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『刻まれた痕』


 朝の静かな時とはまた違う、冷たい静けさの中に居た。

 眠気を感じることは、不思議となかった。それが心の調子によるものか、身体の調子によるものかもわからないくらいには疲弊していたのだと思う。けれど確かに分かることは、彼女が側にいてくれないと、不思議と意識が揺らぎ、まともに考えられなくなるということだった。

 虚ろなままの意識の中で、彼の声が響く。


「よう、カイン」


 いつものカウンターに向かい合せで座るリヒトーフェンは、にんまりとした嫌らしい笑みを浮かべて、俺に声をかけていた。


「こんな朝に何だ」

「……いつも、この時間だったはずだけどな?」

「ジーナを置いてきた。彼女はまだ寝ているから、俺が側にいないと……どこかに、行ってしまうかもしれないから……」

「…………」


 まだ布団の中で寝ているのだろうか。それとも、自分で食事を摂っているのだろうか。けれどもし、一人で外へ出ていたとしたら? もし、誰かに連れられて、また俺の手の届かないところへ行ってしまったら?

 怖さ、なのだろうか。それとも恐れなのか。それすらも、曖昧で。

 沈み込むような意識の奔流から、彼は俺を引き摺り上げた。


「先日の件だが」


 ぽつぽつと語りだした彼に、耳を傾ける。


「まだ裏で動いている奴の正体は掴めていない。本来ならあそこで吐かせる予定だったんだが……あいにく、不運な事故が起こってな」

「……彼女は」

「結局、何も吐かずに死んだ。舌を噛み切ったんだ。ま、優秀な部下だったな」


 それを俺が見届けることは、決してないのだろう。そうして自ら死んでいく者にすら、俺は手を伸ばすのだろう。

 それなのに、俺の手は彼女に届くことはなかった。俺の様にならないように、全てを尽くしたはずなのに、彼女はまた俺よりも深い闇へと堕ちていった。


「カイン? お前、大丈夫か?」

「……大丈夫だ。続けてくれ」


 そう答えると、彼はまた何か言おうとしたけど、目を伏せて首を振りながら、先程の話を続けて始めた。


「それだから今、残った痕跡を手がかりにして親玉を突き止めてる最中だ。その中であと数人にはアテを絞れたんだが、そこから上手くいかなくてな」

「…………それで?」

「あの嬢ちゃん、居ただろ」


 上げられたその言葉に、思わず身を乗り出した。


「ジーナを関わらせるつもりはない」

「けれど、関わった人間の一人一人を覚えているのは、彼女だけだ。そこを辿れば、必ず親玉へ辿り着ける」


 筋は通っているはずだった。けれど俺は、それに頷くことはできなかった。


「……ま、いい。それを決めるのはお前じゃない。話だけでも通しておけ」


 リヒトーフェンはそう切り上げ、また俺の瞳を深く見つめて、

 

「お前の話だ」


 そう、重々しく呟いた。


「俺の?」

「ああ、俺の部下を一人使えなくしてくれた、お前の話だ」


 リヒトーフェンはカウンターに手を置きながら立ち上がって、そう語りながら俺の方へ来るようにカウンターを回る。ふつふつと感じられる怒りに、けれど俺は何も動くことも無く、彼の言う事を聴くだけだった。


「なあカイン、誰にでも理不尽なものはあるさ。俺だってお前に同情できるくらいの義理はあるし、あそこで殺さなかっただけマシだとは思ってるよ」


 殺さなかった方が、マシなのだろうか。殺したら俺は、どうなっていたのだろうか。

 それを想像することすら、遥か遠くのことのように思えた。


「ジーヴァはな、デキる奴なんだよ。そりゃ性格の面ではダメな事が多いだろうし、人間としてもクズだ。けれど俺からすれば仕事を忠実にこなして、秘密も必ず守ってくれる、俺の右腕みたいな存在なんだ。この意味が分かるな?」


