【コミカライズ】想い人の想う人
初投稿作品です。よろしくお願いいたします!
「はぁ」
イリアは何度目かわからないため息をついた。
開いた窓から風が吹き抜けていき、髪を揺らす。
刺繍をする手を止めて外を見ると、枝に二匹の小鳥が止まっている。仲良く寄り添う小鳥たちに、またため息をつく羽目になった。
今日は夫の職場でもある王城でお茶会がある。
おいしいお菓子を食べながらおしゃべりをして過ごす時間は好きだけど、最近は憂鬱になっていた。女性が集まれば、化粧やドレス、お菓子やお茶、流行りの演劇や小説など話すことはたくさんある。
しかし夫の話になると、私は悲しい気持ちになってしまう。彼女たちの惚気話を笑顔で聞くのは、もはや苦行になりつつあった。
「奥様、そろそろ支度のお時間です」
「はぁ」
返事よりも先にため息が出てしまうのは許してほしい。
◇◇◇
迎えの馬車まで歩きながら、ぼんやりと考え事をする。
——今日のお茶会は、一人の令嬢が夫と口論になったと言い出したことで「慰める会」になった。話す彼女にはいつもの元気がなく、お茶会どころではないと全員が思ったからだ。
彼女を元気づけるべく、皆が夫婦生活について語り合う。悲しげに俯いていた彼女は、夫に対する遠慮のない物言いを聞くうちに笑顔を見せるようになった。
そうして会話が盛り上がる中、私は相槌を打つことで精一杯だ。
喧嘩をするなんて、私たち夫婦には想像もできないことだった。語れる話なんて何ひとつ持っていないのだ。
手元のカップに視線を落とすと、情けない顔をした私がゆらゆらと映っていた——。
「——」
「——」
ふと長い廊下の途中に、立ち話をする男女を見つけた。会話までは聞こえないが、手元の資料に目を落とし、話し合いをしている様子だ。
背の高いその男性は、銀の長い髪を緩く束ねている。黒い制服に付いた腕章は、側近にのみ身に着けることが許されたデザインである。
(サイラス様……?)
夫であるサイラス様は、第二王子殿下の側近である。側近で銀の長髪といえばサイラス様しかいないのに、私はまだ確信を持てずにいた。
いや、信じたくないだけかもしれなかった。彼が私には見せてくれない笑顔を、見せているなんて。
——女性の口が「サイラス様」と動くのを見て、痛む胸を隠すように手を固く握りしめる。
二人の間に甘い雰囲気があるわけではないし、さっきの笑顔も会話中にこぼれた表情のひとつに過ぎないとわかっている。
それでも、胸の痛みは消えるどころか、ますます強くなっていく。
最後にサイラス様から笑顔を向けられたのは、いつだろう。彼が笑顔を見せないのは、やはり私に対してだけのようだった。
柱の陰で、彼らが見えなくなるまで待つ。
「サイラス様」と声をかけられない私は……、名ばかりの妻に違いなかった。
◇◇◇
同じテーブルでサイラス様と夕食を共にしているというのに、会話はほとんどなく、咀嚼の音ですら聞こえてしまいそうだ。
「イリア」
「はい」
「王城に来ていたんだな」
「……はい」
サイラス様が話しかけてくれたことに、どうしようもなく喜びが走る。
しかし不機嫌そうな表情の彼に、上げた視線はすぐに落ちた。職場に来られるのは迷惑だった?——と考えてしまう自分の卑屈さが嫌になる。勝手に一喜一憂して泣きそうになるなんて、幼稚なことだ。
廊下で女性と話していた彼の、柔らかな笑顔を思い出す。
どうしてサイラス様は私と結婚したんだろう。愛のない結婚ならいっそ、終わらせてしまえばいいのに。そんなことを考えていた私は——衝動的に問いかけてしまった。私の心は限界だった。
「どうしてサイラス様は、離婚してくれないのですか?」
「は……」
突然の問いに驚いた様子の彼を見て、我に返る。
