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『白い蕾』



 

 人というのは、変わることができる生き物らしい。


 誰から聞いたかはとうの昔に忘れた。今では声すらも思い出せない。そんな誰かのその言葉が、歪な感触になって俺の胸に残っていたのを覚えている。まるで後ろからナイフで刺されたような、古傷を抉られるような、そんな感覚だった。

 ただ肉のみを喰らう獣にも、死人に集る羽虫にもない、進む意志。今までの自分を捨てて、新しい自分になること。今までの過去を捨てて、未来へと辿り着くこと。それが、人のみに許された『変わる』ということらしい。

 

 ただ、人にその力があったとして、それが出来る人間になれるのか、というのは別の問題で。

 俺はどうやら、変わろうとしない人間に当てはまるらしかった。


 過去の自分を捨て、未来の自分へ縋る。その事が俺にはひどく恐ろしく、狂っていることに思える。そうして俺は、こんな路地裏でひっそりと暮らす人間になってしまったのだから。変わるという事は、決して良い事ばかりではないらしかった。

 だから、俺は今の状況から変わることに恐怖を感じているのだと思う。見たことのないものに酷く怯え、その一歩を踏み出そうとしない。勇気などという輝かしい言葉は、俺には決して手に入れることができないものだった。


 俺は変わることができない。変わろうとしない。俺は、俺は……



 路地裏へ続く壁に身を預け、目の前を行き交う雑踏を眺めていると、ふとその輝きが目に留まる。


 短い金髪に、猫のような翡翠の瞳。動きやすい旅人のような衣装に袖を通し、その少女は雑踏の中をすり抜けるように歩いている。そんな彼女のことを、俺はただずっと見つめていた。ぼんやりした光景に、その少女だけがくっきりと見えているようだった。

 そうして彼女を眺めていると、その腕が人ごみの中を動く。流れる雑踏の中を探るように動くその腕は、一人の人影へと辿り着くと、目にもとまらぬ速さでそれから何かを奪っていく。その動きは一度や二度のものではなく、とことんその行為に慣れ切っているようなものだった。


 盗った獲物を何食わぬ顔で懐へ戻し、少女は再び人ごみの中へと消える。次に彼女を見たのは、俺の真横を通り抜けようとしている時だった。

 後ろで纏めている金髪が、揺れる尾の様に目に映る。そして彼女は碧玉のような大きな瞳をこちらへ一瞬だけ向けると、ひどくにやついた表情をその顔に浮かべ――


「おい」


 そのまま通り過ぎようとしている彼女の腕を掴むと、そいつはわざとらしくこちらへ振り向いた。


「なーに、おにーさん。女の子にそんな乱暴しちゃダメだよ?」

「……今更そんな下手な芝居は打つな。ジーナ」


 名前を呼ぶと、彼女――ジーナは呆れるように笑っていた。


「ふん。つれないわね、カイン」

「それよりも、このあたりでスリをするなと何度も言っただろ? 注意するこっちの身にもなってくれ」

「……あんたらの仕事がやりにくくなるから?」

「そう説明したはずだが」


 するとジーナは不満そうに頬を膨らませ、俺に並ぶように冷たい路地の壁へと体を預ける。


「そっちの事情なんて知らないわよ。なに、今日も見張りなの?」

「ああ、お前のな」

「ふーん」


 こちらの話を聞く気はないらしく、ジーナはさっき盗った獲物を懐から取り出した。どうやら中々いい相手を見つけたらしく、皮で作られた財布は見た目よりもかなり重そうに見えた。


(あたし)のことつけ回して楽しい?」

「んなわけあるか」

「んなこと言って。ストーカーとか異常性癖よ?」

「それが嫌ならここに(たか)るな。お前みたいなのがいると警備が厚くなってこっちが動きづらくなる」

「へーそうなんだ」

「聞いてんのか」

「聞いてる聞いてる。バッチリ」


 無視を続ける彼女にこの野郎、といおうとした瞬間、ふと彼女がこちらへ何かを投げるような素振りを見せる。思わず出した手の内に感じるのは、冷たい重み。広げた手のひらには、三枚の金貨が輝いていた。