 置かれた手には、強い力が籠っていて。


「お前と契約したのは二年くらい前だったか? 前から噂は聴いてたんだよ。あのシータ嬢の護衛をしてたってな。そこらへんの話を聞いてりゃ、顔を見て一発で分かったさ」

「…………」

「あんな、全てを失ったような顔をした人間、初めて見たぜ。だから思ったんだよ。こいつは使える、ってな」


 それすらも思い出すことができない。ただ印象に残っていたのは、彼女の言葉と、心に空いた大きすぎるくらいの空白であった。

 夢を叶えてどこかへ行ってしまった彼女を、心のどこかで輝かしく思っていた。まるで俺には到達できないような、光の先にいる存在だった。


「でもなあ、お前は人を殺さなかった。殺せなかったんだ」


 今、目の前に居る人間が、どこかに行ってしまうのがとても怖くて。

 手すらも伸ばせなくなったそのことが、とても恐ろしく思えて。


「正直、驚いたよ。あのシータ嬢の護衛をしてるって聞いたもんだから、どんな極悪人かと思ったら、人のひとりも殺せない優男だったなんてな」

「それは……悪かった」

「いやいや、悪い事じゃないさ。寧ろ、与えた金の分の働きをしてくれたからな。お前のこと、頼りにしてたんだぜ。こいつなら任せられる、信頼を寄せられる唯一の部下だ、ってな」


 視界の端を、銀色がちらつく。それが冷たい、鋭い刃だというのに気が付いたのは、俺の頬に冷たい感覚が走るときだった。


「けどな、やっぱり見当違いだったんだよ」


 声はだんだんと、重く、深く。


「たった一人、それもただの癇癪で傷つけた人間のせいでこうなるとは思ってなかったか? 他人の腕を切り落として、それでいてまだ俺の元をいられると思ったか?」


 続く言葉の裏には、決してぬぐえないようなどろどろとした何かが張り付いていて、俺のこの首がすぐに落ちてしまうのも、おかしい事には思えなかった。

 けれどリヒトーフェンは銀のナイフを俺へと押しあてたまま、確かな自分を持ってまた口を開く。


「だからこれは、当然の応酬だ」


 つぅ、と熱い感覚が頬を撫でる。冷たい感覚に遅れて、灼けるような痛みが走る。 

 やがて机の上に置かれたナイフの先から、赤い雫がしたたり落ちた。


「本当なら、お前を今すぐにも殴り飛ばしたいよ。ジーヴァはこの先な、片方の手を失って生きていくんだ。その辛さがお前に理解できるか?」


 俺にその痛みは分からない。分かるはずもない。

 ただ、彼女なら理解できるのだろうと、頬に伝う痛みと共に思った。


「この話はもういい。本来、それだけで済んだとは思わないことだ」

「………………」

「よし、それじゃあまた楽しい話をしようか」


 どさ、と重たい音を立てながら、リヒトーフェンはどこからか取り出した大きな革袋をテーブルへと叩きつける。だらしなく開いた口からは、あのとき彼女が手にしていた量の何十倍もの金貨が覗いていた。


「百枚ある。全部お前のものだ」

「……ああ、そうだな」

「おい、もっと喜べよ。金貨の百枚なんて、下手したら数ヵ月は生活にこまらなくなるんだぜ? こんな職業から足を洗って、店を開くこともできるかもしれないってのに」


 そうやって夢を膨らませることを、俺はできなかった。夢の先にある末路を知ってしまっていたから、その夢すらもみることができなかった。

 輝きは同時に暗闇も見せて、その先へと誘われる。あれだけジーナが求めていたものは、いとも簡単に、俺の手へと受け渡された。

 その事実が、どうしても悲しく思えて、俺の心へとのしかかっていった。


「カイン?」

「…………俺は、どうすればよかったのだろう」

「あ?」

「彼女を引き留めるべきだったのだろうか。それとも、彼女と共に在ればよかったのだろうか。けれど俺は、何も……何も、できなかった…………」

「…………」

「送りださなければ、よかった……けれどそれは、彼女の夢を阻むことになったのだろうか……? 分からない……彼女を、信じていたから…………信じていたのに、どうして……どうして、ジーナが…………!」


