第一話 「継承に伴う犠牲」
重厚なドアを押し開けた先、舞踏会などに使われる広間に女の子が立っていた。
「トリス王国第一王女、ルシー・フェルナンデスといいます」
瞳が青い。目にかかった銀髪は冷たく光っている。きれいな顔をしているが、意地が悪そうだと直感した。第一王子として、いや、一個人として、なめられてはいけなかった。自分以外は敵だ。
「リキル王国第一王子、ミカエル・スパティウムだ。くそったれ」
周りには誰もいない。継承式は秘密裏に行われるから。汚い言葉を使いたい放題だ。
ミカエルは反応を窺う。丁重に扱われてきた王女だ。くそったれなどと言われるのは、初めての経験だろう。
ルシーは一瞬くちびるを引き締めたが、すぐに笑ってみせた。小さい鼻頭が上を向いた。糸のように細くなった目で、ミカエルを見つめる。
「初対面の人にくそったれだなんて、度胸があるんですね。素晴らしいです。流石、くそったれの馬鹿王子」
ルシーは「くそったれの馬鹿王子」という部分だけ声を強めて言った。
ミカエルは耳たぶを引っ張った。自分の耳が壊れているのではないかと思ったのだ。
「あら? どうかしました? 耳まで悪いのかしら? それとも知能が足りませんか? くそ馬鹿王子」
ダメ出しの暴言をもらい、ミカエルは目を見開く。美少女だろうが王女だろうが、関係ない。教育が必要なようだ。買っちゃいけない喧嘩もあることを教えてやる。
「撤回しろ。メス豚」
ルシーの頬が若干引きつった。すぐに余裕の笑みに戻る。
「すみません。自由に話せる機会なんてそうそうありませんから、つい本音を口にしてしまいました。撤回します」
すんなり撤回してくれた。案外、話の分かる奴かもしれない。
「し・か・し」
一語、一語、丁寧に区切ってルシーは言った。
「私があなたにくそったれの馬鹿王子と言った事実は未来永劫、消えません。撤回するという言葉に意味があるとでも思っているのですか。ばかばかしい。低能王子はもう少し国語を頑張られた方がいいのでは?」
「そうだな。確かにそうだ。それじゃ一発殴らせろ」
殴りかかろうとしたミカエルは、後ろから襟首をつかまれた。息が詰まる。苦しい。
「仲がよろしくてけっこう、けっこう。ミカエル坊っちゃん」
後ろから、祖母グラジエルの声がした。空間軸の所有者は神出鬼没だ。かくれんぼでも鬼ごっこでも、祖母に勝てたことはなかった。
ルシーの背後にも老人が現れていた。
「ルシーもミカエル君のことが気に入ったようで何より」
ルシーの祖父であり、時間軸の所有者カレサンダーだろう。口ひげは長く、床に届きそうだ。目は細すぎて、閉じているのか開いているのか分からなかった。
ミカエルは舌打ちした。グラジエルの手を振り払い、ポケットに両手を突っ込む。破壊衝動を発散させるため、床を踏み鳴らす。意図的に誰とも目を合わさなかった。
「おじい様、私、一人でさみしかったのですよ。継承が済んだら、街へ行って観光しましょう。森へも行きましょうよ。城のすぐ近くの森です。ね、いいでしょう?」
ミカエルは眉間にしわを寄せる。何を言ってる、この女。本当に頭がおかしいのか?
「ルシーや」
カレサンダーは穏やかに呼びかけた。それきり言葉が続かなかった。沈黙を埋めたのは、グラジエルだった。
「立ち話もなんです。座って話をしましょう」
グラジエルが片手を振ると、平民は買えないような上等な椅子が四脚現れた。座って息をつく暇もなく、カレサンダーは話を進めた。
「軸の継承は三秒で終わる。ルシーとミカエル君はただ座っておればいい」
「軸の取り扱いについて、注意事項や禁止事項は? 少なくとも俺はババアから何も聞かされてねえぜ」
「私もです」
老人は二人して口元に笑みを浮かべる。
「私は特にないですよ。ホホ」
「すべてをお前たちに任せる。心配はしとらん」
不安の欠けらもにじませず、断定した。カレサンダーは軸の力で未来へ飛べる。百年後、あるいは千年後へ飛んで、軸の存在を確かめたのだろう。心配なんてないはずだ。
「カンニングしたな、じじい」
「じじい? おじい様になんて口を。許しません」
ルシーの平手が飛んだ。ミカエルは紙一重で躱す。バストロの拳に比べれば、止まってみえる。ルシーは目じりを吊り上げて、ミカエルを睨む。それから三十秒、ミカエルは平手を躱し続けた。ルシーが立ち上がり、自分の体より大きな椅子を両手でつかみ、床からほんの少しだけ浮かせた。
「撤回しなさい」
「撤回なんて意味ないんだろ」
「くたばれ、馬鹿王子」
ルシーが投げつけた椅子は、空中で消えて、ルシーの後ろに出現した。
「ババア、余計なことするな」
「座りなさい。二人とも。喧嘩なら後でいくらでもしなさい。ミカエル坊っちゃんとルシーお嬢ちゃんには未来がある。未来はいいぞよ。喧嘩をしても仲直りできる。仲直りしてもまた喧嘩できる」
ルシーが素直に従ったので、ミカエルも座らないわけにはいかなかった。幼稚だとは思われたくない。それに、小言を聴くのも今日で最後だ。
「ババア。遺言があるなら聞いとくぜ」
「遺言? 何を言っているんですか?」
ルシーが首を傾げた。