「つまり、こういうことでしょ?」

「……十分だ」


 本来ならばもう少し徴収するべきなのだが、まあ今回は許してやろう。


「んじゃあたし、もう行くから」

「待て」


 そっけなく返してその場から立ち去ろうとするジーナの手を、再び掴む。


「……何よ。まだ足りなかった?」

「そうじゃない。お前、これで何度目だ?」

「はぁ? 何よ、口止め料は払ったでしょ。あんたにはもう関係ないし」


 俺の手を振りほどき、ジーナがすたすたと路地裏の奥へと歩いていく。けれど俺とて引くわけにもいかず、暗闇の中へ進む彼女を追った。


「いいか? いま俺が組織の連中にお前のことを言えば、お前なんて明日には死んでるんだぞ?」

「それならそれで結構。煮るなり焼くなり好きにしなさい」

「お前の貯めた金も全部無駄だ。何なら、俺が全部いただく。それでもいいのか?」

「そ、良かったじゃない。好きなものでも買えば?」

「……あのなあ。俺は、お前のためを思って言ってるんだぞ」

「あっそ。ありがと。趣味悪いわよ、カイン」


 聞く耳を持たない。すたすたと前を行く彼女に、嘆息をひとつ。

 そして、声をかけられたのはそれと同時だった。


「あんたさー」

「何だ」

「どうして私のこと、そんな生かしてくれんの?」


 彼女の行為を見つけてから一か月経たないうち。初めてそんなことを聞かれた。

 最初は他のと変わらない浮浪者だと思っていたが、ここのところ毎日この通りに現れては俺の目の前でスリを働くようになった。他よりも此処の方が狩りやすいのか、はたまた俺が都合のいいやつに見えているのかは知らないが、とにかく俺と彼女は毎日のように顔を合わせるようになっている。

 仕事の邪魔になるからやめろ、と顔を合わせるたびに言っているのだが、先ほどのように彼女はそれを聞く耳すら持ち合わせていないようだ。俺のことなど見下しているのだろう。


「初めて会った時から、おかしいとは思ってたのよ」


 気がつけば俺は足を止め、思考の奔流に流されていた。


「私が邪魔ならとっとと殺せばいいじゃない。そりゃお金が欲しいんなら別だけど、あんたはそうってわけでもないみたいだし。なーぁに、私みたいなガキとお話したいってわけ? あんた相当変態じゃないの」


 なぜか俺は上手く答えられなかった。


 彼女を始末するのは簡単だと思う。組織へ連絡すればどうにでもなるし、今でも懐のナイフを突き立てれば、彼女はあっけなく死ぬだろう。そして、俺も面倒ごとを抱える必要がなくなる。

 そうすれば終わりなものを、なぜか俺はその行動に踏み出すことができなかった。

 初めて会った時も、二度目に会った時も、俺は彼女を殺そうとせず、ただ金を使って口外しないようにした。殺すことから離れているような、そんな振る舞いを見せていた。

 吐き出そうな言葉が、胸の内でうごめいている。全身を蟲が這っているような感覚。思考の奔流に巻き込まれる俺を引き上げたのは、彼女の言葉だった。


「ねえ、ちょっと! カイン!」

「……あ、あ。何だ」

「それはこっちのセリフ。なに? 今日のあんた、ほんとに変よ?」

「そう、か……そう、なのかもな」


 変、というよりは元からあったものが出てきただけ、というか。

 少なくとも、今の俺には何が正常で、何が異常も分からなかった。


「で、結局なんでよ」

「ああ。そうだな……」


 それに見合う言葉は見つからない。おそらく、今の俺には決して見つけられないのだろう。


「――怖い、のかもしれない」


 絞り出したような言葉に、彼女はきょとんと眼を丸くしていた


 おそらく俺は、彼女がいなくなることを、酷く恐れていたのだと思う。

 こうして今話している目の前の人間が消え去っていくのが、どこでもない遠くへ行ってしまうのが、とても恐ろしく歪なものだと感じられた。そんなことをする自分を思い描くことが、どうしてもできなかった。

