帰ってきてから1週間、トイレとお風呂以外ほとんど部屋から出てこなかった。食事も毎日房恵が声を掛けるが、家族と顔を合わせて食べる気にならず、部屋の前に置いて行ってくれたものを少しつまむくらいで、ほとんど食べていない。何かを口に入れても何も味がしないし、食事が無意味に感じた。
吉田や橋本からも連絡があったが出る気にもならず、そのままにしていた。
ちょうどその頃、音大に合格したと聞かされた。純平の姉・杏子が調べて、母親に連絡したらしい。でも、それもどうでもよかった。梓がいなければ音大に行く意味はない。
そう思っていた矢先、純平の部屋に征司がやってきた。
「純平くん、少し話をしたいんだ。いいかな?」
征司はそう言うと、鍵の掛かっていない部屋のドアを勝手に開けて入ってきた。純平は何も返事をしていないのにだ。
征司はベッドにもたれかかり、頭だけをベッドに置いている純平を見て、言葉をかけるのを躊躇する。
顔はやつれ、目の下は赤く腫れ上がり、髪はボサボサで無精髭も目立つ。普段爽やかで身なりを整えている純平の面影は全く無い。
そんな姿の純平を見た征司は、どれだけ純平が傷つき、壊れてしまったかと思うと、自分の心が痛くてしょうがなかった。
梓の決断を知っていて協力したし、自分も純平を傷つけた一人だということは十分承知していたが、純平の父・康平から様子を聞いて、いてもたってもいられなかった。
部屋の真ん中に置かれているテーブルの上には、梓からの便箋が開かれたまま置かれていた。
何度も、何度も、その手紙を読んで涙を流したのか、便箋には涙のあとが至る所に散らばっている。
征司はその手紙を横目に見ると、純平のそばに座った。
「純平くん、夏見先生から聞いたよ。あまりご飯を食べてないって。ちゃんと食べないと、夏見先生も房恵さんも心配しているよ」
「・・・・・・食べたくないんです」
純平は力なくそう言うと、征司が自分の視界に入らないように大きく顔を背ける。それでも征司は純平に話し続けた。
「純平くんは、梓と交際していたんだね・・・・・・。今さらこんな 〝たられば〟 の話をされても困るかもしれないけど、もしそれを知っていたら、僕ももう少し別の方法を考えたかもしれない。君と梓のことを知ったのは、あの子と空港で別れる時だったから・・・・・・」
征司は純平の様子を見ながら、少しずつ話していく。
「いや、それでも梓は一人で決めてしまったかもしれないね。誰に似たのか、頑固だしね。それでもね、純平くん。あの子は・・・梓は本当に君のことを大切に思っていたんだよ。それだけは何があっても疑わずに信じて欲しい」
純平はその征司の言葉を聞いて、カチンときた。そしてこの1週間のあいだに溜まった感情を爆発させる。
「おじさんにっ・・・おじさんに何が分かるんですか! 俺だって梓のことを大事にしてた! これからも梓を守るって約束して、そのために勉強も頑張って、苦手なピアノも必死に練習したっ! それなのに突然手紙だけ残して消えて・・・! こんなことになるなら告白なんかしなければよかった、好きにならなければよかったって思うのに、俺はどうしても梓のことを嫌いになれないんだ・・・! せめてさよならって言って欲しかったのに、その言葉もなくて・・・それなのに・・・それなのに・・・!」
純平は床に伏せ、声を上げて号泣する。
征司は純平が落ち着くまで、その背中をずっとさすっていた。
純平の泣き声が止み、少し落ち着きを取り戻すと、征司は優しく話し始めた。
「純平くん、梓はね、目の手術と治療のために母親の元に行ったんだ」
征司のその一言を聞いて、純平はゆっくりと顔を上げる。
「ドイツに有名な眼科医がいて、梓のその病気のスペシャリストと言われているんだ。僕もその先生のことは、資料を通して読んだことがあったんだ。実際にその先生の手術で視力が回復したり、症状が緩和された人も多くいる。ただ、その手術は日本では未承認の手術で、現地で手術を受ける以外方法はなかったんだ。それに、成功するかどうかもわからない。失敗したり、成果が見られない可能性も十分にあり得る話だ。それでも梓は手術を受けることを選んだ。もう自分の目の病気のことで、家族やそして純平くんに心配を掛けたくないと言って」
純平は手紙には一切書かれていなかった、梓の海外行きの理由を今初めて知らされた。それからも征司の話は続く。
「それに、手術したからはい終わりというわけではないんだ。術後数年かけての治療と経過観察が必須だった。それを知った真純が、いま拠点にしているウィーンを離れて、ドイツに移ってもいいと言ってきたんだ。自分が梓の面倒を見ると言ってね。彼女は元々ヨーロッパをメインに活動していたから、別にウィーンにこだわる必要はないと言ってさ。そして梓は、そんな何年掛かるかわからない治療に純平くんを巻き込みたくないと言って、すごく悩んでた。悩んで、悩んで、その結果が君から離れることだった。僕から見ても梓は純平くんのことを大事に思っていたし、本当に大好きだからこそ、純平くんの人生を縛り付けるわけにはいかないと言ってね。頑固な梓が言いそうなことだろう?」
征司はフッと微笑み、純平に優しい眼差しを向ける。
「結果的には君を傷つけてしまった。でもね、純平くんにはバイオリンを続けて欲しい。梓もそう言っていたと思う。勝手なことばっかり言っているけど、近所のおじさんの我儘だと思ってもらっても構わない。それに、さっき房恵さんに聞いたよ、大学合格したんだってね。それなのに、あんなに頑張ってきたバイオリンを辞める、なんてこと思ってた?」
征司に尋ねられた純平は、思わず目を逸らす。
本当は音大進学を諦めて、浪人することになるけど普通の大学に行こうと考えていたからだ。
征司にその考えを見透かされているようで、純平は少し後ろめたい気持ちになった。
すると征司は、そんな純平の気持ちを察すると、寄り添うように優しく言い聞かせてきた。
「僕は純平くんがどんな選択をしてもいいと思っている。このまま音大に進んでもいいし、来年別の大学を受験するのも君の自由だ。でもね、今の純平くんと梓を繋ぐものはバイオリンだけだよ。それだけは覚えておいて。そして君はまず、部屋から出てきてご両親に顔を見せてあげなさい。二人ともすごく心配しているよ」
「・・・・・・はい」
征司は純平からその返事を聞くと、また様子を見に来るねと言って部屋を出て行く。そして部屋の外では、母の房恵が目に涙を浮かべ、心配そうに見守っていた。
その日の夜、純平は今日の征司の話を聞いて自分一人で考える。
梓が目の治療をすることは、純平にとっても嬉しいことだ。
でも、何年掛かるかわからないと言われても、純平は待っていたかった。その前に、この話を相談してほしかった。一人で何もかも決めて、自分は梓の彼氏なのに何も聞かされずに・・・! と、最後はなんだかむしゃくしゃしてきた。
それでもまだ、梓のことが好きで、好きで、大好きで・・・
その結果純平は、梓との唯一の繋がりであるバイオリンを手放さないことを選んだ。
征司に言われたからではなく、純平が一人で考え、そして決めたことだった。




