『繋いだ手は』
□
「カイン?」
まどろみの中に聞こえるのは、そんな声だった。
「……ジーナ、か?」
「あんたを起こすやつなんて、私以外に居ると思う?」
「そう、だな……それもそうか……」
「まったく、もうとっくにお昼過ぎよ。いつまで寝てるつもり?」
おぼろげな視界の中で、彼女は呆れたように笑っていた。
昨日のままの薄汚れた白い毛布に、体を覆い隠すような黒の上着。あの夢で見た彼女とは違うけれど、そこには彼女のいつものような、年相応の明るいものが感じられた。
横たわる俺の身体に添うようにして座りながら、彼女がこちらへと左の手を伸ばす。白い指は俺の頬をすぅ、と伝って、その柔らかな温もりを確かに伝えてくれた。
その小さな手に、自らの手を重ねて。
「夢じゃ、ない」
「……なに、まだ寝ぼけてるの?」
「まだ、いる…………ああ、そこにいるんだな、ジーナ」
流れる血も、脈打つ鼓動も。
あの夢で感じられなかった、全てがそこにあった。
「……大丈夫。もう、離れないから」
「そう、か……」
閉じかけた瞼のその先で、彼女は優しく笑ってくれた。
「……一緒に居ることを、思い描いていた」
「うん」
「どこかで、ジーナのことを思っていた」
「嬉しい」
「お前がいないことが、とても辛くて……満ち足りなかった。嫌、だったのだろうか。それすらも曖昧で、分からなかった」
「……うん」
長い時間だった。彼女が居ないことで、自分の何かが欠けていた。
「けれど、もう分かったことがある」
「なに?」
夢の様に、彼女はただ俺の事を見つめていて。
「俺は、お前と離れたくない」
今度は安らぐような、満ち足りたような笑みを浮かべたのだった。
彼女の頬へと手を伸ばす。もうどこかへ行かないように、かならず手が届くように。感じるのは彼女への光で、彼女を求めていることだけが、確かなことだった。
「ふふ、そっか。あなたもそう思ってくれたんだ」
「…………どう、して?」
答えることもなく、ジーナはその細い指と、俺の指を絡めて。
「私も、あなたと離れたくない」
そう、固く手を握った。
「絶対に、あなたの側にいるから」
「そう、か」
「……ずっと、一緒だよ?」
「それなら、いい」
「……お風呂とか、一緒に入ってくれる?」
「お前が、望むなら」
「あー……もしかしてあんた、まだ寝ぼけてんの」
「そう、なのかもな」
「……なに言っても、覚えてない?」
「いや、それは……」
ふわり、とどこかで嗅いだ香りがする。彼女の身体が覆いかぶさって、洩れる吐息が耳に触れる。けれど意識はまだ曖昧で、俺は突然やってきたジーナへ手を回して、とん、とん、と優しく背中を撫でた。
どうしてかは分からないけれど、そうすることが彼女のためだと思った。それが、彼女の求めていることだと、そう思っていて。
「私、いまとっても幸せだから」
微かなささやきが、聞こえたような気がした。
「…………ジー、ナ」
「ほら、早く起きなさい。もうそろそろ二時回るわよ」
こちらへ伸ばされた手を掴むと、身体がゆっくりと起こされた。
窓から差し込む光は眩しく、既に白みがかかっている。暖かな日差しは目を優しく焼いて、それが昼を過ぎた頃だと気づくのに、少しだけ時間がかかった。
「寝すぎたか」
「ほんとにね。まあ、昨日は朝まで起きてたから仕方ないんじゃない?」
「飯は」
「それが、私もさっき起きたばっかりで」
「……わかった。すぐに用意する」
ふらつく足を動かして、キッチンの方へ。山の様に積まれた材料の中から携帯食料を二つ引きずりだすと、一つを口へ咥えて、もう一つをキッチンを出てすぐにいるジーナへ投げ渡した。
ぽす、と器用に片手で受け取ったそれを見て、ジーナが一言。
「あんた、私がいない間、ご飯どうしてたのよ」
「全部これだったが」
「……今度、何か教えてあげるわ。それだけじゃ身体に悪いでしょ」
ぱさぱさの塊を噛み千切りながら、ジーナがそう言った。
「……これからさ、どうしよう」
その言葉に、最後の携帯食料を含もうとした口が止まる。
まだ半分も食べていないのに、ジーナはそれを小さな袋に戻して、うつむいたまま黙り込んでしまった。
「休むんじゃないのか」
