日常
盆休みも終わり、東京に戻ってきた純平はすっかり日常生活に戻っていた。
生活の主な基盤となっているバイオリン教室は、休日の火曜日と木曜日以外、全ての枠がレッスンで埋まっている。
午前10時からは主婦や定年退職された高齢の方を中心に、午後1時から3時の休憩時間を挟んで、夕方からは小学生から高校生の学生を中心に午後9時まで働き詰めだ。
純平が所属する音楽事務所の仕事は、バイオリン教室の合間を縫って、無理のない範囲でオファーを受けている。
音大卒業直後は、アーティストのコンサートに帯同することもあったが、花純にバイオリン教室を任されるようになると、そのオファーを避けて単発のものを受けるようにした。
花純に教室を任された当初は、何もかもが手探り状態で、何をやっても上手くいかず、教室と自宅を行き来するだけで精一杯だったが、花純や他のスタッフのサポートもあり、1年が経過した頃、漸く教室運営も安定してきた。
その間、純平は梓のことを考えることが減っていたし、このまま忘れることが出来るならちょうどいい、そんなことを思いながら日々を過ごしていた。
「夏見先生、お先に失礼します」
「はい、お疲れさまでした」
9月になっても、まだまだ熱帯夜が続くとある日。
明日、火曜日は休みのため、純平はレッスン終了後も残務処理のため教室に残っていた。
受付の事務をしてくれている町田さんは、パートのため定時で帰ってしまう。そのため、純平が全ての戸締りを終えて教室を出たのは、午後10時過ぎ。
音大進学のため東京に出てきて10年。1人暮らしもだいぶ板についてきて、簡単な料理は出来るようになったが、それでもこの時間から自炊しようとはならず、仕事帰りにコンビニに寄って、適当なものを買って帰るのがお決まりのコースとなっていた。
それでも最近は体のことを気にして、サラダを食べたり、脂質・糖質を抑えた軽めのものを買うようにしている。
それに加えて、体調と体型維持のために、仕事で知り合ったアーティストからの紹介で、ジムにも定期的に通うようになった。
そしてこの日も、いつものコンビニで買い物を済ませ、コンビニから徒歩6分の自宅マンションに向かって歩いていると、スマホの着信音が鳴る。
画面を見ると、電話番号は表示されているが、登録がされていない知らない番号からだ。嫌な予感がしたが、それでも純平は応答することにした。
「もしもし?」
『あの・・・純くん?』
純平は「純くん」と呼ばれてハッとする。
純平の中でそう呼ぶ人間は、一人だけだったからだ。
『私・・・・・・泉水だけど・・・・・・』
「・・・・・・ああ」
『いま、時間ある?』
そう聞かれて純平は「またか」と思った。正直なところ、彼女とはもうあまり関わりたくない。
「悪い、今取り込み中で・・・・・・用件なら手短に言ってくれるかな」
『うん・・・あのね純くん、私、どうしても純くんのことが忘れられなくて・・・・・・もう一度付き合ってほしいの・・・・・・』
泉水にそう言われて、純平は「やっぱり・・・」とため息を吐く。
「あのさ・・・・・・何度も言ってるけど、俺、忘れられない子がいるんだ。こんな気持ちのまま、泉水と付き合ったことは悪かったと思ってる。でも、俺も自分の気持ちに嘘はつけないから、こんな俺と付き合っても幸せにはなれないし、俺も幸せにすることは出来ないよ。だからもう、こんな風に電話をするのもやめてほしい」
純平は自分の気持ちを正直に打ち明ける。変に隠したり、取り繕ったりすると、相手に変な期待を持たせてしまうと思ったからだ。
そしてこれは、純平なりの優しさでもあった。
すると、電話口からすすり泣く声が聞こえてくる。
『・・・・・・どうしても・・・ダメ・・・かな?』
「・・・うん、ごめん。それじゃ」
『まっ・・・・・・』
泉水はまだ何か言いたそうにしていたが、純平は構わず通話を終了する。
純平の元カノの横澤泉水は、同じ音大でピアノ科の一つ下の後輩。
バイオリン科の純平のピアノ伴奏をしたことがきっかけで仲良くなったが、大学在学中は純平にとってはただの後輩でしかない。
大学卒業して2年後に、花純から教室を任される話があったのと同時期に、泉水とたまたま再会し、そのあと何度か飲みに行った後、泉水の方から告白されて付き合った。
最初は、これで梓を忘れられるならと思ったのだが、そんな思いとは逆に、梓を忘れられない罪悪感だけが募り、結局、3カ月足らずで純平から別れを切り出した。
泉水とキスをしても、体を重ねても、後に残るのは虚しさしかなかった純平は、それ以上泉水と交際を続けることが出来なかった。
別れた直後から、純平の教室運営が本格化してきたので、梓とのことがなくても、どのみち長続きしなかっただろうと今はそう思える。
それでも泉水は、純平が忘れられないと言っては、こうして何度も電話番号を変えて連絡がある。
別れて4年近く経つのにストーカーとまではいかない、微妙なラインで接触してくる泉水に、純平は疲れ切っていた。
泉水との電話を強制的に切った後、純平はその番号を着信拒否リストに入れる。こんなことが続くので本当は電話番号を変更したいが、それは出来ない。
なぜなら今の電話番号は、梓が知る純平の電話番号だからだ。
純平は、こうして女の子から強引に気持ちを押し付けられるのは、泉水が初めてではない。
先日、実家に帰省して橋本たちと錨で飲んでいた時に話題になった筒居佳織も、純平にしつこく付き纏っていた女の子だった。
純平は、また嫌なことを思い出しそうになった自分の頭を、別の方に向けようとする。
自宅に着き、コンビニで買ってきたハイボールときゅうりのたたき、茄子のみぞれ和えをローテーブルに置き、一人晩酌をしながらテーブルに置きっ放しの茶封筒に目が留まった。
それは、先月帰省した時に征司から譲ってもらった、12月に開催される飯倉真純の日本凱旋コンサートのチケットだった。
飯倉真純が日本でコンサートをするのは、実に12年ぶりということもあって、販売と同時に完売した貴重な1枚だ。
そして、その12年前のコンサートに、純平は梓と二人で見に行ったことがある。
チケットを眺めながら、純平は梓と行った飯倉真純のコンサートのことを思い出していた。




