第二話 「夕食抜き」
長テーブルに並べられた夕食は冷めかけている。食べていないが、分かる。ミカエル、ミカエルの両親、ルシーの両親が座ってから三十分が過ぎていた。空席は一つ。
ミカエルは机を叩いた。軽い食器が跳ねる。
「遅い。時計も読めないのか。あのバカ女」
「な、なにを言うんだ。ミカエル。失礼だろう。申し訳ありません、フェルナンデス王、ルシアン王妃。口は悪いが、根はいい子なんです」
ミカエルの父、ミラノ王は平謝りした。母も頭を下げる。フェルナンデス夫妻は笑って許した。外交上の薄っぺらい笑顔ではなく、本心から笑っているようだ。いい人が四人もいてミカエルは居心地が悪かった。まだ一口も食べていないのに吐き気が込み上げてくる。
空間軸を管理するリキル国。時間軸を管理するトリス国。両国は来月、合併する。軸の管理は一元化した方が良いという判断だった。人のいい国王同士だったから到達した結論だ。一方が一方に吸収されるのではない。あくまで合併。いろいろ妥協しながら、一つの国として頑張っていきましょうというわけだ。影響をもろに受け、ミカエルはルシーと共に暮らさなくてはならない。ごめんだ、ごめんだ、そんなのごめんだ。ミカエルは早口で呟く。
ルシーの母親が背後に控えている家臣に耳打ちした。家臣は首を振る。ルシーが来る見込みはない。
「俺は食べる。じじいが死んだから、悲しみで食べ物が喉を通らないってか。自分が餓死したら元も子もねーだろ。だいたいあのババアとジジイ、百歳超えてたじゃねーか。大往生だよ。くそ。くそっ」
ミカエルはフォークとナイフを掴んだ。手が震えた。唇も。ステーキに涙の雫が落ちていく。グラスに映る自分の顔を見たくなかった。黙って肉を切っていく。ルシーを通してグラジエルの死を考えずにはいられなかった。あの目で見守られながら食事を摂ることは、もうないのだ。
王や王妃は何も言わなかった。口を開いたのは、傍に控えていた執事のバストロだった。
「王子。強がりはよしなさい」
「何だと。てめえ」
ミカエルは間をおかず言い返す。
直後、ミカエルは投げ飛ばされていた。ナイフとフォークが空を舞っている。両親の顔が逆さに映っていた。壁か床にぶつかり、体が衝撃を受ける。身構えていなかったから、すぐには立ち上がれない。体が痛みで痺れている。近寄って来たバストロに足首を掴まれ、逆さ吊りにされた。
「食事の席であのような乱暴な言葉遣い。私は教えた覚えがありませんよ。今日は夕食抜きです。反省しなさい」
ルシーの両親は立ち上がり、家来やミカエルの両親に何か言っている。顔色が青白くなっていた。暴力沙汰には慣れていないようだ。ミカエルの両親はというと、頭を抱えていた。口は堅く閉ざされている。
頭が熱くなった。失ったものはあるが、手に入れたものもあるのだ。グラジエルの死と引き換えに手にした力。バストロなどもう恐れるに足らない。ミカエルは叫んだ。
「俺は空間軸を持ってんだ。今すぐお前を海底二万マイルに飛ばしてやろうかあ」
「やればよろしい」
バストロは冷めた目で見返す。ミカエルは悟る。バストロは死を恐れていない。恐れているのは、自分だ。死が何なのかも分かっていない。グラジエルは教えてくれなかった。駆けまわることの楽しさ、軽口を言い合うことの楽しさ、一緒に食事を摂ることの楽しさ。楽しいことばかり教えて、恐怖や悲しみは教えてくれなかった。
答えは出ていた。バストロは自分を殴ってくれる唯一の人だ。殺すことなんてできない。
ミカエルは自室へと飛んだ。空間軸の記念すべき初使用だった。
特にすることもない。手当が必要な傷もなかった。ため息をつき、ベッドに横になる。お腹が鳴った。ルシーも空腹を感じているのだろうか。一人でいることは確かだ。一人で孤独を自覚するなんて馬鹿げている。文句を言いに行こうと思った。言い返している内に、元気になるはずだ。
廊下に出ると、フェルナンデス家の家来数名と目が合った。家来たちは何事もなかったかのように、説得を再開した。ルシー様と口々に叫ぶ。ミカエルも「くそ女出てきやがれ」と叫んだが、家来たちの声があまりに大きい。うるさくて敵わないので、全員、庭園に飛ばす。廊下はミカエル一人のものになった。扉をノックする。ノックと言うより、殴ったと言う方が正しい。
「開けやがれ。ふざけやがって。お前のせいで夕食抜きだ」
返事はなかった。拳が痛くなってきたので、殴るのは止めて蹴り始める。王女の部屋なだけあって、いい木材が使われている。扉はびくともしなかった。
「悲劇のプリンセス気取りか? 一生閉じこもってろ。バーカ。それで、俺は一生夕食抜きにされるんだ。朝食も昼食も。それで仲良く餓死するか? おい、なんとか言えよ」
蹴りつかれて座り込む。息が上がった。上着を脱いで、肌着一枚になる。呼吸を整えていると、中からすすり泣きが聞こえた。
「扉、壊してやる」
ミカエルは言った。一刻も早くルシーに会いたい。泣き声が聞こえる限り、そう思わずにはいられなかった。好きだからでも、嫌いだからでもない。泣いているから。
