『空と白の景色』
第16話『青空のアイゼンティア』との同時更新になりますので、まだご覧になっていない方はご注意ください。
▽ / Blue and Clear sky
□
蒼色のキャンバスに白の絵の具を撒き散らしたような、乱雑な夏の朝だった。
差し込んでくる光が眩しくて、翳した手のひらは対照的に陰に黒く染まる。どうしてか目覚めた頭は驚くほどに鮮明で、遠くから聞こえてくる鳥の声に、朝の冷たい風を、五感全てで感じられた。
被せておいた薄手の毛布を体から剥ぎ取りながら、まだ熱の籠っている体をゆっくりと起き上がらせる。一瞬だけ頭から血が抜けていき、視界がふらふらと揺れだけれど、窓から差し込んでくる光がその感覚を遮った。
「……そう、か」
光だった。
あれだけ夢に見て、届くはずもないと思っていた、光だった。
けれど、彼女を信じ続けた。彼女が光の下で暮らせるように、愚直に、まっすぐに信じていた。逃げることしかできなかった俺でも、彼女と共に在るのなら、どこまでも進み続けられた。
夢を追い続けて、諦めることもせず、光の指す方へと足並みをそろえて。
そうして――ようやく、ここまで辿り着いた。
「……長かったな」
けれど俺の心を満たしているのは、絶えぬ幸福だった。
彼女の夢が叶えられた。それだけで、全てが救われるような気がした。
「少し、早いか」
壁に掛けられた時計は、朝の七時を少し過ぎたくらいを指している。店を開けるまでにはまだ大分時間があるけれど、どうしてか今日はもう一度寝るような気にはならなかった。
散歩にでも行ってみようか、と翳した手を下ろすと、ふとその先に柔らかな感覚を覚えて――
「……いよいよ、部屋を分けた意味が無くなってきたな」
呆れと共に嘆息を吐き出しながら、真横に出来た毛布の膨らみへと手をかける。ゆっくりとそれをめくると、そこには腰までに伸びる金の髪が、きらきらと輝きを放っていて。
そして、窓から差し込む太陽の日差しは――
「………………………………んー……ぅ……」
幸せそうに眠るジーナのことを、とても明るく照らしていた。
□
む、と座って頬を膨らませる彼女の髪に、手を伸ばす。
「なんか不満か」
「……カインに起こされるの、慣れないのよ」
「いいだろ別に、今日くらいは」
「嫌よ。毎朝あんたを起こすのが私の朝の日課なんだから」
「……毎日、助かってるよ。ありがとう」
「ふん、どうしたしましてっ」
そっぽを向きながら渡された、白い櫛を手に握る。細く、癖の少ない髪へとそれを噛ませると、さらさらとした微かな音が聞こえてくる。
揺れる金の糸を梳きながら、姿見を睨みつける彼女に、声をかけた。
「だいたい、昨日も一昨日も働きづめだっただろ。今日くらいはゆっくりしてもいいんじゃないか?」
「……そんな理由でお店空けられないわよ」
「別に、店を開くのを午後からにするでもいい」
「んー……まあでも、それだったら午前はお店の掃除とかしちゃうし。その間にお客さんが来ても、相手しちゃうだろうし。あんま変わんないわよ」
「そうか?」
「そうよ、だから大丈夫」
うん、と頷く彼女の髪を、ゆっくりと一つに束ねていく。
「働きすぎるのも良いものじゃない」
「いいのよ、好きでやってるんだから。それに」
尾の様に揺れる髪を翻しながら、彼女はこちらへと振り向いて、
「あなたが叶えてくれた、夢だから」
そう、あの時と同じ様な笑顔を、俺へ見せてくれた。
「…………そう、だな。それなら、いいんだ」
「カイン?」
「いや……何でもない。ただ……ようやく、辿り着いたと」
喜びだったのだと、思う。心の底から湧き上がってくるような、ふいに彼女を抱きしめたくなってしまうような、そんな感情だった。
覗いてくる彼女の頬に手を触れると、その温もりが伝わってくる。たった一つ残った翡翠の瞳は不思議そうに俺を見上げていて、けれどそれを止めるようには見えなかった。
だんだんと小さくなる距離に、彼女が薄い唇を噤む。けれど洩れた吐息はどこか熱のあるもので、微かに聞こえてくる鼓動が、高鳴りを増していく。
そうして――
「なー」
間の抜けた鳴き声が、ジーナとの間に響いた。
