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『枯死』


 彼女に、光を感じていた。


 俺と近しい場所にいながらも、俺とは違う強い芯を持った人間。思えばその時から、俺は彼女に羨みや、嫉妬に似た感情を持っていたのかもしれない。自分とは対極にあるその彼女を、望んでいたのかもしれない。彼女は、ジーナは……とても……。

 彼女の心や意志の、一つ一つがどうしても眩しいものに見えた。まるでそれは輝く宝石のようで、けれど手の届かない星のようにも映っていた。

 だから、俺は彼女に手を伸ばしたのだろう。それが届かないと知っていても、それが叶わぬ想いだったとしても。彼女は、こちら側へ来てはいけない人間だと思っていたから。俺と同じようになってはいけない、太陽の元で生きていく人間だと思ったから。

 彼女に手が届くならば、俺は全てを捨てる覚悟すら出来ていた。

 彼女が変われるように、尽くしたつもりだった。折れそうな彼女を支え、何処かに行ってしまいそうな彼女を引き止めて、怖がる彼女の背中を、できる限り優しく押した。

 そうして、いつしか俺は彼女に手が届くようになっていた。あれだけの輝かしい光は、俺の手の届くところにあって、俺へと手を伸ばしてくれているようだった。

 彼女のためなら全てを捧げられた。それで、俺のような生き方をしないのならば。俺のように這い上がれないような暗闇に落ちて、穢れきった人間にならないのならば、それが俺の望みだった。


 彼女は、俺の一つの光をくれた。

 こんな俺でも、彼女と共に生きて行けると、そう行ってくれた。暗い奥底で彼女の光だけが届いて、俺はそれに手を伸ばした。星のような輝きは、けれど俺の手を取ってくれて、俺の心に別の何かを照らしてくれた。それは、救いのようにも見えた。

 だから、俺は彼女を信じた。俺の心を照らしてくれた、優しい光を俺は待ち続けた。彼女がそう言ってくれるのなら、俺はいつまでも待ち続けられるような気がした。


 彼女が変われると、そう信じていたから。


 そして。


「カイ、ン……? ……ぁ、…………カイン、だ……」


 変わり果てた虚ろな瞳が、俺のことを覗いていた。


「やっと……きて、くれた……」

「あ、あ」

「……みつ、けて……くれた、んだ」


 地面に横たわる彼女の側へ添うと、ジーナは燃え尽きたような、くすんだ表情で、俺のことを見上げていた。そんな彼女へ、俺は手を伸ばして――けれど、それが届くことがないように思えて。

 ぼろぎぬのように横たわる彼女は、その細く白い指で、俺を頬を撫でていた。


「ジー、ナ……? お前、なん、で……ここ、に」


 言葉が続かない。肺がめくれ上がってゆくようで、息をすることすらままならなかった。今の彼女へ、俺が伝えられることは、無いようにも思えた。


「お金」


 やがて、帰ってくる言葉は、彼女が追い求めていたもので。


「お金、いっぱい、くれるから……わた、し、頑張って……」


 続く言葉を遮るように、彼女の手を強く握る。弱々しいその体を持ち上げるのに、力はほとんどいらなくて、持ち上げられた彼女は、小さな声を漏らして俺のほうへ寄りかかっていた。


