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『やさしいひと』


 アイゼンティア。


 小さな蕾を指先で撫でると、さらさらとした、とても小さな感触が伝わってくる。太陽の光も届かずに、首を吊ったひとのように蕾は固い地面へ伏せたまま。誰の目にもつかず、ただひっそりと暗闇にあるその花を、俺は憑りつかれたように見つめていた。


 彼女は、この花が好きだと言った。そして、この花が羨ましいとも。

 その事が、どうしてか他人の事ではないように思えた。こんな薄く暗い場所でも、そう在れることは、俺の目にも羨ましく映えていた。

 太陽は既に傾き、空は薄い紫に染まっている。冷たい風が背中から吹いて、手のひらの白い蕾を優しく揺らし――


「……カイン?」


 風音に混じって聞こえた声へ振り向くと、そこには訝しげな顔でこちらを見つめているジーナの姿があった。


「ジーナ? お前、スリはどうしたんだ?」

「あんた見張り失格ね。向いてないから今すぐやめなさい」


 そんな悪態とともに、ひゅん、と金貨が投げられる。手の内でそれを受け取った俺は彼女にスリを止めるように言うのも忘れ、ただ呆然と掌の上の鈍い輝きを見つめていた。

 そんな俺を見下ろしながら、彼女がため息混じりに口を開く。


「それにしても、こんなとこで何してんのよ」

「……昨日、お前が言ってただろ」

「いや、確かに言ったけど」


 足元を差すと、ジーナは呆れたような顔をした後に、くすりと意地の悪そうな笑みを浮かべた。


「なぁーに、あんた私が話してただけで見に来たの? あんたってほんとヒマねぇ」

「そう言う訳ではない」


 強く否定した後の言葉は、続かなかった。

 どこかへ行ってしまったその言葉を探すように白い蕾を見つめていると、ふと隣でジーナが膝を折って、こちらの顔を覗き込んできた。


「……この花、そんなに気に入ったの?」

「かもな」


 少なくとも、こうして一人で見に来るくらいには。


「とても、綺麗だと思う」

「……そ。ふふっ、そう言ってくれてよかった」


 そうやって彼女が浮かべたのは、年相応の少女らしい笑みだった。


「この場所を他の人に話したのね、カインだけなの」

「そうなのか?」

「もちろん。こんな汚いところで花の世話してるなんて、普通の人から見たら変じゃない」

「それは……そう、なのだろうか?」


 呆れたように肩をすくめて見せる彼女に、俺はただ首を傾げることしかできなかった。

 それが自分のやりたい事ならば、別に変ではないと思う。彼女がこんなところで花を愛でていたとして、それをおかしいと笑えるのは、それこそ彼女自身だけではないのだろうか。

 彼女の言葉は、ときどき良く分からない。それを理解するのは、今の俺には不可能に思えた。


「ま、それはどうでもいいのよ。それより水よ水。ちゃんとあげないと、枯れちゃうかもしれないんだから」


 心に生まれた疑問をかき消すように、彼女が立ち上がる。そうして昨日のように蓋の被っているバケツから水を木の入れ物へと注ぐと、再び俺の隣へと腰を下ろした。

 降り注ぐ水が、白い蕾を伝って地面へと落ちる。


「ねね、カイン。アイゼンティアの花言葉って知ってる?」

「花言葉?」


 確か花にはそれぞれ何か象徴する言葉があると聞いたが、それがこの花にもあるらしい。首を傾げている俺へ、ジーナは何かを思い出すように、白い花を遠い目で見つめながら教えてくれた。


「アイゼンティアはね、『そのままのあなたで』って意味なの」

「そのままの、か」

「そ。素敵じゃない? 何にも変わらなくても良い、自分は自分のままでいい、なんて言ってくれるなんて。私はずっと変わりたいって思ってるのに、そんな風にあるなんて」


 そう語る彼女の瞳には、やはり羨望の色が刺しているのだった。


「本当に、反吐が出るほど羨ましい」


 微かに呟いたその言葉は、風の音に溶けていった。

 空になった木の入れ物を適当な場所に置いて、ジーナは冷たい壁に背を預けていた。遠くにある空は既に暗く、夜の訪れを告げている。そんな暗い夜空を見上げながら、ジーナは口を開いた。