「あら、ローレン」
腕の中へと潜り込んできた黒猫――ローレンを、ジーナが左の手だけでわしわしと撫でる。
「あんたも大きくなったよね」
「なぁー」
「ふふ、でもやっぱり何も考えてないのね。間抜け面、直ってないわよ」
腕の中でじたばたとゆるく暴れるローレンは、やはりぽかんとした様子で、ジーナと俺の事を交互に見上げていた。
「……そうか。朝食、まだだったな」
「今日はどうする?」
「卵、まだあっただろ。それでいい」
「ん、わかった」
ローレンを床へと下ろしながら、ジーナがゆっくりと立ち上がる。
「それにしても、ジーナ」
「何よ」
「なんで今日は俺のベッドで寝てたんだ」
「う」
寝る時以外に、いつも俺の部屋にいるのはいい。俺が本を読んでいる間にそこで菓子を持ってきながら、花の図鑑を広げているのも、咎める理由はない。
けれど、そうやって他人の布団に潜り込んでくるのはどうなのだろうか。
「なんか夜に用でもあったのか?」
「いや、ち、違うけど」
「それとも……寝ぼけてたのか? 疲れてるなら、やっぱり今日は午後からに……」
「ああいや、違う、ごめん。謝るから、その」
「……どうして謝る必要がある?」
「ぅ、あ、ぇと、……んと…………」
だんだんと小さくなる言葉に、思わず首を傾げる。ふと見下ろしたその先では、ローレンが同じようにして、不思議そうに彼女のことを見上げていた。
俯きたままの彼女の頬は、心なしか少しだけ紅くなっているようで。
「ね、寝られなくて……何度か夜に起きちゃって……」
「だから俺のところに?」
「うん、だって、その……寂しかったし……」
「……寂しい?」
「ぁ、ぃゃ…………」
ふるふると胸の前で手を振るジーナは、やがてがばり、と顔を上げて、
「あーっ、もう! そう! そうよ! 最近カインと一緒に寝られなくて寂しかったの! だから勝手にあんたの布団に入ったの! これでいい!?」
「そ、うか……」
「だってだって、この前まで一緒に寝てくれたのに! 急に離れちゃうもん! 私が悪いの!?」
「いや、そういう訳じゃない……悪くも、ない」
「ならいいでしょ別に! それと! 今夜もあんたの部屋行くから! 一緒に寝るから! いいわね!?」
「……わかった…………」
ずかずかと大股で歩きながら、ジーナはそう吐き捨ててばたん、と強く扉を閉めてしまう。後に残るのは静寂だけで、訳も分からず叫び散らした彼女にどうしていいか分かりもせず、気が付けば俺は足元の黒い影を見つめていた。
……………………。
「……何か、悪い事でも言ったんだろうか?」
「なー?」
その時のローレンはどうしてか、少しこちらを馬鹿にしたような、呆れたような声を上げていた。
□
「ちょっとカイン、手伝ってくれる?」
店の中に置いてある植木鉢の整理をしていると、外にいるジーナからそんな声がかかってきた。
明るい黄色のシャツに、それを覆うオレンジ色のエプロン。水回りの整備でもしているのか、捲ったズボンの先からは白い脚が覗いている。
「どうした?」
「お花、持ってきてほしいの。そこに纏めてあるフレシアとローティゼリア。それと、奥に置いてあるフェティシアもお願い」
「フレシア……ああ、その赤いのか」
「そ。その隣のがローティゼリアね」
白い鉢植えに収まっている赤と黄色の花を持ちながら、店の先へとそれを運ぶ。前の道路は少しだけ濡れていて、彼女が片手持っているジョウロを見れば、何をしているかは理解がついた。
「……フェティシアというのは」
「あー、カウンターの向こうにあるやつ。アルマリリー……ええと、紫のやつの右にある薄い赤の」
「分かった」
こと、と両手に持った花を地面に置きながら、また店の中へと足を運ぶ。そうして紫色の花の隣にある赤い花を手で持つと、またジーナのほうへそれを持って行った。
降り注ぐ日差しは暑く、じりじりと照り付ける光が目に差し込んでくる。
「……暑くないか?」
「今年は去年よりも暑いみたいね」
「気をつけろよ。あまり日の下にいないよう」
「大丈夫だって、大丈夫」
