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『足並みをそろえて』



 怪我をした体も二日と経たないうちに回復して、俺とジーナは再び仕事を探す生活に戻っていた。

 けれどやはりというか、彼女の仕事はどうしても見つからない。探し始めてからそろそろ十日が経とうとしているが、行く先々の店は、どれも彼女を見た途端にまるで腫れ物を扱うようにして追い出してしまった。

 不思議だったのは、それが明らかな拒絶ではなく、怯えたような否定だったことか。彼女自身を否定するのではなく、まるで触れてはいけないような禁忌で、彼女を自分から遠ざけているような、そんな感覚だった。

 そんな対応に違和感を覚えながらも、俺たちは十一日目の朝を迎えていた。


「今日はどうする」

「仕事探し」


 そんな十一回目のやりとりを済ませながら、ジーナが黒パンを噛みちぎる。一見すれば仕事が見つからないので苛立っているようだったけれど、やつれた目元が、彼女の疲れをわかりやすく表していた。

 同じように水気のない黒いパンを口に含みながら、ジーナに続けて問いかける。


「お前だってそろそろ疲れてるだろ。少し休んだ方が……」

「バカじゃないの。疲れてるなんて関係ないでしょ」

「そうは言ってもな」


 そんなふらふらの体では、説得力もあったものではないだろうに。


「あんたが信じてくれてるんだから。私も、頑張らないと」

「そうやって押し付けた覚えはないんだけどな」


 俺がやっているのはあくまで彼女が変われるように手伝っているだけで、彼女を無理やり変えようとしているわけではなかった。そんなことをすれば、彼女が何処かに行ってしまって、もう二度と戻ってこなくなってしまうような、そんな気がした。

 強く放った言葉に気圧されたのか、ジーナは机に体を伏せる。普段のように噛み付き返してこないあたり、相当やられているのが目に見えて理解できた。


「……早く仕事見つけないと。このままじゃ、いつまで経っても変わらないし」

「そう、だな」


 うつむいた彼女の顔に浮かぶのは、逃げ場のない焦りの表情だった。

 既に彼女は限界が近い。それこそ、今まで限界に達していなかったことが不思議なくらい、彼女は過酷な環境を生きてきたのだろう。だからこそ、彼女は救われなければいけないと思う。俺のように、このまま腐り落ちていくようになってはならないのだ。

 そのために。


「ジーナ」

「なに」

「今日一日、俺に付き合え」


 そう言うと、少しの間を置いて、ジーナは体を起こしながら俺に訝しげな視線を向けてきた。


「何すんの?」

「遊ぶ」

「は? 絶対に嫌よ。あんた一人で勝手にやってなさいっての」

「……いいか? お前を食わせてやって、寝床まで与えて、毎日付き合ってるのは俺なんだぞ。少しくらい言うことを聴いてもいいんじゃないか」

「うぐ…………」


 ばつが悪そうになって、ジーナが再びうつ伏せになる。正直こんな事は言いたくなかったけれど、彼女を引き留めるにはこれくらいしか思いつかなかった。

 そもそも、俺は彼女が此処に居ることに何の不満もないし、寧ろ俺の手の届くところに居られるのなら、嬉しく思うけれど。


「とりあえず、ひと段落したら出かけるぞ」

「ったく、なんでこんな……わかったわよ。好きにすればいいじゃない」


 最早言い返す気力も無いのか、横に顔を向けたままジーナがそう口を尖らせる。

 果たして、俺達が家を出たのは、丁度昼を過ぎるころだった。



「なんで私がこんなとこ……」


 家で昼食を済ませ、俺達が歩いているのは、街の中でも一番の通りだった。

 行き交う人々はいつもの者よりも多くなり、けれど隣のジーナへ向けられる視線は少ない。場所としてはにはジーナがいつもスリをしている通りの反対側に位置しているので、彼女の顔を知らない者の方が多いようだった。