「……あのさ、カインは私に変われるって言ってくれたじゃない」

「お前がそう思うならな」

「なら、もし……ううん、上手く言えないなぁ……」


 うつむいた彼女の横顔は、色を失っていた。


「私ね、今の自分が大っ嫌いなの」

「どうして?」

「変わろうって思ってるのに、変わろうとしないから。叶わない夢を見てるだけで、今の自分に目を向けることすら出来ていないから」


 誰かの言葉を思い出す。


「私ね、もともと貧民街の産まれでね、なんとか逃げ出してきたのよ。でも駄目だったわ。私、これ以外の生き方を知らなかったの。今の私から変わることなんで無理だった。どこにも行けなかったの」


 自らの手のひらへ視線を落とし、彼女は続けた。


「真っ当な生き方だって、考えた。けれど、こんな身寄りもない汚いガキの面倒を見る奴なんて、いなかった。ほんと、こうやって話を聞いてくれるの、カインだけだよ」

「……別に、話を聞くのに身の上の事は関係ないだろ」

「ふふっ、だからあんたは変だ、って言ってるのよ。ま、それが良いんだけどさ」


 からからとした彼女の笑顔は、泡沫のように消えていった。


「だから、私は変わりたい。それなのに……なんでだろうね。ちょっとだけ、震えてる自分がいるの」


 ぽつりと呟いたその言葉が、心にすぅ、と吸い込まれる。

 星空を見上げる彼女に、何故か手を伸ばしたくなった。


「今のこんな私は大嫌い。それこそ、今の自分を殺して変わりたいくらいにはね。でも、さ。その先なんて誰も分からないわけじゃない。私じゃない私なんて、それは本当に私、って言えるのかな」

「それは……」


 紡ごうとした言葉は、喉の奥でぐちゃぐちゃになって、どこかへ落ちてしまう。けれど、彼女の抱いているものは嫌というほど理解できた。まだ見えない自分へ対するとても曖昧で儚げな希望は、ひとたび触れれば、もう二度と元に戻らないほどに壊れてしまいそうだった。

 静寂が一つ。


「そのままのあなたで、なんて……こんな風に生きたかった」


 足元で揺れる白い蕾に、ジーナが優しい視線を向けていて、



「どこかへ行ってしまいそうなら、俺が見つけてやる」



 気が付けば、俺はそんな事を口にしていた。


「進むのが怖いのなら、何度でも背中を押してやる。変わるのが怖いなら、そのままのお前を見つけてやる。簡単な話だろ。そうして少しずつでいいから進めばいい。そうすればお前の夢も叶えられるはずだから」


 本心を語っている口は、止まろうとはしなかった。


「……カイン?」

「何だ」

「あんた、自分で言ってること分かる?」

「これしか分からない。俺にはそれしかできないから」


 信じられないようなものを見る目でこちらを覗くジーナに、そう答えた。


「……バカみたい。自分のこと、何も分かってない」

「ああ。けど、お前のことは少しだけ分かった。いいじゃないか。好きな所へ行ってくれば。お前ひとりくらいなら、すぐに見つけてやるさ。だから、心配しなくてもいい。自分の変わりたいようになるといい」


 そうできるのなら、そうしよう。彼女に手が伸びるのなら、そうしよう。

 たとえそれが彼女でなくても、俺はそうしたかもしれない。それが見知らぬ誰かであっても、それが届かないはずの手であっても、俺は迷わずに伸ばしたのだろう。

 ――自分の事が、少しだけ分かったような気がする。


「決して、俺のようにはなるな」


 さっき喉の奥で腐り落ちた言葉が、這いずるように漏れた。


「……ほんとに、あんたって意味わかんない。何考えてるんだか」

「さあな。自分でも分からん。でも、正しい事を言ったと思っている」

「……ふん。あんた、いつか後悔するわよ」

「何だそれ」

「まだ分かってないのね。ほんっと、イライラする」


 昨日言われた言葉が、心の中で繰り返される。けれど、きっと俺はその後悔を受け入れられるがした。

 溜め息を一つついて、ジーナがこちらへ振り向く。

 

「前から思ってたけど、やっぱりあんたは――」 


 それに続いたのは、彼女の言葉でも、俺の言葉でもなく。


「なぁーぉ」


 という、足元から聞こえる間伸びた声だった。


「………………」

「………………」

「………………なにそれ」

「猫じゃないのか」

「いや、猫なのは分かるけど」


 落とした視線の先にいるのは、俺の足元へと体を摺り寄せてくる黒い猫だった。大きさは両手に乗せられるほどで、まだ子供らしく、その大きな月の様に明るい瞳はじっとこちらを覗いているのだった。