 やがて俺が無愛想にしているのが面白くなかったのか、リヒトーフェンはまた俺と向かい合わせになって腰を下ろし、肘をつきながら俺へ口を開く。


「もういい、早く帰ってやれよ」

「…………」


 呆れたようなリヒトーフェンの言葉を背に、廃屋を後にする。

 右手に掛かる重さは、変わりようのない、確かなものであった。



 扉を開いて最初に見たのは、小汚い白い塊だった。


「カイン」


 ぱたん、と扉を閉める音と同時にそんな声が聞こえてくる。そんな異様な光景に、少しだけ動揺しながらも俺は腰をかがめて、座り込む彼女の顔を覗き込んだ。


「起きてたのか? こんな朝早くに」

「カインが、いなくなったと思って」

「……すまない。伝えてから行けば良かったな」

「さみしかった」

「もう、大丈夫だ。ほら、仕事の報酬をもらってきただけだから」


 ほら、と重く音の鳴る袋を見せるけれど、彼女はそれに少しの興味すらも持っていないようだった。かつてはあれだけ執着していたものに、ぼんやりとした視線を向ける彼女を見ると、またどこか心に空白を感じるのだった。

 そう思考を巡らせていると、ふと彼女の左手が伸びて、俺の頬を撫でる。


「カイン」


 白く透き通るような彼女の指には、穢れたような紅い液体がこびりついていて。


「これ、どうして――――」


 続く彼女の言葉を聴く余裕も無く、気が付けば俺は、彼女の手を取って、そこに張り付いた血を必死に白い布で拭っていた。その小さな指を強く握り締めながら、まるで憑りつかれたようにして薄汚い布へ擦り付けていた。


「ちがう……ちがうんだ、ジーナ…………き、汚いから……早く落とせ……お前は、こんなもの、触らないで……」

「カイン、ま、って」

「汚れる…………汚れるから、……これ以上、ジーナを穢すのは……」

「いたいよ、カイン」


 聞こえてくる震えた声に、はたと我に返る。

 おぼろげな視界には、幽かに赤くなった彼女の指が、俺の手の中にあった。


「あ、ち、ちが、ジーナ」

「……うん、大丈夫だよ。カインのすることなら、大丈夫だから」


 穢れてしまうと思った。これ以上、彼女が汚濁に染まってしまうかと思った。そうなると、もう二度と光の下で生きていけないような気がして、それは何としてでも止めるべきことだと思っていて。

 訳が分からなくなって、我を取り戻した時には、俺はジーナの身体を抱きしめていた。どこかに行ってしまいそうで、消えてしまいそうなその体を、強すぎるほどに縛り付けていた。


