第六十九話 ムメイの剣 上
シドが崩壊の中心、ニーズヘッグの元に向かっている時、そこからは大きく離れた浮遊する大地の一つでロズは目を覚ました。
(いったい……どうなっているんだ? 確か地面が崩れて……私は死んだのか?)
目覚めたばかりの呆けた思考は、間髪入れずに襲ってきた鈍痛によって霧散する。
全身の痛みによって今の状態が現実であることをいやでも実感したロズは、剣を支えに起き上がる。
砕かれ、浮かぶ大地。 その中を悠々と進むニーズヘッグ。 そして真っ向から立ち向かう一筋の光。 それらのはるか後方に佇む自分。 自分の位置からはニーズヘッグも方舟も、戦線の喧騒は余りに遠かった。 認識したあまりにも非現実的な光景に眩暈を覚える。
背後からのドサリという落下音でロズは我に返る。
剣に手を掛け、ゆっくりと振り返る。
自分が倒れていた場所よりさらに向こう、傾いてしまっている木の下で黒い塊がうめいている。
その姿をロズは決して見紛うことはない。
「……ナイトメア……」
木の上から落下したのであろうナイトメアは、身体が右へ左へと振られながらなんとか起き上がる。
ロズの斬撃により切断された右腕は、その傷口から黒い若干粘性のある体液をボトボトと滴らせている。 方舟による攻撃によって胴体を覆っていた鎧は殆ど砕け堕ち、光の矢に貫かれてできた傷穴からも同じ黒い体液がにじみ出している。 そして頭の兜も今は無くその素顔が露わになっている。
その姿にはかつての黒甲冑の怪物、その面影は無い。 しかしそれがロズの姿を認めた瞬間、不気味な殺気が全身から発せられる。
傍に落ちていたナイトメアの右腕、その刀身を左手で掴み切先をロズに向ける。
殺気を、剣の切先を向けられロズは確信する、この戦いは避けられない事を。
目の前に立つ者がナイトメアか父のギャラルホルンか、はたまた別の何かなのかなど分からない。
しかしその赤く染まった、ナイトメアのものとはまるで異なる双眼に背を向けるという選択肢はロズにはなかった。
「そして何より、奴が私の全てを奪った魔獣ナイトメアだったとしても、私の父親であるギャラルホルンだったとしても、そのままのたれ死ぬ結末だけは許さない!」
ロズは剣を腰に構え、居合の構えを取る。
遠くで響く地面の崩落音、それ以外の物音がない所で二人の視線はただ互いの一挙手一投足を見据える。
唐突にビリビリと雷電の様な衝撃がニーズヘッグの元から領域中に拡散した。 それが閃光が魔獣の王に到達したことによって起こった現象だと二人は認識しない。 それは彼らにとってただの合図だった。
ナイトメアの剣先がユラリと揺れる。
その緩やかな剣の軌跡をロズは目で追う。 次の瞬間、ロズの目に映ったのは一瞬で眼前にまで迫っていたナイトメアの顔と切先を自身の胸元に叩きこもうと構えられた大剣だった。
『シャァァァァァァァァァア!』
喉から空気が漏れながらもはっきりと発せられた叫びと共に剣が突き出される。
咄嗟に引き抜いた剣はその威力に耐えきれず弾き飛ばされ、しかしそれにより僅かに狙いを逸らされた突きはロズを僅かに外れる。
次にくる横薙ぎを地面を転がりながら回避する。
(長剣1本に短剣3本……)
そのナイトメアの姿をロズは全神経を研ぎ澄ませながら観察する。
(ナイトメア……今ならはっきりと分かる。 こいつの太刀筋は間違いなく我が父のものだ。 前までは魔術とやらと併用していたからわからなかったが、先ほどからの動きはリーレ、そして記憶の中の父と重なる)
ナイトメアが再び剣を突撃してくる。
その動作にかつてのギャラル、そして手帳の剣技を重ねていく。
ナイトメアの剣がギャラルの影の剣と重なる。
「捉えた! 抜刀!!」
ロズの剣が腰から繰り出される。 剣は襲い来るナイトメアの刺突に向け振りぬかれる。
衝突の際、音はなかった、衝突はなかった。 剣は何の抵抗も受けず直線を描ききる。
そこにあったのは剣を振りぬいたロズ、切り裂かれた黒剣、そして腹の裂傷から黒い体液を溢れさせているナイトメアだった。
今初めてナイトメアの狂わんばかりな殺意が凪ぐ。
「居合 無鳴の剣」
その剣は父の残した手記に記された剣技、その奥義の一つだった。
モアから対ナイトメア部隊の参加を断られた後からの準備期間中、ロズはギャラルの手記の反芻、そしてこの技の習得のみに時間を費やしていた。
(モアの指摘はもっともだった。 私は怨敵ナイトメアの為に生き、そして戦ってきた。 しかし私の剣は魔獣を殺して研鑽された物、殺人剣ではない)
だがその問題の解は既に手中にあった。 手記に拠れば、その剣技はギャラルは兄を超えるために構築した物。 つまりその剣技はモアの言う対人の剣、ロズに最も必要なものだ。
来る日も来る日もナイトメアの幻影に向かい剣を振るった。
剣が音を切り裂くまで。
「ありがとう、父さん。 私が物心つく前にあなたが施してくれた剣の基礎は確かに、私の中に刻み込まれていた!」
刃を返す追撃は後ろへの跳躍で躱される。
「浅かったか……」
無鳴の剣の直前、ナイトメアに残されていた獣としての本能故か踏み込みを半歩躊躇した。 その結果切先が腹を軽く裂くだけで、致命傷を免れていた。
腹からあふれる体液を手ですくい、しかし先ほどの斬撃で大きく裂けた手からは零れ落ちる。
体液が手の裂傷を埋める。 なけなしの治癒能力だったのか腹の傷から流れる体液は未だに足元の血だまりを広げている。
口元から下も黒く染めながら、ナイトメアは黒剣の片割れに手を伸ばす。
背中を見せたナイトメア、その隙よりも今の奴に剣を与えてはいけないと野生の勘が強く訴える。 反射的に二本の小刀をナイトメアに投擲する。
二本は吸い込まれるように今や全く装甲の無い無防備な首筋に迫る。
次の瞬間には長剣を振りぬいたナイトメア、そして一刀にて切り落とされた二本の小刀が地面に転がる。
一瞬の事だった。 大剣の切断面に手を突っ込み長剣を引きずりだし右足を軸に半回転、その間に剣を腰に構えそのまま一閃。
音などなかった。
ボロボロの長剣を長剣を構え直したナイトメアの瞳は怪しく、鋭く光っていた。