「そりゃそう、だけど。なんて言えばいいのか……生きる意味が、無くなっちゃった、って。夢も叶えられないのに生きてるなんて……無駄なのかな、って思っちゃってさ」
「…………それは」
それなら俺のこの手は、無駄だったのだろうか。
彼女を救いたいと思った、この意志は何処へ行くのだろうか。
「……違う」
「え?」
「無駄なんかじゃ、ない」
彼女の肩を、強く掴む。鈍く輝く碧色の瞳を、覗き込む。
「お前は、お前のしたいことをすればいい。成すべきだと、そう思ったことをすればいい。そうすれば……いつか、夢に届くはずだから」
それに添い遂げられるなら、いつまでも添い遂げよう。そのために何かが必要ならば、この身の全てをも捧げよう。
――そうすることで、俺は生きてきたのだから。
「どうか、夢を諦めるな」
はじめて彼女に手を伸ばした時と、同じように。
未だに俺は、彼女のことを信じていた。
「…………ぁ、あ……」
しばらくして聞こえてきたのは、そんなか細く、溢れ出してしまうような声で。見開かれた碧色の瞳には、小さな光と、ぽろぽろと零れ落ちる涙が、浮かんでいた。
震えた声のジーナを抱きしめると、彼女もまた俺の胸を、固く握っていた。それがどうしても切なくなって、思わず金の髪を指で梳くと、彼女は縋るようにぽつぽつと言葉を漏らした。
「ぁ、あたし…………カインの、こと、無駄……なんて……」
「いい。お前がまた歩み出してくれるなら、それで」
「あ、ぁぁ……っ、ぁぅ、っ……カイン……ごめん……ごめん、ね……!」
嗚咽と懺悔だけが響き渡る。
縛り付けていることは、理解している。追い込んでいることも。けれどそうすることでしか、ジーナを光へ導けないと思った。暗闇へと堕ちてきた彼女を引き上げるには、それしかないと思ったから。
だから、また夢を追いかけられるように。光へと進むことができるように。彼女の見た夢を、諦めないように。
俺が出来ることは、ただ彼女の背中を押すことだけだった。
やがて声は止み、また静けさが流れていく。
「落ち着いたか?」
「……うん」
かけた言葉に、ジーナは目を腫らしたまま首を縦に振った。
「飯、まだ何か食べるか?」
「……いらない」
「ならどうする? まだ少し休むか?」
「……いい」
それだけ答えると、ジーナはまたふらり、と俺の懐から離れていく。
「私、行かなきゃ」
「……何処へ?」
ふらふらとどこかへ、まるで導かれるように歩いていく彼女は、こちらを振り向いて、ひとつ。
「水やり、しに行かないと」
□
いつも通りの路地裏に、いつも通りの二人で。
昨日も見た光景だけれど、改めて感じるこの感覚が、どこか懐かしいものに感じられた。
「ちゃんと言いつけは守ってたみたいね」
「だからそう言ってるだろ」
足元で揺れる白い蕾を見下ろして、ジーナはそう口にした。
「ま、いいわ。あんたがしてくれた分、今日は私がやるから」
そう言って彼女はいつものがらくたの置かれているところから木の入れ物を左手で引っ張り出して、蓋の被せたバケツの前へとそれを置く。
そのまままた同じ手で被せられた蓋を開けると、中の様子を確認しながら、淹れられた水を入れ物へと移し替えた。
「…………あ、切れちゃった」
「何が?」
「お水。あんた、ちゃんと量確認してた?」
「……そこまでは見てなかった。また、淹れてこよう」
「ん、よろしい」
からん、と空になったバケツを地面に置いて、また彼女が入れ物を手にかける。そのままちゃぽん、と中の水を揺らしながら、また彼女が白い蕾の前へ立つ。
白い蕾と同じように、けれど薄汚れた白い布を見に纏う彼女は、それに憧れている少女の、そのものに感じた。
「それ、気に入ったのか」
「…………ないと、ちょっと不安かも」
「そうか」
「……」
ただ、言葉だけが交わされる。
そんな彼女にどこか、違和感を感じていた。
「ジーナ」
「……なに?」
震えた左腕は、水をばたばたと溢れさせている。
「何があった?」
「……何もないわよ? まったく、いきなりどうしたの?」
乱暴に流される水を浴びて、白い蕾はもたげた首を暴れさせていた。そんな事を気にする様子も見せずに、ジーナは空になった入れ物を左手のまま持ち直して、こちらへと歩いてくる。