「……話してきたんだ。お前を貶めたやつを、どうやって探すのか」

「うん」

「でも、わからなかった……それで、あいつはお前を……お前の、記憶すらも頼りにしてきた。お前なら、覚えてるだろう、って。でも、そんなこと、俺は……」


 かすかな感触が、頭を撫でる。

 ゆっくりと髪を梳くようなその感覚に、言葉をつぐみ、ジーナは少しだけ安堵したような息をつくと、俺の耳元で囁いた。


「カイン、ごめんね。私……覚えてないの」


 そこには怒りとか憎しみとかではなく、朽ち果てたような色が灯っていた。


「……打たれたときから、よく覚えてられなかったんだ」

「それ、は」

「ただ、気持ちよかった……ぜんぶ、忘れられたの。だからごめんね、カイン。私じゃ力にはなれない」


 苦しみながら縋った希望にも、結局は届かない。

 もう彼女の眼前に広がる暗闇を晴らすことは、決してできない事のようにも思えた。


「……そうか、すまない」

「違うの。私が、覚えてなかったから――」


 抱きしめる腕の力が、強くなる。耳元で微かな声が漏れた。


「どう、して…………どうしてなんだ……なんで、誰もジーナを……!」

「カイン、大丈夫だよ」

「何で、誰もジーナを救おうとしない……? 幸せには、なれないのか…………誰かと同じように、生きることもできないのか…………!?」


 呟いた言葉は誰かに届くでもなく、暗い部屋の中で溶けていく。

 絞り出した声に返ってくるのは、ただ柔らかく頭を撫でる、彼女の手の感触だけだった。


「ねえ、カイン」

「……どうした?」

「私、外に行ってみたいな。この前みたいにさ、二人でいっしょに」


 共に歩いたあの日の事を、消えたジーナの事を、思い出す。


「で、も……そうしたら、またジーナは……」

「大丈夫。今度は、繋いだままで居てくれるでしょ?」


 力の抜けた俺の手を取りながら、彼女がそれを自らの胸で握る。伝わってくるのは彼女の温もりと、わずかに感じる鼓動だった。

 とくん、とくん、と流れていく。それが、彼女がそこにいることを、伝えてくれる。


「ああ…………行こう、今すぐにでも。今度は、絶対に……絶対に離さない」

「ほんとに?」

「決して、離さない。必ず見つけ出す」

「そっか……それなら、嬉しいよ」


 翡翠の瞳を覗き込みながらそう口にすると、彼女は恥ずかしそうに、けれどどこか満たされたように笑ってくれて、


「あなたと離れ離れになるのは、もう嫌だから」


 伸ばされた左手が、俺の頬を撫でる。

 また、白い指が、紅に染まっていた。



 昼を過ぎた頃でも、街の喧噪は何も変わらなかった。

 たとえ誰かが届かない闇の中へ堕ちて行っても、そこから這い上がろうとしても、行き交う人々の顔ぶれも足並みも、何も変わらない。唯いつも通りの風景としてそこに広がっているのは、彼女が望むそのものであった。

 けれど、どうしてかその時だけは、彼女を見向きもしないような彼らに、怒りにも似た感情が湧き上がっていた。どうして、彼らが太陽の下で生きていられるのか。どうして、彼女はそこにいられないのか。

 悔しかった。ジーナを見つけたあの時と同じような、昏い感情が湧き上がる。


「カイン?」


 ふとそんな心情に攫われて、立ち止った俺に、ジーナは振り向いてそう呼びかける。いつもの白い布をまるでフードのように被っている彼女は。一瞬だけ陽の明るさから、周りの人間から隠れているようにも見えた。


「どうしたの、調子悪い?」

「……何でもない。ただ…………」

「ただ?」

「……お前とこうして歩けることが、その」


 嬉しい、のだろう。けれどそれはまた、行くところを失った怒りにもみ消されていて。その時の俺はとてもふらついていて、それこそ彼女がいなければ、どこかへふらりと消えてしまいそうだった。

 けれど、そんな俺にでも、彼女はまた笑ってくれる。


「なら、行こう?」


 差し出された左手を握って。足並みをそろえて。

 こうしてまた、たとえ今だけでも、二人で同じ道を歩けることが、唯一の救いのようにも思えた。俺の隣を小さく歩く彼女はまた、輝きを取り戻したように映っていた。

 そうして人ごみの中を縫う様に、二人で手を固く繋ぎながら歩いてゆく。


「どこ、行こうか」


 あの日のように、また彼女は俺に問いかけてきた。


「……どこでも、お前の行きたいところなら」

「んー、でもこの前、あらかた巡っちゃったし……お昼も食べちゃったもんね」

 

 口の中に残る携帯食料の苦みに、ジーナは肩をすくめていた。

 それでは何かないかと、おぼつかない記憶の中を探ってゆく。彼女の求めているものは何だっただろうか、欲しがっていたのはどんなものだったか。

 そう考えを巡らせていくうちに、ふと頭の端から漏れ出すように、言葉が紡がれる。


「本」

「ん?」

「本は、どうだ?」


 まるでそれが、ずっと昔のことのように思えた。本を眺める彼女に手を伸ばして、初めてそれが届いたのを、確かに覚えていた。

 俺の提案に彼女はぁー、と少し考える素振りを見せながら、また向き直る。


「いいかも。いろいろ見てみたいしさ」

「なら、行こう」


 そう言うと彼女はいつものような、明るさに照らされたような笑みを浮かべた。

 大通りから外れ、細々とした路地を抜けていく。人々の喧噪はいつのまにか遠くなり、眩しかった陽の光もだんだんと弱ってゆく。けれど彼女は確かに俺の手を握ってくれていて、俺もまた彼女の手を離さないように握り締めていた。そこに言葉はなく、ただ彼我の間には全く同じような、強い何かが結び涙ているような気がした。