廊下の奥から足音が聞こえた。先程飛ばした家来たちだろう。ミカエルは扉に額を打ちつける。最初から軸を使えばよかったのだ。瞬間移動で中へ飛ぶ。
ルシーは机に突っ伏して泣いていた。ミカエルの侵入に気づいていない。鼻をすするたびに肩が震えている。銀髪は月光に似た光を放っていた。髪の間から見えるうなじは、病人の肌のように真白だ。ミカエルは空腹を忘れて、見入ってしまった。悲しみに沈む姿だけでなく、笑う姿を見てみたい。単純にそう思った。
「元気出せよ」
ルシーの肩が跳ね上がる。振り返りはしなかった。袖で涙を拭っている。
「ここは私の部屋よ。空間軸を使ったのね。勝手な真似しないで」
「勝手な真似するさ。ありとあらゆる空間は俺の物なんだから。俺は空間を、お前は時間を支配する。どうする? 俺たちで世界征服でもするか? 五分で片がつくぜ」
「世界を手に入れてどうなるの? おじい様は生き返るの?」
カレサンダーがルシーの心に居座っている。ミカエルは暴力の効かない相手を知った。バストロを相手にする方がましだとさえ思えた。
「そんなに好きなら、時間軸を使って会いにいけばいい」
間を空けて、ルシーは答えた。
「そういうことじゃない。違う。会えば寂しくなくなるかもね。でも、その場しのぎに過ぎないわ。おじい様だってそんなつもりで軸を渡したんじゃない。絶対に」
「お前、面倒くさい」
「余計なお世話」
沈黙が続いた。することのないミカエルはベッドに寝転がる。頭も体も疲れていた。ルシーとの口論、グラジエルの死、バストロによる躾。今日という日を呪わずにはいられなかった。マットが思っていたより柔らくて、体の力が抜けた。スプリングも効いている。いったん、何もかも忘れる。風船になった気分だ。
ルシーはまた静かに泣き始めた。体の水がなくなるぞ、とミカエルは思った。
「いい加減泣き止め。お前の言葉を借りるなら、『泣いてどうなるの? おじい様は生き返るの?』だ」
ミカエルはルシーの声を真似た。
「うるさい。泣いて何が悪いの? 泣けないあなたよりよっぽどマシよ」
ベッドの天蓋が近くなった気がした。視界が狭まる。動悸がした。ミカエルは食事の席で流れた涙を思い出す。認めたくなかった。俺だって泣いたんだ、とは言えなかった。
「あいにく、俺は祖母と仲がよろしくなかったんでねえ。まあ、お前とジジイも言うほどの信頼関係はなかったか。継承に死が伴うことすら知らされていなかった。最後の最後に嘘をつかれたんだ。カレサンダーは後始末を俺に任せて逝きやがった。自分のけつも拭けない、嘘つきジジイだ」
「何ですって」
泣き声は怒号に変わっていた。ルシーは机上の砂時計や本や缶を投げつけた。投げるものがなくなると、引き出しを外して投げた。ミカエルは素早く上体を起こしたが、引き出しと椅子をもろに食らい、再び倒れる。隙を逃さず、ルシーはミカエルに馬乗りになる。そのまま顔面を小さな拳で殴りつけた。
「あなたに何が分かるのよ」
ルシーの目を見て、ミカエルは抵抗を止める。
「おじい様は私に優しくしてくれたわ。退屈なままごとに付き合ってくれた。一緒に歌を歌ってくれた。あなたは知ってるの? おじい様が淹れてくれる紅茶の味を。あなたは知ってるの? おじい様が私の為にマフラーを編んでくれたことを。知らないでしょ。お父様とお母様に内緒で、国境近くの海にも連れて行ってくれた。浜辺を歩きながら、私の愚痴を聞いてくれた。そういうことをね、何にも知らないで、勝手なことばかり言わないで。あなたなんて嫌い。大っ嫌い」
計六発。ミカエルは殴られた。ひ弱な威力だった。だからか、心に来るものがあった。弱者の拳は精神的に痛い。尾を引く痛みだった。
ルシーの涙が降って来た。
ミカエルは言う。
「悪かったよ」
さっきより大粒の涙がミカエルの頬を打った。雫の中に思い出が見えるようだった。ルシーとカレサンダーの過ごした日々。無論錯覚だ。ルシーの表情がミカエルに幻影を見させた。ミカエルは自分が泣いているような感覚に陥る。今になってやっと、グラジエルの死を実感した。
「俺、もう帰る」
「なぜ?」
ルシーが小さな声で尋ねる。ミカエルの肌着を肉ごと掴む。
「お前といると、グラジエルのことを思い出すから」
ルシーはまた涙をこぼした。無限に出て来る。目じりから落ちる涙は丸くて、ミカエルは生命を感じた。
「なぜ泣く? お前とグラジエルは今日会ったばかりだろ。ほぼ他人だ」
「あなたの痛みは分かるから」
「分かった気になるな。傲慢女」
「馬鹿王子」
「アホ」
ののしり合いは長くは続かなかった。
馬乗りになっていたルシーは体を倒し、ミカエルと重なる。
「一人にしないで」
ミカエルも同じ気持ちだった。今、気づいた。一人になりたくなかった。グラジエルが死んでから、本当は不安でたまらなかった。夕食の席にいた奴らは数に入らない。奴らと一緒にいても、一人でいるのと変わらない。同じ傷を抱えているのは、ルシーだけ。
先にルシーが眠りについた。健やかな寝息を聞いていると、ミカエルの意識もすぐに遠くへと行ってしまった。