 会話を遮られたのが癪なのか、ジーナは口を尖らせながら、けれど少しだけ興味を持った目で俺の足元へとしゃがみ込む。そうして子猫の頭へと手を伸ばすと、わしゃわしゃとその毛並みを乱暴に撫でた。


「なぁー」

「小さいわね。子供? それもまだ生まれてすぐじゃないの?」

「間もないだろうな。どうしてこんなとこにいるんだ」


 小さな体を持ち上げ、手の内でわしゃわしゃと子猫をいじっているジーナが、ふと気づいたように口を開く。


「あ、この子、ケガしてる」

「なに?」


 よく見れば、黒い毛並みの体に、どこか薄黒い紅色が混じっているのが見える。短い毛を撫でるジーナの指には、まだ暖かいような赤い色の液体が付いていた。

 しかし、それすらも気にかけないように、小さな猫は俺達の顔を、ただじっと見つめていた。


「……捨てられた」

「なに?」

「どうせ、親に捨てられたんでしょ。そうじゃなきゃこんなとこに一人で来ないし、こんなケガをそのままにするはずないもの。見捨てられたのよ。かわいそうね、お前」

「なぁー」


 そう呟くジーナの瞳は、どこかで見たことのあるものだった。まるで鏡を見ているような、先にある自分を睨んでいるような、そんなどこかへ向けた憎悪。彼女が今の自分を嫌っている、というのが、心のどこかで反芻していた。

 親に捨てられ、路地裏を彷徨って、俺たちのところに辿り着いた。偶然といえば、偶然なんだろう。ただそれだけの事だ。別段、気に掛けるような事じゃない。ありふれた話だ


 けれど、もし。

 もしも、誰もいない暗闇の中で、助けを求めた挙句、こんな俺のところまで辿り着いたのなら。


 それくらい、なら。


「助けるか」

「…………は?」


 土地勘があまりないから不安ではあるが、恐らくここからなら近い筈だ。


「行くぞ」

「……行くって……どこに?」

「アテがある。傷口さえ塞げば治るだろ」

「な、なんで? 別に助けたって意味ないんじゃないの?」


 きょとんと眼を見開いているジーナに、思わず首が傾いた。


「なぜだ? 助けない理由がないだろ?」



 古ぼけた木製のドアを何回か叩くと、しばらくして静かな足音が聞こえてきた。


「はいはい、どちら様で……す……」


 果たして、ドアの向こうに立っていたのは、白衣を着た男性であった。

 ひょろっとした高い背格好に、少しやつれたような表情をした、俺より一回りか年上の男性。耳に掛かるくらいで整えられた茶髪と丸眼鏡が、初めて会ったときから印象的だった。

 俺を目の当たりにしたまま少しだけ固まったそいつは、しばらくの間を置いたあと、再び口を開く。


「……カイン? 何しに来たの?」

「包帯をくれ、クラウス」

「いきなりすぎるでしょ……過程を説明しなよ過程を」


 溜め息をついた彼――クラウスに、後ろで立っているジーナを親指で示した。


「猫が怪我をしていた。包帯が要る」

「……うち、獣は診てないんだけど」

「何か問題があるか? お前のところ、包帯置いてなかったか?」

「いや、違う……そうだな、お前は見境がなかったよな……いいよ、そっちも上がって。まだ営業はしてるから」


 それだけ残して、クラウスが扉の向こう消えていく。未だにきょとんとしているジーナに目をやって、俺達は枠が腐り始めた木の扉をくぐった。

 目に入ってきたのは、薄汚れてはいるものの、最低限の清潔が保たれた小さな受付のような場所だった。その奥はカーテンで仕切られており、どこからか嗅ぎ慣れない薬品の香りが漂ってくる。


「ここ、病院?」


 明るすぎるくらいの白い光に照らされながら、ジーナがそんな疑問を口にする。


「そ、ヒト用の病院。はじめまして、僕はクラウス。そこの間抜けな男との知り合いで、ここで病院を営んでいる。それで、お嬢ちゃんは?」


 カーテンをくぐり抜け、大きめの箱を持ってきたクラウスが、彼女に応えた。


「……お嬢ちゃんはやめて。ジーナでいい」

「そうかい。じゃあジーナちゃん、こっち来て。僕も寝たいから早く済ませるよ」


 並べられた小さなソファーの一つに座り、クラウスが隣をぽんぽんと叩く。少しだけ考えた後に、ジーナはクラウスの隣に座って、手のひらに乗せた小さな猫を彼へ差し出した。

 クラウスとジーナの真正面に回り込むようにして、俺も床へ腰を下ろす。


「ん、ありがと。これなら傷も塞がりかけだし、ちょっとやっちゃえば終わりだね」

「そうなの?」

「そうなの。心配しなくていいよ。あ、あとジーナちゃん、この子の血は触った?」

「えと、少しだけ」

「なら奥の方に水道があるから、そこでしっかり洗ってきてね」

「……わかった」


 素直に頷いて、ジーナが指されたカーテンの向こうへ歩いていく。クラウスの手の上でされるがままに巻かれていく猫は、何もわかっていないように、再び間抜けた声を上げるのだった。

