第六十七話 神域の剣技
揺り籠に揺られている様な穏やかな空間に、突如として悲鳴や怒声、雄叫びが世界を切り裂く様に響き渡る。
――――――何か起こったの?――――――
――――――何が起きているの?――――――
空のような深い青が広がる世界が徐々に土色に、そして赤色に染め上げられていく。
――――――私は何をしているのだろう――――――
霧がかかっていた思考が徐々に明瞭になっていく。同時に世界に、視界に光が差し始める。
思考が明瞭になるのと並行して、今までうっすら聞こえていた悲鳴が人間の物で、雄叫びは魔獣の物だと認識できるようになる。
そう認識すると、リーレの頭に思い出されるのは七年前のあの出来事、ナイトメアの襲来。
――――――あの時、もっと強ければ――――――
――――――もっと早く襲撃に気づいていれば――――――
身体は目覚める事を拒否しているが、頭で、意思で強引に覚醒に導く。
回復が十分ではない身体は、リーレの決断に激痛という悲鳴で警告する。
――――――私は、あの日に全てをロズに――――――
――――――辺境の為に捧げると誓った――――――
覚醒した意識で傷ついた身体に鞭を打ち、飛び起きる。
(今度こそ...今度こそ守り抜く...!)
飛び起きたリーレは、機能しているあらゆる痛覚を無視して、自身の横に立て掛けてあった剣を無意識に手に取り、外へ飛び出す。
その瞬間、顔に、身体に血しぶきがかかる。
目の前で、不快な雄叫びを挙げる一匹の魔獣のかぎ爪が、逃げ惑う人の肩から脇腹にかけてを抉り取る。
外に出たリーレの瞳には、複数の同じような光景と地平線の向こうから迫る蠢く魔獣の大群、天を覆いつくす黒い靄が映っていた。
その光景はリーレに終末の日、黄昏を想起させた。
そうした思考と並行して、リーレは流れる様な所作を以て、魔獣を切り伏せる。
黄昏を想起したリーレは、剣の柄を強く握りしめる。
僅かな時間、俯き、歩みを止める。
大きく息を吸って、同じくらい大きく息を吐く。
一連の動作を終え、火傷跡が残る顔を上げたリーレの表情は覚悟を決めていた。
その瞬間、リーレは地面を強く蹴り、駆け出す。
走りながら、剣を抜き、その動作のまま魔獣の首に剣をかけ、一気に振り抜く。
返し刀で、次の魔獣の右前脚の関節を払い斬り、体勢の崩れた魔獣を蹴り飛ばす。
そして、その動作を繰り返しながら、区画と魔獣の境を駆け抜ける。
斬る、切る、絶つ、断つ。数瞬の様にも、数日の様にも感じる時間をリーレは剣を振り続けている。数多の剣戟で、剣は刃こぼれ、身体は返り血と流血で深紅に染まっても、斬る。
無限にも感じる間、剣を振るう中で、リーレの動きは最適化し、筋力も体力も衰えながら、剣先は異音をあげる程の速度に到達していた。
剣を振るう動作は自動化する一方で、出血の多さで、リーレの意識が遠のく――――――
突如、リーレの足元の大地が崩れ落ちる。
「―――――! 危ない……!」
遠のきかけていた意識を強引に引き戻し、まだ崩れていない大地に飛び移る。
急速に色彩を取り戻した視界に映ったのは――――――大地の崩落と、地から天へと貫く様に聳え立つ邪悪の姿、ニーズヘッグの姿。
ニーズヘッグが進む度に、地は割れ、空気は異常を伝える悲鳴を上げる。ニーズヘッグが体躯を揺らす度に、天は震え、空気は紫色に汚染される。
ニーズヘッグの一挙手一投足、動きすべてが、リーレの全本能に、敵う相手ではない。逃げても良い。もういっそ楽になれと訴える。
ニーズヘッグが進んできた大地は、隆起したり、陥没したりと昨日までの世界と此処が同一だとは感じさせない程に変化させている。この世界の崩落は、リーレとニーズヘッグの距離、即ち村二つ分ほどに迫っていた。
――――――もう、無理かな――――――
リーレの人としての思考は、全てを投げ出そうとしている。
当たり前だ。この現状を覆せる手段など、リーレには持ち合わせていないのだから。
――――――もう、償いは、十分だよね――――――
地盤の崩落やニーズヘッグの吸収によって、付近には魔獣はもういない。
…………ニーズヘッグが馬車に追いつくまで数十分。
リーレの戦士としての、辺境の戦士としての思考が嫌な結果を導き出す。
リーレの全てが、この状況は絶望的であると結論づけている。リーレの全てが、如何なる足搔きも無駄であると結論を出している。
「…………でも、でもさ、あ―――、なんででしょうね」
口に出したのは疑問。リーレは、既に辺境への、みんなへの義理立ては果たしたと思っている。
思っては、いるが…………
「なんで、なんでさ。私の手は――――――」
こんなにも強く、強く、強く、剣を握りしめているんだろう。
リーレがリーレを形作っている、思考のほぼ全てが諦めている。
でも、一つ、たった一つの意思が、思考が、経験が、こう言っている。