「…………カインも、お金……くれるの?」

「ちがう」

「そっか……そう、なんだ」


 安堵したものなのか、失望したものなのか、それすらもわからない。ただ虚空を見つめている、涙ぐんだ瞳には、ぐちゃぐちゃに濁った何かの色が映っていた。

 やがて、長い沈黙をまたいで、彼女がふと気付いたように声を上げる。


「じゃあ、カインは……私を、見つけてくれたん、だ」

「ああ」

「そっか…………うれ、しい……うれ、しいなぁ……」


 崩れ落ちてしまいそうな、溶けるような声で、彼女がそう言葉を俺へと紡ぐ。それだけで、彼女は満ち足りているような、幸せそうな表情を浮かべていた。


「カインのこと、信じてた……から……」

「……そう、か」

「ずっと、待ってたから……離れるのは、いや、だったから……」


 それは、手を離せばすぐに何処かへ消えてしまいそうで。もう二度と戻ってこないようにも思えて、俺は折れてしまいそうに細い彼女の体を、強く、強く抱きしめていた。

 震えた鼓動と、かすれるような吐息が伝わってくる。まつで、様々な感情がそこでせき止められていたようで、ジーナはそれを堪えるようにしながら、俺の顔を見上げていた。


「……ねえ、カイン…………わたし、さ、……いっぱい、頑張ったの」


 じゃら、とどこかで音がする。

 腕の中の彼女は、ぼろぎぬに包まれた、それを取り出して。


「ほ、ら……わたし、ちゃんと、おかね…………もらえたんだよ?」


 小さな左手から零れる金貨が、床に跳ねて音を経てる。からん、からん、と堕ちていく薄汚いそれは、けれど彼女の虚ろな瞳に、ただ一つの光として輝いていた。


「こんなに、いっぱい……た、たくさん、もらった……わ、わたし、頑張った…………頑張ったんだよ……!」


 本来ならば、上の人間に全て持っていかれるのだろう。それすらも当の本人は知らないようで、ジーナはまるで夢をみる少女のように、地面へ転がる数十枚の金貨へ目を輝かせていたのだった。


「カイン、わたし……わたし、頑張った、よね? ちゃんと、働いて……こんなに、おかね、もらえるくらい…………がんばったん、だよ?」


 縋るように、願う様に。つらつらと、彼女の言葉が重なっていく。

 それは俺に出は無く、彼女が自分自身へ言い聞かせているように感じて、そうしなければ、彼女はこのまま戻ってこないように思えて。


「だか、ら……わたし、お花屋さんに……なれるか、な……?」


 やがて、碧色の瞳に虚ろが戻る。


「……ジーナ」

「ゆめ、だったの……お花屋さん、なれるよね…………わたし、頑張ったもん。おかね、いっぱい稼いで…………」


 空っぽになった手を握りしめると、彼女の内で、何かが解き放たれるのを感じた。


「も、らって……おかね…………わた、し……っ、ぁ、あぁ……ぅ、ぁあ……っ!」


 輝いていた光は既に消え、晴れることのない暗黒が、再び彼女を包み込む。

 見えない光を目指して歩む少女は、いつの間にか、俺の腕の中で、崩れ落ちるように泣いていた。


「あ、あ……ッ、ぅ、あぁ…………! ……う、ぇっ…………あっ、ああぁあああっっ…………!」


 焼け爛れ、渦巻いた何かを嘔吐するように、涙が伝う。握りしめる彼女の手の力は弱く、それこそ今のジーナの無力さを現しているようで、俺はただ彼女の嗚咽を受け止めることしかできなかった。


「わ、たしっ…………なにも……なに、も、変わらなかった……!」


 ぐちゃぐちゃの感情が、彼女の心から溢れていく。


「やっぱり、ゆるして、くれない…………みんな、ゆるして、っ、くれないんだ…………! わ、わたしなんか、変われない……ずっと……ずっと、っ…………!」


 それは、とある解放のようにも見えて。


「ごめんなさい…………ごめん、なさい……! ゆめ、なんか、みて、ごめんなさい……っ…………!」


 祈るように嗚咽をもらすジーナを、俺は抱きしめることしかできなかった。


 行き先も見えなくなって、戻る場所も何処かへ消えてしまって。

 ただ存在するのは、彼女はあの時の彼女のままだという事実。擦り付けられるような、ぐずぐずと爛れていくような彼女の後悔にも近い言葉が、俺の心に沁みついていくようだった。

 彼女が変われるように努力したつもりだった。こんな暗い場所ではなく、彼女にふさわしいもっと明るい場所で生きてゆけるように、俺のできることを全て尽くしたつもりだった。

 だから、彼女は自らの手でその道を掴んだ。それが、輝かしい彼女の夢への道だと思って。俺も信じていた。届かないと思っていた夢へと歩み出す彼女を、愚直に信じていた。

 けれど、それは届かなかった。


 変われない。変わることは、叶わない

 そのままの自分でしか、生きていくことは許されない


 ――白い蕾を、思い出した。


「おーい、カイン?」


 やがて、かけられた声に、俺は振り向くことすら忘れていた。その声が誰かすらも忘れていて、微かに残った記憶の中で、この前に聴いた誰かのものだったことを、思い出した。

 二人だった。金髪の小柄な男と、黒髪の布を巻いた男。薄暗い部屋の中に彼らはこつこつと足音を立てながら入って来て、ジーナは俺の腕の中で、身を包むぼろぎぬを固く握り締めていた。