 獣相手だというのに、するすると手際よく事を進めてくクラウスが、ふと口を開いた。


「それにしても珍しいね。君はこういうのには嫌われそうだと思ったけど」

「ああ。いきなり足元にすり寄ってきたからな」

「……待て。これ、野良?」

「言ってなかったか? 首輪ないだろ」

「ってことは君、そこらへんの野良猫の怪我を治すために、こんなとこまで来たのかい? それもただの包帯目当てで?」

「そうなるな。迷惑だったらすまん」

「…………………………」


 何か言いたいなら言えばいいのに、クラウスはそれを無理やり呑みこんだようにして、代わりに大きなため息を吐いた。気が付けば処置は既に終わっており、何をされたかも分かっていないような猫は、自らに捲かれた白い布を見つめている。

 本当なら包帯を貰って自分でする予定だったが、クラウスはよほどのお人好しなのだろうか。その話を持ち出す前に自分で終わらせてしまった。 

 間抜けそうにソファーから落ちそうになった猫を、両手で受け止める。


「あ、終わったんだ」

「なーぉ」

「うわ、間抜けな顔ー。あんた感謝ってものを覚えなさいよね」

「なぁー」


 へっ、と笑っている彼女に、猫が間延びした声で返す。俺の手の上で繰り広げられるその光景を、クラウスは眉を顰めながらずっと見つめていた。


「とにかく、助かった。幾らだ」

「……金貨十枚」

「安いな」

「この相場で安いって言えるのか、君は」


 少なくとも、何かを対価にして誰か助けられたのなら、安いとは思う。

 両手で転がしている猫をジーナに預け、クラウスに言われた分の金貨を渡すと、彼はそれを白衣のポケットに入れながら何とも言えないような顔をしていた。

 もっと高かったのだろうか。それとも、やはり迷惑だったのか。


「もういいよ、さっさと帰りな。こっちは眠いんだ」

「すまない。迷惑をかけた」

「別にいいよ。ちゃんとお金を払ってくれさえすればね」


 ふわあ、とあくびを一つして、クラウスが面倒臭そうに手を振った。


「ありがと、クラウスさん」

「ぁーひ……」

「……無理はするなよ」

「君だけには決して言われたくなかったなぁ」


 ……それは、どういう意味だろう? 



「ほーら、お帰り。もう怪我するんじゃないよ」

「んなぁー」


 ジーナの手から離れて、小さな四つ足がとてとてと薄暗い路地裏を歩む。特に不自由な部分も見られず、子猫はやはりぼんやりとした瞳をこちらに向けたまま、間抜けな声を、一つ上げるのだった。


「……あんたって、本当に損な性格よね」

「何がだ」

「だって、こんな子猫の一匹助けても、何も得しないのよ? それどころか、あんた金貨十枚もぼったくられてるじゃない。こっちがそれだけ稼ぐのに、どれだけ苦労してると思ってるのよ」

「けど、猫は助かっただろ。それならいい」

「……そういうとこよ」


 解き放たれたその猫はどこにも行こうぜず、それどころか、隣の白い蕾を見て、てしてしとその前足をぶつけていた。そんな遊んでいる猫を見つめて、ジーナがふと口にする。


「優しさってね。時々、自分の首を絞めるのよ」

「誰の言葉だ」

「さあね。でも、カインはこの意味がわかる?」


 そう問いかけられて、俺はすぐに答えることが出来なかった。

 優しさが自分の首を絞める、それを言葉にする意図が、そもそも理解できなかった。誰かを気に掛けたり、助けようとしたら、自分の身が滅びるのは当然ではないのだろうか。それに、こんな自分の身で誰かが助けられるのなら、それはとても素晴らしいことではないのだろうか。


「分かんないんでしょ」


 俺には何も分からない。ただ疑問が残るばかり。


「それが分かったとき、あんたはあんたじゃなくなるのかもね」


 その言葉はすぅ、と心の中に染みわたっていく。


「なぁーぉ」


 小さな鳴き声が、路地裏に響いた。



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