 つまりは、ここなら彼女も普通に過ごせると言うことで。


「お前、普段は何してるんだ」

「んな事、あんたが一番よく分かってるでしょ」


 つん、とジーナが頬を膨らませる。その泳ぐような視線は、無意識なのか仕事柄なのか、街を行く人ごみの中を狙っていた。

 もはやそれは癖になっているのだろう。確かにこれなら、俺どころか彼女を知る人間なら分かり切っている事か。


「そうじゃない。休みの日の話をしている」

「無いわよ。毎日、お金を集めることしか考えてなかったから」

「……そうか」


 うつむきがちに言う彼女の手を強く引いて、こちらを向かせる。


「なら今日は休むことを覚えろ。金の事も何も考えなくていい。楽しい事とか、やりたい事とか、そういうのだけ考えてろ」

「んな事言ったって……」

「いいから。ほら、どこか行きたいところとか、何か欲しいものとか」

「……ない。知らない」


 それだけ言って、彼女は黙り込んでしまう。どうやら自分の事を知らないのは、俺だけではないようだった。


「それなら、適当に歩いてみるか」

「適当って、あんたも何も考えてないじゃない」

「いいだろ、何も考えずに歩くのも。それにこうやって普通に振る舞えば、お前を追い払ってった奴らの見方も変わるかもしれないし」

「それ、今考えたでしょ」


 それが正しいかどうかは置いておくとして。

 なんだかんだで観念したのか、ジーナは俺の隣を黙ってついてくるようになった。そう思えば、二人でこうして並んで歩くのはこれが初めてだった。俺が追い付こうとしても、彼女はすぐに、前へ前へと進んでいってしまっていた。

 おそらく、俺はそれが怖かったのだろう。彼女がどこかに行ってしまわないか。もう二度と手が届かないところにいってしまうんじゃないのか。そう考えることすら、俺は避けていたのだから。

 それは、一つの我儘だった。彼女が俺の手の届くところに居てほしいと、そう強く願っていた。これ以上、彼女が見えない闇へ進むのが嫌だった。

 だから。


「手」

「……なに?」

「手を、繋ごう」


 呆けたような顔をして、ジーナは俺の手を取ってくれた。


「ま、あんたの言うこと聴く、って言っちゃったしね。何考えてるのかは知らないけど、別にいいわよ」

「……ありがとう」


 こんな俺の我儘でも、彼女は受け入れてくれた。その事に俺は救われるような嬉しさと、少しだけの自責を感じていた。

 同じ様に進んで、手を伸ばす事が出来る。これならどこまで行っても、彼女を見つけられるような気がした。


 街中を歩きながら、さてどうしようか、と考えていると、ふと甘い香りが近くから漂ってきた。まるで胸にのしかかって来るような、そんな濃厚な香りに思わずたじろいていると、ふと手を強く引かれているのを感じた。


「ジーナ?」

「なに?」

「食いたいのか」


 問いかけると、彼女はすこし為らながらも、小さく首肯した。


「あんな甘そうな香り、嗅いだことないし。食べてみたい」

「いいだろう。行こうか」


 砂糖の焦がした匂いと小麦の焼ける香ばしい匂いに釣られるように、ジーナが俺の腕を引きながら人ごみを抜けていく。そこに在ったのは街中でよく見かける焼き菓子の出店であった。

 小麦で作った薄い皮に、焼いた林檎だったり、白クリームだったりを巻いているらしい。近くによると一層深くなる、胸やけするような匂いが、その甘さを嫌というほど教えてくれた。


「いらっしゃい」


 あまり忙しそうではない店員の男は、こちらににっこりと笑みを浮かべていた。


「何作りましょうか」

「ジーナ、お前何がいい」

「……いちばん甘いやつ」


 行き場の無い答えに呆れていると、彼は肘をつきながら答えてくれた。


「それじゃあおすすめはこのイチゴのやつだね。とにかく甘い」

「じゃあ、それを二つ」

「あいよ。金貨四枚と、銀貨二枚だね。すぐできるから待ってな」


 彼女の手を離して懐から五枚分の金貨を出すと、店員は奥の方へと消えていく。そして漂う甘い匂いと共に、ジーナが少しだけ興味がありそうに呟いた。


「カインも、同じのでよかったの?」

「いや、俺もここに来るは初めてだから」


 そもそもこういう菓子の類はあまり好きではないけれど。


「ま、確かにカインがこんなところ来てたら、それこそおかしいものね」


 くすりと彼女がおかしそうに笑う。俺もそれにつられて、思わず笑みをこぼしていた。そうしていると、調理の終わった店員がやって来て、甘ったるい匂いを放つ焼き菓子を二つ、俺へと手渡した。


「ほいよ。お待ち」

「ああ、ありがとう」


 片方をジーナへ渡した後、店員から八枚の銀貨を受け取る。


「彼女さんの分、少しだけサービスしといたから」

「……彼女? ああ、ジーナのことか。ありがとう」


 そう答えると、後ろのジーナから、小さく蹴りを入れられる。

 

