第七十話 ムメイの剣 下
泥湖、あらゆる刺激から隔絶されたその水上を漂い続けてどれ程になるだろうか。 既に体の自由は失われ、自らが持っていたであろう己の情報のほとんどは泥に溶けて消えた。
永久にも近い微睡の中、わかっているのはすでに自らを構成していた記憶の多くを失った『私』が未だに手放さない、何者かの後ろ姿の記憶、それはもう無意味なものでしかない事と、この思考能力の消失と共にそれも失われること。
浮上していた意識が再び沈み始める。 次は無いと直感で理解する。
ないはずだった。
喉元に切先を突き付けられたような、明確な殺意が『私』の目を覚まさせた。
反射的に殺意の元を切り払う。
二本の殺意が地面に転がる。
何の因果か、『私』は解放されたことを知る。 、身体の自由、思考の明晰化、記憶は戻らなかったが、今の私には栓無きことだった。
目の前にいる人物、その出で立ちが、いま私の持つ唯一の、かつての私の記憶の人物と重なる。
ならば『私』はかつての私が成せなかった事を成すとする。
すなわち、死合うとしよう。
ロズはナイトメアの変化を肌で感じ取る。
(先ほどまでの奴は、燃え盛る炎のような猛々しい殺気を撒き散らしていた。 対して今、ここにはそのような熱は無い。 気温が下がったと錯覚させるほどの氷の様な鋭く研ぎ澄まされた殺意。 先までの激情を束ね上げ、その切先が首に突き付けられているような感覚。 ここからが真に剣士を相手取るという事か)
ナイトメアが動く。 間髪入れずにロズも反応する。
白刃と黒刃が交錯し、あたりに火花が舞う。
ナイトメアの剣のキレが増してゆく。
(成長しているというよりかは、勘を取り戻しているといった感じだ)
ロズも必死で食らいつく。 ナイトメアの剣技を体全体で理解し即座に対応する。
この数日ギャラルの手記を寝る間も惜しんで反芻し、動き自体は頭に叩き込まれている。 そして眼の前には絶好の手本、ロズはギャラルを糧にしながらギャラルと戦う。
熾烈な剣の応酬の中、最初に動きが鈍ったのはロズだった。 ロズの軸がふらりとぶれ、ナイトメアの斬撃を捌けず吹き飛ぶ。
直ぐに立ち上がりナイトメアを牽制するが、姿が霞んでよく見えない。 急いで目をこすり、そして初めて自分の状況を把握する。
(いつの間にこんなに傷を……血を流し過ぎた、これ以上はまずいな)
ロズの身体のあちこちで、決して浅くない傷から赤い血を流していた。
それに比べてナイトメアは戦闘が始まってからの負傷は余り見られない。
理由は明確だった。
ナイトメアの剣はギャラルの剣。 きっとその剣技、剣速は加速度的に全盛期のギャラルの域まで到達するだろう。 ナイトメアがギャラルである以上それは二度目の道でしかない。
しかしロズは違う。 いくら日誌の内容を元にナイトメアの動きを頭の中で試行し適応しようとしても、それはあくまで想像に過ぎない。 通常なら数年かける研鑚を数瞬で駆け抜けていく相手に必死で追いすがっているのだ。 後塵を拝すことはあっても先んじることは未だにない。 現に上がり続ける練度に対応しきれなかった分の手傷を負っているのはロズのみである。
(凌ぐだけでは足りない。 奴の先に……一歩でも先を行かなければ……先に倒れるのは私だ)
接近するナイトメアの剣を受け流し、返し刀で胴を狙う。
(頭を切り替え続けろ、相手が動く前に動け。 対応するな、対応させろ。 受け続けていたら押し切られる!)
躱すために体勢を崩したナイトメアに向かって連撃を叩きこみ、後ろに跳ぶ。
ナイトメアの大剣がロズの鼻先をかすめる。
(浅い!)
肩で息をしながら自身の限界が近いことを察するロズ。
魔獣は、その剣先をロズに向かって放つ。
お互い気力も体力も極限状態の中、先に隙を見せたのは魔獣だった。
ロズの目ははっきりと大剣の剣先がぶれたのを捉える。
(この突きは当たらない!)
ロズを振り払うための大ぶりの薙ぎの後の距離感を見誤ったまま放たれた突き、ついにロズはナイトメアから甘い攻撃を引き出した。
またとない好機、二度とない勝機に理性も本能もここで決めろと叫ぶ。
着地した衝撃が全身を駆け巡る。 膝が笑い、視界が明滅し、口内に血の味が広がる。 身体が急激に冷め、今まで感じなかった痛みが徐々に顔を出し始める。
(体は既に限界だ……だがまだ……あと一瞬だけ!)
一瞬の逡巡、それらすべてを踏み倒し、敵に突撃する。
剣の射程距離内に入る。 未だにナイトメアの斬撃はやってこない。
迫るナイトメアの刺突を前に口に笑みが浮かぶ。
「無鳴の剣」
鮮血が舞う、そして戦いは決着した。