極秘
コンクール後の純平と梓は、音大受験の練習と勉強に専念した。
音大受験の試験内容は実技試験だけではなく、聴音試験、新曲視唱試験、楽典、一般科目試験などがあるが、純平が特に苦戦したのが副科ピアノの練習だった。
副科ピアノは、ピアノ科以外の管弦打楽器を志望する生徒が受ける試験で、その名の通りピアノの試験だ。
ピアノは全ての音楽の基礎になるものなので、和音や和声など音楽の基礎知識や歴史を理解しているかどうか、そして自分が専攻する楽器のピアノ伴奏を聴けるかなどを計る上で必要な試験であった。
純平はそのピアノに苦戦しながらも、なんとか弾けるようになっていた。
もちろん独学などではなく、花純に紹介してもらった音大卒のピアノ講師に教えてもらった上でだが。
梓は小さい頃からピアノも少し触れていたので、純平ほど苦労することはなかった。まあ、ピアノの試験といっても、ピアノ科ほど厳しく採点されるわけではなく、間違わずに弾けたら良いというレベルなので、梓はそれほど心配していなかった。
夏休みが明けた9月中旬。この日二人は、久しぶりにいつもの公園へとやってきていた。
最近、ずっと座学が続いていたので、息抜きに思いっきりバイオリンを弾きたくなったからだ。
「久しぶりに来たな」
「そうね。コンクール前に来て以来かしら」
9月になったとはいえ、残暑厳しく、夕方はまだまだ蒸し暑い。それでも久しぶりに自由にバイオリンが弾ける喜びの方が嬉しかった。
それから1時間ほど、二人は好きなように演奏する。時折、広場を散歩している人に拍手をされ、それに対してお礼を言ったりするという場面では、思わず二人で顔を綻ばせていた。
日が傾き始め、そろそろ帰ろうかと帰り支度をしている時、
「そうだ、純平くん。渡すものがあるの」
と言って、梓はバイオリンケースの中をごそごそし始めた。
純平はベンチに置いていたバイオリンケースを端に寄せ座ると、梓もその反対側の端にバイオリンケースを寄せて、純平の隣に座る。
「これ、お祖母ちゃんが送ってきてくれたの。東京の湯島天神のお守り。一つは純平くんにって」
そう言って梓は純平に紫色のお守りを渡してきた。
「喜代さんが?」
「うん」
「ありがとう・・・すごく嬉しい」
梓からお守りを受け取った純平は、早速バイオリンケースにお守りを結ぶ。そのお守りには梅の花があしらっており、真ん中には「学業守」と書かれていた。
お守りを結び終えた純平が梓を見ると、
「ちなみに私は赤を貰ったの」
と、梓は嬉しそうにお守りを純平に見せる。その笑顔が堪らなく可愛い。純平は思わず梓の笑顔を見つめてしまった。
海風が優しく二人の頬を撫でる。二人は見つめ合ったままで言葉はない。
しかしその次の動作はとても自然で、なにも言わなくてもそうするかのように二人の顔がゆっくりと近づく。
目を閉じた梓の右の頬に純平の左手が重なる。その刹那、初めて二人の唇が重なった。
柔らかくて、あたたかくて、フワフワして。ただ触れ合うだけの口づけでも、二人の心臓は壊れそうなくらい早鐘を打っていた。
唇を離した純平は、愛しさと恥ずかしさで梓を強く抱きしめる。
「ヤバい、梓・・・離れたくない・・・」
梓の耳元で思わず囁いた純平の背中を、梓は両手でぎゅっと握る。
「・・・・・・うん、私も」
純平は梓も自分と同じ気持ちでいてくれると思うと、抱きしめる腕に余計に力が入る。
それからなんとか自分に気合を入れて梓を解放したあと、二人はバイオリンケースを背負い、公園の坂道を下っていく。まだ日は明るいが、自然と二人は手を繋いでいた。そして純平は、今では当然のように梓を自宅まで送っていく。
それから二人は度々キスをした。
