進歩
二人が自由が丘の喜代の家に着くと、時刻は午後10時を少し回っており、それでも喜代は寝ずに待っていてくれた。
それから交代で風呂に入り、梓は2階の元々自分が使っていた部屋で、純平は1階の客間で、二人が眠りについたのは午前0時を超えていた。
翌朝8時過ぎ。
「・・・・・・くん・・・・・・いくん・・・・・・・・・・・・純平くん!」
純平は額に何かが当たる感触がして、まだ重い瞼をうっすらと開く。どうやら梓が純平を起こそうと、純平の額をペチペチと叩いているようだ。
それに気づいてもなお、寝起きの悪い純平は再び瞼を閉じてしまった。
「ほらっ! もう8時だよ!」
「・・・・・・ん・・・んんっ・・・ああ・・・」
「ほーらっ! しゃきっとしてっ!」
梓は純平の両手首を持って、体を起こそうと踏ん張る。
だがしかし、純平だって男だ。梓よりも身長が高く、意外と筋肉質な身体を梓が簡単に起こせるはずがなく、両肩が少し浮くくらいで、全然起き上がる気配がない。
そこまでされると、さすがの純平も意識がはっきりしていたが、梓が踏ん張って自分を起こそうとしているのが楽しくなってきて、今度は狸寝入りを決め込んだ。
「もうっ! 純平くん、全然起きないじゃないっ!」
「くくくっ・・・・・・」
一生懸命頑張る梓を見て、その可愛さに我慢できなくなった純平は、思わず笑い声が漏れてしまう。
「ひどいっ! 寝たふりなんてっ!」
ペチンッ。梓は純平の額を強めに叩いて、朝ごはんを食べに行ってしまった。その額をさすりながら、純平は朝から楽しくて笑いが止まらなかった。
「喜代さん、お世話になりました」
「お祖母ちゃん、また遊びに来るね」
午前11時。二人は玄関先で一日お世話になった喜代に挨拶をする。
「梓、また征司と一緒に帰っておいで。純平くんも、よかったらまた遊びにいらっしゃい」
「はい、ありがとうございます」
「お祖母ちゃん、体に気を付けてね」
そして東京駅から新幹線、在来線と乗り継いで、最後のローカル線に乗った時には午後3時を過ぎていた。
行きと同じく4人掛けのボックス席に向かい合わせで座る。
「なあ、梓」
「なあに?」
「昨日の話の続きだけどさ、梓はとりあえず頑張って、もうちょっとクラスに馴染むところから始めた方がいいんじゃないかって思ったんだ」
「・・・純平くんだけじゃダメなの?」
ダメじゃない、と言いたいところだが、それは梓のためにならないことを純平はよくわかっている。
「俺と一緒にいる時はそれでいいけど、梓は女の子だし、やっぱり同性の頼りになる友達もいた方がいいと思う」
「・・・・・・それは、私もそう思う。でも、もう3学期になって、グループも固定されているのに、その中に入るのは・・・・・・」
その気持ちもわからなくはない。でも、梓が前に進むためには必要なことだった。
「じゃあさまず、お昼ご飯を俺と一緒に食べることから始めるか? もちろん、吉田も1組の橋本ってやつも一緒だけど。吉田も橋本も仲のいい女子がいるから、あいつらを通じて誰か紹介してもらおう」
梓は進みたいけど、進みたくない。そんな複雑な顔をしていたが、純平が言っていることもわかるので、明日から一緒にお弁当を食べることから始めることに同意した。
「病気のこととか、家族のことは言わなくてもいいよ。ただ、俺たちの話に相槌を打つだけでもいい。とにかく俺以外の人と接点を持つことから始めよう。それに、文化祭の時は山脇とも普通に話していただろ?」
「山脇くんは、ピアノの話でなんとなく会話になっていただけで・・・」
「それでいいんだよ。一言、二言話すことから始めて、徐々に広げていけばいいんだから」
そしてその翌日から、梓の自虐的で劣等感に固められた心をほぐしていく「リハビリ」という名の友達作りが始まった。
月曜日。純平は昼休みになると、隣の席の吉田と1組からやってきた橋本に今更ながら梓を紹介する。
「梓、吉田は知っているだろ?」
「うん・・・・・・」
「その隣にいるのが1組の橋本。二人とも小学校からの友達なんだ」
純平、梓、橋本、吉田は机を二つずつ向かい合わせにくっつけて、四人で弁当を食べていた。いつもはこんなことはしないのだが、今日は梓がいるため机の配置を変えた。ちなみに、橋本が座っているのは山脇の席だった。
「遠山さん、よろしく・・・って、俺や吉田みたいな下々の者が、遠山さんとランチなんていいんですか⁉」
「おい橋本。なんで俺まで一緒なんだよ」
「当たり前だろ! バイオリンの女王とランチなんて、めったに出来るもんじゃないんだからなっ」
純平からの突然のお願いに、吉田も橋本も驚いてはいたが、二人とも快く了承してくれた。今日が梓のリハビリへの第一歩となる。
「あの・・・バイオリンの女王って何ですか?」
梓は自分が周りの人にどう思われて、どう呼ばれているのかわからないため、素直に聞いてみた。
「あの、それは、この間の全校集会で、純平と一緒にバイオリンを弾いているのを見て、そういう風に呼ぶ人が増えたみたい・・・?」
「ちなみに純平は王子だ」
「純平くんが王子・・・・・・」
梓はチラッと隣に座る純平を見る。
「なんだよ・・・・・・王子じゃないって目してんな。俺だって不本意なんだぞ」
純平も梓に目で抗議すると、それを見た梓はフッと笑う。
「別に。純平くんだったら王子様も似合うと思ったのよ。あなた結構モテるみたいだしね」
「は⁉ 誰が⁉」
「いま私が話しているのは純平くんなんだから、純平くんのことに決まっているでしょう?」
「なななな何が分かるんだよっ、梓にっ!」
「少なくともあなたよりは、女心はわかっているつもりだけど?」
梓は夏のコンクールで純平に負けて以降、バイオリン教室に姿を見せなくなった片山柚季のことを思っていた。
柚季の梓に対する嫉妬の目は、初対面の時にすぐわかるほどだったのに、純平はそれに全く気付いていない。それを目にしていた梓だからこそ、純平にそんなことが言えるのだ。
しかし、向かい側に座る吉田と橋本は、純平と梓のやり取りを見て、もはや痴話喧嘩にしか見えないと思っていた。
「コホンッ、俺のことはどうでもいいんだよ。なあ橋本、吉田。梓と仲良くしてくれそうな女子っていないか?」
「遠山さんと?」
「そう。いま、梓の対人関係のリハビリ中だからさ」
「うーーん・・・それなら・・・・・・」
そう言って橋本は二人の女子の名前を挙げた。
♩♪♩♬ ♬♩♪♩
また、イヤなことを思い出しそうになった純平は、自分の意識を取り戻す。
目の前にはパッケージのトレーに入ったままの、きゅうりのたたきと茄子のみぞれ和えがほとんど手つかずで残っていた。
どうも、先ほど泉水からの突然の電話のあとから、筒居佳織が頭に浮かんでくる。
性格は温和で優しい純平だが、筒居佳織だけは未だに許せないし、顔を見たくもなければ思い出したくもなかった。
なぜなら筒居佳織は、梓をひどく傷つけたからだ。
そのことは今でも純平の心に、深く深く刻み込まれていた。




