第六十八話 それぞれの道程
リリがまだ馬車の整備を行っていた頃、方舟は無事離陸を果たしていた。
しかしその中に顔色の優れている者はいなかった。 地をのぞけば、魔獣共で氾濫している。 天を仰げば、曇天の如く空を覆い尽くす魔獣の種。 前を見据えれば……前を見据えただけではソレを知覚することはできない。 地より出でて天にそびえるソレ、ニーズヘッグは最早人の視界に入り切らない大きさになるまで迫ってきていた。
そんな中、方舟はただ浮遊していた。
決して皆にオーグの指示が聞こえなかったわけではない。 ただ皆アランからの問いをオーグが答えるのを固唾を呑んで見守っていた。
「もう一度聞くぞ、オーグ。 整備隊の面々、そして彼らを救いに行ったリリ。 この方舟に乗れなかった奴らを……どうする?」
オーグがアランの顔を見る。 その表情からは決してオーグを糾弾しているわけではないことが伝わる。 改めて周囲を見渡す。 全員がアランと同じ顔をしている。 彼らは既に覚悟をしているのだ、地上の連中を見殺しにすることを。 そしてそれを最後にオーグへ問いている。 まるでそれでいいな、と確かめるように。
大きく息を吸い込む。 それを静かに吐き出し、アラン、そしてその後ろに並ぶ面々を見据える。
「見捨てる…………訳ないだろうが! 馬鹿共め。 今から俺達は奴らを救出しに行くんだよ!」
皆の覚悟していた文言とは正反対の言葉が、電流の様に方舟中を駆け巡る。
呆気に取られている者達に不敵な笑みを浮かべながら、目の前にいるアランの肩を叩きながら彼より一歩前に出る。
「あの時整備隊が詰めていた辺りには馬小屋もあったはずだ。 そこに脱出用の馬車を作らせていた。 問題は誰がそのたづなを握るのか、という所だが、幸運にも既に良馬の村のリリが救援に向かった。 ならばカレンなら期を見て必ず皆を脱出させているはずだ。 つまり俺達が今すべきことは最速で馬車に追いつき、あいつ等の撤退の支援をすることだ!」
先ほどまで諦観に満ちていた皆の瞳に光が宿る。
「分かったのならボケっとするな! 急げば急ぐだけ奴らの生存の可能性が上がるぞ!」
船内の士気が瞬く間に上がり、皆が船の中を動き回り始めた。
オーグの周りにはアラン、そしてシドだけが残された。
「……正直、ロズの生存はかなり絶望的だと考えている。 どのみちこの方舟の進路を南に向けることはできない」
それを聞いてもアランの様子は変わらない。 正確には既に心の準備をしていた為、動揺が仕草に現れることはなかった。
「……アラン、俺の馬をここまで連れてきてくれ」
無言のままこの場を立ち去るアランを見届けた後、シドの方に向き直る。
シドにも特筆すべき変化は見られない。
(否、同じなんかじゃない。 アランは自らの感情を押し殺していたが、こいつの瞳が揺らぐ様子は微塵もなかった。 それどころか今俺は奴の黒い瞳に、神力を振るう時に輝く苛烈な赤を幻視している。 最早奴は我々と同じ括りでは測れない)
「シド、ここまで辺境と共に歩んでくれたことに感謝を示させてもらう。 三体の統率個体そして方舟、お前の貢献はとても大きなものだ。 だが俺達はニーズヘッグから逃走する、お前への説明に反してな。 そして先ほども言った通りそれはもう覆らない」
この我々の裏切りの告白にもシドの瞳は揺らがない。
「だからここが岐路だ、シド。 お前が何者かは知らないが、お前の道行きに俺達はきっと付きあえない」
「一理ある。 少なくとも死に行くお前にはきっと無理だ」
目を伏せたシドはそう言うと颯爽と甲板に上っていく。
その姿が消えた後もオーグは、アランが馬を連れて来るまでシドの行った先を見ていた。
「全く、シドの野郎。 勝手に人の覚悟を見透かしやがって」
甲板に上ったシドは船尾へと歩を進める。 その先の光景はおよそ現実のものとは思えないものへと化していた。
二ーズヘッグが地中に封じられていた巨体を浮上させた時、周囲に波及した地割れにより大地が奈落へと崩れ落ちていく。 まるで大地を支えていた致命的なものまで砕けてしまったように。
そして、さらにその先、もはやニーズヘッグの領域と化したその空間では従来の法則すら覆っている。
浮いているのだ、欠片に砕かれた大地が。
前線基地の無残な残骸が、倒壊した家々が、かつて魔獣共の巣窟だった森の木々が、そしてそれらすべての土台である大地が不規則な浮き沈みを繰り返している。
「上から下へと物は落ちる」 そんな常識を一笑に付す世界、その世界の拡張と共にじりじりと進行するニーズヘッグ。
まるで世界の縁を崩して自らの領域を広げるが如きこの所業を行う魔獣の王ニーズヘッグは、蛇の如く長い巨体を宙を浮かし鎌首をもたげながら、しかしまだ完全に覚醒した様子ではない。
『ついに…ついに来たな。 この世界に残された最後の神。 これの討伐はすなわち神殺しに違いなく、その称号は今この世で最上のもの。 我々の価値、その証明にはこの上ない相手だ』
頭に声が響く。 その声色は未だかつて聞いたことの無いほど高揚している。
「黙れ、ムニン。 これは俺の……そして辺境を守る戦いだ。 決してお前の自己満足のための戦いではない」
ニーズヘッグの元に歩を進めるごとに『羽』と呼ばれた光帯が一本また一本と背中に現れる。
『シド、君の動機が何だろうと構わないとも。 重要なのはアレが我が敵で、そしてお前の道行きの障害だという事だ』
船尾、その縁に立つ。 目の前にはニーズヘッグの巨躯、しかしその実体とは距離が離れている。
『しかし、どうやってニーズヘッグの元に辿り着く? 足場になりそうな地面の残骸群はいささか飛び移るのには遠すぎる。 言っておくが、羽は飛行には使えんぞ。 羽とは呼ばれているがあれはあくまで触手の様なものだから……』
最早ムニンの言葉に耳を傾けることなく、力強く空に向かい跳び出す。 体は宙に投げ出される。
『―――――――――――――――――』
(5 4 3)
落下の最中もムニンの言葉は続いたが落下により生じる風切り音ともども意識の内に介在する余地がない。 心臓の鼓動と神力の循環、ただそれだけを知覚しながら秒読みを行う。
(2 1 0!』
0と叫ぶと同時に落下していた体の落下が止まる。 それすなわち、この身がニーズヘッグの領域への到達を意味する。
間髪入れずにシドが背中に生えた羽、その一本を最も近い浮遊している地面に突き刺す。 そのまま振り子の様に動き、さらに先の足場に着地する。
(これならいける……ここに来て著しい神力の高ぶりを感じる。 まるで高熱の炎が体を駆け巡っているようだ。 今なら羽だって何処までも届きそうだ)
コンコンと鳴らした足音を合図に、氷が道となり足場と足場の間を繋いでいく。
上下左右、縦横無尽に幾重にも張り巡らしたその氷の橋は、しかし全てがニーズヘッグに続く。
ニーズヘッグに駆け出したシドのその紅い瞳には、さらに赤々と炎が怪しく揺れていた。