「それと、水分もしっかり取っておくように。何なら後でまた飲み物でも持ってくる」
「あーはいはい、ありがと」
「それと、少し帽子を…………」
「だーっ! 大丈夫だから! そんなに気になるなら一緒に水浴びでもしてみる!?」
左の手に持ったジョウロを振りかざすジーナに、思わず俺も手を上げる。
「……ほんとに、大丈夫だから。この子たちに水あげたら店に戻るし」
「ならいい。飲み物でも用意しておく」
「それなら、奥に買っておいたお茶あるから。それ淹れといて」
「了解」
そんなジーナの注文を受けて、また店の中へ。奥にある台所から二つグラスを取り出して、そこに紅茶と氷をそれぞれふたつ。からからと中の氷で音を立てながらカウンターにそれを置くと、店の外からジーナが帰ってくるのが見えた。
「あー、あっつ! やっぱ冗談じゃないわよこれ!」
「できるだけ外出は避けるといい。ほら、冷たくしておいた」
「ん、ありがと」
こくこく、と小さく喉を鳴らしながら、ジーナがグラスの中を煽っていく。
「冷たいっ! おいしー!」
「無理しないようにな」
「大丈夫よ、今日はもう外に出る気ないし」
「なら良かった」
そう応えながら俺も冷えた液体を口に含むのと、店の先の鈴が鳴るのは同じくらいだった。
「はい、いらっしゃいませっ」
果たしてドアの前に立っていたのは、夏用の薄く白いドレスを着た、ジーナと同じくらいの歳の、一人の女性であった。背中まで届く黒髪はそのまま伸ばされていて、その上にはつばの広い白の帽子が深々と被せられている。
上流貴族だった。それも、とびきり権力の強いもの。
けれどジーナはそんな事を気にも留めず、むしろ顔をぱぁ、と明るくさせながら、彼女の方へとたとたと駆け寄った。
「フェリスじゃないの、いらっしゃい」
「はい、ジーナさん、それにカインさん。こんにちは」
被った帽子をゆっくり外し、彼女――フェリスは頭を下げた。
「早いな、もう少し間が空くと思っていたが」
「はい。けれど、やっぱりあのお屋敷にいるのは退屈で。また来ちゃいました」
「ま、確かにあんながんじがらめのトコじゃね。いいよ、くつろいでって」
「ありがとうございます」
どこから持ってきたのか、片手でずるずると椅子を引き摺りながら、ジーナがフェリスへと語り掛ける。また一つ頭を下げながら、フェリスはそこへと腰を下ろして、柔らかな笑みを浮かべていた。
ふぅ、と息を吐く彼女のそばに、黒い影が現れる。
「ふふ、こんにちは。今日もいい毛並みですね」
「……ローレン、あなたには結構懐いてるのよね」
「昔、似たような黒猫を飼っていたもので……なんだか、とても懐かしい感じがします。ほら、この可愛い顔なんてそっくりで」
「……それ、絶対になんにも考えてないわよ」
くしゃくしゃ、と耳と耳の間を撫でながら、フィリスはそう笑った。
彼女がここへ訪れることは、珍しくなかった。何かしら暇があればとりあえず来るところ、のような認識らしく、少なくとも一週間に一回は彼女と顔を合わせているような気がする。
貴族にしては珍しく、よそ者である俺達に対等に接してくれるような存在だった。また、年の近いジーナとの仲も良好であり、彼女が敬語を使わずに接しているのも、フェリス自身からの頼みであった。
そうして、いつものように談笑を続けているときに、ふとフィリスが口を開いて。
「どうでしょう。お二人はもう、この国には慣れましたか?」
その問いかけに、ジーナと顔を見合わせた。
「んー……ま、そうね。良いとこだと思うわ」
「ああ、今のところ不満はない。やはり、素晴らしい国だと思う」
「それなら喜ばしい限りです。かつての姉も喜びますから」
目を伏せて頷く彼女に、ジーナがふと首を傾げる。
「姉? ちょっと待って、姉ってどういうこと?」
「はい。私の姉は、昔にこの国の改革を進めた人物でして……今ではもう亡くなっているのですが、それはもう素晴らしいお方でした。今はあのお方の妹として、この国を治めているのですが……ちゃんと、あのお方の後を継げるような国造りができているか、正直不安で……」
知っている。
