第四話 「雷鳴」
午後の茶会を無断欠席したミカエルは森にいた。湖を囲んでいる木々の一本に背中を預けている。麻の毛布にくるまって眠ろうとする。目を閉じると、自分がなくなった。
真っ黒な海を夢に見る。水泡まで濁っていた。
額に痛みが走る。目を開けると、ルシーがいた。今日は銀髪を左右で二つに縛っている。笑ってデコピンを繰り出す。寝起きのミカエルは避けられない。
「寝てるんだよ。帰れ帰れ」
「正確には、茶会をさぼって寝てました、でしょ」
「悪いか?」
「悪い。すごく退屈だった。お父様もお母様も、あなたのお父様もお母様も、貴族の方々もお行儀よく、紅茶を飲んでいらしたわ。物音ひとつ立てないのよ」
「お前だって猫かぶってたんだろ」
「ニャン」
ルシーは指を折り畳み、手の平が見えるよう前で構えた。ミカエルは無視する。かわいいと思ったら負けだ。ルシーを視界から外そうとしたミカエルは、湖水の色がおかしいと気づく。灰色だ。空は雨雲で覆われていた。
「雨が降りそうだ。帰れよ。今なら空間軸で送ってやるぞ」
「いい。ここにいる」
「いてどうする?」
「別に。どうもしないよ」
ルシーはミカエルの毛布を引っ張り、中に入り込んだ。顔だけ毛布から出す。
「くっつくな」
「狭いのよ」
強制送還してやろうか、とミカエルは思った。勝手に飛ばすとルシーは怒るだろう。以前、予告なしに城内の男性用トイレに飛ばしたときは、数えきれないほどビンタをもらった。バストロにも告げ口され、しかるべき鉄槌を受けた。今回は城へ帰すだけだから、前ほどの怒りは買わないだろうが、茶会で溜まったストレスの量によっては、ひどいことになりかねない。
ミカエルが軸を使うか、使わないかで思考を巡らしているうちに、雨が降り始めた。湖面にモザイクがかかる。木の下にいる二人は濡れなかった。
葉っぱの網を潜り抜けた雨粒がミカエルのつむじに当たったとき、空が光った。雷鳴が鼓膜を刺す。ミカエルの手が重たくなる。ルシーの手が重なっていた。
ミカエルは手の意味を目で問いただす。ルシーの瞳は澄んでいるだけで、明確な答えを返さない。ミカエルもルシーも自然の一部になっていて、言葉を使うのがはばかられた。雨が激しくなる。雷が近くでなったり、遠くで鳴ったりする。ルシーが目を閉じた。ミカエルも目を閉じる。次の雷鳴が先だったか、唇が合わさるのが先だったかは、ミカエル本人にも分からなかった。
雷が鳴り止み、ミカエルは自分がしたことを理解する。ルシーの口を袖で拭う。自分の口は拭わない。
「悪い。悪かった」
忘れてくれ、とは言えなかった。
ミカエルは再び目を閉じ、ビンタを待った。ルシーが謝罪一つで許す性格じゃないのは知っている。
ビンタの代わりに、柔らかいものが唇に触れた。ミカエルは体に力を入れたが、遅かった。ルシーが全体重をかけて押し倒す。ミカエルは後頭部に木の根を感じた。息ができなかったが、苦しくはなかった。
唇を離して、ルシーは言う。
「私、あなたのこと嫌いよ。でもすごく好き」
「俺もお前のこと嫌いだ。だから、すごく好きだ」
三度目の口づけを交わす。雨はまだ止まない。