第六十二話 黄昏の始まり
世界の端、辺境の最南端にある山脈が蠢きだす。
ワイズが見た時にはまだ普通だった山脈は漆黒の“何か”が纏わりついていた。
纏わりついている“何か”はそれぞれ小さな卵の様な形ではあるがしきりに揺れ動いている。
“何か”は必死にそこから飛び立とうと蠢き続ける。
そして、その時が来た。“何か”は一匹、二匹と漆黒の山脈から飛び立っていく。
一見、不定形にも見える飛び立った“何か”は、しかし明確な形を持っているのだろう。
何故なら“何か”は瞬き一つで姿を変えていく。最初、芋虫の様に見えた“何か”も僅かな時間で虎の様な姿に変わる。そして、次は次はと姿を変えていく内により奇怪で醜悪な見た目へと変貌する。
“何か”の姿にこの世に最も酷似している物は一つしかないと誰しも断言できるだろう。
この世で最も醜悪で奇怪な物など【魔獣】しかいない。
飛び立つ“何か”はいずれ魔獣となる“種子”。
今は明確な姿はないが、いずれ地に足を付ける時、母なる大蛇【ニーズヘッグ】の尖兵として世界を喰らい尽くすだろう。
最初、数匹しかいなかった“何か”は既に数百匹と空に飛び立っている。そして、それは止まることを知らずに飛び立ち続ける。
この世界の何処からでも見えるほどの混沌の息吹。
その光景は正に、黄昏の始まり。
そして辺境……いや、終末の序曲が奏でられたのである。
黒い“何か”が噴き出る様は遠く神国ヴァルハラのグラズヘイムからも見えていた。
清廉としたグラズヘイムも常とは異なり、僅かな喧騒に包まれていた。
所々から聞こえる不安な声。煌びやかな見た目に反して、常に脅威に晒されているヴァルハラといえども一線を画した緊張感。
当然、執務室にもその緊張は伝わっていた。
「始まりましたね。枢機卿」
その様を目に映した聖女は隣に立つ偉丈夫に対して言葉を零す。
「ええ。これが二度目の【黄昏】となるのか……それとも……。どちらにせよ、我らにとって吉と出れば良いのですがね」
枢機卿と呼ばれた偉丈夫はどこか楽しそうにこの災厄を見ている様だった。
「枢機卿、油断は禁物です。戦乙女の配備は終わりましたか?」
枢機卿の不敵な笑いをバッサリと切り捨て、必要事項のみを聖女は問う。
「全ては順調に。辺境付近にはエインヘリアル二十騎にワルキューレを配備しております。現状、最高の備えで間違いないでしょう。もし突破されたとあれば我も出ましょう」
恐らく神国ヴァルハラの建国以来、最初で最後の対辺境の備え。世界を喰らう大蛇が攻め寄せる。
その災厄に対して、一人の戦士たる枢機卿は僅かに高揚していた。
「そうですか」
しかし、聖女は僅かに高揚し語る枢機卿に相変わらずの無感情で肯定する。
既に話は終わったと判断したのだろう。それ以上、聖女が枢機卿に言葉をかけることはなかった。
それを感じた枢機卿も執務室を去る。
「自らの意志も願望も持たぬ哀れな聖女……か」
誰もいない廊下で枢機卿は一人、ごちる。
枢機卿が去った執務室に訪れたのは静寂。それは、普段とは幾何か違った。
それを裏付ける様に、聖女の瞳は黒く噴き出る“何か”を長い時間、映し続けていた。
「遂にこの時が来たか……」
辺境とヴァルハラの境界の直ぐ傍に布陣したワルキューレ達には特殊な緊張に包まれていた。
エインヘリアル団長リーヴァ・ワルキューレ。かつて千年も昔、龍殺しの英雄シグルドの傍らでニーズヘッグと鎬を削り、封印せしめたエインヘリアルの生ける伝説そのものである。
しかし、千年前の彼女の隣にはシグルドがいた。魔剣グラムを巧みに振るった最高の戦士シグルドが。
今、彼女の隣には誰もいない。彼女の後ろには二十人の士はいる。しかし、隣には誰もいない。
エインヘリアル団長リーヴァ・ワルキューレの隣に並び立てる者は誰もいない。その事実を千年前と同じ状況がワルキューレにより強く感じさせる。
その事実がワルキューレの瞳に現在を映させない。
(戦乙女、それは戦士を選定し導く者。戦士の傍らで戦う者。決して士を率いる者ではなかった……。今の世に真の戦士はいないのか)
そのワルキューレの複雑な思考は部下であるエインヘリアル達にも伝わっていた。
それが、かつてない難敵を前にし、草葉の揺れ一つも見落とすまいと張り詰めていた士達を特殊な緊張となり包んでいた。
只、その中で平静を装っているエインヘリアルがいた。
その者は隻腕で残った右手には青く仄かに輝く剣を握っている。
「よろしいのですか? ワルキューレ様」
その隻腕の剣士は彼等の団長たるワルキューレに言葉をかける。
「何がだ? リンよ」
ワルキューレにリンと呼ばれた剣士は言葉を繋ぐ。
「まだニーズヘッグは目覚めていません。今なら強襲をかけ、賭けに出るのもありでは? ……と」
よく見れば肌が露出している所には古傷が目に付き、歴戦の剣士であることは疑いようがないリンの意見に賛同するように他のエインヘリアルもワルキューレに視線を注ぐ。
「賭けには出られない。今の我々にはニーズヘッグを討ち滅ぼすには力が足りん。それに……御子の覚醒の可能性も捨てられない」
「御子……ですと? 御子とはシド・オリジン様で相違ないでしょうか……?」
ワルキューレの言葉にこれまで一切動じていなかったリンの顔が驚愕に染まる。