――――――斬れる――――――
彼女は、隠してはいるが、恋に、お洒落に、普通に、恋する少女ではあったが――――
だが、どこまで行っても、剣士でもあった。
いや、剣士でしかなかった。
彼女が、彼女足りえる全て、その元凶は剣の師、ギャラルホルン。
愛すべき師匠にして、断罪すべき敵。
物心着いてからの半分以上を剣に、戦いに捧げた人生。
その彼女の、リーレの心が、斬れると言っている。
ニーズヘッグとリーレの距離は巨大な杉の木一本ほど。
足場は崩れていて不安定。
間違いなく、最悪な状況。
「――――はっ! 問題ありません」
自分でも理解できない、理解することのできないほど、自信が湧き出てくる。
疲労も、痛みも、感じない。
意識せず、口角が吊り上がる。
リーレの全ての意識は、古い記憶に集中する。
かつて師であったギャラルが語った―――――剣の神、いや、剣の鬼の話。
百回は聞いた。千回は考えた。万回は、夢見た。
夢想するは、神域の剣技。人が、神を凌駕する唯一の要素、〝技"。
その極点にして、剣の鬼が振るう剣技。
ギャラルの兄であり、宿敵でもあった剣の鬼が扱った神域の技。
大神と呼ばれた神の一柱を斬って捨てた剣。
腰をゆっくり下ろし
構える。
左手を鞘に添えて
目をつむる。
――――――ただ、速くあれ
「…………ただ、速くあれ」
――――――速さは、何にも勝る
「…………速さは、何にも勝る」
天の悲鳴も、大地の慟哭も、リーレの耳には届かない。
――――――静寂が支配する――――――
強く、強く大地を蹴る。
その瞬間――――――
世界は全てを置き去りにした。
唯一、剣の切っ先を除いて。
――――――リーレが振るった剣の切っ先は【神速】に届いた
リーレが振るった剣は、ニーズヘッグの外皮、薄皮を剥いだ。
神速の切っ先は、ニーズヘッグの外皮に触れた瞬間、砕け散る。
「…………だめ、か」
剣とニーズヘッグの衝突の反動で、リーレは大きく吹き飛ばされる。
神速に到達した切っ先と巨体を擁するニーズヘッグの衝突の反動は大きく、リーレの身体は強烈な衝撃を伴い、隆起した大地に打ちつけられる。
意識が飛びそうになるのを堪えて、敵の方を向く。
「…………!」
目を疑った。
剣が触れた外皮から、急速に傷口が広がっていく。
神速の剣が与えた衝撃は、鉄よりも、尚も固い外皮と体組織を破壊していく。
ニーズヘッグが誇る、村二つを覆って余りある巨大な胴体の半ばまで。
――――――裂けた
裂けた傷口から大量の液体が噴き出る。
噴き出た液体は、大地を、リーレを、紫色に染め上げる。
ニーズヘッグの巨体は、轟々と液体を吹き出しながら、立ち尽くした。
しかし、そこまでだった。
巨体は、大きく体勢を崩したが、リーレのつくった傷は、数分を以て再生した。
さっきの一撃に、文字通り全てを懸けたリーレは、一寸たりとも動くことは出来ない。
「あっ」
反動で吹き飛ばされ、緊張が解け襲ってきた、強烈な痛みで、声もでなかった筈が
――――――目が合った瞬間、出た
覚悟なんぞ出来ている。
でも、未練はある。
後悔もある。
それ以上に――――が、ある。
だから――――――
「生きて、ロズ」
その瞬間、巨大な質量が降ってきた。
目覚めたその時から、邪龍の見据える先はただ一つ。
道中にあった、人の営みなど眼中になかった。
だから、一人の剣士が、豆粒の様な大きさで剣を構えていたとしても、気付きすらしなかった。
だから、衝撃が走った。
だから、分からなかった。
だから――――――
眠りから覚めて、初めて感じる痛み。
それが、剣によるものだと気づくまで数瞬。
それが、人によるものだと気づくまで、さらに数瞬。
こんな芸当ができる存在など、限られている。
――――――シグルド!!
かつて、人の身でありながら、自分に立ち向かった剣士。
かつて、人の身でありながら、自分を封印せしめた戦士。
傷口に、【神力】を集中させる。
身体を再生しながら、大地を見下ろす。
探す。
見えない。
あの男が見えない。
何処だ?
邪龍の瞳に、一人の女が映る。
理解できない、理解できないが……。
手に握るのは、刀身を失った柄だけ。
神々の加護も祝福も、魔剣すらない。
ありえない。
ありえないが、他にいない。
思考が、怒りに染まる。
この程度の、人間風情に。
体躯を、人間に擦り付ける。
何度も、何度も。
確実に、殺す。
人を殺す。
背を覆う、黒き雲翼より、種子を放出する。
自らの道程を妨げるモノに死を齎すべく――――
――――種子を風に乗せる。
自らの半身分に相当する【神力】を魔獣に変換する。
狙いは、人間。
この箱庭に住まう、全ての人間。
暗雲の如く、世界を覆い、世界全ての人を鏖殺せんとする邪龍の咆哮が響き渡る。
朱き空に雲がかかる。
黄昏は未だ終わらず