王命で無理やり結婚させられた彼に言うには、あまりにも無責任で酷い言葉だった。
こんな自分が嫌になる。
私は席を立ち、俯いたまま庭園に逃げ込んだ。勝手にこぼれてくる涙は、風にあたってすぐに冷たくなった。
私が見ないふりを続けていればよかったのだ。
名ばかりでも、彼の妻でいられるだけ幸せだと……いつか笑顔を見せてくれるかもしれない、愛してくれるかもしれないと、言い聞かせていたのに。
へたり込んだ私は、これまでのことを思い返していた。
◆◆◆
「イリア、婚約者が決まったぞ」
「……え?」
アレンは道具を鞄に詰めながら、突然にそう言った。父の言葉に驚いた彼女は、すぐに相手は誰かと心配になった。
父は思い切りが良く、一度決めたら引かないところがある。貴族の娘たるもの覚悟は決めているが、友人がみな幸せそうなのを見ると、自分もそうなりたいと思っていたのだ。
「お相手は誰なの?」
イリアが聞くとすぐ、父は手を止めて口をにんまりと緩ませた。
「かの……サイラス君だ!」
「グランヴィル公爵家の?」
「そうだ」
父は身を乗り出し、愛娘の反応を今か今かと待っている。
サイラス・グランヴィルといえば、知らない者はいない。
彼はグランヴィル公爵家の一人息子であり、ライアン・ルリエーオ第二王子殿下の側近を勤めている。
第二王子殿下は奔放な性格で、いたずら好き。加えて古代文明に傾倒するあまり、政務を疎かにしがちだった。サイラス様はそんな殿下の貴重なお目付け役であり、臣下の中で苦言を呈することができる、唯一の存在であるとも言われている。
殿下に仕えながら時には叱ることもする彼を、誰もが頼もしく思っていた。
そして銀の長髪にルビーの瞳を持つ神話のような麗しさと、公爵家の伝統のもと鍛え上げられた体躯は、世の女性たちを虜にした。
——実は私も、そんな女性たちのうちの一人だ。でも私は、見た目や家柄に惹かれた訳ではない。彼の優しさに惚れたのだ。
半年ほど前に、夜会で彼に助けてもらったことがある。彼にしてみれば些細なことに過ぎないだろうが、私にとっては大切な思い出だった。
「でも、どうして婚約に……?」
私のような田舎者の貴族より、もっと家格の高い、美しい令嬢はいるはずだ。首を傾げる私に、父はご機嫌な様子で語り始めた。
古代遺跡を回りながら研究を続ける父は、つい先日古代文字を解読した。この古代文字は発見から二百年以上経っていて、解読はほとんど諦めている状態だったそうだ。
父の偉業に、古代文明を愛する第二王子殿下は大変喜んだ。殿下の強い後押しにより、父には褒美が授けられることとなったが——父はあろうことか、愛娘の夫にと、サイラス様を望んだのである。
父は娘がサイラス様に憧れる女性の一人であることをもちろん知っていたが、第二王子殿下と面会し、時には共に古代遺跡の調査に出向く中で、サイラス様と交流を深め——大層気に入ったようだった。
公爵家のサイラス様と、ローレンス伯爵家の私が結婚できるなんて、夢にもないことであり、正直に言えばとても嬉しい。
しかし、彼には有名な噂があった。
「お父様。サイラス様には……想い人がいるのではなかったの?」
彼に想い人がいるという話は、令嬢たちの中では有名だった。未だ独身であることも、想い人のことが忘れられないからではないかと言われている。
「大丈夫だそれは」
父はにっこりと笑う。しかし大丈夫と言われても、何がどうなって大丈夫なのかわからない。
「それって——」
「あなたー!」
意味がわからず尋ねようとしたところに、父を呼ぶ母の声が響いた。愛妻家としても有名な彼は飛ぶように母のところへ行ってしまい、続きは聞けなかった。
その後も、わざとではないかと思うほどのタイミングの悪さで、想い人の噂については聞けないまま時が過ぎた。父は私と二人きりにならないようにと、あえて忙しなく動き回っている様子だった。
