『その瞳に映るもの』
□
「それで、わざわざ私のトコに着たわけ?」
姿見の前に置かれているている古い椅子へと腰を下ろして、フローラは煙草の煙を吐いた。
「ジーナに逃げろ、と言われたから」
「面倒事しか持ち込まないと思ったら、ついに女まで持ち込んでくるとはね」
そうぼやきながら、彼女は向かいのベッドへと流れるような視線を投げる。そこでジーナはまるで何かから怯えて隠れるように、毛布にくるまりながら座り込んでいて、そんな彼女にフローラはこの前とはまた違う、穏やかな視線を送っていた。
膝を組んだうえに肘を乗せて、手の上に顎を乗せる。
「この前とはまるっきり変わったみたいね」
「……その、」
「言わなくても結構よ。それに、あんたから聞いた話じゃ、こうなってもおかしくなかったから」
そうして彼女はそのままもう一度煙草を口にくわえると、イラつくようにこちらへと煙を吹き付ける。
「私のトコ以外、行く当てなかったの?」
「……すまない」
「ふん、本当よ。高くつくから覚悟しておきなさい」
片方の頬を上げながら答えるフローラに、たまらず頭を掻く。
「……さて。それじゃ、話でも聞いてあげましょっか」
「フローラ?」
「いいのよ、私に任せなさい」
そう得意そうに言いながら、フローラは軽く立ち上がってベッドの方へと歩いてゆく。その足音に白い毛布はゆっくりと視線を向けて、とさ、という小さな衝撃に体を跳ねさせた。
急に与えられた衝撃に、ジーナは恐る恐るといった様子で、毛布の中からひょっこりと顔を出す。
「何人よ」
「…………え?」
それは。
「フローラ」
「ちょっと、女同士の話に口を挟まないの」
「しかし」
「いいから。あんたはね、そこの酒でも飲んでなさい。今のあんたにならいい薬になるわよ」
「…………」
言い切られてしまうと、彼女にはどうも言い返せなかった。
仕方なく先程まで彼女が腰を掛けていた椅子へ手を伸ばし、それを部屋の隅にある机へと寄せる。ごちゃごちゃと金貨だったり薬だったりが散らばっているそこには、横たわる酒瓶が確かに置いてあった。
中の液体を揺らして確認しながら蓋を開けると、熱い、けれどどこか安らぐような香りが、鼻の奥へと抜けていく。
やはり、酒は苦手だった。
「それで、何人にやられたのよ。五人? 六人?」
「…………じゅう、ろく」
「あら、私と同じくらいじゃない」
「……て、な……ぃ」
「え?」
「十六から先を、覚えてない」
「……そう」
ヤニの匂いと、酒の匂いが混じり合う。いつもなら苦手で顔を顰めるようなその香りは、けれど行き場のない怒りで満ちた心を、どうしてか落ち着かせてくれた。
瓶の中の液体は、ちゃぷちゃぷと揺れている。それを飲み干すのには少しの勇気が要って、俺は未だに空いた瓶の先を見つめていた。
「それでも、あなたは生きてるじゃないの」
「……生きてても、こんな事になるなら」
「意味がない? だから諦めるってこと?」
「…………私はもう、これ以上変われない、から」
「ふーん」
重く語る彼女とは正反対に、フローラは軽い声を上げる。
「それで、あんたは何がしたいの?」
その問いかけには、言葉よりも重たい圧のような、けれど軽い夢のようなものが込められているような気がした。
「何、って…………私は、いまさら」
「そう言う意味じゃないのよ。たとえ叶えられないとしても、あんたには夢があるんじゃなかったの? それとも、このまま何もせずに死ぬつもり?」
「……そう、なのかな」
「聞かれてもね。でも、そう聴けるのなら、私はそうじゃないと思うわ」
呆れたように息を吐いて、フローラはそう返す。
「あんたはまだ、生きる意味を見つけられるはずよ」
そのまま彼女はふと天井を仰いで、まるで子供へ読み聞かせる母親のように、ぽつりぽつりと語りだした。
「私ね、本当はお姫様になりたかったの」
「……お姫様?」
「そうなの。ほら、たいていの絵本に出てくるお姫様って、とってもきれいで、上品で、かっこいい王子様と結婚するじゃない? 私もそうなりたい、って子供のころからずっと思ってたの」