「何するんだ」

「行くわよ」

「は?」

「いいから、さっさとする!」


 顔を赤くして喚きながら、ジーナがふてくされたようにすたすたと歩いていく。首を傾げたままもう一度店員の方へ振り向くと、彼は意地の悪そうな笑みを浮かべたままだった。

 一人で菓子をほおばっているジーナへ追いつき、同じようにそれを口へ含む。イチゴの甘酸っぱい風味と、クリームの柔らかい感触に、思わずもう一度自分の手の内にある焼き菓子へ目を向けた。

 甘すぎる菓子の事は置いておいて、ふてくされているジーナへ声をかける。


「どうしたんだ、あんないきなり」

「どうしたって……あんた、本当に分かってなかったの?」

「分かるも何も、急に蹴られたら誰でもああなるだろ」


 そう応えると、呆れたようにジーナが肩を落として、答える。


「あんたと私が恋人に見られてたってこと。本当あんたって何も知らないのね」


 溜め息を吐く彼女の頬は、まだほんのりと赤いようだった。


「俺とお前が?」

「そう。ってかなに、マジで言ってるの? さすがに酷いわよ、あんた」

「……すまない。そこまで余裕のある人間ではなかったから」

「以外ね。騙されてコキ使われてそうだったのに」


それはどういう見方なんだろうか。訝しげな彼女の視線に、俺はまた首を傾げていた。

 ほのかなイチゴの匂いを漂わせ、彼女が甘い焼き菓子をもぐもぐと食べていく。意外にもそのペースは速く、俺が三口目をなんとかして呑みこんでいるころには、既に彼女は半分ほど食べ終えていた。

 少しの間を置いて、ふと彼女が口を開く。


「で? 何か言うことは?」

「何か……?」

「……少しくらいは何か感想とか、あってもいいんじゃないの」

「感想? ああ、これか。少し甘すぎるというか……」

「あーもうっ! あんたって本当に面倒臭いわね!」


 耐えかねたように叫ぶ彼女が、こちらを覗く。


「カインは私と恋人に見られて、どうだったって聞いてるのよ」


 呆然としていた俺は、すぐに応えることが出来なかった。 

 悩む、というよりは本当に分からない。別に俺は彼女とそう言った関係になることは望んでいないし、彼女もまたそれを望んでいないはず。

 やがて口から洩れたのは、頭で考えたことの、そのままだった。

 

「あまり……良く、分からないな。そう言う経験が、なかったから」

「……っ、そ。それならいいわよ、別に」

「けれど」

「…………けれど?」


 不安そうな彼女の声に、答える。


「その親しい関係になれたとして……お前が、そういう余裕を持てるようになったなら、それは良いものだと思う」


 今のように詰まったままではなく、そうした普通の事を考えられるのなら、それが変わるという事ではないだろうか。そうやって他の事も考えられるようになるなら、彼女はまた一歩進んだことになるのではないか。

 それが今の俺の本心で、答えられる全てだった。

 

「……甘すぎ」


 しばらく呆然としていた彼女は、思い出したようにそう呟いた。


「何がだ」

「今の状況も、このお菓子も。甘すぎて、嫌になりそう」


 心底呆れた様子で、彼女が食べ終えた菓子の包装紙を睨む。けれど、そこに焦りの表情は見えず、どこか少しだけ、満足しているような笑みが、彼女の口元に見えた。


「てか、あんた全然食べてないじゃない」

「……実は、甘いの苦手なんだ」

「ならなんで頼んだのよ。あ、食べたげよっか?」

「いいのか、頼む」


 既に食べ終わっている彼女に自分の分を差し出すと、彼女は一瞬だけ目を見開いて、それからまたこちらを睨み始めた。


「……何だ」

「あんた、本当そういうところよ」

「良く分からないが……いらないなら無理しなくていい」

「いや、いる。よこしなさい」 


 俺の手から奪い取り、彼女が少しだけ迷った後にぱくりと菓子を口にする。あれだけ甘いと言っていたけどどうやら彼女は気にったらしく、もぐもぐと両手でつかんで食べるその姿は、小動物を思い起こさせた。