 彼女が特別という訳でもない。それこそ、彼女と初めて顔を合わせたあの時でさえ、俺はそれを恐れていたのだろう。


 臆病なのかもしれない。けれど、理解されようとも思わない。

 ただ、俺の心を満たしていたのは、震えとわずかな恐怖だけだった。


「……なにそれ。あんた、バカじゃないの」


 つん、とそっぽを向くジーナに、俺は何も返せなかった。

 差し込む光は遠く、いつの間にか俺達は路地裏の奥深くへと足を踏み入れていた。


「あんた、いつか後悔するよ」

「なに?」

「あんたのそれ、すごく面倒なもんだ。カイン、あんた自分のこと、全然分かってないんでしょ」


 向けられた彼女の言葉は、心のどこかに落ち着いた。


「確かに、そうなのかもな」

「自分のことすら分かってないのに他人の心配するなんて、あんたおかしいよ」

「おかしい? おかしいのか?」

「見てるだけでこっちが狂いそう。なんであんたはそんなに他人の心配できるのよ」


 不機嫌そうに呟くジーナに、やはり俺は何も返せなかった。それだけ、俺は俺についてのことが何も分からなかった。


「……ほんと、意味わかんない」


 静寂。路地裏に足音だけが響く。


「そう言うお前は、どうしてスリなんかやってるんだ」

「へっ?」


 ふと思い立ってそう口を開くと、彼女は一瞬だけ固まった後に慌てて顔を背けてしまった。


「どうして、って……お金が欲しいからに決まってるでしょ」

「じゃあ金貯めて何するんだ」

「何……って、そりゃ――」


 そう続けようとしたところで、ジーナが慌てて口を閉じる。


「どうするんだ。言ってみろ」

「な、ぅ……いいでしょ、別に。あんたには関係ないもん」

「そう言うならさっきのも関係なかっただろ。いいから答えろ」

「うー……っ、この……仕方ないわね。わ、笑うんじゃないわよ」


 何を笑うかは知らないが、口を閉ざす俺にジーナはぽつりとその言葉を口にする。


「その……お花屋さん」

「……なに?」

「あーもうっ! ……お花屋さんになりたいから。そのお金を集めてる、ってこと」


 打ち明けたジーナの目は、どこか遠くの空を見つめていた。


「昔から花が好きだったのよ。どこでも咲いてるから。それに、綺麗だしさ。私は貧民街の生まれで、そこから抜け出してきたんだけど、それでも花が咲いてたの。思えば、そこからだったわね」

「……それで、スリを始めたのか」

「そうよ。それしか知らなかったから。でも、全部分かってるのよ。そんな夢がかなえられるはずがないってこと、このままじゃダメだってこと……私が真っ当に生きられないってことも、ぜんぶ」


 普段の彼女なら絶対に見せないような、儚いような表情。それは触れたら壊れそうな、触れてはいけないような、そんな静謐さすら感じられた。

 

「……で? どう?」

「どう、とは」

「私はお花屋さんになりたい、って……あんたはどう思う?」


 問いかけられたその質問に、俺はすぐ答えることが出来なかった。


 ジーナという少女の事は、ほとんど分からない。今の彼女を知るのに、一ヵ月という時間は短すぎる。けれど一つだけ分かるのは、彼女がこちら側の――俺と近しい場所にいる人間だということだけ。光の下で生きるのには、どうしても向いていないという事だった。

 彼女もそれを知っているのだろう。だから、俺へそんな事を聴いてきた。ここにいる俺達は、青空の下で生きることは能わない。それは、俺ですら分かりきっている事実だ。

 けれど、それでも。



 ――彼女に、変わる意志があるのなら。 



「きっと、なれるさ」 


 気が付けば、俺は足を止めて、彼女にそう答えていた。


「お前がそうなりたいと思うのなら。本心からそう願うのなら」


 自然に動く口に、自分でも驚きを隠せなかった。気が付けば彼女と俺は足を止めて、お互いのことを見つめ合っていた。そこには何もない。心のどこかに、空白が産まれていた。

 やがて。


「……あ、ははっ! あんた、本当に変なやつね! そんな風に言われるなんて、思ってもなかった!」

「お前、人に笑うなっつって……!」

「ごめんごめん! でも、まさか、あはっ! あはははは!」


 目尻に涙を浮かべながら、ジーナがこちらへ向き直る。路地裏に、彼女の明るい笑い声が響いた。


「あー……すっきりした! こんなに笑ったの初めてよ」

「こんなに笑われたのも初めてだな」

「だってあんた変なんだもん。それに……」


 ジーナがこちらの瞳を覗き込む。そうして、彼女はふと一瞬だけ儚げな笑みを見せて――


「そんな事言ってくれるのも、初めてだったから」


 彼女の言葉は、やはり俺の心のどこかへ落ち着くのだった。


「……それにしてもお前、こんなところに来て何するつもりだ?」


 見渡す限りの冷たい壁は、まるで俺と彼女を青空から隔てているようで、隙間から見える青空が眩しかった。それでもジーナはあても無く彷徨っている訳では無いらしく、転がっているゴミやらをまたいで奥へ奥へと進んでいく。