「何、を」

「リヒトーフェンさんが呼んでるぞ」

「お前なあ、いきなり飛び出したもんだから、俺達も驚いて……」


 そうした二人の視線が、彼女へと集まっていくのを感じて。


「なんだよカイン、お前そんなん使う気か?」


 ――――――――――――――――。


「どうやって嗅ぎつけたかは知らねえけどよ、止めといた方がいいぜ。お前にはそんなどこのかも知らねえガキより、フローラさんがいるじゃねえか」

「そうそう。つーかお前、やっぱり最近疲れてたんだろ? お前だって人間だし……って、ありゃ? おい、よく見りゃ結構上玉じゃんか」

「おいジーヴァ、お前もかよ……物好きしかいないのか、ココ」

「ガトー、お前人生ソンしてるよ。たまにはこういう体験もいいモンだぞ? なあカイン、ちょっと顔を見せ――」


 ――次に意識を取り戻した時には、足元に彼の手のひらが転がっていた。

 自分でも分からなかった。気が付けば、右手にはいつものナイフが握られていて、目の前の彼は先を失った自らの手を押さえながら、怯えるような目で俺の事を睨んでいた。


「な、ななっ、何、何してんだよッ、カイン! お、俺の、うで――」


 続く言葉を聴かずに、叫ぶ男の膝へ踵を入れる。固い何かを踏み砕くような感覚がして、崩れ落ちる彼の首へ無理やり手をのばすと、その頬へとナイフと突きたてた。

 冷たい床に、赤い雫が滴り落ちる。声になっていない悲鳴が鳴り響いて、けれど俺はその叫ぶ肉の塊を地面へ放り投げると、その上へとまたがった。

 刃が煌めく。心臓の鼓動が聞こえる。


「ゃ、め……ぉ…………ぉ、えひゅ……」


 咎めるような手も、縋るような声も、何も聞こえない。

 溢れ出した何かを止められなくて、俺は掲げた腕を振り下ろし――


『カイン!』


 声が、重なった。

 強く腕を引かれる感覚と共に、頭へ強い衝撃が走る。地面に伏せて、揺らぐ視界の中には血に塗れたナイフを握るリヒトーフェンの姿があって、地面に横たわる俺に、憐れんだような、呆れたような視線を向けていた。

 気が付けば、見下ろした手のひらは、灼けついたような血に染まっていて。


「殺そうと、したな」


 どくん、と心の臓腑の、さらに奥底で何かが脈を打つ。

 今まで感じたことのない、不気味で歪な感触。それは、触れれば今の俺が終わってしまいそうな、そんな重たい感覚だった。そして、それが殺気だと気が付くのには、いくらかの時間がかっていた。


「ころ、しちゃやだ…………カインは、ころし、ちゃ……やだ、よお……」


 紅い手へ縋りついて、そう声をもらす彼女の言葉すらも、どこか遠くのものに思えていた。


「……俺、は…………ころ、して……」

「ああ。まだ殺しちゃいない。お前は、まだ殺せない人間のままだ」


 軽蔑するようなその言葉に、けれど安らぎを覚えていた。


「いかないで………カイン、は、カインの、まま…………」


 ただ広げられた手のひらへ寄り添い、涙を流す彼女に、俺は何も声をかけることができなかった。指を伝うその雫の意味すらも理解することができなかった。

 殺せなかった。 殺せる訳が無かった。

 ――殺したかった?