加えて殿下の側近であるサイラス様は忙しく、結婚式当日までろくに顔を合わせることはできなかった。
それでも送られてくる手紙やプレゼントから気遣いが感じられて、不安は小さくなっていた。いつの間にか結婚生活への不安は緊張へと塗り替えられていた。
結婚式当日。
上質な生地のウエディングドレスを着て、父のエスコートで教会を歩く。
近づくほどに、彼の姿がよく見える。久しぶりに見る彼は、想像していたよりもずっと素敵だった。
遠目からでも背が高く見えた彼は、横に並ぶと見上げるほどの長身だった。肩が触れる度に、そわそわとして落ち着かない。
体温の伝わる距離に、緊張のあまり彼の顔はほとんど見られず、誓いのキスあたりは記憶がない。
夢心地な気分で挙式を終え——公爵家の侍女に隅々まで磨かれ、服としての役割を果たしていないような夜着を着させられて、横並びで五人は寝られそうなベッドに腰かけた時、ようやく実感が湧いてきた。
そして緊張が頂点に達した私は……熱を出して気を失ってしまったのである。
◆◆◆
大事な初夜を、私は倒れてすっぽかしてしまった。
『ごめんなさい……』
『いや。私こそ、無理をさせてしまった』
熱のせいでぼんやりとしているけれど、謝る私にサイラス様は優しく頭を撫でてくれた。頭に触れた大きな手を思い出しては、緩む頬を手で押さえた。
同時に、浮かぶのは”想い人”のこと。父は大丈夫と言っていたが、具体的にどうなったのかはわからない。
しかし私はとある期待をしていた。
その噂は、ただの噂に過ぎないのではないか、という期待だ。
サイラス様は昼夜問わず令嬢に追われ、一時は職に支障をきたすほどであったという。無用な争いを避けるためについた嘘なのではないかと、私は考えていた。
あの後三日ほど休んだが、今ではすっかり元気である。
初夜を仕切り直そうと、侍女も張り切って準備を重ねているようだ。
しかしあれから側近の仕事が忙しくなってしまったようで、夜遅くに帰り早朝に発つという日々が続いている。
サイラス様の帰りを待とうと試みるも失敗し、気が付けば朝になっていることも多い。
そんなことを続けているうちに、彼から「待たなくていい」という伝言を受け取った。侍女からも焦る必要はないと言われたので、サイラス様の仕事が落ち着くのを待つことにした。
そしてようやく、今日は彼が早く帰ってくるという。
それに激務を労った殿下が一週間ほど休暇をくださった。今日から七日間、彼と一緒に過ごせるのだ。私はあの日の二の舞にならぬよう、心身ともに覚悟を決めている。
想い人の噂について、はっきりさせるつもりだ。これから結婚生活を送る中でわだかまりはなくしておきたかった。
物音が近づき、人の気配に心臓が高鳴った。
静かに寝室の扉が開き、サイラス様が現れる。ガウンから見える厚い胸板や、湯上がりの湿った髪に、照れて視線を彷徨わせた。
しかし照れている場合ではない。きちんと噂のことを確かめなくては、この後のことも……気がそぞろになってしまうだろうから。
「サイラス様」
緊張で強ばった声になったが、構わず続けた。
「実は……想い人がいるという噂を、聞いたんです。その噂は、本当ですか……?」
私の手が、無意識に祈るような形になる。
公爵家で過ごすうちに、”想い人”はただの噂に過ぎないとより感じるようになっていた。でも彼の口から聞くまでは、本当のことはわからない。
直接尋ねるまではきっと大丈夫と考えていたのに、彼の返事を待つうちに不安が膨らんでいった。
彼はたっぷりと間を空けて——自嘲するような笑みを見せた。
「……本当だ」
切なそうに顔を歪めて俯いた彼の顔を、呆然と見る。聞き間違いかと思いたくもなるが、彼の辛そうな表情からそれは違うとすぐに理解させられた。