 しばらく歩いているうちに彼女はもう一つの菓子もぺろりと平らげて、再び街中を二人で歩く。ふらふらと歩いていると、脇に控えている店に服屋がちらほらと顔を出していた。


「そういえばジーナ、お前は服とか買わないのか」

「別に? 買う必要ないし」

「けどいつもその恰好だろ」

「……それが何よ」


 上半身をすっぽり覆うようなフード付きの上着と、それに隠されたぼろきれのような衣服に、下はつぎはぎのショートパンツ。改めて彼女を包んでいる衣装を眺めてみると、やはり少しだけ歯がゆいものがあった。


「身なりもしっかりしないと、また悪い印象を持たれるぞ」

「変わんないわよ。どうせ顔でバレるっての」

「あのなあ……」


 開き直る彼女に、溜め息をひとつ。


「とにかく行くぞ」

「はぁ? だから意味ないっ――……ああもう、話聞かないんだから!」


 届く彼女の手を取って、店の中へ。

 中は何も言えるほどでもない、至って普通の服屋であった。それでもジーナはそれが珍しく映っていたのか、並ぶ棚に目を移しながら、俺の後ろを黙って着いてくる。


「どういったのがいい?」

「……知らないわよ。服なんて選んだことないんだから」


 肩をすくめる彼女に、ふむ、と一つ考える。


「じゃあ適当に見繕うから、適当に着て来い」

「何よ、あんたも知らないじゃない」

「いいから」


 ぺらぺら喋るジーナにいくつか取った服を押し付けると、彼女は渋々といった様子で被覆室を探し始めた。

 実際に俺も服に関してはあまり知るところではないのだが、それでも今の格好よりはマシになるだろう。それで彼女への視線が少しでも変わるのなら、それで満足だった。

 やがて初めてでは絶対に分からないだろう、入り組んだ場所に被覆室を見つけたジーナが、カーテンを乱雑に開ける。


「……覗くんじゃないわよ」

「するか」


 そんな軽い言葉を交わして、しばらく。

 少しの衣擦れの音と共に、再びカーテンが開けられた。


「ほら、これで満足した?」

「……まあ、及第点だな」

「何よその感想は」


 袖口が余るくらいの白いセーターに、下は膝の上までの赤いスカート。その上にはいつもの黒い上着を羽織っているけれど、元の格好よりは随分とマシになった。

 などと言うことを考えていると、ジーナは何か違和感を感じているのか、スカートの裾をつまみながらきょろきょろと足元を見回していた。


「どうした」

「……スカート、短くない?」

「別に今までと変わらんだろ」


 そう答えると、彼女はむっとした顔で、けれど次の瞬間には呆れたように息を吐いた。


「ま、あんたがこういうの好きならいいんだけど」

「……そうだな、綺麗になったとは思う」

「ふふ、どうも」


 そう言葉を返すと、彼女は少しだけ恥ずかしそうに、しかしどこか満足した様子で笑った。



「次はどこ行くの?」


 服も変え、機嫌も出るときとは真逆になったジーナが、こちらに問いかける。


「すまない……ここから先は、あまり考えていなくて」

「別にいいわよ、あんたの好きなところで。私もその方がいいし」

「……そうなのか?」

「大丈夫よ。ほら、早く連れてってよね」


 こちらへ手を突き出しながら、ジーナは穏やかな笑みを浮かべている

それは今まで見たことのなかった彼女の笑顔で、何かに圧されるような重たい色も、迫るような乾いた色も、何処かへと消えてしまっていた。

 そんな彼女の手を握りながら、俺はジーナと共に歩く。


「そうだな……また、甘いものでも探してみるか?」

「あんた苦手なんでしょ、無理しなくてもいいわよ」

「なら、適当に歩いてみるか」

「そうね、あんたと一緒ならどこでもいいわよ」


 そう語るジーナの頰を、風が撫でる。春のはじめ、まだ強さが残っているその風は、彼女の髪を揺らしていた。


「……髪、邪魔じゃないのか?」

「ん? ま、そうね。でも、伸ばしてるから」


 目にかかるほどの、細い金糸をいじりながら彼女が答える。


「髪は最終手段よ。一応こんなのでもお金にはなるから」

「金になる、って」

「そうよ。金になるならなんだってするつもりだったもの。そうでもしないと、生きていけないから」


 また、乾いた色が戻ってくるようだった。


「髪飾り」

「え?」

「髪を留めるものを、買おう」

「……うん、わかった」


 俺のその提案に、彼女はどこか満足したような笑みを浮かべていた。

 結局のところ、それらしい建物を見つけたのは、そう遠くない、こじんまりとした小物屋であった。髪飾り、というよりは雑多なものを置いているらしく、店先には動物を模した小さな置物や、色とりどりの装飾品が並んでいた。