「だから、心配しすぎよ。こうやって、無事に戻ってきたんだから」
「……しかし」
「それとも何、まだ不安なの?」
「それは……」
「あんたも心配性ね。とにかく私は、ぜったい――」
からん、と。
いきり立つ声を遮るように、彼女の左手から木の入れ物が落ちていく。
けれど彼女は、それを拾おうとせずに――ただ、打ちひしがれたように、黙ったまま見下ろしていた。
「ジーナ」
「……」
「ジーナ?」
「……、あ、えっと……な、何でもないのよ。何でも……」
はたと気づいたようにして、ジーナが転がる木の入れ物へ手を伸ばす。
けれど俺は、だらんと垂れさがった右腕を掴んで、彼女のことを引き留めていた。伸ばした左手は転がるそれへと届く事は無く、彼女は顔に少しの陰を浮かべながら、俺の手の中にある右手へと視線を動かした。
「……カイン、どうしたの? これじゃ取れないんだけど」
「そうだな」
「早く離してよ」
「振りほどけば、いい」
「…………っ」
苦しそうな顔をするけれど、彼女の右手はまるで綿の詰まった人形のように軽くて、ぴくりとも動く気配がしなかった。
何度も、何度も力を入れようとするけれど、俺の手が離れることはない。ただ、人差し指と親指の二本を巻くようにしているだけなのに、それすらも振りほどくことができない。
やがて諦めたのか、ジーナは手を伸ばすのを止めて、うつむいたままその場に立ち竦んでしまった。
「何を、された?」
その問いかけに、彼女がぽつりと、ただ一つだけ。
「…………打たれた」
たった四文字の言葉が、全てを俺に教えて、同時に全身の血を粟立たせる感覚を与えていた。
「……薬か?」
「うん」
「……何回だ」
「毎日、するときに」
「っ……量は」
「あんまり覚えてない。途中のも合わせて、三本くらい?」
首を傾げる彼女の顔が、おぼろげな色に染まっていた。
「……どうして、もっと早く言わなかった?」
「あんたに言ったって、どうにかなるもんじゃないでしょ?」
「けれど、言わないと何もできないだろ」
その言葉に、碧色の瞳が見開かれて、
「ッ、じゃ、じゃあ、あんたに何が出来るっていうのよ! こんな、あんたの手すら振りほどけない手で、どうしたらいいのよッ!?」
声を荒げるジーナに、思わず握っていた手を離した。あれだけ離さないと誓った手が、いとも簡単に、離れてしまっていた。
彼女もまたはたと気づいたようにしてだらんと垂れた右腕を抑えて、再びうつむいたまま動かなくなる。
「ご、ごめん……ごめん、なさい……」
やがて、何かを思い出すようにして、再び唇が言葉を紡ぐ。
「……気持ちよかったのよ」
それは、遠い昔を懐かしむようだった。
「……打たれたときだけ、ぜんぶ忘れられたの。あいつらの眼も、身体の痛みも、ぜんぶ考えなくてよくなった。ただ、とっても気持ちよくて……溺れてたのかな。そんな、感じ」
動かない右手を持ち上げながら、ジーナがふらつくように壁へ背中を預ける。そのままずるずると座り込む彼女を、俺はただ見下ろしていた。
「だんだん、嫌じゃなくなったのよ。最初は怖くて、来る気持ちいいのも成れなくて……でも、慣れたらいつのまにか、欲しがってた。それだけが救いだった。それさえあれば、ぜんぶどうでも良くなったから」
「……ジーナ」
「ねえ、アレさ……もしかしたら、あんた持ってない? あ、あたしさ、カインの言う事だったら、何でも聞くから。だから、持ってたらさ、それ――」
そのまま続けてしまいそうな彼女を、強く抱きしめる。
ぱたり、と言葉は止んで、それに連なるのは震えた声だった。
「あ…………ぁ、たし、今……」
「もういい。もう、忘れなくても良い」
確かな左手だけが、俺の背中を抱いていた。
「行くぞ」
「……どこに?」
不思議そうに首を傾げる彼女へ、告げる。
俺では力になることが出来ない。痛みを忘れさせることもできないし、彼女の拠り所へなることすら不可能なのだろう。
けれど、たとえ俺が力になれなくても。
その力を繋げることだけは。
「治せるかもしれない人間を、知っている」
□