「ではなぜ——」
なぜ結婚を受け入れたのかと聞こうとして、ハッとなった。殿下の側近であるサイラス様といえど、王命であれば逆らえないだろう。
父に「大丈夫」と言われたけれど、その言葉を信じたのは私だ。あれこれ手を尽くせば確認できたことをしなかったのは、彼と夫婦になりたいという自分勝手な思いからだ。
彼をこんなふうに苦しめているのは——。
「私のせい……」
「っそれは——」
サイラス様が何か言いかけたが、私は足早に自室へ戻った。侍女が何事かと駆け寄ってきたが、私の顔を見て何も言わずに下がってくれた。
サイラス様は、追いかけてきてはくれなかった。
◆◆◆
その日から、私たちの間に会話と呼べるものはなくなった。義務のようなやりとりでしか、彼の声を聞くことができない。
一番憂鬱なのは夜会だ。サイラス様と踊る時は胸が張り裂けそうだった。腰に置かれた手やリードの力強さにときめいてしまう自分にも、目の前にいても彼の心はずっと遠くにあるという事実にも耐えなければならない時間が、私を苦しめた。
私とのダンスが終われば、彼はすぐに人に囲まれる。男性にも女性にも人気者なのだ。突き放すことはせず丁寧に対応する彼は、穏やかな笑みを浮かべている。私には決して見せてくれない笑顔だ。
彼は私と話す度に、辛そうで苦々しい顔をする。
私よりずっと美しいご令嬢と会話をする彼を見る私は、どんな顔をしているのだろう。
彼の笑顔が大好きだけど、それを向けられるのは私だけがよかった——。
醜い感情に蝕まれていく自分が嫌で、シャンパングラスを手にバルコニーへと向かった。
「久しぶりだね、イリア」
夜風を浴びていると、慣れた声が聞こえた。
「ケイン!」
ケイン・ベーテルは私の幼馴染で、もう一人の幼馴染であるシェリー・サンディオと婚約を結んだばかりだ。彼らは昔から両片思いで、私が後押しをしたのである。
「シェリーは?」
「ああ、すぐそこで今友人と話してるよ」
指で示されたほうを見ると、友人と話し込む彼女の横顔が見えた。
ちらちらと周囲を見渡して人を探す彼に、苦笑いをする。
「サイラス様はいないわよ。ひと休みしようと思って抜けてきたから」
ケインは片眉を上げて、ゆったりと腕を組んだ。
「声はかけたのか?」
「いいえ?」
「……おいおい」
「いいの。どうせいないことにも気づいていないわ」
やけになって、グラスをぐいっと傾ける。度数の強いものを選んできたので、喉が焼けるような心地がする。
「こら、やめとけ。酒に弱いだろ」
世話焼きなケインは、私からグラスを取り上げようと手を伸ばした。避けようとした私はふらついて、ケインの体にもたれかかる格好になる。ケインの背中越しに——サイラス様と目が合った。
「イリア」
苛立ったような声で名前を呼ばれ、腕を荒く掴まれた。
「え——」
「ベーテル殿。妻が失礼をしたな」
「い、いえ」
腰に回された手はがっちりとしていて、足早に歩く彼についていけず足がもつれそうになる。無言で歩き続けた彼は、夜会の主催者に挨拶をするとそのまま馬車へと向かっていった。
馬車に着くと、彼はいつもの正面ではなく隣に座る。肩が触れ、伝わってくる体温に心がざわついた。
「先ほどはすまなかった」
揺れる馬車の中、沈黙を破ったのはサイラス様だった。何について謝っているのかわからなかったが、申し訳なさそうにする彼に反射的に首を振る。
「いえ……」
彼は覚悟を決めるような表情をして、膝に置いた手を握り締めてから、硬い声で言った。
「イリアは……彼のことが好きなのか?」
「へ?」
彼、とはケインのことだろうか。サイラス様の言う意味がわからず、首を傾げた。
「い、いえ。違います。そもそも……ケインには婚約者がいます。私は彼と幼馴染なのです」