「こういうものは?」

「興味ないわ。それこそ、そんな余裕なかったもの」


 生産性もなければ、必需品でもない。彼女には一番遠いもののひとつだったのだろう。

 ジーナより少し高いほどの棚を抜けて生きながら、髪飾りが置かれている、小さく収まった場所を見つける。ジーナはそこで様々にある髪飾りをいくつか手にとっては吟味していると、ふと彼女はこちらを向いて、少しためらいがちになりながら口を開いた。


「あんたが選んでよ。どれが私に似合うと思う?」

「俺にそういう感性はないぞ?」

「いいから。あんたが選んでくれたなら、なんでもいいのよ」


 そう言われると、どこか少しだけ歯がゆいものがあった。並んでいる髪飾りが、どうしてか威圧感のあるものに思えた。

 覚束ない俺の手は宙を何度か巡って、やがて一つのそれへと、長い時間をかけてたどり着いた。


「これなんか、どうだろうか」


 白い花を象った、いたって普通の髪留めであった。それはどこか、彼女が憧れている、小さなそれに似ているようだった。


「いいじゃない、ちょっと待ってなさい」


 そう答えながら、彼女はそのまま後ろで留めた髪へ手をやった。そうしてジーナが首を振ると、まるで太陽の光を反射するようにして、きらきらとした金の髪が、花が咲くようにして広がった。

 呆然としたままの俺の手から、ジーナが髪留めを拾い上げる。


「髪、熱いし重くなるのよね。だからいつもは後ろで纏めてるんだけど」


 白い花が添えられて。


「こういうの、どう?」


 碧色の瞳は、その金の中でより一層の煌めきを見せてくれた。


「……お前、髪下ろすと雰囲気変わるな」

「そう?」


 金糸にすっぽりと包まれたような彼女からは、いつもの活発とした強いものではなく、どこか弱く儚い、とても大人びた雰囲気を感じた。髪の結い方ひとつでこうも変わるのか、それとも彼女だけが特別なのか、果たしてどちらかは分からなかった。


「そういうことを言われたのは初めてね。でも、悪い気はしないわ」

「……今日は初めてが多いな」

「そうよ。こうやって、髪を下ろしたところ見せたのも、あんたが初めてなんだから」


 透き通るような、混じり気のない金髪を梳いて、彼女が呟く。


「……本当に、今日は初めてがいっぱいだった。誰かと一緒にこうして過ごすのも、あんなに甘いお菓子を食べるのも、こうして着飾るのも、全部初めてだった。今までの私なら、こんなこと一生できなかった」


 限界にかられ、金に迫られる彼女のままでは、おそらく今日の経験は全てはねのけるものだったのだろう。それこそ、今朝の彼女のままだったらそのまま変わることもなく終わってしまたかもしれない。

 けれど、こうして初めてのことをかみ締められるのなら、それはとても素晴らしいことだと思う。


「私いま、すごく楽しい」


 その言葉が、やはり俺の心の空白を満たすのだった。



 夕日の照らす街並みを抜け、いつもの路地裏へ。光は遠くの方へと過ぎてゆき、昼間の明るさがまるで夢のような、幻想のように感じられた。

 壁の隙間から見える夕空を見上げていると、バケツに入った水を換えていた彼女が、ふと俺へと視線を投げる。


「今日はありがとね、カイン」


 唐突に言われたその言葉に、けれど俺はすぐに頷いた。


「息抜きができたのなら、それでいい。また明日から頑張れるな」

「うん、カインのおかげだよ」

「……別に、俺が何かしたわけじゃない。それはお前の立ち直れる強さだ」


 彼女がそうなれたのなら、それでいい。そうして変わってくれるのなら、他に言いたいことはなかった


「今日ももう遅いが……どうする? 帰るか?」

「……うん、帰ろう。あ、あと夜ご飯の材料も買っていかないと」

「そうか、なら一緒に」


 お互いに差し出した手を取って、足並みをそろえて。

 このままの彼女ならすぐに変われるはずだと、この暗闇から抜け出せると、そう思っていた。


 そして。




 彼女が姿を消したのは、その翌日のことだった。





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