「そうだ。シド・オリジン。少し前に行方が分からなくなっていた。聖女の唯一人の兄だ」
ワルキューレは信じられないという顔をするリンに確かめるように言葉を紡ぐ。
「だからこそ、我々は見届けねばならない。この戦いを……な」
そう言ったワルキューレは此処ではない何所かを見据えていた。
黄昏と形容されるこの事態はミズガルズ連邦にも当然伝わっていた。
この事態にミズガルズ連邦最高議会は紛糾していた。
「かつての大戦に匹敵する事態ではないかね!? すぐさま全軍を事の対処に当たらせるべきである!」
「何を言っている! 全軍を差し向ければヴァルハラに横っ腹を食い破られるぞ!」
議員は口々に持論を展開し、加熱していく議会は罵詈雑言が飛び交い始める。
その光景を今まで黙して見守っていた、ある青年が咳払いをする。
その瞬間、先ほどまで喧噪に包まれていた議会が静寂に包まれる。
その青年の真紅の瞳が議場を睥睨する。
その僅かな所作で青年は議場を支配した。凡そ二百の議員は一様に青年の発言を待つ。
「事が事だ。迅速に対応せねばなるまい」
そう言って、青年はこの議場において唯一人いびきをかいている男に視線を向ける。
「神殺しの英雄オルム。手勢を率い辺境との境界線に向かえ。事と次第によっては盟約を破り、貴様自ら蛇を討て」
さほど大きい声ではないが、凛と響き渡る声で命令を下す。
その一言に、オルムと呼ばれた男は獲物を前にした獅子の様な形相に豹変する。
「ん……? ああ、俺か。任せろ。魔獣共の孕み神は俺が殺して見せよう!」
青年の命を受けたオルムと呼ばれた青年は議会の閉廷を待たずに飄々と議場を後にする。
オルムの退廷後、議会を先ほどの議題を切り上げ普段通りの審議が行われる。
ミズガルズ連邦の最高戦力たる神殺しの英雄の派遣が決定し、議員たちにとってはもはやこの一件終わったに等しいのだろう。
だが、真紅の瞳を持つ青年は黄昏の始まりを強く感じていた。
辺境より遥か遠く、東北の方角。
かつて、栄華を誇った聖霊の都。原始の大樹。
その頂に君臨する妖精女王。
その尊き女王の広間にて妖精族の各族長達は神妙な面持ちで混沌の息吹について思考をめぐらしていた。
「人の世が始まり、我らは我らの神を失った。そして、今……災厄の邪竜が目覚めた。これは神の福音ではありませぬか?」
沈黙を破り発言したのは最年少の族長。
「災厄の邪竜が福音であるはずがなかろう。邪竜を利用しようとなど考えれば、必ず儂らにも破滅が待っていようぞ」
最年少の族長を他の族長がたしなめる。
「しかし……この機を逃せば我らはこの先、永久に隷属の道を歩むことになりかねませぬぞ!」
若き族長も食い下がる。
上座に座る尊き女王が口を開く。
「やめよ。私たちは災厄の邪竜の力などに頼るなどありえぬ。誇り高き妖精族は自らの道を歩むまで」
「その為には人族との協調も必要だろう。故に私はこの一件に関してはミズガルズ連邦と協力しようと考えている」
尊き女王の言葉に一瞬圧倒されていた若き族長は尚も言い募る。
「しかし! だからといって我らの神、フレイ様の仇。あの男……ノルンと手を結ぶ必要はありましょうか!」
若き族長の反論に僅かにため息を吐き、尊き女王は言葉を返す。
「あやつは私たち、妖精族との共生を望んでいる。だから手を取るのだ。もし、この話を蹴れば私たちは邪竜ではなくとも、あのおぞましき餓狼に虐殺されるだろうな」
“餓狼”……その一言に一様に青ざめる。思い浮かぶのは冷たくも燃え盛る様な真紅の瞳と終末の剣。
「……わかりました」
若き族長は絞り出す様な声で答え、平伏する。
「うむ。しかし、決して誤解するな。私たちは人に従うのではない。共に歩むのだ! その為にこの一件で人族と共闘する意志を伝える。良いな」
そう宣言すると尊き女王は居室へと去る。そして、他の族長たちも各々の集落へと戻っていく。
「……その様な軟弱では妖精族を守れるものか。尊き女王がこの様な有様だから先代は此処を去ってしまわれたのだ……」
しかし、若き族長は広間に残り尊き女王への不満を口にする。
「先代、フリアン・メルト様。我々はどうすればいいのでしょうか……?」
誰もいない広間で若き族長は虚空に苦悩を投げかける。
永久を生きる妖精族に変化というのは何よりも厳しい事。
そして、今妖精族は時代に変化を迫られていた。
暗く昏い空間が広がっている。
恐らくこの場所を知っている者はこの世に十人といないだろう。
その暗く広い、恐らく地下空間に一人の老人が座している。
幾つもの不気味で不可思議な凹凸の一つに腰を掛けて、失われた片目に手を当てていた。
「今も尚、日向の道を歩む生命に怒り喰らう愚かな蛇が目覚めたか……」
そう呟いた老人の失われていない隻眼は侮蔑に満ちていた。
「終末を呼ぶ蛇ともあろう者が自らの終末を呼ぶことになるとはな。しかし、肝心なのは不出来な我が子が覚醒しうるか……はたまた、どうなるか」
全ての者を見下してきた老人はニーズヘッグの事すら些事と捉える。
しかし、この考えはいずれ世界を、そしてこの老人すらの目論見すらも覆す大きな波となることを老人は気づかない。
いずれ来る黄昏は誰にも止められない。
そう、神であろうと人だろうと魔獣、妖精であろうとも……。