夢を語る彼女の瞳位は、初めて見る色が灯っていた。
「……それで、お姫様にはなれなかったの?」
「違うわ。まだなってないだけよ」
「なって、ない?」
「そう。実はね、まだお姫様になること、諦めてないの」
くすりと、そう笑う彼女にどこか、ジーナと同じ様な子供めいたものを見た。それもまた、初めて見る彼女だった。
「おかしいでしょ? こんなおばさん手前になって、カラダ売って商売してるのに、お姫様になろうだなんて。ここには王子様じゃなくて金遊びに来た男しかいないし、私には上品さの欠片もないし、綺麗さは……そこそこだけど」
「……でも、諦めてないんだ」
「そうよ。だって、夢だから」
やがて彼女は灯した煙草を足元へ転がっている灰皿へと押し付けながら、唇を開く。
「夢を語るくらいなら、それを叶えるために生きるなら、別にいいじゃない?」
くすくすという小さな笑い声に耳を傾けていると、ふとその声が止んだと同時にフローラの視線を感じる。心なしか鋭くなっている彼女の双眸は、俺の手元にある酒瓶へと宛てられていた。
「ちょっと」
「何だ」
「酒、飲みなさいって言ったじゃないの」
「しかしだな、俺はあまり強くないんだ。知ってるだろ」
「だから飲め、って話じゃないの。言っとくけどね、私だって聞かれて恥ずかしい話もあるのよ」
彼女の言う事をようやく理解して、改めて酒瓶の底に揺らめく自分の影を覗く。黒髪をぼさぼさに伸ばした男はひどくやつれた顔をしながら、その自分を飲み干した。
喉に流れる熱い感覚に流されそうになって、頭がくらくらと揺れ始める。空になった瓶を机の上へ投げると、強いまどろみが襲ってきた。
「…………」
「…………」
…………うん。
「…………んー……」
「……ほんとに弱いんだ」
「そうなのよ。ほんとに、ああいうところはなんか可愛いのよね」
既に二人の輪郭がぼやけ始めている。
「……ねえ、ジーナ」
「なに?」
「あんた、カインのこと好き?」
声は聞こえてくるけどその中の意味は分からなくて、ただ呼ばれたような名前に、ふらふらとした視線を投げる。
「は、えっ? …………その、それ、って」
「私は好きよ、カインのこと」
「そ、そうなんだ……その、いつから?」
「初めて一緒に寝た時からね。ほら、あいつ顔も良いし、根が優しいでしょ? だからそれにやられちゃってさ。それ以来、あいつがきた時にはいつも、私が相手してるのよ」
フローラの語りが頭へ響く。柔らかでけれど高い、蕩けるような声は、いつもの彼女であった。
「だからね、もう少し仕事が落ち着いたら、カインと結婚しようと思ってるの」
誰、だろう。
ふらふらとした意識の中で、そんな声が響く。
「えっ」
「あいつさ、結婚したらけっこういい旦那になりそうじゃない? まあ、いつも不安なのは分かるけどさ。でも優しいし、いつでもこっちのこと気遣ってくれるし」
「それは、そうだけど」
「それに、もしかしたらね。カインが私の王子様じゃないのかな、ってたまに思ったりするのよ。恥ずかしいわよね、こんな年になってそんなこと」
夢の話が、聞こえてくる。
聞こえてくる言葉は、頭の中で溶けていく。
「…………だめ」
「ん?」
「駄目だよ」
ただ、その呟きだけは、確かに聴きとることができた。
「ダメなの? なんで?」
「……分からない。けど、カインと結婚するのは、駄目」
「どうしても?」
「うん」
こくりと、強く彼女が頷くのが見える。
「……カインと、一緒にいたいの」
「いつまで?」
「ずっと……いつまでも」
「……そっか。じゃあ改めて聴くけど、カインのこと、好き?」
「そう、なんだと思う」
「……ふふ、それなら邪魔しちゃダメね」
笑う声が聞こえていた。
「それで、そこからどうするの?」
「………………そこから?」
「そうよ。大切なのは、そこからじゃないの? カインと一緒になって、それから何をするの? 手をつなぐとか、キスするとか。買い物するとか、遊びに行くとかさ」
「……いいの?