誠実で、正直で、まっすぐな人間だった。そうして、必ず届くと光を信じて――また、俺の心に深く何かを刻んだ人間でもあった。
「あのお方のお蔭で、今のこの国があるのです。私も、国の皆も彼女に感謝しているのですよ。今のこの平和は、彼女がもたらしてくれたものなのですから」
「……いい人だったのね」
「それに……その傍でお仕えしていた、またある人にも感謝せねばなりません」
…………。
「お名前まではお聞きできませんでしたが、その方もまたとても清らかな方だったと聴きます。まっすぐで、誠実で……尊い精神をお持ちになるお方だった、と。それと、その……とても、お似合いだったそうですよ?」
「…………」
「…………」
……こっちを見るな、ジーナ。
「……いけませんね、どうも湿っぽくなってしまって」
「いいわよ、興味深い話も聴けたし。後で聞くことも増えたし」
「…………勘弁してくれ」
「そうですね、ちょっと話題を変えましょうか」
くすり、と目を細めて、フィリスが照れくさそうに笑う。
「その……お二人は、いつご結婚されるご予定なのですか?」
突如として放たれたその言葉に、ジーナは一瞬遅れて、勢いよくグラスをカウンターへと叩きつけた。
「は、はぁ!? あんっ、ちょっ、あんたいきなり何言ってんのよ?!」
「何と言われましても……お二人はそういう関係ではないのですか?」
「どこがよ!」
「ですが、年頃の男女が一つ屋根の下……仲睦まじく仕事を共にしながら暮らすというのは、もうすでの夫婦なのでは?」
「あああぁぁうるさい! うるさいっ! 知らないもんっ!」
真っ赤になって左腕を振り上げる彼女を、ひょい、と避けながらフィリスがくすくすと笑う。それはまるで新しいおもちゃを見つけたような、けれどどこか羨ましさを隠しているような、そんな笑みだった。
そんな彼女とジーナのことを眺めていると、ふとフィリスの蒼い瞳がこちらを覗いていることに気づく。そうして突進していったジーナをひらりと避けながら、彼女は小走りで俺に近づいて、カウンターへと両の肘を乗せた。
「カインさん、カインさん」
「なんだ」
「本音のところはどうなんですか?」
「……本音、と言われてもな。あまりよく分かっていない」
縁がないだけなのか、それとも俺の学が足りなかったのか。結婚と言う言葉に関して持っている知識は、驚くほどに少ない。
けれど、それでもし彼女が幸せになるのなら――
「それなら……いいものだと、思う」
「それは楽しみですね」
「あーもうっ! あんたら一回黙りなさいよ!! ブッ飛ばすわよ!?」
だんだん、と地面を強く踏みつけるジーナに、フィリスは小さな笑みを浮かべていた。その笑顔が、細くなった目つきが、どうしても彼女のことを思い出させていて、俺はそんな彼女をただじっと見つめることしかできなかった。
まだ、心に残っている。深く、俺の奥底に焼き付いている。
「それでは私、この辺りでお暇させていただきます」
「あっ待てこのっ! 次に来るとき覚えてなさいよ!」
「ふふ、次に来るときが楽しみになりましたね」
くすくすと、今度は彼女自身の笑みを浮かべながら、彼女はじっとこちらの方を見つめていて。
「さようなら、変わらないひと」
――――それは、
そう言葉を続けようとしても、帰ってくるのは微かな鈴の音だった。
店の中に広がるのはまるで嵐の後の静けさで、けれどそれが長く続く事はなく、ジーナは頬を膨らませたまま苛立ちの収まらない様子でこちらの事を見上げている。
「……それで、いつから気づいてたのよ」
問いかけに答えるのに、時間はいらなかった。
「最初に見た時から、ずっと」
「何よ、それなら言ってあげたらいいのに」
「言っても何も変わらない。もう俺は彼女の知る人間ではないし……今はここでお前と一緒に花を売る、ただの人だ」
そうやって彼女の作った幸せを感じられるのなら、それでいいのだろう。
それが彼女の望みへと共に歩んだ人間として、ここに居られるのなら、それ以上のことはない。
「……本当、良いところよね」
「ああ。そうだな」
思い出の中の彼女は、優しく笑っているような気がした
□
夕暮れの空が雲の向こうまで続いていて、伸びる影が道路を横切っていく。