すすけた病室の中で、水の流れる音だけが聞こえる。隣の小さな椅子に腰を下ろしているジーナは、何かに怯えるように、俺の服のすそを左手で握りしめていた。
「珍しいよ、君が勤務時間中に来るなんてさ」
濡れた手を拭うクラウスは、俺の方をみて、そんなことを口にする。
「クスリだって?」
「ああ」
「それは打ったの? それとも、打たれたの?」
「打たれた」
「そっか」
それだけ返してクラウスはふう、と息を吐き、手に数枚の書類を持ちながら、ジーナの真正面へと強く腰を下ろす。かけたいつもの丸眼鏡の調子を整えながら、クラウスはジーナへと口を開いた。
「こんにちは、ジーナちゃん」
「…………こん、にちは」
「今日は君の番だね。どっちかと言うと君の方が僕の本職だから、安心してもらっていいよ」
優しく声をかけるクラウスに、けれどジーナの握る手の力が弱まることはなかった。
机の上に放られたペンの調子を整えながら、クラウスが問いかけを始める。
「……症状はどんな?」
「右腕が動かない」
「腕が? 動かないって言うのは、力が入らない、ってこと?」
「…………そう。ぜ、全然、動かなくて……」
「いつからそんな感じ?」
「俺が見つけたのは、来る直前だったが」
「……昨日の、朝から、っ、ずっと…………か、カインと、会った……ときには、もう……」
「会ったときってことは、だんだん動かなくなった、って感じ?」
「そ、そう…………うん。そう……」
こくこく、とうつむきがちに頷くジーナに、クラウスがペンを書類へ走らせる。
「薬は、どんな感じで打たれた?」
「………………無理やり、脱がされて、た」
「それは、毎日?」
「…………う、ん。二週間、ずっと」
「打たれたときに、どう感じた?」
「それ、は…………」
「クラウス」
「必要なことだ。それを知らないと、彼女を治すことはできない」
思わず口を挟んだけれど、彼の言葉は芯のある、とてもつよいものだった。
やがて、いくらかの時間を置いて、ジーナがぼそりと呟く。
「き、きもち、よかった」
「…………そうか」
ただ彼はそれだけ告げて、再び机の上でペンを動かすだけであった。
「今のところ症状は体だけみたいだけど、他に何か見えるとか、聞こえるとかは?」
「ぁ……あんま、り…………見たことも、ない」
「……聞こえたのは?」
「か…………カインの、声……したんだ、けど……だ、誰も、いなくて」
「…………」
かたかたと、裾を握る手が震えているのを感じる。思えば口調も身振りも今の彼女はどこかぎこちなくて、まるで何か、本能的に怯える動物のようであった。
けれどクラウスはそれに気づいていないようで、ペンを走らせる手を止めて、ジーナへと向き直る。
「よし。それじゃあちょっと、腕を見せて貰っても良い?」
「……ぇ、ぁ」
「ちょっと触るだけだから。そうしないと、症状もよく分からないし」
「…………っ、か、カイン……」
明らかな恐怖と、涙だった。
「必要か?」
「無論。口調だけじゃどうにもならないものもある」
言い放つ彼の言葉は、けれどジーナには強く降りかかっていて。
座り込むジーナと視線を合わせると、彼女は勢いよく左手を首へと回してきて、俺の胸へとその顔を、何かを抑え込むように押し付けていた。
そんな彼女の頭へ優しく手を置いて、クラウスへ視線を向ける。
「これで」
「…………まあ、いいだろう」
だらりと垂らされた右腕へ、彼の指が触れる。
「……っ、はぁ……っ……! ……ぃ、ゃぁ……っ……!」
首元へ、爪が食い込むのを感じた。
「感覚は、ある?」
「…………ぁ、ある……」
「力、入れてみて」
「……っ」
声を切らして彼女が全身を強張らせるけど、クラウスの手に包まれている彼女の腕は、やはりぴくりとも動くことはなかった。
まるで標本のように白い彼女の手を眺めながら、クラウスがまた、ふむ、と顎に手を当てる。
「つまり、感覚はあるのに体は動かせないってことか。タチ悪いな」
「……何か分かったか?」
「一応はね。見当はついた……もう、離すから」
ぱ、とクラウスが持っていた両手を開く。
宙に浮かんだジーナの右腕は、まるで振り子が叩きつけられるように、彼女の身体へ戻ってきた。
「……っ、カイン…………!」