「何がよ」
「そこから先を、望んでもいいの?」
「ええ、勿論」
「……我儘、じゃないの? あたし、こんな風になって、それでも……そんな夢を見ても、いいの?」
ふわりと、一つ。
「それがあなたの、したい事なら」
包み込むような声色で、そう言葉が放たれる。
「…………さん」
「え?」
「お花屋さん……カインと、一緒に」
くすり、と微かな声が聞こえていた。
「朝、弱いからさ。私が起こしてあげて、その間に朝ご飯も作ってあげて……そこで一緒に食べて、ゆっくりして」
「うん」
「それで、花……フレシアとか、ローティゼリアとか、育てたいの。ちゃんとお水を上げて、花を咲かせるように育ててあげて、さ」
「それから?」
「……花束。みんなに、花束にして育てたお花をあげたいな、って。カインと一緒に育てたお花を、みんなに見て貰いたいから。お花の綺麗さを知ってほしいから」
「素敵じゃない」
「それから、それから…………」
ぴたりと、言葉が止む。
「……そっか」
「どうしたの?」
「見つけ、られた。見えなかった……諦めてたから、分からなかった」
「……うん。そうだったのかもね」
「でも私、見つけられた。諦めないのなら、夢を見れた」
最後に聞こえてくるのは、微かなささやきで。
「私、カインと――」
深い暗闇に、意識が落ちていった。
□
朝焼けは霞み、青白い空気が辺りを漂っている。けれど頭はがんがんと荒く金を鳴らしていて、響く痛みに思わず壁へ手を付ける。
朝の路地裏はけれどやはり暗闇に包まれていて、少しだけ涼しいような風が吹き抜けていた。
「……飲み過ぎた、か」
何も全て呑まなくてもよかったのだろうに、けれどそれで彼女は許してくれそうも無かった。
お蔭で昨日はそこから何も記憶が無いし、早く起きるのにも苦労した。というより、話を聞かれたくなかったら何か他に方法があっただろうに。どうして俺だけが被害を受けなければいけないのか。
そんな事を思い浮かべていると、ふと声が重なる。
「なー」
足元から覗くのは、黒い毛並みの小さな猫だった。
「お前、は」
「なぁー」
「……そうだな。お前を見捨てる訳にも、行かないか」
ぱちぱちと目を瞬かせている猫へ、手を伸ばす。
「なーぁ」
腕の中に収まっているそれは、やはりいつものように何もわかっていないような顔で、俺の顔を見上げていた。そうして、これだけ簡単に手が届くことに、俺は心のどこかで疑問を浮かべていたのだと思う。
この小さな命に手が届いて、どうしてジーナへ手が届かなかったのか、そう思うとまた、怒りのような後悔のような感情が湧き上がっていった。
けれどそれを、どこかへ吐き出すこともできなくて。
「誰も、いないか」
いつもの扉に手をかけると、その先にはやはり、見慣れた光景が広がっていた。
必要なものは、金だった。俺にはあまり価値の分からないもので、彼女にとっては絶対の価値を持つもの。その違いは、どうやっても理解できるものではないように思えた。
「なーっ」
そんな声を上げながら小さな猫が俺の腕から飛び降りて、一目散に部屋の中を駆け巡る。そうしてたどり着いたのは机の上で、そこにある一際大きな皮袋へとその身を投げると、じゃらじゃらとした音を立てながら、猫はまた鳴き声をあげていた。
「なー」
「……しっかり入ってろ。途中で落ちるかもしれないから」
机の上に置かれた袋を手にかけると、ずっしりとした重みが感じられる。
「よう」
かけられた声に振り向くと、目の前にはナイフを構えたリヒトーフェンが立っていた。
「……いつから」
「昨日の夜くらいからか? まあ、そこまで時間はかかってない。心配してくれなくてもいいぜ」
こちらへ銀の刃を向けたまま、彼が部屋の中を歩いていく。机の上に置かれていた携帯食料を軽くつまみ上げると、それをおもむろに自分の口の中へと放り投げた。
「朝、食ってないんだ。食べないと一日やってられない体質でな」
「……何の用だ」
「単純だよ、仕事の話だ。俺とお前で、それ以外をしたことあるか?」
壁に体を預けながら、リヒトーフェンが語り始める。
「仕事を頼みたい」
「……前の案件は、もういいのか」
「ああ、いいんだ。解決した。全て、丸く収まった」
「どうして教えない」
「一つ、教える必要がないから。二つ、教えたらまずい事になるから」
「…………どちらだ」
「両方だ」
くるくると手の内でナイフを遊ばせながら、リヒトーフェンがそう答える。
「それで、仕事の内容だが」
「おい、まだ話は――」
「ジーナを殺せ」
――――――――は、?