「あ? 聞いていないのか?」
「何を?」
「だから、軸の――」
「坊ちゃん。お黙り」
グラジエルに口をつままれた。唇が潰れて痛い。祖母の手の皮は乾燥していて不快だった。
目を細めて睨むと、グラジエルも目元の小じわを収縮させて、見つめ返してきた。本気で叱るときの目だった。ミカエルは、クモを瓶に入れて水攻めした罰として、氷の大陸に飛ばされたときのことを思い出す。命に関しては厳しい人なのだ。
ミカエルの上半身には鳥肌が立っていた。分かったよと目で伝える。グラジエルは手を離してくれた。
「ねえ、グラジエル様、なぜミカエルを黙らせましたの? 何か不都合が?」
「ミカエル坊っちゃん。元気におやり」
ルシーを無視してグラジエルはそう言った。遺言であって、遺言ではなかった。口癖なのだ。ミカエルからすると聞き慣れたフレーズだった。元気にやるとも、と答えたかった。でも、できなかった。
「私だけ置いてけぼりにするんですか? どういうことですか? 説明を求めます、おじい様」
「ルシー。今は何も訊かず、笑っておくれ」
「おじい様がそうおっしゃるなら、ハイ。これでいいですか?」
ルシーはカレサンダーに向けて笑った。ミカエルが疎外感を覚えるほど、二人の空間は完成されていた。
「では、継承を始める。二人とも立ちなさい」
ミカエルとルシーは立って、それぞれ抱きしめられた。一呼吸の内に継承は為された。グラジエルの体の重さが増した。ミカエルは腰をつかんで祖母を椅子に座らせる。首から上が力なく垂れていた。
「おじい様? ねえ。どうしましたの?」
ルシーはカレサンダーを受け止め切れていなかった。肩の下に両腕を挟んで、倒れないようにはしている。ミカエルが手を貸そうとすると、ルシーは鋭い声を発した。
「触れないで。私一人でできるわ」
「いいから」
ミカエルはグラジエルにしたのと同じようにして、カレサンダーを座らせた。ルシーは激しい炎を瞳に浮かべて言った。
「あなたにお礼なんて言いたくないです。でも、ありがとう」
それから「おじい様、おじい様」と呼びかけた。同じ調子でずっと。一点の曇りもない瞳にミカエルは怖気づく。背中の筋肉が張った。自分が言わなければならないのか。口の中が乾いた。黙って逃げ出したい。足が動かないのは、逃げた先にも痛みしかないと知っていたからだ。
「おじい様。大丈夫ですか? 眠ってるだけですの? ミカエル王子、グラジエル様はどう? 念のため、お医者様を呼んできてください。万が一があったら大変です」
「必要ない」
「なぜ?」
「死んでるから」
ルシーは表情一つ変えず、同じことを尋ねた。
「なぜ?」
「継承には死が伴う。俺はグラジエルから聞いていた」
「おじい様はそんなこと一言も――」
「言えなかったんだ。お前はじいさんの前で、無邪気過ぎた」
笑っておくれ。カレサンダーは言った。泣き顔を見たくなかったのだ。ミカエルは理不尽に思う。泣き顔を見るのは俺じゃないか。俺に任せて逝きやがった。グラジエルからは空間軸を、カレサンダーからはルシーを託された。九歳のミカエルは初めて自分の体を小さいと感じる。
ルシーが鼻をすすりながら言った。
「あなたは知っていた」
「だから何だ?」
喧嘩腰になる。責められている気がしたから。責められる理由があると思ったから。
「グラジエル様は大切な人じゃなかったのですか? あなたには別の選択があった。逃げるべきだった」
「空間軸の使い手から逃げれるとでも?」
ルシーは喉を震わせ、語気を荒げた。
「できるかできないかじゃないでしょう。私とあなたは出会ってすぐ、くだらない言い争いで時間を浪費しました。馬鹿です。あなたが馬鹿です。私に事情を説明して、すぐに逃げ出すべきだった。城の外へ、田舎町へ、外国へ、無人島へ。死ぬ気で走らなくてはならなかったんです。なのに、あなたは、あなたは」
空間に存在する限り、グラジエルからは逃げられない。鬼ごっこやかくれんぼを通して、ミカエルは学んでいた。できないことをしたって意味がないだろう。できないんだから。話の通じないヒステリー女は嫌いだ。
「出て行ってください。二度と私の前に姿を見せないで。早く。一人にして」
ミカエルは大股でホールを出て行く。扉を閉めないうちに、ルシーが大声で泣き始めた。泣き声に背中を押される。カレサンダーに申し訳ないと思いつつ、ミカエルは逃げ出した。
ひたすら足を前に出す。考えない。視界も意識しない。雑音は締め出す。
グラジエルが望んだことだ。しょうがないじゃないか。もういい年齢だったろ。どのみち寿命で死んでたさ。でも。もしかしたら。ミカエルは心の雑音を消せずにいた。
気がつくと庭園に出ていた。生け垣が迷路になっている。ミカエルは迷い込む気力もなかった。すでに迷っている。
――見つけましたよ、ミカエル坊っちゃん。
ここでよくグラジエルと遊んだ。生け垣はミカエルの背より高い。出られなくなることも一度や二度ではなかった。座り込んで泣いていると、グラジエルが必ず見つけてくれた。
「くそったれ」
誰に対して言ったのか。自分でも分からなかった。