「大丈夫だ。もう、離してくれただろ? 何もされなかっただろ?」
「うん…………」
やがてジーナは俺の首から手を離して、紅くなる目元を拭っていた。
「手、洗ってくるかい?」
「……うん」
「やりすぎないようにね」
こくりと首を縦に振って、ジーナが部屋を後にする。
やがてクラウスは重く息を吐いて、俺の方を見上げていた。
「……彼女、男性恐怖症だった?」
「そういう問題じゃない」
植え付けられた恐怖心というのは、そう簡単に心を開かせることはない。
染みるように痛む首元を指でこすると、人差し指の先には、赤い痕が付いていた。
「それで、どうなんだ。何か分かったのか」
「まあ、大体どんな症状なのかは理解できたよ。それに投与された薬もある程度絞り込めた」
「治るのか」
「……端的に言おうか?」
無言で、その言葉を促す。
「はっきり言って、難しいね」
告げられたそれが、心に重くのしかかった。
「そもそもの投与量が多すぎる。言葉を選ばずに言えば、手遅れだ」
「……そんな」
「あれだけ自我を保てて生きてる、ってだけでも奇跡なんだ。話を聴くだけでも相当な量打たれてるはず。それでもああやって受け答えができるのなら、それだけ強い拠り所があったんだろうね。薬の快楽に流されないだけの、確かに信じられるものが」
淡々と語る彼に、けれど何か言葉を返すこともできなかった。
無力だった。彼女を救うと言って伸ばした手も、ついには届かなかった。
「……原因は、何だ」
縋るように喉から吐き出された問いかけに、クラウスがまた顎に手を当てる。
「アイゼンティア」
やがて告げられたその答えに、俺は目を見開いた。
「……それは、花の名前じゃないのか」
「ん? 知ってるのか。こっちの界隈では珍しい花なんだよね」
意外そうな顔をしながら、クラウスが続けていく。
「アイゼンティアの花びらには、薬品と調合すると強い毒を生み出す成分があってね。その効果が、筋肉の神経だけを麻痺させて、動かなくさせるっていうものなんだ。おそらく彼女の少女は、この神経毒によるものだと、僕は思う」
「……腕だけなのは?」
「もともとアイゼンティアの毒は、あまり強くないものなんだ。けれど彼女の場合、長い間に渡って定期的に摂取していたからね。その打たれた部分から進行していったのかも」
何も言葉を返せなかった。
今のジーナが、彼女の憧れによってもたらされたものだと思うと、もう全てが信じられないような気がしていた。
「時間が立てば治るものなんだよ、普通は。さっきも言ったけど、そこまで強くないものじゃないから」
「……ジーナの量じゃ、もう駄目なのか」
「そうだね。アレじゃあ、もう回復する見込みはほとんどない」
とんとん、とペンを遊ばせながら、クラウスが廃れたような視線を虚空へ向ける。
「彼女は、一生あのままだろうね」
ぱさり、と。
微かな衣擦れの音が、後ろから聞こえてきた。
「ジーナ」
「………………」
俺のその言葉に答えることもなく、彼女は一瞬だけその瞳に影を灯したかと思うと、すぐに元の調子に戻ったようにして、おとした白い布を拾い上げた。
どう声をかけていいのか分からなくて、触れてしまえば彼女は崩れ落ちてしまいそうで。その短い間に何度も手を伸ばそうとしたけれど、彼女は白い布を肩へかけなおしながら、ぽつりとつぶやいた。
「やっぱり、無理だったでしょ?」
まだ水にぬれているその腕には、赤く擦り付けたような痕がいくつも刻まれていた。
「ほらカイン、さっさと行くわよ。どうせ治らないならここに居ても意味ないし、クラウスさんも忙しいんだから。早く戻りましょう?」
「ジーナ」
「……すまないね、力になれなくて」
「何言ってるの、こっちだって無駄に時間とらせちゃったんだし……ごめんなさいね、邪魔だったでしょ? 今すぐ出てくから、悪く思わないで」
立て続けに、まくしたてるようにしてジーナが言葉を連ねる。
「お金はいいよ、治せなかったんだ」
「しかし」
「……いいんだ、もう」
「ん、ありがとね、クラウスさん」
震える左手に白い布を握りしめながら、ジーナが吊り上げられたような笑みを浮かべる。次第に顔は白くなってゆき、白い布から離れてゆく手が、垂れ下がった右腕を握る。