「殺して、死体を森に埋めろ。ああ、顔を分からなくしてくれれば、皮に流してくれても構わない。鳥に食わせても、まあ問題ないだろう。とにかく、彼女が居た痕跡を消せ」
理解が追い付かなかった。彼の言っていることが、分からなかった。
酒がまだ残っていたのだろうか。俺はあの手のものは弱いから、もしかしたらこれが夢なのかもしれない。二日酔いというのも聞いたことがあるから、もしくはそれなのだろう。だから、こうして感じる殺意も、握った拳の痛みも、全て幻なのだから。ああ、そうだ。そうに決まっている。こんなものが現実なんて――
「…………おい、やめてくれよ」
気が付けば、押し倒した彼の顔の横に、ナイフを突きたてていた。
「どういうつもりだ」
「簡単さ。彼女がいると、色々とウチにとって都合が悪いんだ」
「貴様等のために、彼女を殺せって言うのか」
「ああ。そう、お前に命令してる」
振り上げた手を、彼の肩へ突きたてる。
「ぐ、っ…………!」
「誰だ? いや、何だ? 何がお前の後ろで動いている?」
「言え、ねえな。許されてねえ。行った俺が痛い目を見るから」
リヒトーフェンはいつもの悪戯めいた笑顔を浮かべていた。
「さあ、どうする? 依頼主が誰かも分からなくて、自分が命を賭して守っているヤツを、人を殺せないと分かっているお前の手で殺せ、って仕事だ。受けるか?」
そんなもの。
「答える必要があると思うか」
「…………それでいい」
先程とは違う、諦めたような笑みを浮かべて、リヒトーフェンはそうつぶやいた。それが一瞬どんな意味なのか分からなくて、けれど体はどこか力が入らなくて、跨ったリヒトーフェンの上から足をどけていた。
「ああ、クソ……本気でここまで刺すヤツがいるか、馬鹿」
「……何のつもりだ? お前は一体、何をする気だ?」
「なに、単純さ。お前は組織のボスである俺に裏切った、ってわけだ」
「それで、その裏切り者は殺すのか」
「まさか」
よろよろと立ち上がりながら、リヒトーフェンが肩に刺さったナイフを抜き取る。赤い液体が床の上へ滴り落ちた。
「裏切り者なんて知らねえな。勝手にどっかにいって、くたばっちまえばいいさ。そんなものを追う時間もこっちには惜しいんでね」
「……それは」
「ああ。お前との契約はもう今日でおしまいだ。あばよ、カイン」
唾を地面へ吐き捨てて、リヒトーフェンが口にする。
「それで、今ここにいるのは、昔に職場を同じにした旧友、ってわけだ」
「……なに?」
そうやってリヒトーフェンは自らの懐を探りながら、手に取った何かをこちらへ投げ渡す。それは一見すれば何かの札のように見えて、裏を返すとそこには黒い鷹の模様が描かれていた。
「西の門だ。話は通してある。それを見せればいい」
「……何故だ? どうして手を貸す?」
「なに、昔の友人に手土産を渡しちゃ不思議かよ。俺はな、友人関係を大切にする男なんだ。それがたとえ、忌々しい裏切りモンだとしてもな」
へへ、と疲れたような笑みを浮かべながら、リヒトーフェンがこちらを向き直る。薄汚れた灰色の瞳は、けれどどこかに安らぐようなものを感じさせた。
「優しすぎたんだよ、お前は」
「優しすぎる?」
「ああ。人のひとりも殺せないで、誰かれ構わず手を伸ばして。本当、損な生き方してるよな、お前って」
損、なのだろうか。それとも彼がそう言っているだけなのか。
これ以外の生き方を、俺は知らなかった。こう言った生き方しか、できなかった。
「来るべきじゃなかったんだ。お前みたいな人間を、引き連れて来るべきじゃなかった。だから、高い金を積ませれば勝手に逃げて行くと思ったんだ。けれどお前は、ここにいることを望み続けた。こんな薄汚れたクソみたいな世界で生きて行くことを、良しとしたんだ」
「そこでしか、俺は生きられないから」
「そんな訳があるか。いいか、人間ってのはな、生きようと思えばどこでも生き抜くことができるんだよ」
それはどうやら、彼自身の言葉らしかった。
「憧れてたんだ。お前みたいな生き方を、守るべきものを見つけた喜びを」
「…………」
「そう、なってみたかった。俺には金以外に何もない。愛情も、優しさも、全部無くしちまった。けれどお前はそれを持っていた。だから、なんだろうな。ここまで手を貸す理由は」
「……後悔してるのか?」
「いや、違うな。今は役目を果たせたと思っている。満足してるよ、お前をここから追い出せて」
言葉とは裏腹に、声色は優しかった。
「お前の居場所は、もうここじゃない」
□
「カイン」