「そう、か」
彼はそう言うと、再び口を閉じてしまった。ガラガラと馬車の走る音だけが響く。
視線を感じて隣を見ると、彼はあからさまに視線を逸らした。言いたいことがあるなら言えばいいのに、彼は黙ったまま、時折こちらを見るだけだ。
どこか煮え切らない態度の彼に、じんわりと怒りに似た感情が湧いてきた。彼に想い人がいると知っても、私は浮気をしようだなんて一度たりとも考えたことはなかったのに。
「サイラス様こそ、想い人とはいったい誰なのですか?」
「……想い人は……」
「ええ。いらっしゃるんですよね?なら私と離婚すれば——」
「駄目だ」
遮るように否定された。一瞬合った彼の瞳は、悲しげに揺れる。誰を想って、そんな顔をするんだろう。
「すまない。それは許せない」
彼はまた口をつぐんでしまった。
許せないと言ったが、実のところ私たちの離婚は許されないのだろう。第二王子殿下の手前、離婚を切り出すことなんて、さすがの彼でもできないはずだ。
◆◆◆
芝を踏みしめる音がする。息を潜めたつもりだったが、あっけなく彼に見つかってしまった。
膝を抱え込むように座っていたせいでドレスは涙で濡れている。春とはいえ夜の風は冷たく、指先はかじかんでいた。泣き疲れた私は動く気力もなく、俯いたままぼんやりと彼の靴を眺めた。
「イリア」
優しい声音で名前を呼ばれ、胸が締め付けられる。他の誰に呼ばれても心は動かないのに、彼に呼ばれた時だけときめいてしまう。そんな自分が情けなくて、馬鹿らしかった。
「っ、……呼ばないで」
みっともなく震えながら吐き出した言葉に、彼が息をのんだのがわかった。
「泣いて、いるのか」
「……いいえ」
強がって、顔を背ける。
縮こまるように顔をうずめると、彼のジャケットがかけられた。片膝をついて、私と視線を合わせようとする。
でも今は、その優しさが私を傷つけた。想い人がいる人に優しくされたって、虚しいだけだった。
「……そういうの、やめてください」
当てつけのように、下を向いたままそう吐き捨てる。勝手にまた涙が溢れた。
「サイラス様は……どうして優しくするの?」
言葉にすると、またじわりと涙が滲んできた。
「優しくされても嬉しくないわ。だって、私だけなんだもの」
言うまいと、言っても彼を苦しめるだけだと閉じ込めてきた言葉は、あっけなく溢れてしまう。
「私はこんなに好き、なのに……っ」
視線は下に向けたままで、彼がどんな顔をしているかなんてわからない。一度口に出してしまえば、もう止まらなかった。
「ずっと前から……」
続く「好き」という言葉は消え入りそうに溶けていった。全て言ってしまった後、見下ろした自分の手は震えている。
ついに言ってしまった。サイラス様は何て言うだろう。優しい彼のことだから、私の想いを知った今、終わらせようとするだろう。君の想いには応えられないと言うのかもしれない。
さっきはどうして離婚してくれないのかと聞いたくせに、離れたくないと思う。私の行動は勝手で矛盾している。
泣き続ける私の頬に、彼の手がそっと添えられた。顔を上げても、ぼやけて彼の表情は何もわからない。
温かな手に頬を寄せる。きっともう終わってしまうと思うと、胸が張り裂けそうだった。
霞む視界の中で月に照らされる赤い瞳がきれいだと考える。彼の美しい瞳に映る私は、きっと酷い顔をして——。
「……?」
一瞬だけ、唇に柔らかいものが触れた。キスだと気づいて思わず自分の唇に触れてみるけれど、そこにもう彼の温もりはない。
混乱する私を、サイラス様は力強く抱きしめた。ぎゅうぎゅうと抱きしめられて息が詰まる。大きな背中を軽く叩くと、彼の顔を見上げる余裕ができた。
「サイラス様、苦しい……」
「サイラス」
「え?」