「……………………ぁ、あ…………」


 殺したかったのだろう。初めて身に感じた殺意というものを、咎めることができなかったのだろう。

 そんな自分がとても愚かで、惨めで、生きる価値のないように思えた。今すぐここから消え去って、誰も届くことのない暗闇へと身を投じたくなった。

 真っ赤に染まった手のひらには、ただその痕だけが残っている。


「カイン」

「俺、は…………俺は……もう……」

「ああ……もう、いい。いいんだ」


 吐き捨てられたその言葉に、返すことはできなくて。

 俺の腕へ強く抱き着いたままのジーナは、ただただ何かに怯えるようにして、息を殺すように、ずっと涙を流していた。



 そこから先のことは、あまり覚えていない。覚えていられなかった。


「あ、ぁ…………っ、ぅ、うぁ、…………!」


 どうやって帰ったかすらも曖昧で、気がつけば俺は暗い部屋の中で、くすんだ白い布の一枚だけを身にまとったジーナを、ただ離さないように抱きしめていた。


「どう、して…………なんで……なんで、お前が…………」

「…………」

「あ、ぁ……ジー、ナ…………ジーナ、っ…………!」


 洩れる吐息と確かな鼓動だけを感じていて、それが嗚咽にも似た呟きとして、俺の中から這い出ていった。

 後悔、なのだろうか。少しだけ恨みにも似ていると思う。それと、それを全て包み込むような、行き場のない怒り。けれどそれは決して誰かへ届くことはなく、ぐずぐずと燻ったまま、虚空へと溶けていった。

 誰も信じることはできない。暗闇から、抜け出すことは叶わない。夢ですら、語ることは許されない。

 どうして……どう、して…………


「……カイン」


 やがて聞こえてくる小さな声に、虚ろな意識が引き戻される。


「ジーナ?」

「もう、いいのよ」

「…………何を」

「ちゃんと、あなたの側にいるからさ。だから……離しても、大丈夫。もう、何処にもいかないから」


 固く彼女を縛り付けていた腕から、力が抜けてゆく。解かれた腕の中で、彼女は俺へ柔らかな笑みを向けていた。


「待っててくれたんでしょ?」

「ずっと……ずっと、待っていた。お前と一緒に居ることを、夢にも」

「ふふっ、何よそれ。そんなに寂しかったの?」

「…………虚しかった。満たされなかった」

「……そっか」


 心の空白が埋まることは、決してなかった。それだけ口にして、また彼女が唇をつぐむ。

 床をじっとみつめている俺には、彼女がどんな表情を浮かべているか、分からなかった。今の彼女へ目を向けることすら、できなかった。


「ねえ、カイン」

「何だ」

「私の言ったこと、ちゃんと守ってくれた?」


 その言葉に、首を縦に振る。


「大変だった?」

「…………けれど、お前が頼んだから続けられた」


 ジーナを信じていたから。彼女が、光の下を歩めると信じていたから。


「あはは、そっか……うん、嬉しい。嬉しいよ」

「……枯れなかった。ちゃんと、水もやった。綺麗だった」

「それなら良かったわ。ちゃんと……私こと、信じてくれたのね」


 細い腕が、首へと回されて。


「ありがと、カイン」


 やはり彼女の言葉の一つ一つは、空っぽになった心のどこかへ落ち着くのであった。

 細い身体を縋るように抱きしめて、けれど彼女はそれを許してくれて。彼我を包み込む白い布が、花の蕾のように映っていた。


「……ねね、カイン。外、行ってみない?」


 暗闇を指で示しながら、彼女が明るい声色で告げる。


「夜だぞ。危ないし、暗い」

「いいのよ、散歩くらいなら。それに、あなたが居てくれてるんでしょ? だったら、心配いらないわ」


 既に時刻は朝の四時を過ぎていて、東の空が微かに青色に染まっている頃だったけれど、彼女を咎めることは今の俺にはできなかった。

 柔らかな身体から腕を離して彼女と顔を合わせると、ジーナはとても優しく笑っていた。それは何も含まれていないような、ただ満たされたような、純粋な微笑みだった。


「服を、取ってくる」

「……そっか。ずっとこのままだったから、忘れてた」

「……………………」

「あー、もういいから! さっさと取ってきてよっ」


 いつもの彼女のように、軽い声を背に受けながら急いで奥へと足を運ぶ。適当な大きい上着とズボンを持っていくと、彼女は少し呆れたような、照れているような笑みを浮かべていた。


「これだけしか無かったが」

「……ま、上着だけでいいわ。下はいらない」

「要らないって訳にもいかないだろ。いくら夜だからって」

「履いてると痛むのよ、股」

「…………それは」

「ごめん、本当のことなの」


 ん、と左の手を差し出すジーナへ、黒いシャツを投げ渡す。しばらく後ろを向いて、背中から聞こえる衣擦れの音が止むのを待つと、彼女は俺の腕をくい、と引っ張った。

 ぶかぶかのシャツの裾をひっぱりながら、ジーナがくるりとその場で回る。


「ほら、大丈夫。見えないでしょ?」


 ちらりと見えた細い腿の付け根には、赤い傷の痕がちらりと見えていた。それだけで、心の何かが崩れ落ちそうだった。


「……何処へ行くんだ?」

「いつものとこ」


 何気なく言う彼女に、ああ、と首を縦に振る。


「私にはもう、そこしかないから」



 夜の暗さも、全て遠くのように感じられた。

 冷たい壁に仕切られたそこには、ただ一つの白い蕾がぼんやりと映っている。夜の風は冷たく彼女の頬を撫でて、けれどジーナはその冷たさの中で、足元の白い光を優しく眺めていた。