「また、ね」
それだけ残して、彼女は逃げていくようにその部屋を飛び出した。
「おいジーナ! お前、何勝手に……!」
「行かせてやりなよ。彼女にとってはそうするしかないんだからさ」
疲れたように息を吐いて、クラウスが俺へ声をかける。
「それよりも早く君も追ったらどうなんだ」
「…………俺、は」
「いいか、躊躇う必要はない。君は彼女を受け入れているし、彼女も君を受け入れている。それ以外には在り得ない。それ以外には、あってはならないんだよ」
それはまるで、背中を押されているというよりは、深い闇へ突き落されているようで。
「彼女には、君しかいないんだ」
□
「ジーナ」
「………………」
いつかのあの日とは、逆のようだった。
夕闇に揺れる白い蕾の前でしゃがみ込んでいた彼女は、ぼうっとした瞳で俺のことを見上げていた。そこに感じるのは晴れることのない虚ろな暗闇で、俺はそんな彼女の肩を、抱きかかえるように掴んだ。
「ごめんね、急に」
「お前がそうしたいなら、それでいい」
「……クラウスさんに、ごめんね、って言っておいて」
「伝えておく」
もう、彼の元を訪れることが出来るかは、分からないけれど。
答えると彼女は力が抜けたように、俺の胸元へ頭を寄せる。そのままずるずると地面を擦るように身体を斃していて、虚ろな瞳は、昏くなる空をただじっと見つめていた。
「……もしかしたら、って思ったの」
「ああ」
「また一からやり直せる、って。ぜんぶ……ぜんぶ無くなって、もう一度最初から、一歩ずつ進めるんだって……そう思ってた」
伸ばした手は、眩い光を掴もうとした。追い求めたその先に、彼女は確かに光を見たのだ。それは今まで見たことが無いもので、彼女の瞳にはそれが眩しすぎるくらいに映っていて。
「…………やっぱり、無理だったんだ」
落ちた先、深い闇の中で、彼女はそう呟いた。
「やっぱり、許してくれないんだよ。か、考えてみれば当然だよね。
「みんなから殺されても、おかしくない。私なんて、居なくなった方がいいんだ。カインだって、そう思ってるんでしょ?」
「そんなこと、ない」
穢れの無い、心からの言葉だった。彼女を見捨てることなんて、あるはずもなかった。
けれど彼女はそうは思っていないようで、まるで自分自身を嫌って――かつてのあの日と、まったく変わらないようで、
「あはは、優しいよね、カインって。こんな私でも、そう言ってくれるんだから。こんな、こんな私、でも……」
「違う、ジーナ。お前が変われば、きっと」
「無理だよ。私はもう、変われないんだから」
白い蕾が、揺れる。
碧色の瞳に映る羨望が、彼女を縛り付けていた。
「……もう、あなたしかいない」
うわべだけの言葉すらも出せなくなって、ただ流れる静寂を受け入れるしか出来なくなっていると、彼女はまた、俺を見上げてそう口にした。
「俺、が?」
「わ、我儘なのも、分かってる。あなたにとって……私が、邪魔なことも、分かってるのよ」
「だから、そんな事は」
「ごめん、ね。わたし、やっぱり駄目な人間なんだ。みんなは許してくれないのに、あなただけは、許してくれる、から……!」
縋るように、左手を伸ばして。
「……離れたく……ないよ…………!」
流れる涙が、頬を伝って地面へいくつかの染みを作った。
「捨てないで……おねがい、だから、っ…………ぁた、私、あなたの言うこと、何でも聴くから……!」
「ジーナ、いいんだ」
「ごめん、なさい……で、でも私、あなたが、いなっ、いなくなったら、もう……! 私、どうに、か、なっちゃいそうで…………っ!」
抱きしめる手は、固く。嗚咽をもらす彼女を、受け入れるように。
彼女の言葉の一つ一つは、やはり俺の心に杭を穿つように染みわたっていった。自惚れでもなければ、驕るようなわけでも無い。ただ、俺だけが彼女の拠り所だということを、確かに理解できた。
彼女には、俺しかいない。そして俺も、彼女が全てでしかない。
クラウスの口にした言葉が、頭を過ぎて行って。
「ごめん、なさい…………ごめん、なさい、っ…………!」
夜の闇が、俺と彼女を包み込んだ。
□