 溺れているのだろうか、それとも虚ろに耐えられなくなっているのか。

 彼女が居ないと、全てが崩れてしまうようだった。


「……こんなに遠かったっけ、ここ」


 やがて彼女が足を止めたのは、見たことのある、ぼろついた店の前であった。


「この前に出かけたときとは正反対だったからな。あそこからだと割とかかる」

「それ、ちょっと不便かも」


 そんな悪態を吐きながら、彼女が閑散とした店内へ足を踏み入れる。

 あの時と変わらず、やはり店の中には客も店員も、誰も見当たらない。それこそ、いまに本を一冊や二冊ほど盗んでも咎められないような、そんな静けさの中で彼女は、何かにつられるようにしながら本棚の中を抜けていった。


「こっち……」


 やがて辿り着いたのは見覚えのある場所で、ジーナが俺から手を離し、ふと手にして開いた本の中には、赤や黄色の色彩があふれていた。

 そんな流れるような色とりどりの花々を眺めて、しゃがみ込んだジーナがふと口にする。


「これ、知らない」

「知らない?」

「うん、見たことない。私、ここにある花の本はぜんぶ見たことあるのに」


 ずらりと並んだ本棚を一度見上げながら、しかし彼女はまた自らの手元へ目を下ろした。


「花、たくさん載ってる」

「そうなのか」

「まだ、こんなにあったんだ」


 それを眺めているジーナの瞳は、とても輝いて見えて。


「また、覚えないとな」


 呟いたその言葉に、彼女は驚くような色に染まった。


「なん、で」

「言ってただろ、花屋になるためには知識をつけないといけない、って」

「……そっか、そうだよね…………私、お花屋さん、に――」


「おいッ!」


 そう彼女が顔に色を取り戻した瞬間、店内に怒号が響き渡る。

 びくん、と過剰なまでに身体を跳ねさせながら彼女は開いた本をそのままにして、俺の背中へ廻りながら固く服を掴んだ。


「このクソガキ……って、あんたも一緒か」

「……覚えてるのか」

「無論、あんたは客だからな。それより……」


 と、彼は苛ついたように、俺の後ろでかたかたと震えているジーナへ目を向ける。


「懲りずにまた来たのか? お前なんかに売る本はねえって何度言ったら分かるんだ!」

「………………」

「分かったらとっとと帰れ! お前みたいな小汚いガキ、居なくなっちまえばいいんだよ!」

「…………っ……!」


 ぎゅう、と服を握る力が、さらに強くなる。背中に彼女の頭が押しつけられて、たまらず後ろへと振り向こうとするけれど、ジーナはそれを拒んだ。


「……おい、何とか言ったらどうなんだ。ついに返す言葉も無くなったか?」

「違う、本の中身を見ていただけだろ、そうしないと買うかどうかも迷えない」

「あ? おいあんちゃん、お前にも言ったよな? ちゃんとこいつに言いつけとけ、って。うちは立ち読みなんて厳禁なんだから」

「しかし、それでは択ぶことすら――」


 さすがに彼の対応も行き過ぎるものがあると、その時には思っていた。

 そうやって言葉を交わしていると、後ろにいるジーナが、消え入りそうな声で、


「……ごめん、なさい…………」


 そう、呟いた。


「あん? 今更、誤ったってなあ、こっちは……」

「ごめん、なさい……ごめんなさい、っ…………! ゆ、許して、くだ……さい、言うこと、ききますから……!」


 ずるずると地面に倒れ込みながら、彼女がそう口にする。地面に頭をこすり付けながら、爪を立てる彼女に寄り添いながらその肩を抱えようとすると、目の前の彼は呆れたように一つ息を吐いた。


「誰にやられたんだ?」

「……俺も、彼女も知らない。ただ、大勢いたのだと、思う」

「ったく、店の中でそんなことするんじゃねえよ……」


 むしゃくしゃしながら頭を掻いて、彼が静かに店の中へと戻っていく。けれど彼女は泣き止むことも無く、その小さな身体を支えると、またぽろぽろと涙が零れ落ちるのが見えた。