「綺麗」


 ぽつり、と彼女の唇が紡ぐ。


「……初めて見た時から、そう思ってたの。こんな暗くて、薄汚いところでも、綺麗でいられる……それが、とっても眩しかった」


 初めてその花を見た時、彼女は羨望を語ってくれた。だから俺は、それに手が届くように、彼女へと手を伸ばしたのだろう。そのままの彼女は俺の様に腐り落ちてしまいそうで、目の前の人間を見捨てることが出来なくて。

 けれど俺は、それを成し遂げることが出来なかった。

 ただ、彼女が俺よりも暗い処へと堕ちていくのを、見届けることしか出来なかった。


「そのままのあなたで、なんて」


 白い花の言葉は、彼女を強く縛り付けていて。


「…………本当に、羨ましい」


 零れ落ちたその言葉は、やはり空っぽになった心に染みわたって、大きな暗い何かを感じさせた。

 

「やっぱりさ、……間違ってたのかな、私」

「何で」

「変われるなんて……できなかった。許されなかった。私は、このまま……暗いところにいたままで、変わることなんてできなかった」


 白い蕾は、ただそこに在り続けていて。


「おかしかったんだよ。今まで奪うことでしか生きてこれなかったのに、夢なんか見てさ。お花屋さんになりたい、だなんて……叶うはずのない夢なんか追って」

「それ、は」

「精一杯頑張っても、結局騙されて……お金も、もらえなくて、さ」


 空っぽになった手を、ジーナが見つめる。


「あんたを救う、なんてさ……そんな思いも、叶えられなくなって」

「ジーナ」

「…………なんだか、私……もう、疲れちゃった、かも」


 崩れ落ちそうな彼女の肩を、強く掴んだ。

 倒れ込んでくるジーナの身体には力が入っていなくて、こちらを見上げるその瞳には、汚濁のような虚ろが映っていた。


「ごめんね、カイン」

「どうして謝る」

「だって、あなたが、信じてくれた。だから、精一杯がんばったの。そうやって、あなたを救おうとした……恩返し、したかったの」


 一瞬だけ彼女は儚いほほえみを浮かべて、けれどまた、顔に影を戻す。


「けれど……もう、ダメになっちゃった。カインが、信じてくれたのに……あなたの気持ちを、無駄にして……ごめん、なさい…………」


 違う。無駄なんかじゃない。

 彼女を信じたその心は、紛れも無い確かなものだった。


「…………間違ってなんか、ない」

「え?」


 見開かれた虚ろな瞳を覗いて、しっかりと言葉を伝える。


「間違ってなんか、ないんだ。夢を追いかけることが間違いだなんて、あるはずがない。

変わろうとしたお前を否定することなんて、絶対にしない」


 全て、心からの言葉だった。光へ向けて足を踏み出す、その変わる勇気を持つ彼女だから、俺は信じたのだ。それこそ、彼女が白い蕾へと抱く感情と、少し似ているような気がした。

 それが間違いだとは思えない。それを間違いなんて、認めない。


「……疲れたのなら、休もう。また、一歩を歩みだせるまで、ずっと」

「……いいの?」

「ああ。この前みたいに、街を歩くのもいい。甘いものも、服も、本も……お前が安らげるのなら、どこだって連れていくから。お前さえ良ければ……ずっと、隣にいるから」


 傲慢、なのだろうか。けれど、それが彼女へ手を伸ばせる最後の手段だと、そう思った。

 もう彼女に、どこかへ行ってほしくなかったから。それが、手の届く場所だから。


「こんな私でも、まだ隣にいてくれるの?」

「お前が許してくれるのなら」

「……そっか」


 浮かぶのは、透くような儚げな笑みで。


「ありがとう、カイン」


 暗闇に、朝の光が灯った。



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