第三話 「森を散策」
王族の子供は一般の学校へは通わず、城内で授業を受ける。東塔の傍の別棟にある教室をミカエルは独り占めしてきた。斜陽が気持ちいい空間だった。自分の中では第二の寝床と呼んでいて、愛着もそれなりにある。今日からルシーもここで学ぶ。グラジエルとカレサンダーの葬儀から一週間が経っていた。
「お前、頭いいのか?」
「あなたよりは」
「何だとっ」
バストロが入って来たので、おしゃべりを止める。開始早々、拳骨をくらうのは避けたかった。
「ルシー王女。私、バストロ・ブリックスが全授業を担当します。至らぬ点があればなんなりとおっしゃってください」
「こちらこそよろしくお願いします」
「何だよ、猫かぶっちゃって」
ルシーの目に火が灯る。ミカエルは目を逸らす。帝王学の教科書を開いて顔の上に乗せ、両腕を首の後ろに回した。
「ミカエル王子」
バストロの声を無視する。いつもはこれですぐ肉弾戦になる。帝王学をはじめとして、数学、外国語、植物学、経済学、天文学など様々な教科を習ったが、何一つ理解できなかった。はなからやる気がないのだ。バストロに負けた後は、グラジエルのもとによく行った。そこで最低限の常識は教わった。グラジエルの話は教科書と違って分かりやすかった。外国語が分からないと言えば、実際に外国まで連れて行ってくれた。星座が分からないと言えば、世界の裏側まで行って星空を見せてくれた。
バストロは職務を怠り、ほとんどをグラジエルに任せていた。というより、殴って、グラジエルのもとへミカエルを誘導するのが役目とも言えた。生意気なミカエルも、叩きのめされた後は元気をなくす。そういう状態の方が学べることは多かった。
今日はこれまでと違った。グラジエルの不在。ミカエルは顔を隠しておいて正解だったと思う。今、自分が情けない顔をしている自覚はあったから。バストロは一度の注意だけして、何事もなかったかのように授業を始めた。ミカエルを教室から出さないことが今、彼ができる最善だった。
帝王学を五十分、休憩、数学五十分、休憩、植物学五十分というスケジュールだった。ミカエルは退屈で教科書に落書きして過ごした。バストロの似顔絵を描き、大きくバツ印をつける。ルシーの似顔絵は描きたくなかった。描いたらまた、いろいろと考えてしまうだろう。カレサンダーやグラジエルのこと、何より、自分がルシーに抱いている感情のこと。敵対心なのか、恋愛感情なのか区別がつかなかった。仕方なく、ルシーの着ているアーガイル模様のスカートだけ描く。
授業の終わりに、バストロは言った。
「私が教えることはあまりないかもしれませんな。特に植物学については優秀でいらっしゃる」
「いえ。大変勉強になります。植物は好きなんです。おじい様の庭園でよくお手伝いをしながら、お話を――」
急に黙ったルシーはうつむいたまま、服の袖で顔を拭っていた。
「おい、バストロー。泣かすなよー。面倒だろ」
バストロは顔色一つ変えなかった。流石、元軍人だ。
「泣くのは良いことです。泣かない人の方が私は心配になる。ミカエル王子」
「言ってろ」
「授業をうわの空で聞いていた罰として、王子に命じます。ルシー王女に城を案内してあげなさい」
王子に命令する執事がいるか、ボケと思ったが、口にはしない。言ったところで、実力で上下関係を見せつけられるだけだ。無論、ミカエルが強く他に働きかければ、執事の首ぐらい容易く飛ぶ。けれど、そんな勝ち方は望んでいなかった。直接対決以外に勝利はあり得ない。
命令されるのはいいが、素直に聞くかどうかはまた別問題だった。
「城の案内? そんなもん来た初日に終わってるだろ」
「王子自ら案内するのです。私たちより王子の方が詳しいでしょう。いろいろと」
しおれた花のようになっているルシーを立たせ、教室を出る。回廊を西に進む。ルシーは日陰を、ミカエルは日向を歩いた。
「泣くなよ。行きたい場所あるか? 知りたいことは?」
「外に行きたい。国王様は森を所有してらっしゃるんでしょう」
「俺は城の案内を頼まれたんだ」
「泣いてるところをお父様やお母様、家臣の皆様に見せたくないの」
反論しかけたミカエルはルシーの手を握り、森へ飛んだ。曲がり角に父と母の姿が見えたからだ。ミカエルも両親には会いたくなかった。泣いていようと、泣いていまいと。
空間移動は軽い浮遊感を伴った。地面を感じたときには、移動は完了している。
樹齢五百年以上の立派な木々が並ぶ森の中心に飛んだのに、ルシーはミカエルの方を見ていた。
「すごい。本当に一瞬で飛ぶのね」