扉を開いた先にあったのは、この前の時と同じような、小汚い白い塊だった。
「また、起きてたのか?」
「寂しかった」
「……すまない。でも、お前を連れては行けなかったから」
かがみこんで布の上から頭を撫でると、白い布の向こうにいる彼女は、くしゃりと崩れるような笑みを浮かべていた。
「仕事の話だったんだ。けれど、これで最後だから」
「最後?」
「ああ。もう辞めてきた。いや、正確には辞めさせられた、か」
「そっか」
慈悲なのだろうか。それとも、彼の自己満足か。
「もう、カインが傷つかなくていいんだね」
けれど、これでジーナが救われることは確かだった。
「……すこし、話をしよう。これからの」
「これから、って」
「ここを抜け出した先のことだ。いつまでも居るわけにはいかないだろ?」
折った膝をもう一度伸ばすと、彼女も同じように左手を地面へついて立ち上がる。そうして隅のほうにある机へと歩いて行くと、彼女も俺の後ろをとことこといったようについてきた。
「この街を出よう」
「……できるの?」
「だからそのために、持ってきた」
手に握った袋を机の上へ置くと、ずん、といった重たい音に、高い鳴き声が重なる。不思議がってジーナが首を傾げて居ると、開いた袋の口から、黒い影が飛び出した。
びく、と体を震わせながらジーナは胸元へ手を寄せて、その物体を受け止める。
「なー」
「…………あ、はは。久しぶりね」
ごろごろと喉を鳴らす子猫に、ジーナが笑いながら声をかける。その時だけ、その猫の顔がどこか安堵しているように見えた。
「……うち、動物は禁止なんだけど」
「なら、追い出してくれ。その方が都合がいい」
いつの間にかドアに肩を寄せて居るフローラへそう告げると、彼女は呆れたように嘆息を吐いた。
「本当、あなたって勝手よね。一晩部屋を貸せ、って言ったと思ったら女まで連れ込んできて。それで次の日には勝手に出て行っちゃうんだから」
「すまない。でも、それしかできなかったから」
「……ふふ、そうね。あなた、それしか知らないものね」
くすり、と笑みを浮かべながら、フローラが伸ばした指を俺の頬へ伝う。既に傷は赤く濁りながら固まっていて、けれどそれを彼女はいつくしむようにながら目ながら、その薄い唇を開く。
「いつ出るの? 今から?」
「いや……少し、時間を置く。リヒトーフェンが動いたとなると、何かしら警戒されるから、まだ一日か二日はここに」
「そう。なら好きに使いなさい。ただし猫の毛の処理はしておくように」
それだけ残して、フローラはぱたりと扉を閉める。過ぎ去る足音とともにいつのまにか俺の後ろに隠れていたジーナがひょっこりと顔を出し、その手の中からまた子猫が顔を出した。
「この子、ここに居ていいの?」
「ああ。ちゃんと世話さえすれば」
「そっか」
小さな頭を指先で撫でながら、ジーナが声をかける。
「よかったね、居られる場所があって」
その笑顔には、安らぎを求めるような、けれどどこか憧れるような色が灯っていた。
くしゃくしゃと撫でられる猫は、少し鬱陶しそうにしながら、手のひらの中で首を振っている。
「なー」
「あっ、ちょっと」
やがて耐えかねたのか、それはぴょい、とジーナの手から飛び出して、床の上へと足をつける。そんな猫にジーナは声をあげながら――ふと、体をゆらりとふらつかせた。
「――――あ、れ?」
地面へと倒れ込む彼女の像が、夢のようにゆっくりと俺の瞳へ移る。
「ジーナ?」
そう声をかけても、帰ってくるのはくぐもった呟きで。
「カイン……? どこ…………?」
白い毛布を被された彼女に手を伸ばそうとして、それが宙を掠めてゆく。次の瞬間、胸元に強い衝撃が走って、それが怯えた顔を布で隠しているジーナだと気づく頃には、俺は天井を見上げていた。
俺の上へと細い脚で跨りながら、彼女がはたと声を上げる。
「カイン!? カイン、どこ!? ねえっ、カイン!? どこ行っちゃったの!? ねえっ!」
俺の体の上で、俺の胸を強く握り締めながら、彼女は俺の名前を呼んでいた。
「ジーナ、落ち着け」
「行かないで……や、いやっ……! 一人に、しないで…………どこ? どこにいるの? カイン……カイン、っ……!」
「大丈夫だ。ここにいる。布で隠れてるだけだろ、ほら」
安らげるように、優しく語り掛けながら、かたかたと震えたままの彼女を撫でる。
そうして俺は、被された白い布をゆっくりと手にかけて――
「ぃ、ゃ……いやだ、っ…………カイン…………!」
その右目に、虚ろな灰色が映っているのを見た。
□




