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『青空のアイゼンティア』



 ――――花の、香りだった。


「起きた?」


 がんがんと響く鈍い痛みの隙間に、そんな声が聞こえてくる。どうしてか体は横たわっているらしく、けれど寝ている頭の後ろには、何か柔らかい感触を覚えていた。

 瞼を動かそうとすると、ぱりぱりと小さく肌を引かれる感覚が走り、剥がれ落ちた何かが頬を転がっていくのが分かる。そうして開かれた景色に映るのは、透き通るような日差しと、こちらを覗く白濁と翡翠の瞳だった。


「ジー、ナ?」

「…………そうよ。あんたを起こすやつなんて、私以外にいると思う?」

「そう、だな……そうだったよ」


 おぼろげな視界の中で、彼女の笑顔だけがくっきりと見えた。


「ここは……?」

「覚えてないの? 私たち、こいつのおかげで街から出られたのよ」


 すぐにジーナの顔が視界から消えたかと思うと、急にごわごわとした毛並みが俺の顔へかぶせられる。いきなりの感触に少しだけ声を上げて、眼の上に載せられたそれを両手でつかむと、それは少しの間抜けた鳴き声を上げながら、細い瞳で俺の事をみつめていた。


「なー」

「……そう、だったのか」

「驚きよね。人間ってその気になれば、一晩で山を越せちゃうもの」


 その呟きに、猫を腹の上へ落ち着かせながら、また彼女のことを見上げる。


「山……?」

「そうよ。私たち、ずーっと走って逃げてここで力尽きた、ってわけ。まさかあんた、ぜんぶ覚えてないの?」

「……うっすらと、しか」

「そっか」


 答えると、ジーナは少しだけ寂し気な笑みを見せながら、俺の頬をゆっくり撫でていた。どうしてか彼女の顔には少しの陰が差しているような気がして、けれどそれを追い求めることはできなかった。

 というよりも、今のこの状況は。


「ジーナ」

「何よ」

「その…………重くないのか」

「……ふふ、なにそれ。まさかあんた、誰かにこうしてもらうの初めてなの?」


 少なくとも、こうした景色を見るのは初めてだった。

 くすりと面白そうに噴き出した彼女は、けれど今のこの状況を止めることはなくて、何かを宥めるようにして俺の頬へと指を馳せたまま。


「どう? 居心地、いい?」

「……それは、その…………」

「なによあんた、女の子の膝に寝かせて貰ってるくせに、感想の一つも言わないわけ?」

「ああもう、分かった。分かったよ」


 込み上げてくる羞恥心にそう返すと、彼女はちょっとだけ悪戯めいた笑みを浮かべて、けれどすぐにじっ、と俺の瞳を覗き込む。


「……もう少し、このままで」

「うん」


 流れていく時間は、とても長く感じられた。

 吹き上げる風は金の髪を揺らし、さらさらとした葉と葉の擦れる音が、遠くから聞こえてくる。背中に感じるのは草花の柔らかさで、指の先で土を擦ると、暖かな太陽の感触が伝わってきた。


「これから、さ。どうしよっか」

「……そうだな」


 俺はその答えを持ち合わせていないし、これからもそれは見つからないのだろう。そうやって自らを動かさずに生きてきて、それしか知らない人間だから。

 けれど、彼女と共に居られるのなら――彼女がそばに居てくれるのなら、俺は何処までも行くことが出来ると、そう思った。


「……とにかく、動かないことには始まらないだろうな」

「体、もう大丈夫そう?」

「ああ……なん、とか」


 小さな手で背中をさせられて、子猫を手に抱いたままゆっくりと上体を起こす。途端にぐらりと視界がゆらついて、意識がおぼろげになったけれど、それもすぐに収まった。

 今まで寝ていたからよく分からなかったけれど、そこは小高い丘にかこまれた小さな草原であった。回りを見渡すとジーナの後ろには小さな森の入口が見えていて、おそらくそこから俺達は出てきたのだろう。

 吹き抜ける風が、とても優しかった。


「ここは……どこだろう」

「ずーっと西に走ってきたわよ。だからここは、あの街からちょっと行った山の、もっと向こう側ね」

「詳しいな」

「子供のころに居たから。んで、またもう少し先に行くと、私の故郷」


 ひょい、と示された指先は、けれどすぐに消えてしまう。


「でもあんなところに行く気はないわ。何の為に抜け出してきたかわかんなくなるし」

「なら……そうだな。もっと北に行こう。そこにいい国がある」

「なによ、ずいぶん自信あるじゃない」

「ああ。なにしろ、あそこは――」


 そう言葉を続けようとした瞬間に、手のひらに軽い衝撃を覚える。

 突然のことに呆然としていると、俺の手から飛び出した子猫は、一目散に草原を駆け抜けていった。


「あっ、ちょっと」


 ぴょんぴよんと走っていく小さな黒い影に、ジーナがふらふらと片手だけで立ち上がろうとして、そして崩した体へと手を伸ばす。


「……お前こそ、大丈夫なのか」

「もう慣れたわよ。それより、ほら。早く追わないと」


 恩人なんだから、と呟くジーナの体を支えながら、小さな姿を一歩一歩追いかける。緩やかな傾斜は吹く風に波立っていて、ぽつぽつと咲いている花々が、緑に彩りを与えてくれた。

 燦々と照らす太陽の下、立った二人で足並みをそろえて。

 そうして辿り着いた丘の上、その先に見えたのは――


「…………ぁ、」


 ――彼方までに広がる、アイゼンティアの花畑だった。


「き、れい……」

「ああ」

「…………綺麗だよ、カイン! ほら、ほらっ!」


 ぐい、と身体を引っ張られて、視界が一面の純白に染まってゆく。


「ジーナ?」

「あはは、あはははっ! ほら、カイン! もっと、もっと!」

「ちょ、ちょっと待っ……」

「こんなにいっぱいの花、初めてみたの! これ全部アイゼンティアよ!? すごい、すごいよ! こんな景色、めったに――――ぁ」


 ぽす、と。

 白い花びらがひらひらと舞って、その先に蒼色の空が浮かぶ。

 並びながら倒れ込んだその先には、空と白の景色が広がっていた。


「……ふふっ」

「…………は、は」


 気が付けば、彼女と一緒に笑っていた。笑うのがいつぶりなのかも、それすらも忘れるくらいに、声を上げながら笑っていた。

 嬉しかったのだろう。楽しくもあった。長らく忘れていて、今の俺には既によく理解できない感情だったのだろう。どうして今の俺が笑っているのか、その時には訳も分からなかった。

 けれど確かに言えるのは、その時に俺が、心から笑っているということだった。


「……結局さ、あんたは変わらなかったよね」


 ぽつりと、笑いつかれた息と息の間に、そんな呟きが聞こえてくる。


「……そうだな。変われなかった」

「ううん、違うよ。変わらないでいてくれた。私がどっかに言っちゃっても、どれだけ失っても、変わらずにあなたは私を見つけてくれた。ずっと、待っててくれたじゃない」


 そうすることが、俺の全てだったから。そうすることでしか、俺は彼女を信じられなかったから。


「あなたが居てくれたから、私はこうしてここまで来れた。あなたが信じてくれたから、私は変わることができた」


 ああ、そうか。

 俺は――


「そのままの、あなたで」


 紡がれる言葉が、風に揺れる。


「……ありがとう、カイン」


 白い花に包まれて、彼女は幸せそうに、笑ってくれた。



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