『巡って、そして』
□
小さく縮こまるジーナに、ふさり、と優しく白い布をかぶせる。
「いいか、できるだけ顔を晒すのは避けろ。どこで誰がお前のことを見ているか分からん」
「……うん」
「声をかけてくる奴がいたら、全員ジーナを狙っていると思え。たとえ逃げたくなっても、絶対に俺から離れるな。必ず守るから」
「わかった」
ぎゅ、と頭を覆う布を握りながら、ジーナが小さく首を縦に振る。
「それと、これも」
「…………」
そんな彼女の左手を優しく取って、その手のひらに懐から取り出したそれを掴ませる。小さな指に包まれたそれは銀色の光を放っていて、短い、けれど確かな鋭さを持ったそれには、ジーナの不思議そうな表情が映っていた。
「何が起こるか分からない。おそらく、それを使う時は最後の手段になると思う。俺だってそうなりたくはないけれど……その時は、来る」
「……わかった」
「念のために、いつも持っておけ。誰かが近づいて来たら、すぐに刺せるようにな」
「…………」
ぼうっと、した碧色の瞳と、色を失った虚ろな瞳が短剣を見つめている。そんな、何かに堕ちていきそうな彼女を引き上げるように鞘を手渡すと、ジーナはまた同じような色に染まったまま、俺の事を見上げていた。
「……ねえ、カイン」
「どうした?」
「私たち、その……上手く、言えないんだけど、なんだか……」
そう言葉を詰まらせる彼女を、優しく抱き寄せる。
「怖いのか?」
「……うん」
微かに声をもらしたその背中を優しく何度か叩いてやると、身体に走っていた震えもだんだんと収まっていった。
「…………離れたく、ない」
「大丈夫だ。必ずうまくいく。俺を信じてくれ」
わずかなこの時だけでも、たとえ変わることのできない俺でも。
彼女が信じてくれるのなら、何処までも行くことができそうだった。
「行こうか」
「うん」
白い布を少しかき揚げて瞳を見つめると、ジーナはさっきよりも少しだけ安心したような、安らかな笑みを浮かべていた。
もう一度頭を優しく撫でてから彼女から離れて、机の上へ置いてあった袋へと手をかける。そうしてもう一度、その傍へ置かれていた鷹の札へと目を向けていると、静かにドアを開く音が後ろから聞こえてきた。
「もう行くの?」
「ああ。少し寄ってからになるな。今日の夜には発っている予定だ」
声をかけてきたフローラに、向き直りながらそう答える。煙草の香りが、不安に震えて曖昧だった感覚を、確かなものに戻してくれた。
「ほんと身勝手なんだから。ちゃんと準備とか、ぜんぶ終わってるの?」
「全て考えてある。行く道も、これからの事も、全て」
「まったく……あの子のこと頼んだわよ。あなたしかいないんだから」
「そう、だな。彼女だけでも、救わないと」
「……あんた、もしかして」
それに上手く答えることは、できなかった。
「もう、会えないの?」
「きっと。戻ることは、ないと思う」
「……そう」
答える彼女は、どうしてか寂しそうな色を灯していた。
初めて見るそんな彼女に少しだけ驚いていると、フローラは俺の肩へと手を寄せながら、こちらへと踏みよってくる。嫌悪する香りはまた強くなり、けれどその中に少しだけ、甘い香りが漂っていた。
「寂しくなるわ」
「そうなのか?」
「ええ、とっても。大事な客がいなくなるのは、いつだって寂しいの」
「それは……その、すまない」
「そんな言葉だけで終わらせる気? もう会えないって言うのに?」
「でも、俺みたいな人間は、――」
――甘い香りが、いっそうと強くなる。
「これで、許してあげる」
唇に、柔らかな感触が、一瞬だけ広がった。
「さ、行くならさっさとしなさい。あんまりモタモタしてると、手遅れになっちゃうわよ」
「……フローラ」
「これ以上言わせないでよ。これが、最後なんだから」
顔を伏せていた彼女は、けれど何かを振り切ったようにして、こちらへ向き直り、
「好きだったのよ、あなたのこと」
その笑顔はまるで、純粋な子供のような、輝きに溢れていたものだった。
扉の向こうからは早く行く足音だけが響いていて、部屋の中にはじっとりと濡れたような静けさだけが残る。時間は迫っているけれど、どうしてかその足は重く、踏み出すのには時間が要るようだった。
彼女の言葉が、心のどこかで、ずきずきと痛んでいた。
「……カイン」
「あ、あ」
だらりと垂れた腕に、彼女の指が絡まる。心へと響く痛みは、だんだんと深くへ沈んでゆき、けれどその痕は決して消え去らないように思えた。
伸ばされた腕を、固く握り締めて。もう、後ろを振り返ることもしなくて。