目の周りは赤みがかっているが、もうルシーは泣いていなかった。ミカエルはどういうわけか、自分で自分を誇らしく思った。
二人は森を散策することにした。季節は初春、時刻は昼過ぎ。ぬるま湯にいるような、ちょうどいい気温だった。ミカエルは長い枝を拾い、草をかき分けながら進む。後ろにいるルシーは、「スミレ、クロッカス、サクラ」と見かける植物の名を呟いていた。
目的地も目的もなくひたすら歩いた。自分はなぜこんなことをしているか、ミカエルは考える。ルシーが言ったからだ。
「親や家来に涙を見せたくないと言ったな。なぜだ?」
「私が泣いてると、心配する人がいる。王女は常に明るく、おしとやかにしてなくちゃいけないの。そうやって私は生きてきた」
「自分の人生じゃないみたいだな。王女の人生をなぞっているだけじゃないか。もっと勝手に生きたらいい」
「ミカエルの言ってることは」
ルシーが言葉を溜めた。ミカエルは身構える。
「面白い考えだと思う。でも私には無理なの」
前を向いていたから、ルシーの表情は分からなかった。暗い表情をしている気もしたし、笑っている気もした。
大木の根元に腰を下ろし、休憩する。二人の靴は泥で汚れていた。城に帰ったら靴を洗わなくてはならない。未来の靴洗いから目を背けたくて、視線を上げる。葉が重なり合っていた。日光は遮断されている。けれど、陽から明るさと温かさを除いた、残滓のようなものが届いている。
「ミカエルは親の前で泣いたことある?」
「ない」
とミカエルは嘘をつく。グラジエルが死んだ日の夕食の席で泣いた。
「両親と仲悪いの?」
ミカエルは腕を組み、うつむく。眠ってしまいたかった。ルシーのことを根掘り葉掘り聞いておいて、自分のことをさらけ出す勇気はまだなかった。
「沈黙は時に雄弁である。仲悪いのね。王族なら、珍しいことでもないけど」
「仲が悪いわけじゃない」
「なら何?」
反論した拍子に顔を上げてルシーの方を向いたのがいけなかった。ミカエルはルシーの瞳を凝視する。嵐のない海がそこにはあった。あまりに静謐で、嘘をつく理由をはぎ取られる。自分を守る必要がなかった。
「父も母も俺のことを愛してくれている。俺が一方的に嫌っているだけだ」
「なぜ?」
「なぜそんなことを訊く?」
唐突にルシーは鼻歌を歌いだす。聞いたことのない曲だった。ルシーの生まれ育った国の曲だろう。テンポモデラートが、歩みを止めた今の二人に合っていた。ミカエルは質問の答えを待った。ルシーとの会話にはよく「なぜ」という単語が出て来る。結果や事実だけじゃ満足できず、反射的に訊いてしまうのだ。それがなぜなのか、ミカエルは上手く言語化できない。だから、ルシーに尋ねた。
鼻歌が途切れる。
「私、あなたのことがもっと知りたいみたい。あなたみたいな王子、会ったことがなかったから。破天荒の馬鹿王子なんてそうそういない」
「俺はお前のことなんか知りたくねえ」
「それはどうも。で、なぜ両親が嫌いなの?」
「あいつらは俺を叱らないんだ。だから、嫌いだ。いや、苦手なのか」
ルシーが笑い声を上げる。木の枝の小鳥も鳴いた。昇っていくルシーの声と降りて来る小鳥のさえずりが交差する。口を大きく開けて笑うルシーは、街にいる普通の少女と同じに見えた。
「変な理由。何がおかしいのか分からないぐらいに変。あなたの両親って忍耐強いのね。クソガキのあなたを叱ったことがないなんて」
「うっさいな。忍耐強いわけじゃないんだよ。あいつらは俺を産んではくれたが、育ててはくれなかった。怒ったり叱ったりはバストロの役目だ」
「私も同じようなものよ」
王族なら教育係がつくことは珍しくない。
「違うさ。お前は両親を気遣える。心配させたくないんだろ。俺はそんな気持ちになったこと一度もない。他人みたいに感じるんだ。関わり方が分からない。王と王妃の役目を全うするだけの二人に興味が湧かないんだ。いっそのことあいつらも俺に無関心だったらよかった。でも、あいつらは王と王妃として、王子である俺を愛しているというポーズを続けなくちゃならない。気の毒だよ、本当に」
ミカエルの話を聞き終えると、ルシーは頷いた。
「単細胞のあなたにも悩みはあるのね。まあ、何とかなるわよ」
「おい、一言が軽いぞ。お前が泣いてるときに俺も言ってやろうか。まあ、何とかなるだろって。適当なこと言いやがって」
「ごめんごめん。でもミカエルなら何とかなりそう。本当は、何とかならないことなんてないのかもね」
風が吹いて梢を揺らした。葉と葉がこすれ合う音に耳を澄ませる。音が止んでから、二人は城へ帰った。