「様はいらない」
「サイラス……」
サイラスと呼ばれた彼は、嬉しそうに顔を綻ばせる。間近で見る彼の笑顔に、頭が沸騰するようだった。
「俺も」
熱に浮かされた頭で、彼の言葉の意味を考えようとする。俺もって、いったい何が——すると突然、体が浮いた。
「わ!——お、降ろしてください」
サイラスは私を抱きかかえて歩き始めた。侍女たちとすれ違う度、抱えられていることが恥ずかしくて仕方ない。降ろしてほしいと目で訴えても、彼は目を細めるだけ。甘やかな視線に、体温ばかりが上がっていった。
私室に着いた頃には、私は息も絶え絶えだった。鏡を見なくても顔が真っ赤なことはわかる。
サイラスは私を抱えたままベッドに腰かけた。腕が緩んだ隙に太ももから降りると、引き寄せられてかえって距離が近くなる。
「イリア、聞いてほしい。俺は——」
彼は私の手をすくい取って握ると、ぽつぽつと語り出した。
◆◆◆
俺が彼女と初めて出会ったのは、とある夜会だった。
令嬢たちに囲まれ、きつい香水のにおいに顔をしかめそうになる。ライアン殿下には適当にあしらえばいいと言われるが、あしらい方を知らないまま下手なことはできず、結局いつもと同じ対応になっていた。
ようやく落ち着いてきた時、視界の端で不穏な動きを見た。
注意をそこに固定したまま、失礼のないタイミングで断りを入れる。小走りで向かえば、一人の女性が休憩室に連れ込まれそうになっていた。
「おい、何をしている」
迷わず止めに入ると、男は俺の顔を見るなり逃げて行った。騎士を呼んで指示を出してから、令嬢に向き直る。
「お怪我はありませんか?」
立ち尽くしていた彼女に声をかけると、こくこくと頷いた。怖かったのだろう、自分を守るように腕を組んでいる。
「送ります」
深い藍色の髪にオレンジの瞳という夕焼けのような色彩を持つ彼女は、ローレンス伯爵家の長女である。彼女の父、アレン様の元に送ると言うと、彼女は小さくお礼を言った。
控えめに乗せられた手は小さい。
ついさっきまでの無遠慮に身を寄せてくる令嬢たちとは違い、彼女の隣はとても落ち着いた。彼女からは香水ではなく、石鹸の匂いがするからかもしれない。
「石鹸……」
「石鹸、ですか?」
口に出てしまっていたようだ。失礼だったかと謝罪しようとすると、彼女は恥ずかしそうにはにかんでいた。
「実は、父が服を泥だらけにして帰ってきて……。私もお手伝いをしていたのです」
「アレン様は研究熱心な方ですからね」
「父を、ご存知なのですか?」
「ええ。何度か仕事でお会いしています」
二週間ほど古代遺跡に出向いていたアレン様が、その間に汚した服を今朝まとめて出したらしい。明後日には別のところに行くというので、それらを慌てて洗ったそうだ。
第二王子殿下という研究熱心すぎる人に振り回されている身としては、彼女の気持ちがよくわかる。深く頷くと、彼女は笑った。
小さな声で殿下による苦労話をすると、彼女はころころと表情を変えながら聞いている。
そんな彼女と話すうちに、意識せずとも笑えているのを自覚した。もっと話したいとすら思う。
「イリア!心配したよ……」
「お父様!」
アレン様が遠くから慌てた様子で駆け寄ってきた。途端に離れていく彼女の体温が名残惜しく感じられる。ほのかな予感に思考を乗っ取られそうになったところでアレン様の声がかかった。
「な、何があったんだ?」
先ほどのできごとを伝えると、すぐに娘に向き直った。何もされていないか、怪我はないか……と質問を重ねる彼を、彼女は苦笑いで受け止めている。
「——では、私たちはこれで失礼するよ」
「本当に、ありがとうございました」
父に手を取られて歩いていく彼女の後ろ姿を、人混みの中に見えなくなるまで見送った。
◆◆◆