「行こうか」
□
「まだ分からないけど、おそらくアイゼンティアの後遺症だろうね」
ぎぃ、と深く椅子へもたれかかりながら、クラウスは先日と同じように嘆息を吐いた。
「治らないのか?」
「それも分からない。なにせ、こんな症例は初めてなんだ」
机の上に置いた書類を眺めながら、クラウスが口を開く。
「彼女の右腕に走っている毒が視神経まで伝ったのか、それとも別に調合されている薬のせいなのか、その薬とアイゼンティアによって生まれた成分によるものか。ま、言えることは僕の専門外、ってことだね」
「……そうか」
「すまないね、力になれなくて。医者も万能、と言う訳じゃないんだ」
顔に影を差しながら、クラウスが対面に座ったジーナへと向き直る。右の眼に虚ろを灯した彼女は、その瞳で動かなくなった右腕をただ見つめていた。
憧れの果てに訪れたのは喪失で、けれど彼女はまだ、夢を見続けられているようだった。
「どこか他に治せる医者はいないのか」
「さあねえ……僕もあまり詳しくはないから」
「どこでもいい。金もある。お前だけが頼りなんだ」
「専門外だ、とだけ言っておくよ。僕の力の範囲を超えている」
「けれど……」
そう続けようとした俺の言葉を、クラウスはペンを指すことで遮った。
「ルーヴェルト」
「なに?」
唐突に出てきた名前に、思わず首を傾げる。うつむいていたジーナが、はたと顔を上げるのが、視界の端に映っていた。
「彼は植物薬学についてはかなり詳しいはずだ。それで他の国に招待された、という実績もある。そこに行けば、彼女も治せるかもしれない」
「……しかし」
手にした書類をとんとん、と揃えながら、クラウスが奥の扉へと消えていく。そうして立ち上がったままのジーナへ目を向けると、彼女はひどくおびえたような様子で、白い布の端を固く握っていた。
開かれた扉の向こうから、しかしクラウスの姿ではなく、声だけが響く。
「なに、大丈夫さ。実は僕も彼と面識があってね。腕は確かだよ」
「それは本当か?」
「ああ、本当だとも。僕を信じてくれよ」
そこには確かな助言というよりも、まるで何かを無理やり読み上げているような、ぼんやりとした異質さが感じられた。中身のない声だけが、俺の首を締め上げるようにしていて。
何かがおかしい。不穏な気配を感じる。
「カインっ! カイン、逃げよう!」
腕を引かれる感覚も遠くなって、ただ虚ろだけが俺の心を満たしていく。
「思い出したの、ぜんぶ! あいつなんだ! 駄目だよカイン、早く行かないと!」
「あ、あ」
「殺されちゃうよっ! ねえっ! カインってば!」
どうしてか、また俺は暗闇へと落ちていく感覚をおぼえていて。
「だから、君達は彼のもとへ行くといい。それで全て終わる」
次に姿を現したクラウスは、その右手に治療用のメスを持っていた。
「――カイン!」
がたん、と椅子を蹴る音がする。叫び声とともに、彼の体が揺れる。
振り上げられた腕を左の腕で受け止めて、そのまま体をひねってつま先を踏み砕く。ぎ、と息の漏れる音を聴きながら背中にある彼の腹へと肘を打ち付けると、背中へとかかる重みが消えた。
ぶつかった机の上の書類が撒き散らされて、けれどクラウスはそれをかき分けながら右手の小さな刃をこちらへと向けて来る。背中には、驚きで固まっているジーナの姿が見えたような気がした。
「っ、クラウス! お前、何を!」
「彼女を……彼女を連れ出せば、すぐに終わるんだ。だから……」
「終わる? 何が?」
「全てだよ、彼女が苦しむこともない。カインも……もう、逃げる必要はないんだ」
だから――、と。
向かって来る彼の体をかがみながら受け止めて、その膝を足の底で踏みつける。バランスを崩した彼の体を投げ飛ばしながら、けれどクラウスは何かに取り憑かれたように、机に手をかけながらこちらを睨み続けていた。
「どうしてだ? 彼女を救いたくないのか?」
「……それは、救いには見えない」
「そうか。君の目にはそう映るのか……」
「間違いなのか?」
「……いや、違う。とても、綺麗な瞳だ」
そうして口をつぐんだクラウスが、また地面を蹴る。彼我の距離はより近く、そしてジーナとの距離も近い。避けることはどうしてもできないように思えた。
伸ばされた彼の手は、俺のほうへと伸びてきて――
「……、っ」
右の腕へ痛みが走る。けれど、それだけ。
伸ばした彼の腕を掴んで、そのまま右の足をもう一度、彼の腹部へ。飛ばされる彼の体とともに右腕から黒の血が飛んで、彼の白衣へ赤い模様を描いた。