出しておいた植木鉢も一通り中に入れてしまい、店先の看板を開店から閉店に。今日の客はフィリスも含めれば二十人と少しほどだっただろうか。季節の花であるローティゼリアが多く売れた日だった。
稼いだ金貨を手帳に記して、カウンターの一番下の引き出しへ。ごちゃごちゃとしたそこに手帳を押し込むように入れると、ふとその奥に何か、引っかかる感触を覚えた。
不思議になって手を入れると、感じたのは少し固い、布のような感触で。
「……ああ、そうか」
二年前のあの日からずっと、言い出すことはできなくて。
けれど――俺が、彼女の幸せになれるのなら。これから先も、彼女に幸せを届けられて、笑顔にすることができるのなら。
「…………」
懐にそれをしまいながら、店の中を後にした。
家の中の廊下を抜けて、店を閉じたことを伝えるために、突き当りにあるジーナの部屋の前へ。まだ新しい、鈍く輝くドアノブを押すと、それは何の抵抗もなく開いてくれた。
「ジーナ」
がたん、と。
姿見の前で、白い毛布の塊が揺れていた。
「……ジーナ?」
「見ないで」
「どうした? 大丈夫か?」
「見ないで」
「具合でも悪いのか? それならすぐ横になった方が……」
「見ないで」
「……できない。見せてみろ。そんな恰好してる方が心配だ」
「ぁ、ぃや、ちょっと待っ――」
ふさ、と毛布を翻したそこに居たのは。
アイゼンティアの花束を左手に抱えたまま、こちらを見上げるジーナの姿で。
「…………」
「…………」
「……その、えっと…………」
「いい。言わなくても、もう」
「な、何よそれ……あんたが理解する時って、だいたいロクでもないことが……」
「……花嫁」
「――――っっ!?」
そう呟くと、彼女は花束を抱え込みながら、肩にかかった毛布を勢いよく自分へと被せてしまった。
「あーもうっ! 違う! 別に影響されたとか、ちょっといいかなー、とか! 前々から思ってたけど、なかなか言い出せないなー、とか思ってないから!」
「全部出てるぞ」
「だから違うって言ってるでしょ! それに、別にあんたと結婚したいわけじゃっ……な、ない……し……」
「……なら、これも必要なくなるか」
「えっ」
懐から取り出したリングケースに、彼女は白い布の下から、翡翠の瞳だけを見開いた。
「……どうして、それ」
「……前々から思ってたんだ。これでお前が幸せになれるのなら、それが俺の望みだから。でも……俺ではお前の幸せになれるか分からないし、お前もそれを望んでいないと思っていた」
傲慢、なんだろうか。それとも押し付けか。あるいは自己満足か。
けれどそれで彼女が幸せになってくれるのなら――それ以上に、嬉しい事はなかった。
「本当は、髪飾りの代わりとして送るつもりだった。お前には白い花が似合うから。でも……ここまで話したなら、それももうできなくなった」
「……いいの?」
「それでお前が、幸せになってくれるなら」
ぎゅ、と小さな指が、薄くかかる毛布を握る。
「その、あたし、あの……あんまり、料理とか家事とかできないし……」
「そのために毎日練習した」
「め、めんどくさい女なの、分かってるでしょ?」
「元気をくれた。こんな俺を、そのままで受け入れてくれた」
「…………本当に、私でいいの?」
「お前を幸せにしたい。今までも……これからも、それは変わらないから」
変われないのだろう。変わる事など、できないのだろう。
それが、かつて彼女が望んで――そして、今の俺が望んでいることだから。
「ふふ……それならもう、いっぱいだよ」
「いっぱい?」
「うん。だって、あなたが居てくれることが…………大好きなあなたと一緒にいられることが、私の幸せだから」
「……もう、離さない。これから、ずっと」
被せられた白い布をめくって、その瞳をじっと見つめる。
静かに光る銀の指輪は、ゆっくりとその細い薬指へと通されて。
「…………カイン」
「ああ」
「大好き、だよ」
そう開かれた彼女の唇を、俺は――――
□
『路地裏のアイゼンティア』 結
『ハーメルン』の方であとがきを掲載したのでそちらもご一読ください