サイラスが語ったできごとは、私が大切にしていた思い出だった。彼も同じように覚えていてくれたことが、どうしようもなく嬉しい。
あの日彼は迷いなく助けに来てくれて、送る気遣いもしてくれた。父の元に向かうまでのわずかな時間は、今でも思い出せるほど素敵な思い出として心に刻まれている。
「イリアは、俺の初恋だ。想い人はイリアのことなんだ」
「嘘……」
真っすぐに見つめて紡がれた言葉に夢かと頬をつまむが、ひりひりと頬が痛む。
「嘘じゃない」
「じゃあどうして……?」
ならどうして「噂は本当か」と聞いたら、彼は「本当だ」と答えたのか。ムッとなって尋ねると、彼はうなだれて教えてくれた。
「実は『イリアに想い人がいる』という噂を王城で耳にして——」
曰く、彼はあの働きづめの期間に、王城でメイドたちが噂しているのを聞いてしまった。その噂の内容は「イリア様は想い人を諦めた」というものだったのだ。
そしてあの日、どこか期待を込めた眼差しで聞いてくるイリアを見た。両手は祈るように握りこまれ、震えている。彼はこう思ったのだった。
——イリアには他に想い人がいたのに、諦めて俺と結婚をした。しかし俺にも想い人がいるのなら、離婚できるのではと考えているのだ——と。
「そんな……!それにそんな噂、デタラメです」
「そうか……」
必死に言い募ると、彼は深く息を吐いた。苦々しい表情には見覚えがあり、胸がちりちりと痛む。
「……サイラスは、いつも私と話す時に辛そうな顔をしていました。それはどうしてですか?」
彼は口を開こうとして、なぜか眦を赤くする。もごもごとして、言いにくそうにしている。
「好きでもない男に笑いかけられても、不快にさせるかと……。それに、イリアを手放せない俺が許せなくて」
彼の表情は拗ねた子どものようだ。あの表情は、私に向けたものではなくて、サイラス自身に向けたものだったようだ。そう思ったら彼のことが可愛く思えて仕方なくなった。
「ふふふ」
「……笑うな」
俯くサイラスの耳は、いつの間にか真っ赤になっている。私がじっと見つめていることに気が付くと、恥ずかしそうに私の視界を手で遮った。
いつも落ち着いて余裕のある、大人びた彼しか知らなかった私は、新たな一面が見られたことで浮かれていた。
たまらない気持ちになって、彼の胸に抱きついた。抱きしめる腕に力を込めれば、すぐに抱きしめ返してくれる。身体中に幸せを感じて、もっと早くこうしたかったと思う。
「イリア」
大好きな匂いに包まれていると、名前を呼ばれた。名残惜しく思いつつ顔を上げると、思ったより近くに彼の顔があった。
「……イリア、愛してる」
「私も」
◇◇◇
次の日。
朝の気配になんとか目を開けると、隣にはサイラスがいなかった。
寂しく思いながら寝返りをうてば、壁の向こうから人の声が近づいてくる。自分の格好に慌て、毛布を深く被ればガチャリと扉が開いた。
「まったく、いったい今まで——」
「静かにしてくれ、イリアが起きるだろう」
私の初夜を一番張り切って準備していた侍女のアンと、サイラスが言い争っている。
……何だか喧嘩になりそうな雰囲気にひょこりと毛布から顔を出すと、サイラスと目が合った。
「おはよう」
優しく声をかけてくる彼と、嬉しそうな顔を隠しもしないアンに、イリアは照れながらも、幸せいっぱいに顔をほころばせるのだった。
最後までお読みいただきありがとうございました!
評価やブックマーク等していただけると嬉しいです。
今後も小説をのんびり書こうと思っているので、感想等お待ちしております。
▽追記(2025.04.05)
コミカライズという夢のようなお話をいただけたのはみなさまのおかげです。
漫画をきっかけに読んでくれた方にも、楽しんでいただけたら幸いです。本当にありがとうございました。