壁へ体をもたれかからせる彼の手首を強く踏みつけると、ころ、とメスが床へ落ちる。くすんだ銀色のそれを拾い上げると、それをびくびくと動く彼の手へと刺した。
「……かなわ、ないな」
呆れたような、自嘲するような呟きが聞こえる。
「どういうことだ」
「……もう、終わりにしないか、カイン。君が傷つく理由はない」
「何の……クラウス、お前は何の話を」
「君は頑張ったよ。でも、どうにもならない時だってある。それが今なんだ」
そうしてクラウスがふと顔を上げた時、俺は彼の右の瞳に、虚ろが灯っているのを見た。
「クラウス、さん」
「……ごめんね。僕でもこれは分からないんだ。完全に専門外。けれど、ルーヴェルトなら本当に理解していると思うよ」
再び口にされたその名前に、顔が歪んでいることに気がついたのは、彼の視線のせいだった。
「脅されたのか?」
「そうじゃない。ただ……それが、彼女の救いだと思ったんだ」
語るクラウスに、眉を顰める。
「救いだと?」
「考えてもみろ、彼女は一生、その目と腕をかけて生きていくことになるんだぞ? そんなこと、苦痛以外のなにものでもないじゃないか。それならいっそ……生きることから解放されることが、彼女にとっての救いだと、そう思ったんだ」
彼の言葉の一つ一つが、理解できなかった。彼の言う救いが、俺にとっては決して抜け出せることのない、深い暗闇にも見えた。
「だから、ジーナを殺そうと」
「ああ。それ以外に僕には手の施しようがなかった。役目なんだよ、僕の。目の前で苦しむ人を救う事がさ」
――死とは、救いであるか。
もし彼女が自らを殺してくれ、と頼んできたのなら、俺は彼女を殺していたのだろうか。それが彼女の救いになると、彼女自身すらも信じていたのなら、俺は彼女の首に手をかけていたのだろうか。
そこから先のことは分からない。理解できるはずもない。
けれど、それでも。
「それは…………それは、救いでは、ない」
彼女がそれを望まないのなら、それが救いであるはずがない。
「君のような人間にとっては、そうなのだろうね」
曇天の鈍い輝きが、俺に光を、彼に影を作っていた。
「君はいま、役目を持たない人間だ。それこそ彼女をあいつに引き渡せば、この辛い生活からも逃れることができる」
「そう、なのだろうな」
「……分かっているのに、どうしてそうしないんだ? どうして君は役目を背負っていないのに、彼女を救おうと全てを投げ出せるんだ?」
そんな、こと。
「ジーナのことを、信じているから」
同じ暗闇へと堕ちた苦しみを味わったから。そして、彼女ならそこから抜け出せるだろうと、信じているから。
「……愚かだ。そのために、そんな生き方をするなんて」
「愚かでもいいい。死んでもいい。けれど、彼女が救われるのならば、それで」
それが、俺の願いなのだろう。それこそが、俺の生きる意味なのだろう。
――自分の全てが、分かったような気がした。
「……もう、いい。行きなよ。今ならまだ、逃げられるだろうし」
溜め息の混じった声で、彼は呆れたようにそうつぶやいた。そうして右手に突き刺さったメスを勢いよく引き抜いて、そこに伝う赤い液体を白衣で強く拭い取る。
怯えたように手を引こうとするジーナに、けれどまだ行くことはできなくて、足元に座り込む彼へと語り掛ける。
「お前はどうなる?」
「さあね。僕は何も見なかったし、君達にも合わなかったし、これは研究中に負った怪我になる。だから今話しているひとも、僕の知らない人間だ」
かすれた声の答えに、黙って首を縦に振る。
もう会う事も無いのだろう。彼の中でも、忘れ去られていくのだろう。
どうしてか、とても寂しかった。
「ジーナちゃん」
「……なに?」
「どうか、幸せにね」
その声を思い出すことは、もう能わない。
けれど、最後に見た彼は、とても明るく、和やかな笑みを浮かべていた。
□
いつもと変わらない人ごみの中を、ジーナを連れて歩いてゆく。
なるべく日陰の側ではなく、行き交う人々の中へと紛れるように。ふと、人々の隙間から見える路地裏には、腰に長剣を帯刀した、赤い服の騎兵が入っていくのが見えた。
いつもの景色なら決して目にすることのない、紅の鎧。それがルーヴェルトの持っている私兵だということを理解するのに、時間はいらなかった。
「……顔、隠してろ」
「ぁ」
少しだけ見えた金髪も覆うくらいに白い布をかぶせて、再び彼女の手を引きながら雑踏の中へ。こちらを少しだけ不審そうに見つめてくる人々も、また別の路地で見かけた騎兵も全て無視して、西へと歩みを進めてゆく。