「わた、わたし、やっぱり…………」

「いいんだ。心配するな、ほら。立てるな?」


 そうやって差し出した手に帰ってくるのは、彼女の手ではなく、どさ、と何かが積み上げられるような音で。

 ジーナの眼の行くほうへ視線を向けると、そこには先にジーナが取ったような花の描かれた本が、五冊ほど積み上げられていた。


「……元々な、ここは学者サマ向け専門に売ってんだよ」


 積み上げたそれに手をかけながら、彼はそう語る。


「専門書なんだ、これ全部。各地から様々な学術書とか、論文とか、図鑑とか持ってきてな。それを国の研究所や病院なんかに寄付してるってワケだ」

「じゃあ、花の本が置いてあったのも……」

「ああ。それの一環だ。まったく、どこから嗅ぎ付けてきたんだか」


 肩をすくめながら、本を一つ手に取る。


「で、これは簡単に言えば余り物だ。五冊ある」


 ぱらぱらとそれを軽く開いて、彼は一瞬だけ考えるようにしながら目を閉じて、


「全部やる。金も要らん」

「いいのか?」

「ああ。どうせ金にならねえからな。不要なモンはうちには置かねえよ」


 包装用の紐布を取り出し、そうぼやくように口にする。


「なん、で?」

「俺にも理由は分からん。ただまあ、お前がこれで立ち読みしてくれなくなるなら、安いもんだとは思ったな」

「…………ごめんなさい」

「おい、お前バカか? 他人からモノを与えられたら、謝るんじゃなくて感謝するのが普通ってもんだろ」


 縦に布で縛った本をジーナの前へと叩きつけながら、彼は笑っていた。そこには先程までの怒りではなく、友人を励ますような、そんな好気の色が入っていた。

 そうして与えられたそれに、ジーナが恐る恐る手を伸ばす。


「ありがとう」

「おう、ちゃんと読めよ。そうでなきゃタダで売った意味がないからな」


 ようやく立ち上がった彼女は、自分の手の内にある確かな重さに、初めて輝くような笑顔を見せてくれた。


「……助かった」

「なに、こっちも面倒が減るんでね。丁度良く処理できたよ」


 それだけ言って、彼は重そうに本を引き上げる彼女をまくし立てるように、手を叩く。


「ほらほら、貰うモン貰ったらさっさと帰りな! 言っとくけどな、こっちは忙しいんだよ! そろそろ次の客が――」


 きぃ、と。

 彼の言葉をかき消すようにして、店のドアが開かれる。溢れるような昼間の太陽の光が、後ろから差し込んでくる。


「やあ」


 そうして俺が光の中に見たのは、目が眩むほどの紅であった。


「ルーヴェルトの旦那」

「うむ、時間に遅れてはいないみたいだね。少しお昼寝をしたから、もしかしたらと思ったけれど」


 つかつかと、けれど優雅な雰囲気で音を立てながら、ルーヴェルトは彼と言葉を交わす。すると彼は一瞬だけ俺の方へと目を向けた後、何かを考えるようにして、店主へと問いかけた。


「彼らは?」

「ああ……なに、ただの客ですよ。少し融通を効かせてやっただけです」

「そうか、それは良い事だ。ここにある書物は、腐らせておくには惜しいものばかりだからね」


 うんうん、と優しい笑みで、ルーヴェルトが首を縦に振る。

 そして彼はこちらへと視線を向けて――その時どうしてか彼の瞳に、とても冷たい、まるで崖から突き落とすような強い意志を感じた。


「君は……カイン、か」

「……よく覚えてるな」

「ああ。なにしろ、恩人だからね。そんな大切な人を忘れるワケがないさ」


 苦笑いを浮かべながら、ルーヴェルトは語る。


「どうしてここに?」

「もちろん、本さ。実を言うとね、僕は薬物学を専門に勉強してるんだよ。それのために此処の書物を参考にしていてね。彼はとても優秀さ」


 伯爵直々にそう言われたのが嬉しいのか、店主の彼は少し恥ずかしそうに頬を掻いていた。


「そういう君は、どうしてここに?」

「ああ、実は……シータが本が欲しいというから――」


 そう言葉を続けようとして、背中に強い衝撃を受ける。

 思わず後ろを振り向くと、そこには明らかに怯えたような顔をしたジーナが、俺の服の裾を強くつかんで、かちかちと噛み合っていない歯を震えさせていた。

 見開かれた目には深い虚ろの色が灯っていて、思わず握った腕からは、とても早く打つ鼓動が伝わってくる。小さく吐かれる息は、けれどとても荒々しかった。


「ジーナ?」

「………………ぁ、…………いや、…………カイン、に、げ……」


 途切れ途切れのその声に返ってきたのは、俺の言葉ではなく。


「君は、シータちゃんだね」

「――――――――ッ!!!」


 伸ばした手を左手で振り払って、その触れた左手を壁へ強く、何度も何度も擦り付けて。白い壁に赤い痕が着いたのを見た時には、彼女は既に積み上げられた本を持ちながら、どこかへと駆けだしていた。