「どうだっていいでしょ。それに、勝手についてきたのはあんたの方だし」

「確かに、それはそうだが」

「……ま、いいわ。特別に見せてあげる」


 そうして彼女の背中を追って、辿り着いたのは薄暗い路地の突き当たりだった。向けた視線の先には、ゴミ溜めのように薄汚い、まるで汚水の漂流物をぶちまけたような惨状が広がっている。


「よし、今日も荒らされてないわね」

「こんなところ荒らす奴はいないだろ」

「分かんないわよ? 世の中にはあんたみたいな変質者もいるんだから」

「どういう意味だ」


 それに答える事は無く、彼女は散らばったゴミの中の、蓋が被せられたバケツの前にしゃがみ込んだ。そうしてその中身を確認すると、俺に視線を向けることも無く、間延びした声をかけてきた。


「カイン、そこにある木のヤツ取って来て」

「あー……これか?」

「そ。って、もうこれも腐って来てるわね。変えないと」


 言われるがままに長い木で出来た入れ物を渡すと、ジーナはそんな事を呟きながら、バケツの中の水をその中へと流し込んだ。中を満たす水は、いくらか綺麗なようだった。

 四分目ほどまで水を入れたそれを持つと、ジーナは再びバケツに蓋を被せて立ち上がった。


「……お前、何してるんだ?」

「見てりゃわかるわよ」


 それだけ残して、ジーナが再び歩き出す。向かう先はゴミ溜めの一番奥。足元に散らばる腐った肉や崩れ落ちた瓦礫を超えてゆき、その突き当りのぽっかりと空いた場所で彼女が立ち止まる。

 そして眼下に見えたそれに、俺はふと口を開いた。


「花の……蕾か?」

「そ。あんたには一生縁の無いモンだろうけど」


 それは暗闇の中で独り立ち竦む、孤独のような純白だった。他の色は存在せず、その光は冷たい漆黒の中で、唯一の清廉として俺の目に映っていた。

 散らばっている有象無象を踏み倒しながら、ジーナがその蕾の前でしゃがみ込む。はらはらと、木の入れ物の先からいくらかの水が零れ落ちた。

 俺もつられてジーナの隣へ寄ると、彼女はぽつりぽつりと語り始めた。


「この花は他の花と違ってね、どんなに暗くても、どんなに汚くても、花をつけるの」

「詳しいんだな」

「当然。花屋になりたい、って言ってるでしょ」


 ふん、と胸を張りながら、ジーナが続ける。


「ま、それでも水はあげなきゃいけないんだけど……それでも、こんなに汚れてても、日が当たらなくても、いつか花をつけられる。それが、なんだかとっても、羨ましくて」

「羨ましい、か?」

「うん」


 多くを語ることはせず、ジーナはそのまま口をつぐむ。けれど彼女の言わんとしていることは、どうしてか察することが出来た。他人事だとは、思えなかった。

 どれだけ深く、救いの無い場所だとしても、花を咲かせられる。それが、どれだけ素晴らしく、届かない事か。白い蕾は、輝いて見えた。


「でもま、花をつけるのはもう少し暖かくなってからね」

「そうなのか?」

「ええ。咲いたらとっても綺麗なのよ? 他じゃ見られない、全部真っ白の花なんだからっ」


 ジーナが語りながら、解けるような笑みを浮かべる。始めて見る彼女の本心からの笑顔は、とても薄く、すぐに壊れてしまいそうだった。

 眼下に揺れるその蕾は小さく、どこか風でも吹けば一瞬で飛んでしまいそうだった。そしてその儚さが、ジーナと――何かと重なっているような気がした。


「そういえば、この花の名前は何て言うんだ?」

「あら、知らないの? 結構有名な花なんだけど」




「アイゼンティア――それが、この花の名前よ」





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