そうして進んだ通りの突き当りを曲がろうとして、すぐに足を止めると、進んでいたジーナがわふ、と小さく声を上げてぶつかってきた。
「か、カイン?」
「戻るぞ、少しまずいな……」
戸惑っているジーナの手を引いて、来た道を戻り、最初に見つけた路地裏へ。既に衛兵が巡回したあとらしく、撒き散らされたゴミの山をまたぎながら、奥へ奥へと進んでゆく。
曲がり角に見えたのは、こちらへと進んでくる騎士の集団だった。それも、出会ってしまったら必ず逃げなければいけないような、力の差を見せつけられるよくらいの、鎧の集団。
そうして俺達は今、偶然誰もいない路地裏を、一目散に奥へと駆けていく。街の喧噪は妙に遠くに聞こえていて、握る彼女の手が震えているのが伝わってきた。
「カイン?」
「…………」
たとえその思惑に逆らったとしても、あの大勢を相手に立ち回れるほどの力は持ち合わせていない。けれど来た道を戻って逃げようにも、先程の兵と相見えるだけであって。
打つ手はなかった。こうするしかなかったのだろう。けれどそれも、彼の手のひらの上の事だと思うと、歩む足はだんだんと遅くなってゆく。
やがて止まったその場所は、何処とも知らぬ冷たい壁の中で。
「ジーナ」
「…………いや」
「聞け。頼むから聞いてくれ」
「聴きたくない…………聴きたくないよ」
何かを拒むようにして白い布を被る彼女の肩へ、強く手を置いて。
「お前だけでも逃げろ。俺だけ最低で六、七人は倒せる。そうすればお前ひとりでも抜けられるはずだから」
「……カインは、どうなるの」
「死ぬのだろうな。けれど、お前が助かるのなら悪くない」
全てを投げ出せるという言葉は、やはり嘘ではなかったのだろう。
今の心を埋め尽くしているのは後悔でも恐怖でもなく、ただの憧れなのだから。
「居たぞッ! 例の二人だ!」
暗い壁に挟まれて、突き刺すような声が響く。
そうして次に見えたのは、すらりと伸びる、銀色の長い刃で――
「ジーナ! 走れッ!」
「…………っ!」
息をのむ彼女の手を引いて、地面を蹴った。
数では大きく劣っているけれど、地の利はこちら側にあった。おそらくあっちは、こんな小汚くて薄暗い道など通ったことのない、太陽の下で生きてきた人間なのだろう。それに比べると、俺たちの歩む足は彼らの数歩先を行っていて、聞こえてくる怒声が遠くなるのにはそう時間はかからなかった。
「カイン、どうするのっ!?」
「…………」
問いかけに応えることもできずに、けれど足だけはどこかへ導かれるように進んでゆく。
やがて周りに見えてくる景色は見慣れたものになってきて、どこか寂れたような、冷たい壁がまた俺達と太陽を阻んでいる。そこから見える雑踏はいつも通りに俺の瞳へ移っていて、そこにあったのは――
「アイゼンティア」
静かに揺れる白い蕾と、眩いくらいの紅だった。
「大陸の非常に広くに分布している合弁花類だね。通常なら観賞用として用いられるけれど、時にその花弁に含まれている成分は毒物の効能を倍増させる薬品にもなり得る。またアイゼンティアの茎自体にも微量の麻痺毒が含まれていて、これも花弁に含まれる成分を通せば十分に実用可能な麻酔薬になるんだ」
そうして、紅の瞳は彼女のことを見つめていて。
「彼女のようにね」
握った手のひらから、力が抜けていくのを感じた。
「……何のつもりだ」
「最終通告さ。情け、とも言う」
こつ、こつ、と足音を立てながら、ルーヴェルトはこちらへと歩んでくる。
「単刀直入にいこうか、カインくん。彼女をこちらへ引き渡してほしい」
「…………ジーナはどうなる」
「君の知るところではない。けれど、彼女を引き渡してくれれば、君に危害を与えることはもうないよ」
その答えに、懐へしまっておいた短剣を強く握る。
「ジーナ、下がれ」
「でも、っ」
「いいから黙ってろ」
震える彼女の手を離して、その手に持った袋を握らせる。そうして懐から取り出したナイフを逆手に握ると、、彼はにやり、と頬を吊り上げさせるような笑みを浮かべた。
腰に吊った長剣へと、ルーヴェルトの手が伸びる。
「やはり君は、それを選ぶのか」
「…………それしか道が無いから」
「だろうね。君はそれ以外を知らないのだろう。僕と同じ位置にあるからこそ、それを選ぶのだろう」
その言葉の意味を理解できることはない。今までも、これからも、彼の事を理解することはできないのだろう。
けれど、ただ一つ分かるのは、その瞳にはやはり、俺と同じ何かが宿っているということだけだった。
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