高台の公園のベンチ以外にも、町の中にある遊具のある公園の木の陰、薄暗くなった帰り道の街灯の下。そのどれもが触れるだけのキスだったけど、それでも二人は幸せに満ち溢れていた。
梓とずっと一緒にいる。純平はなんの疑いも、迷いもなく、そう思っていた。
☆☆☆
11月の土曜日。梓は父・征司と一緒に東京に来ていた。
指定された喫茶店に入ると、奥の席で優雅にコーヒーを飲む梓の母・飯倉真純の姿があった。
そこには真純のマネージャーで、事実婚の相手のライナーの姿はなく、約10年ぶりに親子三人での再会を果たす。
真純は二人の姿を確認すると、サングラスを外し笑顔を向ける。
「征司、梓、元気そうね」
「お母さん・・・久しぶり」
少しぎこちないながらも挨拶をする梓とは対照的に、征司は真純の顔をただじっと見つめるだけだった。
「何よ征司。私がキレイだからってそんなに見つめて。あなた再婚したんでしょう?」
「・・・・・・僕が見つめているように見えたの? それなら君の勘違いだよ」
夫婦生活などほとんどなかった元夫婦の会話はとても冷たく、まだ秋だというのにこの周りだけ極寒の中にいるようだった。
「それで? 僕と梓をわざわざ呼び出した理由を話してほしいんだけど」
心を落ち着かせるように、征司はコーヒーを一口飲む。
今回の真純の帰国はコンサートなどではなく、征司と梓に会うためだけのいわば極秘帰国だ。極秘と言ってもこの場にいないだけで、ライナーも一緒に来日している。
そして征司に話を促された真純は、自分が帰国した目的を話した。
☆☆☆
「・・・・・・さ・・・・・・ずさ・・・・・・梓!」
梓は純平の呼びかけに驚き、そばに座っている純平の顔を見る。
「あ・・・・・・ご、ごめん」
「疲れた? 少し休む?」
二人はいま、純平の部屋で楽典の勉強をしている。しかし、梓は気もそぞろで集中力に欠けている。
この頃の梓はそういうことが増えていて、純平が気になって聞いてみても「大丈夫」「何でもない」と言われるので、それ以上何も言うことが出来なかった。
12月の冬休み目前。日が落ちるのも早く、夕方5時にはもう真っ暗だ。
明日は終業式のあと、純平の家で梓の家族と一緒にクリスマスパーティーと忘年会をすることになっている。
ただ単に、大人たちが集まって飲みたいだけなんだろうが、純平と梓は会う口実が出来るので素直に参加することにした。
「梓、そろそろ送るよ」
夜7時前になるともう帰る時間で、純平はいつも梓を送っていく。
梓もその言葉に頷き、勉強道具を片付け、純平の部屋から出ようとドアノブに手を掛けると、後ろから自分の腕よりも太い腕がドアを押さえつける。
梓が振り向くと、純平が梓の顔をじっと見下ろしていた。
「ねえ梓、最近何か悩んでいる?」
「・・・何かって、何も・・・」
「本当に?」
純平に尋ねられて、梓はつい無意識に目を逸らしてしまう。
「俺ってさ・・・・・・そんなに頼りないかな・・・・・・梓が悩んでいたり、困っていたら助けたいって思っているのに、梓が頼ってくれないんじゃ俺・・・・・・」
純平の苦しそうな顔を見た梓は、話してしまおうかと悩む。でも、話してしまうと、きっと純平に大きな負担を強いることになる。
それこそ、これからの純平の人生を縛り付けてしまうくらいの負担を。
梓だって、純平のことが大好きで、大切な存在だ。だからこそ自分も純平のことを助けてあげたいし、守ってあげたい。
でも、今の自分にはそれが出来ない。
その梓の心の葛藤を打ち消すかのように、純平は梓にキスをする。
梓の背をドアに押し付け、腰に手を回す。そして今までのような触れるだけのキスではなく、それ以上に深いキスをしてきた。
純平は愛情をぶつけるように、梓は愛情を受け止めるように。
それは今までで一番長いキスだった。