「ジーナっ!? お前、何処に――!」


 ばだん、と扉が閉められる。


「……嫌われちゃったのかな?」

「いや、違う。今のあいつは、少し男と関わるのが苦手で……すまない、また」

 

 説明する時間も惜しくなって、また俺も店を抜け出して。

 最後に見た彼の顔は――どうしてか、悦に浸るような笑みを浮かべていた。


□ 


 見つけたのは、いつもの路地裏であった。


「ジーナ!」


 積み上げた本を崩し、壁に手を当てながら口元を押さえているジーナに、思わず声をかける。けれど彼女はこちらへ視線を動かすだけで、決して何かを答えられるような状態ではなかった。

 うつむいた顔は暗く、青白さが目立つ。吐き出される息はだんだんと荒さを増して行き、そんな彼女の背中へ手をやると、その小さな体が強張っているのを感じた。


「か、…………ぁ、えっ……!」

「大丈夫だ。もう、誰もいない。心配しなくても――」


 けれど、その言葉が届くことはなくて。


「ぐ、ぇ……、げっ、…………ぇゔ、っ、ぅぷ」


 びちゃびちゃ、と。

 肌色と、少し赤い色の混じった液体が、路地裏へ歪な斑点の模様を映し出した。


「ジーナ、落ち着け。大丈夫だから……」

「……ぉ、あっ……――う、ぇ、げぇっ、げぼ」


 背中をさすりながら、けれど出てくるものはもう何もない。それでも彼女の喉からは何か本能から逃れるような、四方から壁に潰されるような、喘ぎの声が漏れていた。

 ずるずると壁を伝いながら、自ら嘔吐したそれを避けるようにして、ジーナが壁へ頭を擦り付ける。その惨状に思わず背中を優しく叩くと、彼女は飛びつくようにして、俺の胸元へと抱きついた。


「ジーナ」

「ごめん、ごめんっ……カイン、逃げて……!」

「どうしてそうなる」

「……い、いや…………すぐに、あいつが来るから……! 早く、カインは逃げないと……!」

「……例えそうだとしても、お前を置いていけない」


 そう告げると、彼女は驚いたように、けれどどこか悲しそうに俺のことを見上げていて。


「……バカ…………バカだよっ! なんで、なんであんたは私を捨てないのよ!? もう、どうにもならないのよ!? 右腕も動かなくなって、私なんかもう、何もないのに……どうして、あんたは何も変わってないのよっ!?」


 言っていることの半分は、理解ができなかった。やはり彼女は、また前のように俺にはわからないことを口にする。けれどそれがどうしてか、しっくりと腹に落ち着いた。

 初めてジーナと出会った時から、俺は変わっていないのだろう。彼女を見逃し、力になり、共にあり続けた。例え俺たちを包む世界の全てが変わっても、それだけは変わらないのだろう。

 何故ならば。


「お前を、信じ続けているから」


 涙ぐむ彼女を撫でる。するとジーナはまた、俺の胸へと顔を埋めた。


「逃げる時も一緒だ。二人で逃げればいい。どこまで行ってもついて行くし、手も離さない。お前と出会った時から、ずっと」


 運命なんてものも信じていないし、巡り合わせなどと言うのにも興味はない。

 例え彼女でなくとも、俺はこの道を選んだのだろう。誰も死なせない、誰も行かせないために、俺は自らのそばにいる人間へ、手を差し伸べ続けるのだろう。

 ――ようやく、自分のことが理解できた気がした。


「……どっかアテ、あるの?」

「無いわけじゃない」


 呟く彼女の言葉に、そう返す。


「行こう、一緒に」



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